2020年5月27日水曜日

主人公たる生き方をする

主人公という言葉がある。
元々は「本来の自己」を意味する禅語である。
今では、物語の中心人物という意味の方が一般的である。

自分の人生の主人公たること。
これについては、これまでも何度か書いてきている。
↓ブログ『教師の寺子屋』2019.10.1「自分を自分のものにする」
https://hide-m-hyde.blogspot.com/2019/10/blog-post_12.html

前号で、どんなに一生懸命課題を届けても、やらないのでは意味がないということを書いた。
なぜなら、主人公たる生き方をしない人間にとっては、課題はやらされ仕事になるからである。
一方で、主人公たる生き方をしている人間にとっては、課題とは自ら見つけていくものだからである。

(これ以外で唯一意味があるのは、与えられた課題を主体的にこなしていこうというタイプの人である。
宿題にはいつも自ら決めた時間で取り組み、通信教材の添削問題を、期限までに毎回出し続けていけるタイプの人である。
某大手通信教材会社の調べによると、このタイプの絶対数はかなり少ない。
教材自体は極めて良質で懇切丁寧なのに、残念なことである。
さらに、このタイプの子どもは、それらを既に日常的にやっていることが多く、やはり余計な課題になりがちである。)

大人も子どもも、「主人公」たるキャラクターが好きである。
アニメを見ても、主人公は他の登場人物とは生き方が決定的に違う。
好きなアニメでも小説でも映画でも何でもよい。
主人公の出てくる物語を思い返してみればわかる。

主人公は、与えられた状況を嘆くのではなく、自ら未来を選択していく。
周囲はそれを無駄だといい、時にひどく嘲られもするが、自らの信念に従って行動する。
たとえ絶対絶命のピンチに陥っても、諦めずに突破口を切り拓き、チャンスに変えていくというのが、主人公である。

主人公以外の脇役に人気が集まることもある。
作品によっては、主人公以上に人気が出ることもある。
しかし、この脇役のキャラを見ると、やはり主人公以上に主人公であることが多い。
つまり、物語の中心人物ではなくとも、「本来の自己」を主体的に生きようとしているのである。
個性的であり、かつ自分の役割をしっかりと果たしている。

人は、主人公的なキャラクターに憧れる。
悪者が怖くて、為す術もなく愚痴を言うか震えているだけのキャラやエキストラにはなりたくない。

「主人公」の子どもにとっては、今の休校状態は、かなりのチャンスである。
時間がある分、自分のペースで主体的に切り拓いていける。
一方、「主人公」たる意識の欠ける子どもにとっては、単なる怠惰の時間である。
自分が成長しないのも、ウィルスのせいで社会のせいで、自分によい環境を与えない不甲斐ない大人たちのせいである。

子ども、と書いたが、先の文を「大人」と読み替えても全く同じである。
国家が悪い、政治が悪い、誰それが悪いと被害者意識で凝り固まってしまう。
主人公の意識で見れば、自分の役割、何をなすべきかを考え、ピンチの突破口たる僅かなチャンス、隙間をねらうはずである。

子どもは大人の鏡である。
子どもが、親の姿をここまで間近に見られる機会もない。
今、親がどう生きているかが、子どもの生き方に大きく影響する。

社会に文句を言っているだけか、主人公としてピンチをチャンスに変えていこうと抗っているか。
子どもは、大人を確実に見ている。
自分の親が大変な状況なのもわかっているし、単に怠惰に過ごしているだけなら、それも見ている。

大人の我々が、子どもにどんな役を見せているかである。
恐怖に震えているだけの村人役では情けない。
苦しんでいる人を見て、自分のところでなくてよかったと安心しているようでも情けない。
(それは、物語の途中でやられる役である。)
主人公たる生き方をしているところこそを見せられるようにしたい。

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