オンラインでの教育を色々進めていて、気付いたことがある。
「0か1か」の分野については、デジタルコンテンツ等による教育は、とても相性がいい。
「0か1か」は言い換えれば、〇か×か、ONかOFFか、という世界である。
一番わかりやすいのが、算数・数学である。
算数は、答えが決まっている。
前号書いた日本文化的情緒や、感情、解釈を介さない。
10進法において「1+1=2」というのは、不変の真理である。
会社の理念の「1+1=∞」のような話や、「1+1=田」のようななぞなぞ、大喜利のような話ではない。
1+1=2なのである。
不変である。
この算数・数学という教科のデジタル性が、デジタルコンテンツや動画教材、通信教材による教育と、とても相性がいい。
一方的に教えようがみんなで議論しようが、1+1=2という結論自体は変わらないためである。
答えが「ある」か「ない」か、という差はとてつもなく大きい。
0か1かがはっきりしていれば、もう議論は起きない。
実際の生活では、0か1かで問うても、答えは0~1の間に無限に存在する。
0.1や0.01、あるいは0.9999999・・・という答えもある。
どれが万人にとっての「正解」かなど、確定できない。
しかし、算数では1+1=2である。
確固たる正解があるので、自分でも〇つけができる。
ちなみにテストの〇つけで大変なのは、算数よりも圧倒的に国語の記述問題の方である。
「これは〇でいいかな?」と手が止まることがしばしばである。
つまり、算数は答えがはっきりしているため、本来はテキストさえしっかりしていれば、自力のみでできる教科なのである。
例えば受験勉強において、数学を勉強するのには、テキストの問題を解いて、解答を見て〇をつけ、解説を読んで理解するという流れが普通である。
当然といえば当然である。
ここにきて「教室で教えるからこそ、わからないこともわかるのだ」という意見が出るだろう。
その通りである。
しかしながら、単に知識と技能だけで言うなら、よくわかるテキストを見たり動画解説を聞いたりしても、それでわかるのであれば同じである。
その手のものは、大手進学塾や通信教材会社の得意分野である。
では、教室で算数の授業をすることの意義とは何なのか。
今回、これがはっきりと見えた。
教室は、集団で本質的なことを考える場なのである。
「あれども見えず」を顕在化する場なのである。
例えば、教室では「何でこれが理解できないの!?」という場面に遭遇する。
これは教師だけでなく、子どもも体験する。
自分は、ここをすぐに理解できた。
だから、クラスの仲間に親切に、丁寧に教えてあげる。
しかし、教えてあげている相手が、さっぱり理解しないのである。
ここで苦悩する。
(ちなみにこれは、教育実習生でも同じである。
受験勉強に特化して勝ち残ってきたため、ストレート正解主義が抜けないことが結構多い。)
根本的なことから、噛んで含めるように教えないと伝わらないのである。
そのためには、説明する側も、根本的に原理がわかっていないといけない。
生わかり、できる、解けるだけでは全く話にならないという場面に遭遇する。
例を挙げるなら、分数の割り算を「ひっくり返してかける」というような方法で正答し、わかったつもりになっている状態である。
ところで学生時代、微分積分の意味を根本的に理解して数学を修了してきただろうか。
多分、多くの人が、「否」である。
では、それで受験で困ったかというと、これもまた「否」である。
一般的な受験に必要なのは、根本的理解というより、演算の力、再現の力だからである。
だから、大人も算数が「わかった」つもりになっているが、実は根本的にはわかっていないことが多い。
さて、それでも何とか教えてできて、やっとわかってくれたと思って一安心。
試しに自力でやってみる時間をとると、さっき教えた相手がさっぱりできていないのである。
ここでまた苦悩。
自分の教え方が悪かったのかとか、色々考える。
一方で、教えた相手がよくわかるといって、できるようにもなった。
自分ができた時以上に嬉しい。
万々歳である。
・・・・
こういうことは、家で一人で算数をやっていても、まず起きない。
自分一人では、実はわかっていないのに理解しているつもりであるという「あれども見えず」が見えないのである。
学校で集まって算数をやる意味は、「学問するため」である。
とはいえ、最低限の知識と理解はつけないといけない。
今は、オンラインでできることに頼っていくことも大切である。
オンラインとオフライン(リアル)のそれぞれの得意分野を生かす。
それを探るための絶好の機会だと思って、前向きに取り組みたい。
2020年5月23日土曜日
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