木更津技法研祝賀会での学び。
技法研のメンバーも、教育委員会や行政等の仕事に就くことがある。
そういう場合、御栄転ということで、集まってお祝いをする。
文科省や県庁、指導室長や指導主事、教育委員長、私立校長等、様々な経歴の方々の話が聞ける貴重な機会である。
この場は、ひたすら聞くことに徹した。
なぜなら完全な未見の地の話であり、コメントなどできようもない。
聞けば聞くほど、現場とはまるで違う仕事である。
例えば、文書の書き方一つとっても、厳密である。
学級や学年で出すお便りとは訳が違う。
字間や余白、フォント等まで、細かく形式がしっかりと定まっている。
同じ所属長の名前で出す以上、そこの表現に個性は必要ない。
同じ所属長の名前の文書で、それぞれの担当者の個性を出されると、矛盾が生じて訳がわからないことになる。
本質的に、行政という場は「保守」だという。
確かに、安定した政権の国はどこも保守である。
革命だらけでトップがどんどん交代して方向転換する国の国民は、安心して暮らせない。
では、行政職に「強烈な個性」は不要かという話が出た。
否。
強烈な個性+バランス。
これが大切だという。
強烈な個性だけで押されると、バランスを崩す。
他部署に迷惑がかかるのである。
ただでさえ保守な機関なのに、部分を大幅に変えられると、全体のバランスが取れないのである。
私見だが、ファッションに例えると、男性のスーツスタイルであると解釈した。
ここは、何十年もの超保守で、マイナーチェンジの繰り返しのみである。
そこに突然流行のハーフパンツを取り入れたいというような提案と解釈すれば、良くないことがわかる。
行政職といえば、スーツスタイル。
保守の姿勢がファッションあるいは「ユニフォーム」にも反映しているともとれる。
かといって現在のクールビズが本当にいいかどうかは、微妙なところである。
ネクタイをとったらもはやスーツではない気がするのは私だけだろうか。私も保守なのかもしれない。
閑話休題。
一方で、個性が全くなければ、何も変わらない。
誰がやっても同じということになる。
それではいつまで経っても、良くならない。
やはり、全体のバランスを取りながら、強烈な個性を発揮できる人材が必要だという。
確かに、今回お祝いした方々も、強烈すぎるほどの個性の持ち主である。
個性的な提案をしない人物が、重要なポジションに選出されることはない。
(ただし、向き不向きはある。)
実際、現場の時にも、言いたいことをずばっと言って現場の改革を推進している。
保守とは対照的な立ち位置である。
それぐらいの人が就いて、ちょうど良く変わるということだろう。
完全保守では時流に乗れず、現場が困る。
朝令暮改の改革だらけでもやはり困る。
バランスである。
曰く、
「ルーティーンの中にどれだけ自分を出せるか」。
ここにかかっているという。
これは、行政職だけでなく、現場教員、いや、家事を含めたあらゆるすべての仕事に言えることである。
ルーティーンに埋もれることも嘆くこともなく、そこに自分を出して生きていきたい。
2018年6月29日金曜日
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