学校と自由と学びについて。
今の学校に求められるもの。
主体的・対話的で深い学び。
このフレーズから、どんな単語を連想するか。
○○な学び、という感じで、何が当てはまるか。
その中の一つにおそらく「自由」が挙げられる。
主体的とか深いとかは、特にこの単語を連想しやすい。
しかし、学習の場合に当てはまる「自由」は、いつもの生活で用いている「自由」とはちょっと訳が違う。
ところで、我々が最も「自由」を謳歌できるのはどこか。
または、いつか。
単純に考えて、「家」での「休日」である。
(人によっては、家よりも別の場所の方が自由かもしれないが。)
つまり、そういうことである。
家にいる方が、「自由」の学習はできる。
極論、学校に行かないという選択肢が一番「自由」である。
社会人の場合、「学校」が「会社」になるだけである。
では、学校とは何の場所なのか。
師の野口芳宏先生は
「教育とは、そのままにしておかないこと」
と仰っている。
「善意の強制、価値ある強制」
とも仰っている。
つまりは、自然そのままでは、不都合が生じるということ。
荒れ放題の庭と同じである。
庭が野生化したら、庭としての役割を果たせなくなる。
庭とジャングルは、違うのである。
人間らしい暮らしという望ましい状態をイメージしての、手入れが必要なのである。
誤解を恐れずに言うと、学校という場所は、学問を身につける他に
「不自由を学ぶ場所」でもある。
家なら叱られないことが、学校では叱られる。
寝転がってお菓子を食べながら授業を受けることは許されない。
(いや、これは家でも叱られるかもしれないが。
少なくとも、自分の部屋なら無法地帯である。)
なぜ不自由など学ばせないといけないのか。
それは、社会が、完全な自由空間ではないからである。
文化的な空間だからである。
文化的空間には、それぞれの規律がある。
それを学ばずに社会に出ると、不都合が生じる。
規律を知らずに外に出ると、本人にも周りにも危険だし迷惑である。
アメリカで車を運転する際には、日本と逆の右車線を走るというようなものである。
場ごとの交通ルールは、一つの文化である。
結論。
学校は、本質的に不自由な中で学ぶ場である。
不自由な中で自由を学ぶ空間である。
(各種習い事の空間も同様である。)
サッカーやテニスのコート同様、決められた枠の中でこその自由という話である。
枠をきちんと示せば、プレーヤーはその中で自由に動ける。
枠がわからないのが、一番困るのである。
ルールがないのが、一番恐ろしいのである。
(いつ殴られるかわかったものではない。)
言葉を表面的に捉えない、踊らされない。
主体的・対話的で深い学びのねらいの、本質を外さないようにしたい。
2018年6月19日火曜日
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