2020年5月25日月曜日

学力形成のために学校に通う意味はあるか

今、遅れた分、夏休みをなくして補填するとか、小1・小6・中3は優先的に登校とか、9月始まりにするとか色々な議論がなされている。
これらの議論の前提となる考え(事実ではない)は、「学校に通わないと学習が進まない」である。

果たして、この考えは妥当か。
こういう前提の根本的なところを問うというのは、大抵の場合において、意味がある。

小6と中3は、受験を見据えてのことである。

単純に測れる、受験で必要な知識や技能というのは、結局点数であり、それは期待される解の再現能力である。
これは、はっきり言って量によるものであり、訓練回数に比例する。

そして量は、やる気や真剣さ、必死さによる。
どんな状況下でもやる子はやるので、受験というものを「ふるい」と考えるのであれば、ここは然るべき結果が出るはずである。
(逆に言えば、どんな恵まれた好状況下であっても、やらない子はやらない。)

受験学年に限定して言えば、自由に学習できる時間裁量権が多い分、本当の実力の格差がよりはっきりするだろう。
この勉強量については、本来的に本人たち以外の周りが騒ぐことではないといえる。

議論の前提が、この先進国の恵まれた環境において「子どもは学校に来させないと勉強しない」である。

ところで、私の友人・知人の何人かが、数年間アフリカの様々な国の学校に派遣されて行っていた。
数十キロ範囲に学校が一つしかないいため、子どもたちは、学校に通うだけで半日がかりである。
それでも、子どもたちは喜んで学校に通う。
紛れもなく、学校だけが、学びの場なのである。
家では自分の労働があるし、一人で学ぶためのテキストも鉛筆も何もないからである。

日本の子どもたちは、本当に学ぶことができない状況下なのか、ということが最も投げかけたい問いである。
大人が教育のことでずいぶん騒いでいるが、実は本質的には、子どもの人生の問題である。

今の「課題を届ける」ということ自体が、本当に子どものためになっているのか怪しい。
学校として何もしない訳にはいかず、そうせざるを得ないからしているが、本質的には全く不要なことではないのか。
どんな形で課題を届けても、全く取り組まない子どもがわんさかいるが、これをどう考えるか。
(そもそも、これが成立するなら、夏休みの宿題を最後までやらずにためる子どもは日本にほぼ存在しないはずである。)

そういう面からも、今回、日本の学校は、子どもにとって通う意味のある場所である、ということがはっきりした。
なぜかというと、学校という場は、学びや生活習慣に対しての「強制力」が働くからである。
今家でゴロゴロしてやる気がない子どもでも、学校があれば朝起きるし、授業を受ければ、それなりに動き出す。

これは野口芳宏先生のいう「他律的自律」である。
他から律されて、自らを律しようとする。
これもまた自律の一つの形としてみてもよいではないか、ということである。

少なくとも、学校があることで、しゃんとする子どもは、かなりいる。
学校があれば、何とか学んでいこうとする子どもがいる。
これは、紛れもない事実である。

自ら学んでいける人の目、学ぶレベルの高い人の目からすれば、こういうことは下らないことに映る。
「学校不要論」などということを言う人もいる。
確かに、オンライン教育だけで学力をつけられる人、自力でどんどんいける人には、不要かもしれない。
他律されないと動けない人間というのを、情けない、不甲斐ないと見るのかもしれない。

しかし、学校、とりわけ公立校は、弱い者、苦しんでいる子どものためにこそある。
強い人は、どんどんいけばいい。
現状の学校が合わない人は、他の選択肢をとれる社会であった方がいい。
そうでないと、苦しんでいる子どもを更に苦しめることになり、本末転倒である。
もしかしたら、これを機に、義務教育段階でも飛び級のような制度ができた方がいいのかもしれない。

ただ、それ以外の多くの子どもに必要なのは、やはり公の学校教育なのである。
学校教育を真剣に考えていくことは、多くの人にとって、将来の社会にとって意義がある。

だからこその先の議論である。本当ならば、今は自由な時間、裁量権のある時間を、どう使うかというトレーニング期間である。
家庭教育の時期といえる。

学校がどのような形で再開しても、学力差がついていることは間違いないのだから、文句を言っても仕方ない。
やれることをやっておくしかない。

今後の動向に注目である。

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