学級崩壊とネット社会が似ていると感じたので書く。
学級崩壊とは、平たく言うと、学級の大半がいうことをきかなくなった状態である。
モラル崩壊、あるいはコントロール不能の状態である。
小1など低年齢期の場合と、高学年以降の場合は原因も様相も異なる。
小1の原因は「話がきけない」の1点に尽きる。
ある意味技能不足や無知が原因といえる。
わかりやすいルールを示し、まず正しい言動を認めて増やし、誤った言動を指摘か無視することで減らす。
まだ誤りを叱る必要はない。
単に未知なのだから、教えてあげればいい話である。
叱るのは、それ以降である。
中学年、特に高学年以降は、これとは異なる。
話がきけないという点は同じなのだが、単なる知識や技能不足ではない。
モラル面が崩れているのである。
ある意味、意図的に話をきこうとしない、確信犯で悪さをしようとしている子どもが多く存在している状態である。
ここへのアプローチの仕方は、今回の話とは異なるので割愛する。
私のブログの検索ワード欄に「学級崩壊」や「学級経営」とでも打ち込めば、いくつも書いてきている。
参考:「教師の寺子屋」
https://hide-m-hyde.blogspot.com/
(教師で更に詳しく知りたい人は、拙著を読めばよりよくわかると思う。)
学級崩壊と呼ばれる状態は、互いに人の話を聞かず、独善的でモラルが崩れている状態なのである。
力の強い者が場を支配する。
ひどい暴言が飛び交うが、抑制力はない。
無視やいじめが横行し、弱者への暴力も頻発する。
共通認識としての正しさという柱がない状態である。
弱肉強食の世界である。
翻って、ネット社会の世界を見てみる。
かなり似ている。
独善的な正義が乱立・横行し、今では「自粛警察」なるものすら誕生している。
(「警察」を名乗られる、呼称されること自体、本物の警察の方々にとってえらい迷惑である。)
少しでも「悪い」行為を見つけると、大喜びで食らいつき、公衆の面前でさらしものにする。
戦時中の暴力と全く同じであり、グロテスクである。
権力は敵で、集団の中で優秀だった者が、逆に強烈な批判の対象となる。
よく見ると、平常時からのマスコミの姿であり、これが学級崩壊のクラスでも見られる状態である。
マスコミは、自粛警察的な性質の人々の学校であり先生であるともいえる。
要は、秩序のない世界には、この弱肉強食状態が自然発生する。
弱肉強食は、ある意味自然の本能的な姿であり、理性的な人間の世界とは真逆の世界である。
そして教育とは、自然のままにしておかないことである。
人間にとっての自然がいいというのは、あくまで自然と調和した状態であり、そのままがいいということではない。
裸のままサバンナに暮らせば、食われて死ぬだけである。
弱者をまずは守る、安全・安心な状態を作るというのが、教育が成立する前提条件である。
つまり、ネットの理論やノリで学級経営をやろうとすると、ほぼ確実に崩壊する。
自由は、責任を伴ってこそ機能する。
自由な学級を志向する教室で、弱肉強食、野放しのネット状態になっているものが散見される。
(崩れていることに担任が気付いていないのも特徴である。)
もう多くは学級が始まっていると思うが、次のことである。
1 安全・安心の確保
2 ルールの担保
3 楽しさの提供
まずは、安全・安心と思える担任像を示すこと。
そこに、集団が快適に暮らせるための最低限のルールを示す。
さらに楽しいことができれば最高である。
ネット社会における惨状を反面教師に、学級集団の理想を考えると、色々とヒントが得られると感じた次第である。
2020年5月29日金曜日
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