2020年5月31日日曜日

ルールを設定したら信賞必罰

前号の続きで、学級と社会との共通点として、ルールの担保の重要性について。

ネット上では、人々が互いに喧々諤々の様相であった。
(実際は、「社会では」なのだが、ネット上しか人々の姿が見えないからである。)

最も多いのが、自粛そのものについて。
国民は、政府から自粛を要請、場合によっては強制された状態である。

だから、真面目に聞いて自粛している人たちがいる。
一方で、自粛は必要ない、できないという観点から、動く人たちがいる。
当然、両者は喧嘩である。
同じ国の民同士なのに、めちゃくちゃである。
集団として互いに協力できない、わかりあえない、対立状態である。

これが、学級が崩れる時の様相に非常に似ていた。
教育メルマガであるので、そういう観点から見ると、学級経営に役立つので書く。

学校で、あるルールを設定する。
合意のもとに作ったものではなく、学校あるいは学級担任からのトップダウンのものとする。
学校単位だと、例えば「廊下を走らない」とか、今であれば「登校後は必ず手洗いをする」等である。
何でもいい。

ルールを一度設定したらからには、それを担保するのはリーダーの責任である。
ルールには、設定せざるを得ない、確固たる理由があってなされるべきである。
守らなくていいようなルールなら、最初から設定すべきではない。

さて、生活していると、このルールをきちんと守る子どもが大半である。
一方で、それを日常的に破っている子どももいる。

こうなってからしばらく放っておくと、二派で対立が起こる。
「真面目に守っている派」V.S.「破っている派」である。
諍いが起きて、疲弊し、犠牲者も出る。

そうこうしているうちに、全員の恨みが担任へといく。
ルールを設定したくせに、リーダーシップをとらないのが悪いということである。
全くその通りである。

さて、本来なら、ルールを設定した後に担任がやるべきことは、方向性として二つである。

まず一つ目は、ルールを守っている子どもへの配慮。
「真面目を優先する」の原則通り、こちらが優先である。
称賛なり感謝なり、とにかく守っていることを見ている、認めているということを伝える必要がある。
そうしないと、せっかく我慢しているのに、損した気分になるし、きちんと見てくれているのかどうかという点でも安心しない。

二つ目は、次点としてルールを破ってしまっている子どもへの対応。
学校の場合、罰を与えることはできないため、できることとしては注意、警告、説諭、叱責ぐらいである。
これも、叱られるのも全然へっちゃら、という場合、本人には全くきかない。
ただ、きこうがきくまいが、ルールを破った際には、何かしらそういったペナルティが課されると全員に共通理解されていることが重要である。
これは、スポーツをはじめとするゲームと同じである。
ぐずぐずな審判のゲームが最も荒れる。

集団の中であまりにルール破りが多い場合、全員一律に禁止という場合もある。
ちなみに、この「全体禁止」を学級で出す場合は、原則として先に予告をしておく必要がある。
ルールを破る人が多く、どうしてもなくならない場合は、安全のために厳罰化か禁止になってしまう、というようなことである。

全員に納得される形で改訂を示す必要があるため、先出しが原則である。
それにはスタートが肝心であり、各種契約書などはまさにこの原則を踏まえている。(「ここに書いてあります」は最強である。)
できれば、学級開きぐらいでそういう原則を示しておくのがベストである。

社会だと、飲酒運転などはこれにあたる。
再三の警告にも関わらず、あまりにも違反の程度と頻度がひどく、改善が見られないので、一律に厳罰化された。
元々飲酒運転を一切しない人からすれば痛くも痒くもないことで、至極当然の改訂である。

最近だと、虐待防止法の改訂である。
悲惨な事件が相次いでいることから、こちらも一律に厳罰化された。
きちんと子育てしていた人にとっては、「何のために」と言いたいところかもしれないが、これも当然の流れである。

まとめると、ルールを一度設定したからには、リーダーには責務がある。
それは、徹底させることである。
守った人にはプラス、守れない人には何らかのマイナス、例えば警告、ペナルティを課すといったことである。
これがないと、特に真面目に従って守っている側(リーダーを助けようという前向きな立場の人)が納得いかないのである。
これは、言うは易く行うは難しで、メンバー全員にこの配慮をしなくてはならなくなる。
つまり、ルールを一つ設定するということは、それ相応の「覚悟」と労力がいるということである。

「真面目な人に損させない」は学級経営の大原則の一つなので、学級担任にとって確実に押さえておくべき考え方である。

学級の子どもたちには、無益な荒れを経験させないように、ルールの設定は慎重にしたい。

2020年5月29日金曜日

学級崩壊と「自粛警察」の共通点

学級崩壊とネット社会が似ていると感じたので書く。

学級崩壊とは、平たく言うと、学級の大半がいうことをきかなくなった状態である。
モラル崩壊、あるいはコントロール不能の状態である。
小1など低年齢期の場合と、高学年以降の場合は原因も様相も異なる。

小1の原因は「話がきけない」の1点に尽きる。
ある意味技能不足や無知が原因といえる。
わかりやすいルールを示し、まず正しい言動を認めて増やし、誤った言動を指摘か無視することで減らす。
まだ誤りを叱る必要はない。
単に未知なのだから、教えてあげればいい話である。
叱るのは、それ以降である。

中学年、特に高学年以降は、これとは異なる。
話がきけないという点は同じなのだが、単なる知識や技能不足ではない。
モラル面が崩れているのである。
ある意味、意図的に話をきこうとしない、確信犯で悪さをしようとしている子どもが多く存在している状態である。

ここへのアプローチの仕方は、今回の話とは異なるので割愛する。
私のブログの検索ワード欄に「学級崩壊」や「学級経営」とでも打ち込めば、いくつも書いてきている。
参考:「教師の寺子屋」
https://hide-m-hyde.blogspot.com/
(教師で更に詳しく知りたい人は、拙著を読めばよりよくわかると思う。)

学級崩壊と呼ばれる状態は、互いに人の話を聞かず、独善的でモラルが崩れている状態なのである。
力の強い者が場を支配する。
ひどい暴言が飛び交うが、抑制力はない。
無視やいじめが横行し、弱者への暴力も頻発する。
共通認識としての正しさという柱がない状態である。
弱肉強食の世界である。

翻って、ネット社会の世界を見てみる。
かなり似ている。

独善的な正義が乱立・横行し、今では「自粛警察」なるものすら誕生している。
(「警察」を名乗られる、呼称されること自体、本物の警察の方々にとってえらい迷惑である。)
少しでも「悪い」行為を見つけると、大喜びで食らいつき、公衆の面前でさらしものにする。
戦時中の暴力と全く同じであり、グロテスクである。
権力は敵で、集団の中で優秀だった者が、逆に強烈な批判の対象となる。

よく見ると、平常時からのマスコミの姿であり、これが学級崩壊のクラスでも見られる状態である。
マスコミは、自粛警察的な性質の人々の学校であり先生であるともいえる。

要は、秩序のない世界には、この弱肉強食状態が自然発生する。
弱肉強食は、ある意味自然の本能的な姿であり、理性的な人間の世界とは真逆の世界である。

そして教育とは、自然のままにしておかないことである。
人間にとっての自然がいいというのは、あくまで自然と調和した状態であり、そのままがいいということではない。
裸のままサバンナに暮らせば、食われて死ぬだけである。
弱者をまずは守る、安全・安心な状態を作るというのが、教育が成立する前提条件である。

つまり、ネットの理論やノリで学級経営をやろうとすると、ほぼ確実に崩壊する。
自由は、責任を伴ってこそ機能する。
自由な学級を志向する教室で、弱肉強食、野放しのネット状態になっているものが散見される。
(崩れていることに担任が気付いていないのも特徴である。)

もう多くは学級が始まっていると思うが、次のことである。
1 安全・安心の確保
2 ルールの担保
3 楽しさの提供

まずは、安全・安心と思える担任像を示すこと。
そこに、集団が快適に暮らせるための最低限のルールを示す。
さらに楽しいことができれば最高である。

ネット社会における惨状を反面教師に、学級集団の理想を考えると、色々とヒントが得られると感じた次第である。

2020年5月27日水曜日

主人公たる生き方をする

主人公という言葉がある。
元々は「本来の自己」を意味する禅語である。
今では、物語の中心人物という意味の方が一般的である。

自分の人生の主人公たること。
これについては、これまでも何度か書いてきている。
↓ブログ『教師の寺子屋』2019.10.1「自分を自分のものにする」
https://hide-m-hyde.blogspot.com/2019/10/blog-post_12.html

前号で、どんなに一生懸命課題を届けても、やらないのでは意味がないということを書いた。
なぜなら、主人公たる生き方をしない人間にとっては、課題はやらされ仕事になるからである。
一方で、主人公たる生き方をしている人間にとっては、課題とは自ら見つけていくものだからである。

(これ以外で唯一意味があるのは、与えられた課題を主体的にこなしていこうというタイプの人である。
宿題にはいつも自ら決めた時間で取り組み、通信教材の添削問題を、期限までに毎回出し続けていけるタイプの人である。
某大手通信教材会社の調べによると、このタイプの絶対数はかなり少ない。
教材自体は極めて良質で懇切丁寧なのに、残念なことである。
さらに、このタイプの子どもは、それらを既に日常的にやっていることが多く、やはり余計な課題になりがちである。)

大人も子どもも、「主人公」たるキャラクターが好きである。
アニメを見ても、主人公は他の登場人物とは生き方が決定的に違う。
好きなアニメでも小説でも映画でも何でもよい。
主人公の出てくる物語を思い返してみればわかる。

主人公は、与えられた状況を嘆くのではなく、自ら未来を選択していく。
周囲はそれを無駄だといい、時にひどく嘲られもするが、自らの信念に従って行動する。
たとえ絶対絶命のピンチに陥っても、諦めずに突破口を切り拓き、チャンスに変えていくというのが、主人公である。

主人公以外の脇役に人気が集まることもある。
作品によっては、主人公以上に人気が出ることもある。
しかし、この脇役のキャラを見ると、やはり主人公以上に主人公であることが多い。
つまり、物語の中心人物ではなくとも、「本来の自己」を主体的に生きようとしているのである。
個性的であり、かつ自分の役割をしっかりと果たしている。

人は、主人公的なキャラクターに憧れる。
悪者が怖くて、為す術もなく愚痴を言うか震えているだけのキャラやエキストラにはなりたくない。

「主人公」の子どもにとっては、今の休校状態は、かなりのチャンスである。
時間がある分、自分のペースで主体的に切り拓いていける。
一方、「主人公」たる意識の欠ける子どもにとっては、単なる怠惰の時間である。
自分が成長しないのも、ウィルスのせいで社会のせいで、自分によい環境を与えない不甲斐ない大人たちのせいである。

子ども、と書いたが、先の文を「大人」と読み替えても全く同じである。
国家が悪い、政治が悪い、誰それが悪いと被害者意識で凝り固まってしまう。
主人公の意識で見れば、自分の役割、何をなすべきかを考え、ピンチの突破口たる僅かなチャンス、隙間をねらうはずである。

子どもは大人の鏡である。
子どもが、親の姿をここまで間近に見られる機会もない。
今、親がどう生きているかが、子どもの生き方に大きく影響する。

社会に文句を言っているだけか、主人公としてピンチをチャンスに変えていこうと抗っているか。
子どもは、大人を確実に見ている。
自分の親が大変な状況なのもわかっているし、単に怠惰に過ごしているだけなら、それも見ている。

大人の我々が、子どもにどんな役を見せているかである。
恐怖に震えているだけの村人役では情けない。
苦しんでいる人を見て、自分のところでなくてよかったと安心しているようでも情けない。
(それは、物語の途中でやられる役である。)
主人公たる生き方をしているところこそを見せられるようにしたい。

2020年5月25日月曜日

学力形成のために学校に通う意味はあるか

今、遅れた分、夏休みをなくして補填するとか、小1・小6・中3は優先的に登校とか、9月始まりにするとか色々な議論がなされている。
これらの議論の前提となる考え(事実ではない)は、「学校に通わないと学習が進まない」である。

果たして、この考えは妥当か。
こういう前提の根本的なところを問うというのは、大抵の場合において、意味がある。

小6と中3は、受験を見据えてのことである。

単純に測れる、受験で必要な知識や技能というのは、結局点数であり、それは期待される解の再現能力である。
これは、はっきり言って量によるものであり、訓練回数に比例する。

そして量は、やる気や真剣さ、必死さによる。
どんな状況下でもやる子はやるので、受験というものを「ふるい」と考えるのであれば、ここは然るべき結果が出るはずである。
(逆に言えば、どんな恵まれた好状況下であっても、やらない子はやらない。)

受験学年に限定して言えば、自由に学習できる時間裁量権が多い分、本当の実力の格差がよりはっきりするだろう。
この勉強量については、本来的に本人たち以外の周りが騒ぐことではないといえる。

議論の前提が、この先進国の恵まれた環境において「子どもは学校に来させないと勉強しない」である。

ところで、私の友人・知人の何人かが、数年間アフリカの様々な国の学校に派遣されて行っていた。
数十キロ範囲に学校が一つしかないいため、子どもたちは、学校に通うだけで半日がかりである。
それでも、子どもたちは喜んで学校に通う。
紛れもなく、学校だけが、学びの場なのである。
家では自分の労働があるし、一人で学ぶためのテキストも鉛筆も何もないからである。

日本の子どもたちは、本当に学ぶことができない状況下なのか、ということが最も投げかけたい問いである。
大人が教育のことでずいぶん騒いでいるが、実は本質的には、子どもの人生の問題である。

今の「課題を届ける」ということ自体が、本当に子どものためになっているのか怪しい。
学校として何もしない訳にはいかず、そうせざるを得ないからしているが、本質的には全く不要なことではないのか。
どんな形で課題を届けても、全く取り組まない子どもがわんさかいるが、これをどう考えるか。
(そもそも、これが成立するなら、夏休みの宿題を最後までやらずにためる子どもは日本にほぼ存在しないはずである。)

そういう面からも、今回、日本の学校は、子どもにとって通う意味のある場所である、ということがはっきりした。
なぜかというと、学校という場は、学びや生活習慣に対しての「強制力」が働くからである。
今家でゴロゴロしてやる気がない子どもでも、学校があれば朝起きるし、授業を受ければ、それなりに動き出す。

これは野口芳宏先生のいう「他律的自律」である。
他から律されて、自らを律しようとする。
これもまた自律の一つの形としてみてもよいではないか、ということである。

少なくとも、学校があることで、しゃんとする子どもは、かなりいる。
学校があれば、何とか学んでいこうとする子どもがいる。
これは、紛れもない事実である。

自ら学んでいける人の目、学ぶレベルの高い人の目からすれば、こういうことは下らないことに映る。
「学校不要論」などということを言う人もいる。
確かに、オンライン教育だけで学力をつけられる人、自力でどんどんいける人には、不要かもしれない。
他律されないと動けない人間というのを、情けない、不甲斐ないと見るのかもしれない。

しかし、学校、とりわけ公立校は、弱い者、苦しんでいる子どものためにこそある。
強い人は、どんどんいけばいい。
現状の学校が合わない人は、他の選択肢をとれる社会であった方がいい。
そうでないと、苦しんでいる子どもを更に苦しめることになり、本末転倒である。
もしかしたら、これを機に、義務教育段階でも飛び級のような制度ができた方がいいのかもしれない。

ただ、それ以外の多くの子どもに必要なのは、やはり公の学校教育なのである。
学校教育を真剣に考えていくことは、多くの人にとって、将来の社会にとって意義がある。

だからこその先の議論である。本当ならば、今は自由な時間、裁量権のある時間を、どう使うかというトレーニング期間である。
家庭教育の時期といえる。

学校がどのような形で再開しても、学力差がついていることは間違いないのだから、文句を言っても仕方ない。
やれることをやっておくしかない。

今後の動向に注目である。

2020年5月23日土曜日

算数はオンラインで済むか

オンラインでの教育を色々進めていて、気付いたことがある。
「0か1か」の分野については、デジタルコンテンツ等による教育は、とても相性がいい。
「0か1か」は言い換えれば、〇か×か、ONかOFFか、という世界である。

一番わかりやすいのが、算数・数学である。
算数は、答えが決まっている。
前号書いた日本文化的情緒や、感情、解釈を介さない。

10進法において「1+1=2」というのは、不変の真理である。
会社の理念の「1+1=∞」のような話や、「1+1=田」のようななぞなぞ、大喜利のような話ではない。
1+1=2なのである。
不変である。

この算数・数学という教科のデジタル性が、デジタルコンテンツや動画教材、通信教材による教育と、とても相性がいい。
一方的に教えようがみんなで議論しようが、1+1=2という結論自体は変わらないためである。

答えが「ある」か「ない」か、という差はとてつもなく大きい。
0か1かがはっきりしていれば、もう議論は起きない。

実際の生活では、0か1かで問うても、答えは0~1の間に無限に存在する。
0.1や0.01、あるいは0.9999999・・・という答えもある。
どれが万人にとっての「正解」かなど、確定できない。

しかし、算数では1+1=2である。
確固たる正解があるので、自分でも〇つけができる。
ちなみにテストの〇つけで大変なのは、算数よりも圧倒的に国語の記述問題の方である。
「これは〇でいいかな?」と手が止まることがしばしばである。

つまり、算数は答えがはっきりしているため、本来はテキストさえしっかりしていれば、自力のみでできる教科なのである。
例えば受験勉強において、数学を勉強するのには、テキストの問題を解いて、解答を見て〇をつけ、解説を読んで理解するという流れが普通である。
当然といえば当然である。

ここにきて「教室で教えるからこそ、わからないこともわかるのだ」という意見が出るだろう。
その通りである。
しかしながら、単に知識と技能だけで言うなら、よくわかるテキストを見たり動画解説を聞いたりしても、それでわかるのであれば同じである。
その手のものは、大手進学塾や通信教材会社の得意分野である。

では、教室で算数の授業をすることの意義とは何なのか。
今回、これがはっきりと見えた。

教室は、集団で本質的なことを考える場なのである。
「あれども見えず」を顕在化する場なのである。

例えば、教室では「何でこれが理解できないの!?」という場面に遭遇する。
これは教師だけでなく、子どもも体験する。

自分は、ここをすぐに理解できた。
だから、クラスの仲間に親切に、丁寧に教えてあげる。
しかし、教えてあげている相手が、さっぱり理解しないのである。
ここで苦悩する。
(ちなみにこれは、教育実習生でも同じである。
受験勉強に特化して勝ち残ってきたため、ストレート正解主義が抜けないことが結構多い。)

根本的なことから、噛んで含めるように教えないと伝わらないのである。
そのためには、説明する側も、根本的に原理がわかっていないといけない。
生わかり、できる、解けるだけでは全く話にならないという場面に遭遇する。
例を挙げるなら、分数の割り算を「ひっくり返してかける」というような方法で正答し、わかったつもりになっている状態である。

ところで学生時代、微分積分の意味を根本的に理解して数学を修了してきただろうか。
多分、多くの人が、「否」である。
では、それで受験で困ったかというと、これもまた「否」である。
一般的な受験に必要なのは、根本的理解というより、演算の力、再現の力だからである。
だから、大人も算数が「わかった」つもりになっているが、実は根本的にはわかっていないことが多い。

さて、それでも何とか教えてできて、やっとわかってくれたと思って一安心。
試しに自力でやってみる時間をとると、さっき教えた相手がさっぱりできていないのである。
ここでまた苦悩。
自分の教え方が悪かったのかとか、色々考える。

一方で、教えた相手がよくわかるといって、できるようにもなった。
自分ができた時以上に嬉しい。
万々歳である。

・・・・

こういうことは、家で一人で算数をやっていても、まず起きない。
自分一人では、実はわかっていないのに理解しているつもりであるという「あれども見えず」が見えないのである。
学校で集まって算数をやる意味は、「学問するため」である。

とはいえ、最低限の知識と理解はつけないといけない。
今は、オンラインでできることに頼っていくことも大切である。

オンラインとオフライン(リアル)のそれぞれの得意分野を生かす。
それを探るための絶好の機会だと思って、前向きに取り組みたい。

2020年5月21日木曜日

自粛と「正義」~自己中心的とは何か~

今、全ての外出に自粛の規制がかかっている。
教員も、在宅勤務が基本である。

さて、そうは言っても、本当にずっと在宅勤務で業務が回るかというと、そういう訳にもいかない。
出勤して集まらざるを得ない場面というのはある。
リモートワーク用のネット環境の整っていない、多くの公立校の教員であれば尚更である。

実際、全ての人が完全に在宅で外出規制したら、社会はあっという間に崩壊する。
ものを作ってくれる仕事が休み。
届けてくれる運輸会社も休み。
近くのスーパーもコンビニもドラッグストアも休み。
それで何日間やっていけるかということである。

国会議員をはじめ政治家が家にこもらず外で活動しているというのは、国民のリーダーなのだから、誰でも納得である。
学校や会社だと、社長や管理職だと他と同じようには休めないというのも、何となくわかる。

では一般の教員はどうか。
これも、子ども集団のリーダーではないかと言われたら、その通りである。
結局、世間の目からしても、じっとしていないで何かしてくれというのが、当然出る本音である。

学校という立場一つとっても、立ち位置が難しい。
早く学校を再開して欲しいという声と、今再開して感染されたら絶対困るという両極とその間のスペクトラムの意見が飛び交う。

さて、そういう風に考えていくと、休まれると「世間」の人が困るという仕事は、休まないことに「世間」が納得する。
あるいは、働いてくれていた方が、自宅にこもるのに「便利」という仕事も、納得される。
「世間」とは、マジョリティ、多数のことである。
その仕事を行う個人の感染リスクは大幅に高まるかもしれないが、それもやむなしということである。
医師などその最たるものである。

では、そうでない仕事はどうか。
例えばデリバリーのできない飲食店は、今「世間」に自粛を求められる。
特に繁盛している飲食店は、批判の対象になる。
感染リスクが高まる上に、休んでも「世間」としては困らないからである。

もっとわかりやすいところだと、パチンコ屋などの娯楽施設である。
開店しているだけで批判の対象と化している。
元々が「世間」に必須ではないからである。(ニーズの場ではなくウォンツの場ともいえる。)

つまり「世間」が認める「正義」が厳然として存在する。
「世間」の「正義」は、いつも何によって規定されるか。
これは「多数決」である。
偽りの民主主義の原則は多数決だが、これは少数を切り捨てる。

このメルマガでも再三述べているが、正義は必ず犠牲を生む。
飲食店を自粛させて感染拡大を防ぐのは「正義」である。
感染拡大を防ぐという方向性は、全く正当であるし、すべての人にとって確実に必要なことである。

しかし、いつまで自粛すれば終わるのか、先が全く見えない状況である。
どんどん引き延ばされ続ける自粛の先に終わりがあるのかわからない。
ウィルス騒ぎ収束の前に、自身とその家族の生活の終わりが来てしまうかもしれない。

私は、学生時代にパチンコ屋でアルバイトしていた経験がある。
当たり前だが、パチンコ屋の社員の人々にも家族があって、つつましい生活があった。
他のあらゆる業種も同様である。

「自粛が正義」を強く主張し得るのは「とりあえず安全地帯」にいられる人だけである。(これはもちろん教員も含まれる。)
そうでなければ、多分苦しくて言えない。
自粛の継続が、即ち社会的な死を意味する人も大勢いる。
ウィルスそのもので死ぬのではなく、社会の圧力で間接的に殺されるのである。

これは「トロッコ問題」という有名な倫理学の思考実験に現れる。
多数の命を救うためには少数の犠牲は許されるか、という問題を孕んでいる。
極論を言うと、世界を救うためなら自分と家族の命を差し出せるか、差し出すべきか、ということである。

だから各首長から飲食店等に出るのも、どこも自粛要請という「お願い」である。
トロッコ問題でいうと、多数のために少数の犠牲を選ぶという、レバーを引く行為であり、「断腸の思い」ではないかと察する。
レバーを引かざるを得ない位置にいる人を、周りが非難・批判できるのかという問題である。
周りは「私が助かるためにあなたが犠牲になるべきだ」と言えるのかという問題である。

ところで、これは教員はじめ、在宅勤務による生活が成立している立場の人であると、実感が湧かない。
次のことを問うてみる。
自宅にいる間の給与は一切発生しないで生活は自己責任となるが、それでもあっさり受け入れられるか。
そういう追いこまれた立場にならないと、実際はなかなか本質的な問題は見えてこない。
「巣ごもり消費」も、収入と蓄えという前提があってこそである。

この外出規制、特定のものへの嫌悪、自粛ムード状態は、震災後にも類似した現象がみられた。
特に、放射能に対する時の世間の反応にとても似ているものがある。
この時も「正義」の声には「放射能問題は即解決して欲しいけど自分のところが関わるのだけは絶対嫌」という姿勢が散見された。
「正義」は、常に自己の利益の最適化を計算して設定される「自己愛」そのものである。

少なくとも、学校教育において、教室で子どもに教えていたのは、これではないはずである。
「みんなを大切に」「助け合って」「主体的・対話的に」「深く考える」ことを求めていたはずである。
学級の多数が幸せになるなら、一人が犠牲になってもいいなどという教育はあり得ない。

複雑な事情がそれぞれにある、個々にとっての正解は、いつでも一つではない。
あっちを立てればこっちが立たないという答えのない問題。
これに、みんなで「困ったね」と一緒に悩んでいるのが、本来の教室の姿である。
少数の切実で悲痛な思いが「多数決」という理由で切り捨てられるほど、悲しいことはない。
それは、いじめの構造そのものである。

学級で、どうにもこうにもならない、暴れん坊の子どもがいる。
あるいは、諸事情でどうしてもみんなと一緒の活動ができない子どもがいる。
これを「排除しよう」とするのは、簡単である。
一方で「どうしたら〇〇さんも一緒にうまく過ごせるか」「自分には何ができるのか」を話し合えるのが、健全な学級集団である。

社会の話に戻すなら、自粛せざるを得ない事業者等へ対して、自分には何ができるのかを考えることである。
「便利だから」という理由で利用され、大儲けしている事業者に更にお金を突っ込むのが本当に正しいのか、考えるべきところである。
ウィルスを最大限に恐れながら、リスクを最小限にして社会に利益を出すにはどうするのか、考えるべきところである。

また一方で、自粛といえば、公園での子どもの遊び方も話題になる。
濃厚接触への対策なし、全くの考えなしで大勢で連日遊び放題の子どもたちがいる。
そのせいで、適切に公園等で運動している子どもたちまでも、自粛を余儀なくされたり、批判の対象になったりしている。

こういうところは、考えるべき点である。
「恐れるべきを適切に恐れる」「リスクヘッジした上で行動する」ということを、子どもに教育するチャンスである。
子どもが全く運動しない、友達と関わらないというのも、将来的に見ればリスクの一つなのである。
「自粛」の一言で何もかもを一緒くたにしてはいけない。

教室でも何度も話題になる「自己中心的」とはどういう意味か、自分は仲間のために何ができるのかが、今改めて社会に問われているように見える。

2020年5月19日火曜日

学校の役割を見つめ直す

この長期休校期間における教育の問題点は、大まかに言って二つである。

1つ目は、人間関係の問題。
子ども同士の交流の場の問題である。
児童虐待問題もこれに含まれる。

2つ目は、学力保証の問題。
当たり前だが、学習指導要領は、教室に子どもが集まって実施することを想定している。
そもそもがオンラインでどうこうできる制度設計ではない。
直接の授業ができないことには、どうにもしようがないというのが現場の本音である。

さて、この両方を、通常の学校という存在は担保していたといえる。
しかしながら、実情は、その専有面積がかなり異なるのである。

人間関係については、かなりの部分を学校が保証している。
子どもにとって人間関係が築けるのは、学校である。
塾や習い事といったことにも人間関係が絡むものがあるが、毎日8時間近くを過ごす学校ほどではない。
学校は、社会における人間関係について学ぶことが、その中心に来ているといえる。

さらに日中に学校の時間がたっぷりあるから、家庭の側にも「空き」の時間ができる。
大人が社会に安心して働きに出られるということとも、大きく関連がある。

一方で、学力保証について、学校の占める割合はどの程度であろうか。
9割、といいたいところだが、実際はそうなっていない。
確かに学校では様々なことを教えて学力をつけるが、そもそものベースとなっているのは家庭教育である。
さらに、その家庭教育における学力面に協力しているのが、習い事や塾、通信教材等の企業の力である。

私が今の学校に来て宿題をほとんど出さないようにしたのは、ここへの考え方が大きい。
家庭の教育力が高いため、多くの子どもが放課後の学習習慣を身に付けているのである。
普段一律の宿題を与えても、あまりプラスにならない(親子共に歓迎されない)状況が多いようなのである。

そもそも、学校では学校でつけられる学力を保証すべきである。
それは、話合いや交流を中心としたものであり、動画やテキストで学んで身に付けられる知識の類のものではない。

単に知識をつけるような学習は、必要ならば個人で勝手にいくらでもできるのである。
一律の宿題にすれば、どうしてもそれが不要な子どもに、不要な宿題を出すことになる。

ドリル等の習熟教材も、できれば学校の授業の中で実施してしまうのが妥当と考えている。
授業中に実施して、早い子どもは一瞬で全問正解、ゆっくりな子どもは終わらない時もあるし、間違えている時もある。
それでいい。
完璧だったらもうやらなくていいし、必要だったら家に帰ってじっくり取り組み直せばいい。
子どもの学力はそれぞれなのだから、それぞれに必要な分があれば、本来はそれぞれにやるべきである。

学校は、その子どもに応じた学力をつけていき、適切な交流ができるようにしていくことが大切である。
もっというと、その子どもに必要な学力とは何なのかも、考慮してあげるというのが本来の教育の姿である。
全員に一律に、学習指導要領に定められた学力が必要なのかということは、考えるべき点である。
こういうことは、「職務上の義務違反」みたいに言われるので、公務員という立場だとなかなか言えない。
しかし、子どもの未来を真剣に考えるなら、もっと言った方がいい。

さて、そうは言っても、一律の知識に関する学力についてでも、学校として何もしない訳にもいかない。
「やるものがない」という状況に困るご家庭も多い。
だから、プリント配付やオンライン授業の提供ということになっている。

しかし前号も述べたが、ここに関しては企業がこぞって提供してくれているので、ネット環境さえあれば実際は事欠かない。
ちなみに今週から、某大手進学塾が小1~中3の算数・数学のオンライン授業1年間無料提供を表明した。

もしこれで、学校の授業を受けなくても算数・数学がわかるという事態になったとする。
その時、その事態を、学校はどう受け止めるべきか。
単なる知識注入型の授業、できたらいいというだけの授業は、学校には必要ないということの証明になる。

一方で、やはり学校がないと困る、わからないということになれば、それはそれで学校の必要性を見つめ直すきっかけにもなる。

今はそういった学力観についての転換、分岐点に来ている。
学校の役割を見つめ直すための大切な期間である。
この騒動は、今の学校にとって大きなピンチであり、この後の学校にとっての大きなチャンスでもある。

学校を再開しても、以前の学校には戻らない。
今まであったものの中で、いるものといらないものが、はっきり判明してしまった後だからである。
(卒業式練習が不要であることなど、証明済のものが既に出てきている。)

発想を大転換し、このピンチをチャンスにつなげていきたい。

2020年5月17日日曜日

リアルタイムのオンライン授業への挑戦

現在、担任している子どもの顔を見られるのがオンライン上だけである。
それでも全く見られない環境よりは大分有利で、その環境にいること自体がレアである。
よって、今感じていることを書くのは、多くの学校関係者にとって意味があると考える次第で、書く。

現在、私の勤務校である千葉大附属小で採用しているソフトは、Microsoftのteamsというものである。
オンライン会議はZoomが主流であると思う。(これも問題が出てきたが。)
しかしアカウント配付やファイル共有等の都合もあり、こちらのteamsを用いている。

オンラインになって難しいと感じるのが、授業そのものである。
漢字や計算といった単純なもの、個人課題として実施できるものは、比較的テキスト課題として出しやすい。
終わったものをアップして提出することもできる。

一方で、音楽や体育、道徳のような、ふれあいや交流、話合いを中心とするような学習は、難しい現状である。
国語や算数等にしても、「主体的・対話的で深い学び」の中心部分にある対話は、事実上かなり厳しい状況である。
やってみるとわかるが、オンラインでの対面というのは、実際に35人が一同に会している状況とは大きく違う。

極端な話、全員に一律に端末が配付されていて、Wifi環境も全家庭完璧に整って、確実に全員実施できるなら、何とかできるかもしれない。
実情は、各家庭によって端末使用可能状況もネット状況も全く異なり、全員が揃って顔を見て交流学習というのは、現実的にかなり難しい。

学校教育、特に公立学校は「公平」が求められる。
9割の子どもが享受していても、1割の子どもが捨て置かれていては、不成立という世界である。
全員に平等な機会が与えられることが大前提である。

そうなると、現状は無理だらけである。
ネットでの完全なオンライン授業となると、時間帯やネット環境等の理由で、欠員が出る。

自分のところが解決策として現在とっているのは、オンライン授業をしながら録画し、それを後で見られるようにするという方法である。
その場にいた方が学べるが、後で見ても学びにはなる。
実際の学校で単に欠席した時より、大分いいはずである。
つまり、この方法は、通常通りに学校が始まってからも、欠席への補教の手段の一つとして使えるはずである。

ネット配信ができる自分の勤務校の現状は、かなり有利である。
多くの公立校では、手も足も出ない、という苦境に立たされているはずである。
子ども同士がネット上とはいえ互いに顔を見て「朝の会」ができることは、幸せな環境かもしれない。

そもそも、今これができているのも、デバイスやインターネット環境含め、様々な民間企業のお陰様である。
そして、それを利用できる環境を整えるだけの予算を、校内の担当者がこれまで苦心して獲得できていたことも大きな要因である。

現在、私の教えている学年でもリアルタイムのオンライン授業への挑戦をしている。
ただ、リアルタイムのオンライン授業は、敬遠されるとのことである。
何かとトラブルが多いのである。
しかし、困難だからこそやる、という面で意味もある。

千葉大附属小だけでなく、全国の学校で挑戦されているオンライン授業にぜひ注目していただきたいところである。

2020年5月14日木曜日

児童虐待問題 親へのケアを考える

前号では、児童虐待を防ぐということについて書いた。
更に、精神科に連れてこられる子どもは「見なし患者」といい、その親に根本的原因がある場合を考えてそう呼ぶことも書いた。

学校教員の教育対象は、当然子どもである。
しかしながら、子どもに最も影響力を与えるのは、親である。
従って、教員にとって、親を無視しての教育というのは成立しない。

親自身が「虐待しそう」と児童相談所などに相談するケースが急増しているという。
こういう相談をする人は、その状況下においてある意味かなり正常であり、正確な自己分析ができているといえる。
「自分を止めてください」と助けを求めているのである。

特に今、閉鎖的な状況において、親の方も苦しんでいるのである。
虐待しそうと苦しんでいる親に、単純に「そんなことはいけない」というのは、無意味どころか害悪である。
学級崩壊している学級の担任に「怒ってはいけない」と言っているのと同じである。
それはそうなのだが、結果的にそうなってしまっているから本人は困っているのである。

こういう状況において、本人にがんばらせるのは、酷である。
脚が折れている人に走れというようなものである。
苦しんでいる人には、周囲の助けが必要である。
精神論ではなく、具体的な手出し、手入れをするところである。

そういう意味でも、家庭訪問や電話には意味がある。
子どもが気になって連絡したら、悩んでいるのは親御さんの方だったというケースは、非常に多い。
通常から、ちょっとしたことで家に電話をするという習慣が大切な所以である。

今は、メール等の手軽な通信手段もあるが、敢えて電話という選択肢をとる。
ビジネスだとやたらな電話は嫌がられるが、学校教育では必要なことである。
電話で話していると、「実は・・・」というように、ぽろっと本音や悩みをこぼしてくれる。

これには、普段からの連絡の習慣が大切である。
敢えて「そんなことでわざわざ電話しなくていい」と言われるように、一定数の方々には鬱陶しがられる覚悟で、かける。
我が子に「無関心な担任」よりも「関心をもってくれる担任」の方に信頼感をもつのは、当然の心理である。

手紙は更に手間である。
手間がかかるものほど、伝わるものが大きいという面も確実にある。
単に同じ文面を印刷しただけのDMと、手書きが添えられた葉書との差である。

そして手紙や葉書のような文面に残るものは、いいことの伝達以外に使わないというのが大原則である。
文字情報だと、お願いのつもりが文句やクレームに見えやすいからである。
保護者から学校宛なら問題ないが、逆方向では控えるべきである。

話がやや逸れたが、とにかく連絡をとって、子どもだけでなく親の方へも配慮が必要である。
ただでさえストレスフルなのだから、学校から、あまり多くを要望をするのは控える。

難しいのが、課題の量。
多すぎても子どもと親双方のストレスになるし、少なすぎても不安になる。
地域や学校の実態、個別の子どもの実態に応じて、考えるべきところである。
ここの点こそ、悩んでいる親と個別に相談するべきところである。

学校は、第一に子どもを守り、成長に導くべき。
だからこそ、その保護者である親へも対応する。

全国の児童虐待問題は、学校の問題でもあるという意識を、学校教員はもつようにしたい。

2020年5月12日火曜日

児童虐待を防ぐのが第一


今社会問題となっているのが、家庭内ストレスである。
外に出られないことによるストレスもあるが、家族がずっと家にいるのも、これはこれで厳しい現状がある。

家族全員が、自分にやることがあって、それに集中しているならそんなに問題は起きない。
独立した空間があったり、互いに心地よい距離感でいられるのならそんなに問題は起きない。

そうでないから、困っているのだと思う。
一人一部屋あるとは限らないし、家族間がいい人間関係とも限らない。

家族の中には、やるべきことが見つからない、やる気がしないという人もいるだろう。
家でごろごろしているだけの家族を見て、いつも家事をしている母親的立場の人が、叱咤したくなるのも頷ける話である。
言われた方も自分が家にいたい訳でもなく、仕方がないからこうしてるだけで、尚更腹が立つという、悪循環である。

ストレスフルな空間に集団がいる時、最もその実害を受けるのは、力と立場の弱い者である。
これは教室でも職場でも家庭でも同じである。

教育の分野からすると、現状一番気になるのは、全国の家庭内の虐待問題である。

家庭だと、子どもがストレスのはけ口になりやすい。
ガミガミ言いたくなるのも、実はそれを言っている側にストレスが溜まっているからという場合が多い。
子どもが悪いと思い込んで正当化しているが、実は無意識に自分のストレスを相手の問題として投影しているということがある。

これは、精神科の医師や、カウンセラーの人にとっては、常識であり、よくよく知っていることである。

子どもについての悩みで精神科へ受診に来る親子に対し、ある医師は子どもを「見なし患者」と呼ぶという。
なぜ「見なし」なのかというと、本当に治療すべきは、子どもではなくその親ということがとても多いためである。
つまり、確かに子どもは精神的に病んではいるが、その原因は親にあり、親の方こそが精神的な疾患をもっているということが多いからである。
(参考文献:『平気でうそをつく人たち』M・スコット・ペック著 森英明 訳 草思社)
https://www.amazon.co.jp/dp/4794218451

余談だが、この本には興味深い話がたくさん書かれている。
このような病理をもった人間は、自分の非を決して認めず、それを全て他人の責任にすり替える。
その対象は、日常生活では子どもであり、学校では教師であり、病院ではそれを直せない医師である。
その技術は「賞賛に値する」ほど鮮やかだという。
また、あらゆる外面を装うことに異常なまでの執着があるため、社会でも非常な成功を収めていることが少なくないという。
最近よくきく「サイコパス」というのも、この類である。

さて、この本にもあるが、全ての親が子どもを心から愛している、大事にしているかというと、そんなことはない。
この本では「邪悪」と強い表現をしているが、そういう親も少なからずいるのが事実である。
児童虐待の惨状を見れば明らかである。

学校の教員は、子どもの保護者である親を悪く言うことはあり得ない。
親は子どもを大事にしていると信じる、というのが前提である。

しかし、実際は、この前提を疑った方がいいことがある。
きっとそうなんだろうけれども、そうじゃないかもしれないという、冷静な頭を常にもつことである。
なぜならば、私も含め、親という立場は、結果的になっただけであり、子育てのプロフェッショナルという訳ではないからである。
学校の教員は、子どもの健やかな成長を第一義として存在するため、そういう視点も確実に必要である。

さて、長々書いた理由は、子どもの安否確認や、こまめに連絡をとることの重要性を言いたかったためである。
ずっと連絡をとれていないで、その子どもは本当に大丈夫か。
これは、前年度からの引継ぎ情報が特に大切になる。

家庭訪問があまり推奨されない現状である。
顔を見るのが一番なのだが、実際はなかなか難しいと思う。

虐待どうこうが全く考えられないような家庭にもコンタクトすべきである。
子どもとつながるのが教員、特に学級担任のいの一番の優先的な仕事だからである。
更に、担任とつながっているか否かで、学習への取り組み状況も全く異なるのだから、確実に何かしらで連絡をとる必要がある。

せめて本人に電話をするとか、何かしらのコンタクトの手段をもって、学校全体で子どもの安全を第一に考えていきたい。

2020年5月10日日曜日

教育におけるオンラインと現場

学校教員も、在宅勤務が基本となった。
しかし、オンライン授業ができるほどの環境が揃っているところは少ない。

全国のご家庭の「うちの子の学校でもオンライン授業をして欲しい」という要望はもっともである。
しかしながら、これはどこでもできることではない。
実施までのハードルが、公立校の現状では、かなり高い。

実施に当たって、最低でも以下の条件が必要である。
1 校内のICT環境
2 家庭のICT環境
3 教員のICTリテラシー
4 子どものICTリテラシー
5 子ども一人ずつのアカウント配付

まず、通常は学校へのICT関係の予算配分が極端に少ない。
学校にそのお金が回る余裕がなかったのかもしれない。
そうなればそこと連動して、教員と子ども双方のICTリテラシーは高まっていないことになる。

さらに現状、全ての家庭に一人一台PCというのは、難しい。
そうなると、実施しても、自由にアクセスできない子どもたちへも対応した形を並行して考える必要が出る。

さて、そんな中でも、比較的恵まれたICT環境下にある学校は、何とかオンライン学習をスタートしている。
私の勤務校もその中の一つである。

さて、やってみるとわかるのだが、複数を相手にオンライン授業というのは、かなり難しい。
オンラインでのライブは「朝の会」という形でやっているだけだが、呼名→返事という流れすらも結構難しい。
コンピューターが、複数の声に対応できない。
何というか、変なタイミングの対応になってしまうのである。
リズムとテンポがうまくつかめず、通常に比べるとかなりやりづらい。

全員を前に表情や動きを見ながらのリアルの対応と、かなり違うのである。
そこに「空気」がない。
感覚的に表現すると、息遣いが感じられないのである。

それでも顔が見られて声が聞けるというのは大きなメリットである。
今は難しさが目立つが、利用方法は無限にあるはずである。

今のところ、テキストと動画の配信という形の方が中心である。
一方的な講義ではあるが、ポイントの説明等はこれでできる。

ここで気付いたのが、経験値の大切さである。
極端な話、初任者でこの動画配信をやるとなると、かなり難しいのではないかと思われる。
動画作成自体は上手いと思うのだが、おそらく授業のポイントがわからない。
もっというと、わからないポイント、躓きポイントがわからないのである。

そもそも、小学校でやる問題は、大人から見ると、何を一体どう間違うのかと思うものばかりである。
だから、よく知らない人には「中学生と高校生は難しいけど、小学生に教えるのはできそう」と言われる。
ここが大きな勘違いで、教える自分さえその問題の意味がわかるのであれば、高校生に教えるのがおそらく最も簡単である。
(相手が理解できるかどうかが、本人次第ではあるが。)

小学生に教える難しさは、「何でわからないのか、何がわからないのか、わからない」というところである。
つまり、一生懸命に教えてもさっぱり伝わらず、お互いに「意味不明」なのである。
あまり親(特に高学歴の親)が出しゃばって教えない方がいいというのは、これが理由である。
思わず出てしまう「何でこんなことがわからないの!?」という叱責の一言がこれを証明している。
親子げんかに発展すること必至である。
(ちなみに、これは今問題となっている虐待問題とも関連するが、今号では取り上げない。)

動画を作成する時には、ここを落とさずに解説する必要がある。

目の前に子どもがいてくれたら、子どもが「わからない」をたくさん発してくれるので、こちらもわかるのである。
これを察知できないと、授業の腕が上がらない。
教師の授業の腕の向上は、「わからない」と困っている子どもが目の前にいてくれてこそなのである。

つまり、実際の経験が浅いと、「わからないポイント」をパスしてしまう可能性が高い。
以前に書いたが、例えば小学一年生は「文字の一切ないページで授業」というレベルからスタートである。
そんな相手に対し、どこで躓くか、何が教えるポイントかなぞ、初めてでもわかれという方が無理である。

目の前に子どもがいないことで、逆に見えることも出てきた。
ICTを通して、自分の新たな経験値を高めていきたい。

2020年5月8日金曜日

家庭学習こそ履修型ではなく修得型へ

今、自宅学習の在り方を見直さざるを得ない状況にある。
学校教育では未だICT環境が整備されていないことが多く、今回の事態はかなり苦労する。
教員が一軒ずつ家庭訪問してプリントを宅配して回っているとのことだが、これで学力をつけるのは相当大変である。

「授業を受けていれば勉強したことになる」というのは、履修型の考え方である。
日本の学校、とりわけ義務教育は全てこれである。

これが全く通らなくなったというのが今回の事態である。
「授業を受けていないから履修したことにならない」という論理になる。

そこで、自宅学習でも課題を出して身に付いたと見なされるものについては、再度授業をしなくてよいという文科省からの通達が出た。
これもなかなか苦しい。
これでは「履修」とみなしても「修得」できていないという事態になり得る。

「学力が身に付いたかどうかで判断する」というのは、修得型の考え方である。
入試や入社試験など、各種試験はこれである。

どちらが大切で価値があるか。
これは言わずもがな、修得型の方である。
履修してもさっぱり身に付いていないのでは、学んだとは到底いえない。

つまり、プリントや課題をやるという行為自体は、履修。
テスト等で修得できているかを見る必要が出る。

じゃあ後でテストすれば問題ないではないかということになるが、大いに問題がある。
多分だが、かなり多くが、恐らく、修得できていないのである。

普段の授業であれだけやっていても、修得が困難なのである。
それが急に自力だけで修得できるようになるぐらいなら、苦労はない。

つまり、学校再開した時の学力格差が、今まで以上に大きくなることが予想される。
自ら学び、自ら考える力がある子どもばかりならいい。
そうではないから、苦労するのである。

本当なら、新学期から学び方そのものを指導し続け、だんだんと自力の学力をつけていけるようにするところである。
しかしながら、今回はそれがかなわない。

動画教材などが色々と出回ってはいるが、それを選ぶ段階からもはや苦労する。
そもそも、それをきちんとやらせるだけの家庭教育の力も必要である。
(人間に怠けたり低きに流れたりする性質がなければ、いらぬ心配なのだが。)

学校の存在意義がはっきりと見えたともいえる。
最初から自らを律して生きるというのは、レベルが高い。
他律によって、自律の力をだんだんと身に付けるというのは、良い手段である。

お寺に修行に出したり、習い事に通わせたりするのと同じである。
そういう場には、苦労をともにする仲間もいる。
大変でも、それをせざるを得ない状況であれば、人はがんばれる。

学校というのは、実に恵まれた教育環境だったのである。
その好条件が失われた今、悪条件の中でも何とかせよというのが、学校に突き付けられた課題である。

私の勤務校では、3月よりICTを活用した学習が順次始まっている。
これからどうなっていくのか、試行錯誤の連続になるが、挑戦していきたい。

2020年5月6日水曜日

怒りの壺

今、役に立つかもしれない過去記事の再投稿。


夏休み中、家に子どもがいることで、つい怒りやすくなっていた気がするという母親の皆様方に向けて。

「アンガーマネジメント」という言葉が割と一般化してきた。
怒りの扱い方スキルである。
仏教を初め各宗教でも、怒りの扱い方は古今東西の重要テーマである。
怒りというのは、人生全般における真剣な問題なのである。

以下は、私の怒りに対するオリジナルイメージである。

怒りの壺がある。
(ちなみに「努力の壺」という有名な話に思いっきり着想を得ている。)
これは、一日の中でたまる。
朝目覚めた時点では空っぽのゼロスタートである。

壺なので、外からは表面的には見えない。
イラッとすること、怒るようなことがあっても、怒らないこともある。
しかし壺には確実にたまっていく。

壺のサイズは、環境で変わる。
身体的な不快を感じると、壺自体が小さくなる。
忙しいなど心理的な不快を感じると、壺自体が小さくなる。

一度溢れたら、次から少しでも溢れ続ける。
些細なことでも怒りとして表出する。
子どもが言うこと聞かないでイライラして溜めた分のあおりを、帰宅した夫が全部食らうのも、古今東西の世の常である。

ただし、ひっくり返すほど思い切りこぼした場合は別で、またしばらく溜まるまで我慢できる。
その間、本人は「怒りすぎたなぁ・・・」と反省している状態である。

壺には下の方にごく小さな穴が空いていて、少しずつだが自然に流れ出ていく。
たまったのが少量であれば、何事もなく一日が終わる。
そして、一晩経つと大体空になる。

そんなイメージである。
自分なりにイメージをもつことで、怒りにくくしたい訳である。
防げる要素は防ぐ。
そして、防げない事態があることもわかる。

周りの人と接する時にも、そうだと思えばいい。
つまり、相手の壺のたまり具合によっては、些細なことで怒る時もある。
普段が穏やかな人でも、壺にたまっていれば別である。
「触らぬ神に祟りなし」で、場合によっては話しかけないのが吉である。

朝一番に、生徒指導についての問題が入ることは結構ある。
前日の夜に問題が発覚した、というような場合は、これが起こり得る。
朝からマイナスの指導である。

この気分の最悪さは、ほぼ全員の学級担任が知っていると思う。
この一発の指導で、一日がダメになることが結構ある。
なぜなら、朝一に壺の半分以上がたまるか、あるいは溢れてしまうからである。

子どもにとっても、この日に良からぬことをしたら、一発で逆鱗に触れる可能性がある。
つまりは、学級というチーム全体、あるいは家族全員で、担任や親の怒りの壺にせっせと溜めているイメージである。

怒るなといっても無理である。
子育て中の母親に「怒らず優しくしてあげてください」とアドバイスするぐらい無理な話である。
怒ってしまう仕組みをわかっている方がよい。

それでも怒りが溢れた時の最善策は、その場を離れることである。
言いたいことが百あるのは承知の上で、とりあえず部屋を出ていってしまうことである。
涼しくて一人になれる場があれば一番いい。
文字通り、クールダウンできる。

あまりにも湿度と気温の高すぎる環境はダメである。
政府が先導して全国の学校にクーラーを配備しようとする動きは、理に適っている。
子どもとて、環境によっては怒りやすくなるし、集中力が切れる。
特別な支援が必要な子どもたちなら、尚更である。

怒らない環境づくりが大切ということで、書いてみた。

2020年5月4日月曜日

主体的な学び手になる

今回の騒動によって、学校も大幅な変革を迫られている。
まさに「大変」である。
当たり前にあったものの常識が覆されている。

例えば、対話やコミュニケーション。
恐らく、学校が再開しても、これらに制限がかかる。
交流やふれあいができない状態である。

代わりに、従来型の一斉授業の技術が必要になる。
交流型でやっていた教師にとっては、ここも変革である。
ネット上での交流なら可能だが、やはり生身の交流とは、全く質が違う。

どう教えるか、が改めて問われる。

ちなみに、進学塾の超有名講師陣というのは、一斉授業のプロである。
ニーズが集中的に高いから、もともと個別対応などしていられない。
その一人の講師の恩恵を最も広く伝えられる方法は、一斉授業のネット配信、動画配信である。

オンラインの授業は、一斉に受けられるのはいいが、1000人が受けていたら、その場での質問は時間的な制約が大きい。
それを録画しての動画配信なら、いつでも何度でも見られるという大きなメリットがある。
これらの一方通行型の一斉授業の価値が、今一度見直されることとなる。

動画を見る→個別に学習→質問をする
という流れが一般的になるかもしれない。
そうなると、肝となるのは、この動画の部分である。
無用な質問が出すぎない程度のわかりやすさが求められる。
つまりは、結局教え方である。

これは今更言うまでもないことだが、子ども同士の交流中心の授業が本当にできる教師は、一斉授業も当然できる。
一斉授業がうまくできるというのは、端的に言って、教える技術がある、ということになる。
重要なポイントや躓きのポイントがわかっていて、乗り越える方法もわかっている。

それを敢えて教えずして気付かせるにはどうするか、ということに知恵を絞る。
当たり前だが、一斉授業をするにしても、一方的に教えるよりも、気付かせる部分が多い方が上等である。

つまりは、一斉授業も交流型授業も、根本は同じである。
教えないといけない部分は教えて、自力で気付けそうな部分は教えず気付けるようにする。
自力のみでは乗り越えられなそうなところを、問いや交流を通して気付けるようにする。
やはり、一緒である。

そう考えると、ネット上の授業だろうが、根本は同じということになる。
知識を詰め込むのではなく、学び方そのものを身に付ける方が優先である。
そうしないと、教えてもらうばかりで、いつまでも気付けるようにならない。

学び方を身に付けるというのは、学習において客体ではなく主体になるということである。
この休校期間で、ますます学力の格差が開くものと思われる。
主体的な子ども(主人公)は、自らどんどん学ぶのに対し、客体の子ども(お客様、お子様)は、給仕を待つばかりだからである。

要は、ネット動画やプリント課題等の、全員に同一の、ある一つの教材に対しての、個々の姿勢が問われる。
時間と空間の裁量権である。
それを活用するか浪費するかは、主人公かどうかにかかっている。

課題が出たからこなす、というだけの子どもがいる一方で、そこに自ら工夫をして発展的に学習する子どもがいる。
この学習習慣の積み重ねの差は、とてつもなく大きい。

これは、実際の授業でも同じことが起きる。
例えばただ漢字を習っただけで満足する子どもがいる一方で、成り立ちから熟語の意味まで調べ上げる子どもがいる。
これを毎時間、年間200回が続けば、どれほどの差になるか計り知れない。

そしてこれは、大人にもいえる。
日々の仕事に一工夫をし続けている人は、成長するに決まっている。
今回のこの事態は、未知のことだらけで、ある意味工夫の宝庫である。

主体的な学び手になること。
教える側と教わる側、両方に変革が迫られているといえる。
教える側としては、せめて学びやすい環境を整えるための知恵を絞っていきたい。

2020年5月2日土曜日

令和維新のオンライン教育改革

全国いたるところで、5月いっぱいまで更に休校が延期された。
この調子では、どこまで延期の延期が続くか見通しがもてない。

3月からの2か月にわたる休校期間。
この期間にオンライン教育を少しずつだが進めてきた上で、見えてきたことがある。

この休校が明けた後、オンラインによるデジタルな教育が確実に全国の学校に入ってくる。
世界的に見てICT教育はスタンダードなことなので、今回の騒ぎにおける、日本の教育においてのインパクトは特に強い。

そもそも、日本人というのは、世界的に見てもアナログな国民性である。
YESかNOか、0か1か、ONかOFFか、きっぱりしていない。

嫌いな相手に嫌いとはっきり言う、
勤務時間の定刻になったからすぱっと帰る、
思っていたものと違うから「変えてくれ」と交渉する。

どれも一般的に、日本人が「苦手」とされるものである。
日本人の文化は「曖昧さ」にある。
「結構です」がYESにもNOにもなる。
「結構です」を英訳すると「No thank you」なのだが、実は「Thank you」の場合もある。
多分、欧米圏の人々にとって、意味不明で非論理的な文化である。

これが、日本人の良さでもある。
人のふれあい、あたたかみや、「粋」「わびさび」といったものを大切にする文化である。
デジタルな0か1かの世界は「冷たい」「無粋」なのである。

さて、この国民性が、あまりにもデジタルな印象のICT教育に、どうもなじまないようである。
「やっぱり手書きの温かみ」であり「重要書類には印鑑が大切」という文化「だった」のである。

しかし、そうも言ってられないというのが現実である。
明治時代に開国を迫られてから一気に文明開化したように、今が改革のチャンスである。
江戸時代が鎖国していて平和だったからといって、それは単に海外の脅威が無関係だったまでの話である。

黒船ならぬウィルスによる脅威が、ICT鎖国をしていた日本の教育に「開国」を迫っている。
YESかNOかの返答を突き付けられている状態である。
「NO」と答えることもできるが、それは大砲を撃ち込まれる以上の損失、「機会損失」を被る可能性が高い。

学校教育のオンライン化を一気に進めるチャンスは、今しかない。
「今まで大丈夫だったから必要ない」などという江戸時代の役人のような考えは、亡国の危機を招く。

教育に限らず「令和維新」の時が来たのである。
歴史上のいつを見ても、年号の変り目は、時代の大きな変り目である。
単に自宅でやり過ごす時期ではなく、維新の時なのである。

今、苦しい状態に追い込まれている業種においても、変革せざるを得ない時のはずである。
そして、変革の流れに痛みを伴って得たものは、この騒ぎの後でも確実に生きていく。
これは、歴史が教えてくれていることである。

さて、4月いっぱい、どのような教育ができただろうか。
新しい教育の可能性は、見えてきただろうか。
恐らく、この期間に苦しいながらもICT化を進めてきた学校は、わずかでも掴んだものが実感としてあるはずである。

この期間に学校として何もICT化を進めていないということであれば、もうそれはかなりの危機感を持った方がいい。
「周りもそうだから大丈夫」というのは、まさに鎖国的な考え方である。

先日、都内の公立校の友人から「Microsoftのteamsを導入したい」ということで相談を受けた。
諸々紹介したところ、とんとん拍子で、学校として導入することになったという。
こういう流れがどんどんできるといい。
何もしないより、確実に全国の子どものためになる。

導入に必要な資料は、導入している学校に問い合わせればある。
近くにそういう学校があればきいてみればいいし、私に問い合わせてくれても喜んでお答えする。
(本校の管理職や情報担当も、この動きが広がることを望んでいる。世に広く貢献できることこそが附属小学校の使命だからである。)

仏教や禅の言葉で「知覚動考」という言葉がある。
「知って」「覚えて」 「動いて」「考える」という意味である。
これは本来「ちかくどうこう」と読むのだが、無理やり「ともかくうごこう」とも読める。
(色んな人が言っているので、誰が初めに言い出したかわからない。誰か教えてくれると嬉しい。)

ともかく、動こう。
ゆっくり覚えて考えている暇はない。
「知らないからできない」を理由にしたら、地球上の誰にも何もできない。
存在を知ったなら、自分が動きながら覚えて考えればよいのである。

今回の連休は、教員にとって、休むための期間ではない。
次に先手を打って動くための、大切な準備期間である。

何もしないで待っていても、何も変わらない。
動く人間は、既に動いている。
ともかく、動こう。
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