休日らしく、家での生活に関わる話から。
仲間との会話からの気付き。
私の仲間の一人(男性)が、
「家事をどんなにやっても妻にほめられない。」
とぼやいた。
さらに
「結構上手くやってると思うんだけれど。」
とも言っていた。
なるほど、それは当然気付かない。
人間は、当たり前のことに感謝しないからである。
空気があることはもちろん、電気や水道の水が無限のように使用できることに感謝しないのと同様である。
もっというと、当たり前のように上手にできればできるほど、注目されない。
この私の仲間の例でいうと、家事を上手にこなしすぎなのである。
一方でもし、しょっちゅう料理を焦がしたり、洗濯を忘れていたり、言われないと全然掃除をしなかったりという人だったとする。
そんな人が、たまにまともに上手にやっていたり、自分からすすんでやっていたりしたら、きっとこう言われる。
「すごいじゃん!」「ありがとう!」
要は、そういうことである。
人間は、当たり前に上手にやってくれていることに対して、価値を感じないのである。
一年生にお手伝いに来てくれる高学年の子どもを見ていると、これがわかる。
一年生の教室には、6年生と、私が4年生で担任していた現5年生がお手伝いに来てくれる。
去年自分が見ていた時には、当時の4年生に「もっともっと!」ばかりだった。
これが、一年生を相手にしていると、脅威的にすごい姿に見える。
全部自分たちで考えてやってくれるのである。
しかも、一年生が自分でやれそうことは、なるべく手を出さない。
もう、恐れ入るすごさである。
去年は、ここに全く気付かなかった。
まさに「這えば立て、立てば歩めの親心」である。
当たり前のように上手にできているが故に、その素晴らしさへの感動も感謝も足りなくなっていた。
反省しきりである。
学級には「手のかからない」子どもがいる。
何度も言っているが、ここが一番配慮すべき子どもである。
何かとトラブルが目立つ子どもや、技能等で飛び抜けたものをもつ子どもには、嫌でも目が向く。
しかし、実際に学級を支えてくれているのは、この「手のかからない」多くをきちんとやれる目立たない子どもである。
「当たり前」を当たり前にやってくれる子どもが全体の過半数を占めているからこそ、成り立つのである。
意識的に「見て留める」=「認める」必要がある。
家事の得意な仲間の話に戻るが、彼はこのままでは妻に感謝されないと思う。
アドバイスとしては
「適当にさぼってみれば?」
となる。
家の中が荒れてくれば、嫌でもやってくれていたことに気付く。
ここに「手のかからない」子どもが気付いた場合、様々な「荒れ」という形のサインで出してくる。
要は、「荒れ」とは、「認めてもらえない」という不満を相手に伝えるための表現である。
こう考えると、様々な「非行」も「合理的」といえる。
「荒れ」は合理的なのである。
「荒れ」は、不登校や学力低下という形で表出する場合もある。
本人にも無自覚で無意識なのが難しいところである。
根本的な治療薬は、相手の存在自体を「認める」「感謝する」しかない。
そして、治療は、予防の十倍から百倍の労力がいることを覚悟すべきである。
結論、普段からの当たり前を見直し、「認める」「感謝する」という行為は、双方にとって良い結果を招く。
子どもだけでなく、家族や同僚など、つい後回しにしがちな身近な人にこそ意識的に伝えるようにしたい。
2018年6月10日日曜日
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