2022年12月31日土曜日

数値化される子どもたち

今年、『不親切教師のススメ』の中の「背の順」に関する記事に大きな反響が出た。


プレジデントオンライン記事

なぜ誰もおかしいと気づかないのか…学校で「背の低い順に並ぶのは差別」と主張する現役教員の納得の理由


色んなところで騒がれ、一般の人だけでなく評論家の人も出てきてそれぞれが持論を述べるような事態となった。

結果、テレビ朝日やフジテレビなどでも取り上げられ、議論の対象とされた。

このタイトルにある通り「なぜ誰もおかしいと気付かないのか」という点こそが、今回話題となった一番の理由である。


ずばり、ポイントは「刷り込み」である。

我々は、ごく幼い頃に「普通」とされてきたことに対しては、疑いをもたない。

物心ついてすぐに背の順で並ばされていたのならば、それを「おかしい」と思うこと自体が「おかしい」ことである。


小学校、中学校と進むにつれて、序列化が進む。

その序列化の基礎となるのが、この背の順ではないかというのが『不親切教師のススメ』で指摘する問題点である。


子どもたちは、何かと数値で測られる。

もう、年がら年中何から何まで、数値化されている。


我々大人の身体も、年に一度の健康診断で数値化されたものを提示される。

数字を見て良し悪しを判断することになる。

あるいは、金銭に関するような他の測定指標もある。


いずれにせよ、他人と並べて比較されるのは、多く不快感しかない。

例えば健康診断の結果を提示して、その身長順や体重順等々で毎日事ある毎に並んで歩くように言われることを想像すれば、その不快感は容易に想像できる。

パワハラ以外の何物でもない。


数値化や序列化は、ゲームやスポーツのような競争場面では特に有効であり、有用である。

ゲームは勝敗や記録の比較こそが楽しみの中心に来るからである。

金メダルと銀メダルの価値の差は果てしなく大きい。

勝ちと負けは全く意味が違う。

競争とエンターテインメントの世界である。


つまり、教育の世界に数値化を持ち込めば、必然的に競争と比較による弱肉強食の世界に踏み込むことになる。


子どもたちは、学力が日常的に数値化される。

体力も数値化される。

通知表という形で、業績も数値化される。

日常生活の中でも、あらゆる場面で数値化がなされる。


学校生活には、競争意識を煽るものが溢れている。

数値化や比較というのは、同一の物差し、基準の上に載せてこそ成立する。

ある一定の物差しに載せて「あなたは上であなたはその下」と確定する。

まともな意識のある大人なら、まず拒否するような所業に、子どもたちは日々服従しているのである。


大人が日々背の順に並ばされることはない。

何なら、場所を移動する度に一列に並んで歩かされることもない。

大人の場合だと、「普段から一列に並んで移動する」というのは、囚人や捕虜の状態を連想してしまう。

そもそも、並ぶ必然性という点から疑うポイントである。


恐らく、子どもを並んで歩かせた方が、都合がいいのである。

管理しやすいし、時間の関係もある。

つまりは、大人の都合である。

自由な子どもたちを信用しても、思うように移動してくれないからである。


これは、鶏が先か卵が先かという話でもある。

信用していないからいつまでもできるようにならないのか、できないから信用して任せられないのか。

恐らく両方が真実だが、少なくとも何でも任せない内はずっとできないということは間違いない。


学校に通っている内に、数値化と序列化と管理に慣れる。

学校が、そんな場であっていいのかという問題提起である。


たかが背の順と侮ることなかれ。

様々な「正論」が出ているが、差別的な不合理という点を解決するものは見当たらない。

何より、これまでとても嫌な思いをしてきた人たちがかなりの数いるという事実は重く、ここはもう変えようがない。

一番前で辛い思いをする子もいれば、逆の場で辛い思いをする子もいる。

そして何より、教育の場において身体に関することで序列化し並べること自体が、不快である。


学校の人権意識の低さや非常識は、こういったところから梃入れしていくべきではないか。

不親切教師のススメ』に、そのヒントを山ほど盛り込んだので、参考にされたい。

2022年12月24日土曜日

完璧な教師をススメない理由

 毎年、学級づくりをしていると、大抵、思い通りにいかない。

授業も、思い通りにいかない。


なぜなのか。

ずばり、自分のやり方が、完璧ではないからである。

(平たく言うと、色々と下手なのである。)

自分自身が完璧だったら、全て思い通り、予定通りにいくはずなのである。


よって、私の真似を誰かが完璧にやったとしても、思い通りにはいかない。

本人だって、大抵は理論通り、思い通りになんていってないからである。

それが上手くいく時もあれば、そうでない時もあるというのが事実である。

本に書いてあることだって、毎年100%実施されているはずがない。


そんなことができていたら、結果的に恐ろしいことになるからである。

なぜか。


もしも、私が完璧な指導ができる人間だったとする。

そうなれば、私の思い通りの「完璧な子ども」が育つことになり、周りの教室にもそれを実施させることができる。

そうなれば、私の理想の外にいる子どもたちは、全て排除されることになる。

つまり出来上がるのは、規格通りの完璧で、単一な工業製品のような子どもたちである。


そんなことが実現したら、恐ろしいことである。

学校は多様な人間が共に育つ教育の場であり、単一の規格品を作る工場ではない。


これは斎藤一人さんの言葉だが、人間は誰しも「しっかり」なんてしていない。

「うっかり」している生きものである。


どうせ、うっかりしている人間が教えているのである。

大したことは教えていない。

全部聞いていなくても、実はどうってことはない。

ただ、時々役立つことやいいことを言うことがあるので、それを聞き逃さないようにすればいいのである。


不親切教師のススメ』には、こういった思想が根底にある。

申し訳ないが、自分は子どもたちにとっての「正解」をもっていないのである。

その子どもなりの「正解」を探求していく旅路に、ほんの少し、一時的に同行させてもらっているだけである。


不親切教師には「自分は正しく導けるし、そうせねばならぬのだ」というプレッシャーがない。

子どもにも「自分は色々と抜けてるから、全部信用してはいけない」「だから助けてね」と伝えてある。

子どもの自力に、かなり頼っているのである。


こういうことを聞くと「教師のくせにだらしない」とお叱りを受けそうである。

しかし、先に述べたように、教師が正しく子どもを導けるなんて、それ自体が恐ろしい思想なのである。

うっかりな人間が、正しい道なぞ示せる訳はない。


大体、たかが10年後に、どんな仕事が残っていて、どんな新たな仕事が生まれているかすらも、予想できないのである。

そんな人間に子どもの将来の保証なぞできるはずがない。

できることと言えば、今自分がこれが大切だと思うことを、今できる全力で伝えることぐらいである。

信じるか信じないかも本人次第で、なぜならば、その人生を生きるのは、結局子ども自身だからである。


不親切教師のススメ』は、過激なことが書いてあると評されることがあるかもしれない。

しかしながら、その根底にあるのは、子ども自身のもつ成長の種への信頼である。

大人が手出し口出しするのはごく最小限にとどめ、子ども自身の人生を尊重したいという思想なのである。


だから、やることが子どもにとっていいかどうかわからないようなことは、とりあえずやらない。

例えばドリルの○つけとか、作文の細かい添削とか、学級における様々なお世話とかである。

理由もわからず無思考に言うことをきかせることとか、序列をつけることとかも、余計なこととしか思えない。


これは確実にやらないと困る、知らないだろうということは、やる。

学び方とか、今それをされてどんな気持ちになったかとか、最低限の安全に関することとかである。


そういう視点で、もう一度『不親切教師のススメ』を再読していただきたい。

新たな発見があるかもしれない。

2022年12月17日土曜日

「自分の子ども時代と同じ」は危険信号

 最近、国語の先生の話を伺う機会が多い。

自分は特別活動を中心に据えているが、国語は必須である。


国語の指導は大きく変わってきている。

例えば、次の事柄について、どのように指導をしているか。


・漢字

・音読

・読解

・作文

・ノート

・話し方と聞き方


これらの事柄について、「自分の子ども時代と同じ」というものがあったら、それが危険信号である。

自分の子ども時代と現代が同じ指導でいいはずがないである。


一人一台端末の時代、子どもが触れる情報量は、一昔前と桁違いである。

必要なスキルも、質が違う。

十年一日のようになっている学校教育は、疑うポイントだらけである。


これは、昔の実践の否定をしている訳ではない。

三十年前のパソコンは、三十年前には輝く最新型だったのである。

それを今も使うべきか、という話である。


個人的にずっとガラケーを使用していても全く構わないのである。

ただ、ガラケーが現代のスタンダードだと子どもに教えるのは、明らかな虚偽である。

そこは、本当のことを教える必要がある。


学校は、本当のことを教えているか。

「将来」ということを口にする時、それは本当か。

未来が、せめて現代が見えている上で、子どもに語っているか。


「自分の子ども時代と同じ」は、ノスタルジックな良さはあるが、非現実的である。

「これが正しい」と思い込もうと、自分を騙していないか、自問自答して、疑ってみる必要がある。

2022年12月10日土曜日

流水の清濁はその源にあり

 先日「モラロジー」の学習会に参加してきた。

モラロジーとは、「道徳科学」であり、法学博士・廣池千九郎氏の創設した総合人間学である。


そこで三人の先生の話を伺ったところ、全ての話が繋がった。


野口芳宏先生から「孝」の話があった。

「孝」の部首はどちらかと問われる。

A 老いがしら

B 子


これは、何とBである。

親孝行の中心にいるのは、される親だろうと思うが、「子どもがさせて頂く」のが孝である。


次に、会場の校長先生からのお話があった。


教員という立場の「権力」をふるえば、反抗する相手との争いになるという。

人間は、権力をふりかざされると、反抗したくなる。

これは、一昔前に学校が荒れに荒れた時期の構造であり、暴走族と警察との争いの構図でもある。

立場ではなく、人間性からの真の権威が滲み出ていて「この人の言うことには従いたい」と思えるかどうかである。


最後に、地元の開業医の先生のお話があった。


若い頃、酔った勢いで「うちのスタッフは使えない」と、モラロジーのとある方にこぼした。

するとその方は「流水の清濁はその源にあり」(『貞観政要』の言葉)という趣旨のことをさらりと述べられたという。


川の源、即ち、病院の院長は誰かということを、やんわりと、しかし厳しく諭されたとのことである。


これら3つの話は、全て教師にあてはまる。


まず、「孝」の話。

私はここから「教」の字を連想した。

「孝」をもって「むちをふるう」のである。(旁のぼくにょうの意は鞭である。)

教えるという行為には、実はそれを「させて頂いている」という気持ちが必須であると解釈した。

さらには、教わる側にも「孝」の気持ちがベースにないと、その教えも入らないということではないだろうか。


それは即ち、二つ目の「権威と権力」の話にもつながる。

教える側がどういう人間だと、教わる側がどういう姿勢になるのか。

示唆に富んだ話である。


さらに三つ目が、これらのまとめである。

子どもにああしろこうしろこうなれと言うが、全てそれを発している「源」次第である。

結局、主体変容・率先垂範しかない。


さて、子どもたちに主体性がないとしたら、なぜなのか。

面従腹背しているとしたら、なぜなのか。


今回の話で、特に胸を打った話があった。

ある時、モラロジーの方に講演をしてもらったが、話自体はとてもいいのに、聞く側の態度が大変悪い。

主催者として申し訳ないと思っていたところ、講演者の方が頭を畳にこすりつけるようにして謝ったという。

「自分が至らないばかりに聞いていただけなかった」ということである。


この姿勢を、教える側が、果たしてとれるか。

「流水の清濁はその源にあり」を実践できるか。


子どもを変えようと躍起になっているが、真に問われているところは、ここである。

道徳を子どもに語る前に、己を振り返る必要があると痛感した学びの場だった。

2022年12月3日土曜日

懲罰、叱責、ストレスの効能

夏休みに読書感想文を書かされるのは心の底から大嫌いだ。

しかし、自分が好きに本を読んでその本についての文を書くのは大好きである。

強制されると、魅力が半減どころか、嫌悪に変化するという好例である。


夏休み中には、本の虫とまでは言わないが、時間があるのをいいことに、何十冊と、様々なジャンルの本を読んだ。

以下に、読んだ本の一例を挙げる、


『やりすぎ教育 商品化する子どもたち』武田 信子 ポプラ新書

『〈叱る依存〉がとまらない』村中直人 紀伊國屋書店

『知的好奇心』波多野誼余夫/稲垣佳世子 著 中公新書

『薬物依存者とその家族 回復への実践録 ─ 生まれ変わり、人生を取り戻す』岩井喜代仁 どう出版

『死刑について』平野啓一郎 岩波書店


読んだ多くの本に共通しているメッセージがあった。


それは

「他者に苦痛を与えることは有害」

という一点である。


苦痛とは、肉体的、精神的両面を指す。

有害とは、個人的、社会的両面を指す。


苦痛を与えることで、改善をねらう。

しかし、結果はマイナスにしかならない。


一方、有用な苦痛、ストレスは存在ないのか。

これも、実はある。


自ら求める苦痛、ストレス。

自らが求める何かを目指し、頭や体を鍛えるために負荷をかけるようなもの。

これのみが有用である。


同じストレスであっても、他者が強制的に与えるものは、有害でしかないというのが多くの識者の結論である。

実は、何十年も前から今まで一貫して主張されている話なのである。

つまりは、一方で、逆の主張もずっとあるということでもある。


ものを教える立場(子どもから見た権力者の立場)にある、自分の経験則から考える。

やはりこれら「与える苦痛」は、有害という実感がある。

長い目で見て、後悔しか生まない。


「悪さをしたから裁いていい」

「叱らないと子どもがダメになる」

「然るべき報いを」

という考えは、社会全体に根強い。


教員をしていても、まだ幼い子どもの口から

「悪い子はこらしめないと」

というような言葉が出て、ぎょっとすることがある。


わかりやすい「勧善懲悪」のアニメや物語に囲まれているのだから、当然そうなる。

周囲の大人の「観」の影響は大きい。

まさに、マルトリートメントである。


SNSやネット上が「公開処刑場」と化している。

善男善女による「正義」の鉄槌が下され炎上する現代に、歯止めをきかせるにはどうするのか。


まずは「他人の悪いことを正そう」という、他者改善の姿勢を改めること。

被害を受けた当事者でない限り、糾弾するようなことはしないこと。


ただしこれは「決して叱ってはいけない」ということではない。

特に自分がその場の責任者である場合、他者に危険が及ぶ時やルールを逸脱した時などは、叱ってストップすることは十分に有り得る。

それは仕事であり、個人的な好き嫌いの問題とは一線を画す。

警察が違反の切符を切るのと原則は一緒である。


教室内であっても、この辺りから考えていくと良いのではないかという提案である。

2022年11月26日土曜日

「自治的学級づくり」と「不親切教師」の深い関係

 夏の話だが、千葉市で、オンライン参加も含めたハイブリッドのセミナーに参加した。

提案内容は「不親切教師的学級経営」である。


ちなみに会の母体は「日本学級経営学会」である。


参考: 日本学級経営学会H.P.



自分はこれまで、この会に限らず「自治的学級づくり」をテーマに数年間提案をし続けてきた。

前任校である千葉大学教育学部附属小学校の公開研究会でもそうである。

それが今年から突然「不親切教師のススメ」である。


急な方向転換に見えるが、実は違う。

字面が違って見えるだけで、実は視点が違うだけである。


「自治的学級づくり」は、「学級」に視点を置いた表現である。

学級集団全体が、自治的になっていくことをねらう。

つまり、子どもが主体性をもって活動し、教師が手を出し過ぎない学級である。


「不親切教師」は、「教師」に視点を置いた表現である。

教師が敢えて手を出さないことで、子どもが主体性をもった存在になることをねらう。

つまりは「自治的学級づくり」と同根である。


今年になって私が突然「不親切教師」になった訳ではない。

「自治的学級づくり」を指向して以来、ずっとそうだったのである。


では、「自治的学級づくり」と「不親切教師」は全く同じかというと、これは違う。

同根であっても、表出の仕方や主語が違うのである。


先にも述べた通り、「自治的学級づくり」は、学級が主である。

つまり、教える自分自身が主語にない。

学級という子ども集団に対する「他者変容」である。

「研修」を「研究と修養」に分けた時、他者変容を求める「研究」にあたる部分である。


一方「不親切教師」の主は、教師である。

自分自身が主語であり、求めるのは「自己変容」である。

「研究と修養」でいえば、こちらは自己変容を求める「修養」にあたる。


現実的に考えて、主体性をもって取り組みやすいのは、修養、自己変容の方である。

他者を変えるというのは、容易ではないし、主体性も選択権も他者にあるので、どうしても難しい。


自分自身なら、自分次第で、自分の選択で変えられるのである。

そのための道標として書きしたためたものが『不親切教師のススメ』なのである。


8年前に自分が友人と共に上梓した

やる気スイッチ押してみよう!

という本がある。


この本の一番最初に掲げたキーワードも

「主体変容、率先垂範」

である。

実は主張自体は一貫しており、全く変わっていない。

手を変え品を変え表現を変え、大切だと思うことを言い続けているだけである。


なぜそんな面倒なことが必要なのか。

それは、大事なことは1回では伝わらないからである。

大事なことは、何十回も、何百回も、何千回も言わなくてはならない。

しかも、表現を変えて伝え続ける必要がある。


例えば、「あいさつ」の指導が1回や10回程度言えば済むか。

それなら誰も苦労しないということは、誰しもが知っていることである。

「返事」でも「靴揃え」でも何でもそうだが、大事なことを徹底するというのは難しい。

何度でも何度でも何度でもへこたれず繰り返し伝え続ける必要がある。


それも、表現を変える必要がある。

同じ言い方だと、飽きるからである。

飽きは興味や関心・意欲の敵である。


さらに、人によって「響く」表現が異なるためである。

「甘味」と「デザート」と「スイーツ」ではイメージが変わるし、その内実も少しずつ違う。

感受性の違いは個性の違いであり、前提にあるべきものである。


不親切教師のススメ」とは、自分自身の在り様、考え方、それに伴って対応を変えようという提案である。

「こうすれば相手を思い通りに動かせる」という提案とは真逆の内容になっているのが、おススメポイントの一つでもある。


既に本書を読んだ読者の方にとっても、この視点で再度見直していただければというご提案である。

2022年11月19日土曜日

「言うことに従う」の是非は場で決まる

 以前も紹介したことがある人物だが、私も面識のある、有名な職人の方の本を頂き、拝読した。


参考:教師の寺子屋 2019.9.9 「人を育てるのは心」


職人の世界では、次のような言葉を弟子は言われるという。

「言われたらそのままやれ」

「頭で考えるな」

「バカになれ」

(ちなみに、私は弟子でこそないが、実際にお会いした時に、厳しい言葉を色々と言われた。

それらがいちいち本当にその通りで、納得し、嬉しかったことをよく覚えている。)


これらは『不親切教師のススメ』ですすめていること、そして子どもに言っていることと、真逆である。

では、どちらかの教育が間違っているのか。


職人の世界においては、先の言葉は正しい。

いちいち反論したり勝手にアレンジしたりする人間には、教えられない。

それは、特定の技術の伝承が中心にあるためである。

そして、それを習いたいと弟子入りしてきた人を相手にするからである。


私も師の野口芳宏先生に似たようなことをやんわりと諭されたことがある。

つまり、師のもとへ習いに通っている以上、従うのが筋である。

それが嫌なら、通うのを止めるべきである。

自分で師を選び、学びたいことがあるのだから、当然である。


「進んで従う」という状態である。

一見矛盾する言い方だが「主体的に従う選択」をしている訳である。


ところで、学校においては、これらは当てはまるか。

子どもは、師として自分を選んで通ってきているのか。

また教師は、そういう立場として子どもの前に立っているのか。

さらに、そういうつもりで職場に仕えているのか。


どう考えても、そうではない。

言うなれば、学校の教師と子ども、あるいは職員同士というのは、単なる偶然の組み合わせである。

少なくとも、人間を選んで来ていることはまずない。

それは、受験をして入学していようが、採用試験を受けて採用されていようが、同じである。

師弟制度とは全く意味の違う集団である。


つまり

「黙って従え」

は通用しない世界である。

正確に言えば、それが通用してはいけない世界である。

それが通用すれば、文字通りの支配になる。


子どもに教えるのは

「言われたことをやればいい訳ではない」

「自分の頭でよく考えること」

「賢くあれ」

である。

前号でも書いたが、自己決定を求め、自立を促すことである。


これらは、そのまま教師の側にも当てはまる。

上から言われたことに対し、考えずにそのまま従うようでは、単なる隷属である。

工夫もせずに愚直に例年通りの作業をしているだけでは、到底いい仕事はできない。

なぜならその命令は、自分が納得し心酔した相手からのものではないからである。


逆に言えば、例えば自分の上司に当たる人物に対し、心から尊敬し師と仰いでいるのなら、素直に従うことにも主体性がある。

勤めている会社や仕事に対して惚れ込んでいるなら、ひたすら従うのも有りである。


無条件に従うことは、考えなくてよいから、楽なのである。

例年通りでいることは、変えなくていいから、楽なのである。

周りと同じでいることは、その他大勢でいられるから、楽なのである。

ただし、楽している、今まで通り維持できていると思っている時点で、実は緩やかに衰退しているという自覚は必要である。

それは成長ではなく、単なる老朽化である。



セミナーなどで質問を受ける際に、多く出てくる本音の悩みが

「子どもに日々やらせていることが、正しいことかどうか、自信がない」

というものである。


これは心ある人なら必ず抱く悩みである。

自分がよいと思えないことであれば、それはきっと、正しくない。

きまりだから、というだけの理由でやらせていることの大半は、無意味どころか有害である。

やらせていること自体、既に老朽化していることばかりである。


では、自分の言うことに完璧に従わせる方がいい相手とは何か。


それは、相手が自分のような人物を目指している場合である。

私であれば「教師になりたい!」と願う相手であれば、ある程度の道筋を示すことができる。

従えば、悪いようにはしない自信がある。


だから、本気で教師になりたい教育実習生に対しては、教えやすいし、結構厳しいことも言う。

そうでない相手に対しては、まあぼちぼち、という感じである。

(教師にならない人にとっては指導案など二度と書かないのだから、形さえできれば正直どうでもいい。)


さらに現実は、本気で教えた有望な学生も、企業や学者の道を選ぶことが少なくないという現状である。

言われたことに従わざるを得ないような現場、または子どもを従わせるような現場を見ていれば、当然の選択である。

つまりこの地盤そのものを変えていかねば、教員採用試験を高倍率にすることは夢のまた夢である。


従来の教育モデルでは、それでも良かったのである。

『不親切教師のススメ』の「おわりに」にもそれは書いた。

引用する。


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(引用開始)

これまでの教育はどうしても「横並び」「揃える」「みんな一緒に」という方向性が強かった。

経済成長が上向きの時代においては、周りに言われた通りに動くことで人生が安泰だったからである。

それが時代の要請する最適解だったといえる。

しかし日本という国の成長が誰の目からも明らかに右肩下がりになり傾いてきている今、

それでは上手くいかないことに人々は気付き始めた。

そこに上乗せする形で教育界には突如「個別最適な学び」というスローガンが出てきて、一人歩きし始めた。

(引用終了)

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時代の最適解が、変わったのである。

社会のパラダイムシフトが起きた。

今では十代の子どもや二十代の若者がネットで何百億円も稼ぐ。

かつて見たことも想像したこともない方法を用いてである。


単純な作業は全てロボットとAIが担当し、かつての職業の大半が消え失せる。

作れば売れたはずのモノが溢れてゴミの山と化し、処理に困った製品が不法投棄されたり二束三文で売られたりしている。


かつての世界で想像できただろうか。

それが今、世界中で起きている。


このパラダイムシフトが起きた世界に対し、私たち教師は「正解」を知っているのだろうか。

個別最適な学びとは何なのか、本当にわかった上で、教えているのだろうか。

答えは明らかに「No」である。


そうなれば、子ども自身にも、自己決定を求めるしかない。

申し訳ないが、こちらの言うことに黙って従ってもらったとしても、その結果責任はとれない。

その上で、こちらが最も良いと思える教育を提案していく程度なのである。


現代以降の学校における教師と子どもは、師弟関係ではない。

いや、昔からそうだったのだが、昔はそれでも大体の正解が見えていて、従っていればある程度の結果を保証できたのである。


一方で、弟子入りする、何かを選んで習いに行く場であれば、まず従うこと。

各種のお稽古やスポーツクラブや学習塾と、学校という場は明らかに違う機関なのである。

当然、教育のスタイルも方針もすべて全く異なる。

そこを学校と比べること自体、無意味である。


そう考えれば、学校は学習塾などとは次元が全く違う、不親切な場であって然るべきである。

別に師弟関係でも何でもないのだから、やたらよかれと世話をしたところで、有難迷惑である。


全員に同じものを提示する一方で、全員に一律の結果を求めるものでもない。

個によって必要なものは異なる。

真に公平で公正な公教育とは、そういうことである。


学校とは、単なる偶然の集団である。

この自覚をもって臨めば、

「子どもが(私の)言うことをきかない」

ということに対しても、

「先生が(私の)思う通りにやってくれない」

ということに対しても、見え方が変わるのではないだろうか。

2022年11月12日土曜日

「不親切教師」の真意

『不親切教師のススメ』が世の中に広がるに従い、ここに関連するセミナーも多く開催するようになった。

その中で、参会者の方からリフレクションレポートを送っていただいた。

『不親切教師のススメ』の真意をわかりやすく言語化してくれている。


ご本人の許可を得て、以下、頂いたリフレクションレポートから一部引用する。


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(引用開始)

【不親切という言葉の意味】


 キャッチーだからこそ、この言葉が使われているのだろうけれど、厳密にいうならば、「(敢えて)不親切」なのだろう。

「目に見える手(指導)を入れること」これを是としている現場だからこそ、

・掲示物へのコメント

・ドリルの丸付け

・連絡帳の確認など

は、キチンとした指導であり、これが是とされている。

目に見えるものしか信じてないのだろうなぁ…。

しかし、教師は掲示物へのコメントについては、多くの子どもにとって力がつくものではないことに薄々感じているはずなのだ。


「うーん。」と思いながらも、「でも、ずっとやってきていることだから。」と、その違和感を置き去りにして続けてしまう。

こんなことが現場には多い。


 不親切であることの目的は、自分なりの言葉で言うとすれば、「自分で考えて決めることのできる子どもになってほしい」ということ。

自分が行っている教育活動は、子どもの頭を働かせているのだろうか。という視点で見つめてみると、わかりやすくなるのかもしれない。


 お隣に座っていた私のお友達は、松尾さんの「鵜飼の話」がかなり腑に落ちていたようで、少しずつその範囲を広げ、最終的に手放す。

というところが必要なことなんだろうと話していた。

私もそうだと思う。

最初から「不親切」にできないこともあるし、段階的にそれを行うということ。


 著書をしっかり読み込めば、わかることだけど、教育本の怖いところは、

その内容の「エッセンス」だけを自分に落とし込み、「不親切」を何の考えもなしにやってみること。

これは怖い。

・無自覚

・無意識

は、教育現場にとって「毒」だ。


(中略)


 今回問いたいことは、「なぜ、それを行うのか。」それを考える教師であってほしいという

こと。


 その教育活動は、なぜ行うのか。それはそもそも必要なことなのか。

それを問い直すことが、教師の教育実践をよりよくする手立てのひとつとなるのだと思う。

いつもしている実践に「なぜ?」「なんのため?」と問える教師でありたい。


(引用終了)

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この文中にある

「目に見える手(指導)を入れること」

これこそが私の指摘する「親切」の正体である。


要するに、目に見えるからこそ「やっている感」をアピールできる。

つまり、指導の免罪符になるという面をもつ。

こういったものは、ともすると実質を捨てた形式に陥りがちになる。


しかしながら、ここで指摘されているように、掲示物へのコメントで子どもに力はつかない。

以前にも紹介したが、教師が作文に朱を入れることよりも、子どもが文を書くことの方が大切なのである。


参考:教師の寺子屋 2011.7.23「作文指導の極意」


次の言葉も、まさに我が意を得たりという表現である。


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不親切であることの目的は、自分なりの言葉で言うとすれば、

「自分で考えて決めることのできる子どもになってほしい」

ということ。

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セミナーの最中にも

「子どもが主体性をもつようになる指導を端的に教えて欲しい」

という質問があった。

私は「自己決定の場面を多くすること」と答えた。


つまり、子どもが自分で考えて決めていく場面を、大人が奪ってはいけないのである。

鵜飼の鵜のように、いつまでも紐をつけて子どものコントロールを大人がしているようでは、自立しない。

それは、学習、安全、人間関係、全てにおいて言える。

不親切教師は、先回りの大きなお世話が最も悪影響を及ぼすと考える。



そして最後のくだり


「なぜそれを行うのか」


である。


そのまま真似するだけでは、単なる不親切な教師である。

なぜ、何のために、敢えて不親切に振る舞うのか。

それは、子どもの主体性を高めるというただ一点の目的のためである。


逆に言えば、本当にそのままではできないことを放置していては、自立できない。

必要な環境支援をした上で、段々と手放していくのである。


教師の仕事を本当に素晴らしいものにしたいと願う人にこそ『不親切教師のススメ』をおすすめしたい。

2022年11月5日土曜日

知的好奇心を満たすには

「第4回 学校教育のリアルな本音を語る会」において紹介してもらった本を、こちらでも紹介する。


『知的好奇心』波多野誼余夫/稲垣佳世子 著 中公新書


この本は、面白い。

知的好奇心を刺激されまくる内容で書ききれないが、一例として紹介する。

私の読書メモそのままであり、→の部分は私見。


1

一定期間、似たようなものにふれ続けると「枠組み」ができる

枠組みからはずれたものには、本能的恐怖を感じる

保守的になる

既存の枠組みを大きく覆すような、あまりに斬新なものには拒絶反応を示す。

一方、「適度に新奇」なものには、好ましい態度、知的好奇心を示す。


→斬新すぎる提案は人間の本能的恐怖と拒絶を引き起こす。

不親切教師のススメ』は、現状の枠組みを否定しているので、大きく賛同する人と拒絶者が出る可能性大。


2

好奇心は二種類あり、両方必要。

拡散的好奇心(情報への餓え)←能動的 

特殊的好奇心(知識への不十分の自覚)←受動的

蜂が蜜を求める行為にたとえる。

前者は当てもなく飛び回り探す行為

後者は蜂ダンスによって特定の花へ導かれる行為


→読書も二種類。

「何となく面白いものを求めて読む」

「専門的知識の獲得や、書き物や発表、試験等のために読む」

という違い。


3

「適度の緊張」は快である。(バーライン 心理学者)

→師である野口芳宏先生の教えと合致。

授業には適度な緊張感が大切。


4

苦痛刺激が存在すると、探索(知的好奇心を満たすための学習行為)は減少する。

また、解いたことにごほうびをやるようになると、それが与えられた時は熱心にやる。

しかし、ごほうびがもらえなくなるととたんにやめてしまう。


→「○○ができるまで寝たらダメ」も「○○できたらごほうび」も両方知的好奇心の面で害悪。

自ら求めれば快適に学べるという環境が大切。

夏休みの一律大量の宿題は、学びそのものへの知的好奇心減退に大きく貢献。



1973年刊である。

約50年前に、既にこのようなことがわかっていたということに驚く。

知的好奇心を刺激する本として、紹介してみた。

2022年10月30日日曜日

理想の学級は理想的と言えるか

 学級づくり修養会「HOPE」例会での気付き。


今回のテーマは「理想の学級は理想的と言えるか」であった。

根本を問う、哲学的なテーマである。


ここで参会者の中から出てきた言葉が

「寛容の不寛容」

である。

「許さないことを許さない」という矛盾である。


これは哲学者カール・ポパーが1945年に発表した「寛容のパラドックス」というものである。

(出典:Wikipedia)


つまり、理想の学級を実現することは、それ以外を否定するということになる。

学級担任の考える理想の学級を良いと思えない子どもも否定することになる。

ここにもはや矛盾が生じるという次第である。


例えば自分であれば「自治的学級」を理想としている。

しかしながら「自治以前」という集団の状態も当然存在する。

その学級集団を否定すること自体が誤りである。


集団の中には「みんなと一緒」に抵抗感をもつ子どもが少なからず存在する。

一方で「みんなと一緒」が最も居心地の良いという子どもも存在する。

これらを一緒くたに扱うことは、現実的に考えて不可能である。

もしそれが上手くいっているように見えるのであれば、そこを我慢している人がいるからである。


学校教育は、集団を一緒くたに扱うという前提のもとで制度設計がなされている。

学習指導要領が定められていることからもこれはわかる。

教室に35人が一緒にいることからも、生まれた年月で学年が年齢別に構成されていることからもわかる。

要するに、前提として理想の同質のものを作る制度設計である。


この制度に乗っている以上、ある程度の同質性は避けられない。

完全に個別最適な学びを求めるのであれば、年齢の区分けを取り払う他はない。

算数の授業で、内容が一瞬で理解できる子どもと、1時間やってもさっぱりわからない子どもが混在している現状である。


個別最適を求めるのであれば、小学生が中学校の数学をやっても何ら問題ないはずである。

また逆に、足し算や引き算すら覚束ないのに、そのはるか先の高度な計算に取り組めるはずがない。


要するに、自分の理想の前提を疑う必要がある。

それは実現において、現実的に無理がないか。

どこを見直すべきなのか。

求める集団の同質性から外れる子どもが大勢いて自然という前提が必要である。

それがわかっているのに申し訳ないが「枠」の中でやってもらおうというのが、現在の教育制度の現実である。


では、例えば「学級目標」は必要がないのか。

そんなことはなく、これは有効な手段である。

教育である以上、目指す方向性はある。

迷わないための指針があるというのは、集団が動くに当たり必要である。

(指針が適切なものであるのかは検討の余地がある。

船の目指す先が岩礁では沈没するだけである。)


指針とは、方向性に過ぎない。

全体でそっちの方へ、後は各々でというざっくりなものである。

一方で理想は、詳細まで決めていくと、それは「枠」になる。

「枠」からはみ出てはいけないとなると、無理が生じるという次第である。


全員を「枠」にはめようとする行為とは、保育園の「お散歩カート」に全員を乗せようとするようなものである。

「お散歩カート」は、まだ自分で歩けない、歩かせられない子どもなど、それを必要な子どもだけが乗るためのものである。

自分で安全に歩ける子どもまでカートに載せて面倒を見る必要はない。

それは親切すぎるお節介である。


教育が、親切すぎるのである。

今回、そこへの問題提起として、次の本を書いた。


『不親切教師のススメ』さくら社


教師が理想を追い求めすぎるので、過剰な親切になるのである。

本当の親切な教育とはどういうことかについて書いたものである。


理想の学級は理想的といえるか。

多分、その答えは常に「ノー」である。

2022年10月22日土曜日

やれないからこそ、やってみる

 特別活動関係の学習会に出ると、学級会をやっていない学級が多いという話になる。

特別活動を勉強しようという人でもやっていないことが結構ある。


理由は色々である。

「時間がない」

「やり方がわからない」

「自分の学級ではできそうにない」

等々。


「時間がない」という場合、実は「やりたくない」というのが隠れた本音である。

この場合もやはり「できそうにない」からである。


同様に「○年生だからできない」「難しい子がいるからできない」もよくある。

1年生にそんな難しいことは無理という話である。

あるいは、これこれこういう子どもがいるから無理という話である。


人は、深層心理の無意識下で、理由をこじつける。

時間がないというために、他のやるべきことを利用する。

実行できないというために、その理由を探す。

そこには一面の正当性があるため、自分自身で納得しやすい。


結論、どんなことでも、まずはやってみないとできるようにはならない。

さらに、初めての状態からしばらくは、上手くできるはずがない。

あらゆることにおける、前提条件である。


学級会のような話合いは、やらないとできるようにならない。

クラス会議をするなら、手法を学ぶ必要もある。

しかしどんなに学んでいようが、初期の頃に話合いが成立しないという点では、スタート位置は同じである。


クラス会議を初めてやるための、導入の活動もある。

過去に書いた、一年生の最初の導入のための活動を紹介した記事もある。

参考:みんなの教育技術 「一年生一学期のクラス会議初期指導のコツ」



一年生の最初でうまくいかない、できないのは誰しも「当たり前」だという。

だから「やらない」となるが、これが勿体ない。

やればできるようになる。


話合いをやってきていなければ、六年生でもできない。

先にも述べたように、学級会をやっていない学級がかなりある。

つまり、これまでほぼ全くやっていない状態で育っている可能性が高い。

だからこそ、今目の前にいる子どもたちから、始めるのである。


話合いが自分たちだけでできるようになるには、段階がある。


まずは、やり方を知る段階。

こちらが手取り足取りして、基本的なルールや流れを教える。

議題もゲーム的な「結論がどうでもいい」ものでスタートする。


次は、こちらが司会でいいので、やってみる段階。

発言の順番が回ってきても「パス」や無言が続く。

「パス」を含め、意見表明したこと自体を認めながら進めていく。

ここでは、ほとんど何も決まらないがよしとする。


次に、司会を任せ始める段階。

司会もドキドキなので、助けてあげながら進めていく。

発言は「同じです」がよくが出るようになるので、他の人と同じでも自分で言うよう促していく。

この辺りで、合意形成へもっていくための意見の収束の仕方を教える。

「単純な多数決は少数派の意見を切り捨ててしまう」という危険性も教えていく。


慣れてきて、司会も黒板の書記も任せていく段階。

ある程度まで自分たちで進行できる。

時々、ルール違反(他の人の発言中に口をはさむ、最初のアイデア出しの途中で発言を否定する)が出るので、ここは正す。

自分達で進行できたこと自体を認めていく。


いよいよ、自分達だけでほぼ運営できる段階。

話合いや決定が学校ルールやモラルから逸脱しない限り、基本的に黙って見守る。


この自分達だけの段階へ、低学年であれば秋の終わり、高学年であれば夏休みぐらいまでと目安を決めて進めていく。

そのためには、できない状態からでもまず始めることである。


授業中における話合い活動も大切である。

普段の授業で聞いてるだけなのに、会議の時だけ全体の場で意見を言えるようになるというのは現実的でない。

ペアトークや班でのグループトークなどを頻繁に取り入れ、小規模の話合い活動に慣れるようにする。


何事も、やってみることと、慣れである。

最初から上手くできることはない。

また、始めるのに最適なタイミングは、いつでも今である。


なぜこういうことを書いたかというと、これが教師の仕事がしんどいことと、無関係でないからである。

無関係でないどころか、根本的原因と言ってもいい。


学校は、子どもが自分で生きていくための力をつける場である。

子ども自身でやればできることは、子ども自身がやって力をつけるに限る。

それを教える立場の人間が代わりにやってしまっては、子どもの学ぶ機会、成長の機会を奪う。


しかも、やる方は大変である。

35人が一つずつやるのと、一人の人間が35人分の作業をやるのを比較すれば、明確である。

学校におけるあらゆる学習活動は、子ども自身がやることである。

教える立場の人間は、子ども自身ではできない、気付けない、知り得ないことを示すまでである。


だから、低学年から高学年にかけて、親や教師に「○○して欲しい」の需要がなくなっていくのが自然な姿である。

一方で「自分(たち)で○○したい」が増えていくのが望ましい成長の姿である。


やってあげるのではなく、まず、やってみること、挑戦を促す。

子どもたちの成長に必要なのは、手取り足取り寄り添うのではなく、一見不親切な教育である。

2022年10月15日土曜日

『教室マルトリートメント』を防ぐ

 次の本を紹介する。


『教室マルトリートメント』

川上 康則 著 東洋館出版社


「マルトリートメント」とは、直訳すると「悪い扱い」。

避けるべき子育て、不適切な養育などと訳される。

虐待とまではいかなくとも、それに類するものまでが包括された言葉である。


そこに「教室」という言葉がついており、これは著者の川上先生の造語である。

教室での「行き過ぎた指導」から、

「これまで当たり前にされてきたがあらためて考えると子どもの心を傷つける要素をもつ指導」

までを指す。


いわゆる「問題のある教師」向けの本ではない。

「自分はぼちぼち普通にやれている」という人から「自分は熱意がある方だ」と思う人まで、すべての教師向けの本である。

教室で当たり前にされてきた異常に気付くための本である。

読めば身につまされること必至である。


この本のオンラインイベントで赤坂真二先生との対談があり、そこで

「この本から逃れられる教師はいない」

というようなことを述べられていたが、その通りである。

無自覚に行っていたあらゆる不適切な行為に対し、向き合うべき課題と対策・方法が明確に示されている。


教師は「熱心な無理解者(児童精神科医の佐々木正美氏の造語)」にだけはなってはならないという。

何に熱心なのかというと、「直す・変える・正す」という行為である。

他人の不得意を「直す・変える・正す」など、その分野のプロ中のプロでも難しい。


教師が子どもの不得意分野においてここを熱心に目指せば、何が起きるか。

子どもの心理的な悪化が目に見えている。

場合によっては、身体的な虐待にもつながりうる。

「熱心」であればあるほど、その被害は果てしなく大きい。


以下は私見。

この本を読むと、教師という仕事がいかにストレスフルなのかが自覚できる。

あらゆる方向からのプレッシャーにさらされ続ける。

「きちんとやれ」「上手くやれ」「愛情をもて」「ミスはするな」

これらすべてを「きちんと」やっていたら、壊れる。


無理を求められていることに気付くのが先決である。

今の教育現場は、そもそもがいわゆる「無理ゲー」状態なのである。

ゲームから降りないとしたら、クリアを目的としない方向の選択をする必要がある。

我々の「熱心さ」は、死なないための必死さから来ているのかもしれないと気付く必要がある。


この本は、そんな教師への救いの書である。

この本を読むと、まず自分がダメな気がする。

しかしよくよく読み進めると。自分だけではなく、全員で間違えていることがわかる。

どんなことでも、間違えに気付くことは問題解決の大きな一歩である。


学校教育に携わるすべての人に本書を強くおすすめする。

2022年10月10日月曜日

背の順に並ぶ必然性を問う

 背の順の記事への関心が高い。

なぜこの苦しみに気づけないのか…「背の順の整列は差別」に猛反論する人が完全に見落としている事実


とにかく「いつでも子どもを並ばせる」が前提になっていないか。

学校で、規則的に並ばないといけない場面とは、実際にいつなのか。


これは、二つしかない。


一つは、身体計測等の保健関係調査の時である。

記録をその場で入力する関係上、名簿順でないと非効率で不都合である。


もう一つは、名簿順に呼名や人員確認をする場面である。

呼名は入学式と卒業式、あとは緊急避難訓練時である。


原則、これら二つ以外の場面では、規則的な整列は必要ない。

他に並ぶ場面があったとしても、ホームで電車を待つ時と同じで、来た人から順に並べば問題ない。

「前が見えない」論に執着している意見もあるが、それは提起した問題の本質から完全に外れている。


「序列と差別」という本質的問題から「整列の仕方」に論点がずれている傾向が見受けられるので、付け加えておく。

2022年10月8日土曜日

工夫してのんびりしよう

今号は「のんびり」がテーマ。

のんびり、長文である。

思い出話から。


私の初任校は、千葉県の丸山町立丸小学校というところであった。

この学校は数年前、学校の統廃合により廃校になった。


山の中にある、実に牧歌的でのどかな学校だった。

私の赴任した当時、全校児童数は98名。

私はその内の11名、5年生を担任した。

田舎らしく、自由でやんちゃで元気いっぱい、明るい子が多かった。

休み時間は、全学年の児童が男女問わず一緒にサッカーや鬼ごっこをやることもあるという、オープンな関係だった。


学校の裏側は山で、そこに「石堂寺」という由緒正しいお寺がある。

お寺の敷地内には、野鳥観察ができる小屋も設置されている。

辺りは田園地帯で、近くには川も流れていた。


学校と地域との関係も良好で、夏祭りなどの様々なイベントがあった。

近くの高齢者施設の祭りに駆り出され、そこで焼きそばを作ったこともあった。

当時「勤務時間」どうこうなどという杓子定規なことは全く考えなかった。

(そもそも、毎日授業準備のために一人で夜遅くまで残っていた。

若く、時間とエネルギーが溢れるほどあったのである。)


幼稚園も併設されていて、プールは幼稚園の敷地内にあった。

空き時間に幼稚園へ行くこともあった。

時々行くと、園児たちが身体をよじ登ってきた。


幼稚園のクリスマス会には、園長兼校長が、サンタ役で行くこともあった。

バリバリ東北弁のサンタさんだった。

園児からの

「サンタさんはどこからきたの?」

の問いかけにリアルに答えようとしたため、幼稚園の先生たちに

「はーい、サンタさんはこれから次のご用事があるので帰りまーす!」

と強制退出させられていた。

実直で明るくオープン、とても人柄のよい校長先生だった。

(サンタさんは、同じく寒いフィンランド地方から来るのである。惜しい。)


保護者との関係も、とても近かった。

保護者との飲み会は町に数件ある飲み屋で開催され、それも親切なご家庭による自宅への送迎付きである。

家庭訪問をすれば家に上がらせていただき、お土産をもたされることもしばしばである。


ある日、生きた鮑(あわび)を土産にもらった先生がいて、それを「持っていきな」と私にくれた。

車のダッシュボードの上でうにょうにょと動くので、どうしようかと思った。

(これは友人宅へ持っていって酒の肴にした。)


こう書くと全てが楽しかったように思うが、今と違い、実は毎朝仕事に行くのがかなり辛かった。

その理由は、授業が下手すぎたからである。

もう、自分でもダメだとわかりきっている授業を、我慢している子どもたちに日々受けさせるのは、本当にしんどかった。

私が教育技術の獲得にのめり込んだ一番の理由である。

だからこそ、夜中の10時まで学校にいるような日があったのである。


さて、こんな思い出話を書いた理由だが、今、どこも学校現場が、やたらと忙しすぎるからである。

昔から、先生たちは結構忙しかったのである。

教材研究にも熱心で、家庭や地域との繋がりによる活動も多かったし、土日の活動も正直多かった。


しかし、今のように「やらねばならないこと」「やってはいけないこと」が大量にあった訳ではない。

あらゆるルールも緩く、裁量権が与えられていた。


今は、見ての通りで「生き馬の目を抜く」というような怒涛のサバイバル状態である。

管理社会という呼び名が相応しい状態である。


大人も子どもも、やるべきことが多すぎるのである。

そして、正直、本質的には要らないことだらけである。(チェック系、管理系の仕事が特に増えた。)

担任なのに子どもと遊ぶ時間すら確保できないとなれば、異常事態である。

他にも授業のための教材研究や、地域社会や家庭とのつながりなど、もっと価値のあることがたくさんある。


一つのことに、腰を据えてじっくり取り組む。

こういう時間が、どんどん減ってきているのではないかと感じる。

時間的余裕がない。

それは、単純に量的にやるべきことが多すぎるからである。

物事に常に追われている状況である。


そんな中のある年、休み時間に、低学年の子どもたちに誘われてテラスに出た。

テラスに出て何をするのかと思ったら、日陰に座らされ、ただぼーっとしていた。

ぼーっとグラウンドを眺めていると、風が感じられ、心地よかった。

その子も、グラウンドを眺めながら、私にぽつりと言った。

「先生も、ぼーっとした方がいいよ。」


当時、日々「どうすればもっと良くなるか、効率よくできるか」と考え、文字通り「奮闘」していた時だった。

ああ、最近、ぼーっとしている時間、とれてなかったなぁと、しみじみ感じた出来事だった。

それ以来、できるだけ時々ぼーっとする時間をとるようにした。


子どもたちも、忙しいと気持ちがぎすぎすしてくる。

やらねば落ちこぼれると、必死になる。

どんどん、競争意識が強くなる。

「ぼーっとする」の、真逆の方向である。


大切なことに力を注ぐ。

後は、工夫してのんびりする。

(注:工夫してがんばる、ではない。)


教員志望の数を増やしたいからこそ、我々が生き生きと楽しく働く姿を目指していきたい。

2022年10月2日日曜日

先回りは問題を拵える

トラブルを予防することは必要である。

ある程度は予防しないと、発生数が多すぎるからである。

逆に、安定している状態の時は、敢えて予防しないという選択肢をとることもある。


予防はいいのだが、先回りはいけない。


何が違うのかというと、予防は、明らかに起きることに対し、事前に手立てを打っておくことを指す。

彫刻刀を例にすると、「左手は絶対に刃物より後ろ」という大原則の指導をせずに使わせれば、大怪我につながる可能性が高い。

これは予防しておくべきことである。


一方で先回りとは、勝手な想像(妄想)をして、それを問題に拵えてしまうことである。

人間関係でよくありがちなので例を出す。

「あの人は私を嫌っている」と勝手に捉えて、その人に近づかない、冷たい態度をとるといったことである。

学校の例だと「このままだと非行に走る」と考えて、あらゆる細かいことを規制するといったことである。


予防は、愛情ベースである。

相手の幸せを思い、行う。

風邪をひかないように、お腹を暖かくして寝なさいといったことである。

先の彫刻刀の例も、楽しく創作活動を続けられることを願ってのことである。


先回りは、恐怖ベースである。

恐怖による悪い想像を回避するために行う。

(あり得ないほど最悪の事態を想定するのは、生存本能の得意分野である。)

一見、相手の幸せを願っているように思うが、個人的に勝手な想像をしているところが全く違う。


教育においては、先回りをしないことである。

子どもの将来の夢を聞いて「そんなことは現実的でない」「社会で通用しない」とアドバイスすることなどは、この代表格である。

頭の中で「就職できない」→「生活できない」→「生活破綻者」という妄想が暴走している状態である。

起きるかどうか全くわからないような問題を、勝手に拵えているのである。


ただし、何でも楽観的に捉えて信じればいいという単純なものではない。

ことICTについては、予防が必要である。

なぜなら、事実としてSNSやインターネットを介しての青少年トラブルが多発しているからである。

(教育委員会への子どもの相談の最も多いものがLINE等を介したSNSトラブルだそうである。)


明かに危険と分かり切っていることに事前の手を打たないのは、子どもの自由の名を借りた怠惰・放任である。

それは例えるなら、知識も装備もなく、初の山登りをさせるようなものである。

刃物やICT、あるいは車の運転のように、便利で強力なものほど、同時に危険度も高いのである。


予防をする。

先回りはしない。

自治的な学級経営を目指す上においての、基本的な心構えの一つである。

2022年9月25日日曜日

ドッジボールを「みんな」でやるべきか

プレジデントオンラインにて、次の記事が話題を呼んでいる。

『必死に逃げ回る人間を的にするドッジボールは「人間狩猟ゲーム=弱肉強食思想」の教育だと断言できる理由』

 https://president.jp/articles/-/61131



タイトルが派手なので誤解されるが、ドッジボールそのものに反対しているのではない。

ドッジボールを「みんな」でやろうとすることに反対しているのである。

「みんな教」への反対表明である。

今、学校現場ではかつて常識だった「みなさんご一緒に」「揃えて」に、明らかな無理が生じている。

これは『不親切教師のススメ』の本文全体を貫く考え方である。


ここについて、ネットテレビでの放送と出演が決まった。

ABEMA TV にて、9月28日(水)22:00頃から30分程度の放映である。

https://abema.tv/channels/abema-news/slots/AhkmZtNmbVPrmu



生放送だが、後追い視聴も可能(なはず)である。


放送中では、「ドッジボール禁止」が話題に出るようである。

私は「禁止派」と思われるかもしれないが、ここは明確に違う。

ドッジボールは競技スポーツの一つでもあり、禁止するようなものではない、という立場である。

血気盛んなやりたい者同士であれば、エネルギー発散として大いにやればよい。

(まあ、スポーツだから、好きだからといって、さすがに小学校の休み時間にボクシングは推奨しないが。)


あくまで「みんな教」への反対表明なのである。

「当たり前」に反する考え方を提示し、議論していくというのは、大切である。

どうせ出演するのなら、これを有意義な時間にしていきたい。


2022年9月24日土曜日

教員の働き方改革は、意識改革こそ本丸

 前号で、民主主義は面倒くさいが大切ということを書いた。


働き方改革にもこれは関連している。

働き方改革では定刻退勤や超過勤務の禁止など、労働条件についての言及が多い。

要は、働かされすぎている教員は、被害者という立場である。

そして、被害者という意識からは、主体的な問題解決は生まれない。


絶対王政の元でなら、これはわかる。

いわゆる、素直に飼われているだけの羊の状態である。

そこで飼われている無力な羊が酷使されているなら、これは問題である。


しかし、学校という職場は、絶対王政の場ではない。

本来、民主主義の場である。

中には、例えば教育長や校長が絶対的な権限を振るっているという場合も、ないとは言えないのかもしれない。

しかし、私が渡り歩いてきた職場において、そのようなひどい場面は一度も見たことがない。

必ず職員の意見を聞く機会が与えられ、声を上げられる場がある。


例えば、保護者からの要望にしても、これは言える。

確かに、無理な要求、理不尽な要求をしてくる人もいるにはいる。

しかし、それについて、特に意見せずに受け入れてきた側の問題や責任はないのか、ということである。


今回のテーマは、こちら側が物分かりよく、従順に、大人しくなりすぎなのではないか、という問題提起である。


「でも、教育委員会が・・・」「公務員だし・・・」という声が上がるのも予想できる。

その通りである。

雇用された身として命令には従うのが基本であるし、実際に教員一人一人に与えられた裁量権は、多くはないのかもしれない。


しかしながら、理不尽な要求を無条件でのまなければいけないということはない。

また、全く声を上げられなかった訳でもない。

一人では弱くとも、団結すれば、相当に大きい力になる。

要は、こちら側の、立ち上がる気概の問題もあるのではないか、ということである。


おしなべて、教員というのは、断るのが下手な人が圧倒的に多いと感じる。

「教育公務員」という意識が強いせいか、公に道徳的であらねばならぬと、理不尽な要求でも「NO!」というのが苦手である。


これまでの業務整理全くなしのままどんどん降ってくる新しい仕事を素直に受け入れることを見てもわかる。

ICT&コロナ対応が一気にプラス業務になったにも関わらず、減らされた仕事は何一つないという学校も多くある。

時間外に会議があったり「お手すきの先生方」で対応してしまったりするのもこれである。

(基本的に学校は慢性的人手不足であるし、勤務時間外労働中にお手すきの人などいない。)


外部機関への会議の出席や、保護者対応等を見ても明らかである。

時間外の対応だろうが届け物だろうが、頼まれたことは何でもやってしまってきたのではないだろうか。


とにかく、やれと言われたら現状のマンパワー頼りでやってきた経緯がある。

そのための資源の供給は一切なく、「個人のがんばりと工夫(=無制限の時間提供)」で何とかこなしてきてしまったのである。


そんな中の勤務時間の適正化は、改革の第一歩であるが、それができても、まだ体裁が整ったという段階でしかない。

他者から与えられたものを受け取るだけでは、何も変わらない。

形だけではなく、働き方改革の本丸は、意識改革である。

本質は、働く者としての矜持の有無である。


要は、長年の自分たちの行動が招いた結果だという自覚をもたない限り、今後の根本的解決にはならない。

この国は、民主主義の国なのである。

憲法第12条には、次のようにある。


「この憲法が国民に保障する自由及び権利は、国民の不断の努力によって、これを保持しなければならない。」


国民主権なのだから、主権者は代表者に対しても、理不尽なことはないかを「不断の努力」で見守る義務がある。


責任を他に押し付けたくなるが、間違いなく我々のこれまでの行動が招いた結果である。

それがたとえ、自分の力の及ばない上からの理不尽な命令や要求があったとしても、である。


そんな空気を作ってしまった中で、新たな「被害者」を生んでしまったと考えるのが妥当である。

若い人にとって、今の教員の職場が恐ろしく見えるのは当然である。

適正な労働環境の職場を取り戻さない限り、多くの若者が教職の道を選んでくれることは望むべくもない。

(特に教育実習生を多数抱えるような学校においては、絶対にこのような面における不正があってはならない。)


民主主義は、面倒くさい。

面倒くさいからといって放置しておけば、もっと面倒なことになる。

教員の働き方改革は、教員の意識改革そのものである。

2022年9月17日土曜日

面倒な民主主義と学級経営

 民主主義というのは、原則面倒くさいものである。

王様が勝手に全部決めてくれるところを、全て自分たちで考えなくてはならない。


リーダーに立候補、選出するところから始まり、そのリーダーの仕事ぶりにもいちいちチェックが必要である。

ルールも細かく決めなくてはいけないが、王様が決める場合と違って、色々な人の意見を聞かないといけないので、なかなか決まらない。

しかも、リーダーの都合のいいようにされないよう、決めたものに対しても常に監視が必要である。

けんかをしても、王様がズバッと有罪無罪を決定してくれるわけではなく、いちいち裁判をしなくてはならない。


実に面倒な仕組みである。

面倒すぎて、法律の改正はおろか、代表を選ぶ投票すら面倒になっているのが、現代の日本である。


一人の王様の言うことを無思考で聞いている方がずっと楽である。

絶対王政である。

それは例えるならば、羊飼いに飼われている羊の状態である。


決まった時間に小屋から牧草地に出され、草を食む。

時間が来たら小屋に入れられる。

時が来たら毛を刈り取られたり搾乳されたりするが、命に関わることではなく、どうということはない。

実に平和である。


ただ、羊ではなく人間としてそれがいいかどうかは、考える余地がある。

また、良い羊飼いに飼われるかどうかということも約束はされない。

羊飼いの気分で突然殺されたり売られたりするリスクもある。

少なくとも、自分の意思では一切決められないのだから、何も考える必要はないということだけは間違いない。


生物の集団の中には、無駄なことや面倒な行動をとるものが一定数いる。

生物が本能的にもっている「安全・安心」の欲求すら脇に置いて、面倒な行動をしようとする。

初めて海から陸に上がろうとした生物など、その最たるものである。


人間の場合だと、わざわざ徒歩で高い山に登ろうとしたり、大海をヨットで横断しようとしたりする。

音楽や美術のような生命維持とは関係ないことに心血を注ぐ人がいる。

気が狂いそうな細かい作業を好んでする人もいるし、ものすごい危険な作業を好んで行う人もいる。


冒険心や探究心も本能に組み込まれているようである。

それが一定数の人間ではなく、実は本来全員にあることは、幼児を見れば容易にわかる。


学級経営にもこれはいえる。

子どもたちを、羊の群れように飼うこともできる。

一方で、対等な人間として付き合うこともできる。

相手をどう見ているかが全てである。


仕事全般にもいえる。

自分を羊の群れの一員として、仕方なく、あるいは無思考で従っているのか。

人間として働き、思考と工夫による選択をし続けているのか。

どんな人間が子どもの教育に関わっているのかは、何を言うかよりも決定的に大切である。


子どもたちは、学校に何のために来ているのか。

友だちと遊ぶのが楽しいなどというのは当然付随してくることであるが、学びの本質は何かである。

子どもも一人の人間として、学ぶ者としての矜持をもって欲しい。

教室で学ぶ主役として、面倒なことにも挑戦して欲しいと願う。

そのためには、それを教える側の大人も、面倒に挑戦する必要が出る。


しかし実際、大人も子どもも、面倒だから立場のある人に決めて欲しいと願う。

それ自体が間違いという訳ではないが、それは民主主義ではない。

自分たちの生きる場は、面倒でも自分たちで作る。


そのために必要なことの一つが、権限移譲である。

教室で教師の握りしめているあらゆる権限を、少しずつ手放していく。

ただし最初からすべて集団に手放すと、混乱を招く。

集団の育ちを見て、少しずつ手放していく。


学級の中の、何を教師が決めて、何を子どもが決めているか。

子ども自身の決定の割合が多ければ多いほど、民主的であるともいえる。

一方で、民主主義の成否は成員のレベルに左右されるため、やたらと権限委譲すればいいというものではない。

集団が育つためには、個の育ちも必要である。


朝の会、帰りの会。

授業中。

給食。

掃除。

休み時間。


どれぐらい、子ども自身が決定する時間をとれるかが勝負である。

同時に、どれぐらい教師自身が自分の仕事について決定しているかである。


面倒な民主主義だが、面倒で大変なことにこそ価値があるということを伝えていきたい。

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2022年9月11日日曜日

学級づくりのリスタート

 夏休みが終わり、リスタートである。

また今年度が本格的に始まったともいえる。


学級経営において、最初の1カ月は、お試し期間である。

最初の1カ月は、試行錯誤をする時間である。

これまでの経験則に基づいて、色々試してみる期間である。

また、様々なことに対し、どういう反応が返ってくるのか、様子を見る時間でもある。

そうして、1学期様子を見てきたのである。


そうすると、見えてくるものがある。

理科でいうところの

問題発見→予想→実験→結果→考察

の流れである。


今回の場合、何がよくて何がよくないのか、事例から見えてくる。


上手くはまったところは続ければいい。

上手くいかないところにこそ、成長のチャンスがある。

今年度の子どもたちがこちらに教えてくれるポイントである。

「今回はここが課題だよ」というメッセージである。


ここを過去に上手くいったことがあるからといって、無理矢理続けると大失敗になる。

大失敗は避けたい。

はっきりダメだと示されたのだから、そこは方向転換(戦略の変更)である。


今は上手くはまっていないが続けるという選択肢もある。

克服できる要因がはっきりしている場合で、かつこれから成功しそうな見通しをもてる要素がある場合である。


相手によってやり方を変える。

その時々に必要な手(戦法)を次々と打つ。

時に大胆な方針(戦略)の変更も必要であり、それをするのが今のタイミングである。


学級経営の理論には意味がある。

ある程度の妥当性がある。

一方で、必ずあらゆる場面や全員に当てはまるものではない。

人気のあるものを好きな人が多くいる一方で、それを嫌いな人もいるのが当たり前である。


その「正解」を示してくれるのは、目の前にいる子ども自身しかいない。

しかも、集団として見るだけでなく、個としても見る必要がある。

「鷹の目」(マクロ)と「虫の目」(ミクロ)の両方で見る必要がある。


目の前の子どもがたくさんだしてくれた「事例」「事実」を元に、今後の方針を決め、リスタートしていきたい。

2022年9月4日日曜日

寛容であるほど不寛容になる矛盾

学級における多様性を受け入れることと生じる矛盾について。


以前にも紹介した次の本から。

『21 Lessons 21世紀の人類のための21の思考』ユヴァル・ノア・ハラリ著 河出文庫


この本の9章「移民」の中に、次の文がある。


====================

(引用開始)

ヨーロッパは寛容性を大切にするからこそ、不寛容な人があまりに多く入ってくるのを許すわけにはいかない。

(引用終了)

====================


目下戦争中のヨーロッパ地域において、移民にどう対応するかは切実な問題である。

戦地から逃げてきた隣国の移民ならまだしも、その移民が更に隣へ、隣へと移ってくるのに対し、各国がどう対応するかである。

または戦争等とは無関係な場合、移民を受け入れるかどうかである。


ここで問題となるのは、先に引用した文中にある「寛容」度である。

多様性に対し寛容であるということは、多様性を認めない人に対し不寛容であるということになる。

寛容度が高いほど、それを認めない相手を強く排除して不寛容になるという事態になる。


これは、正義と悪の対立構造に似ている。

強い正義の味方は強い悪の敵を生む。


学級経営においてもこれは言える。

先ほど引用した文章の「ヨーロッパ」という大きな集団を「クラス」という小集団に当てはめると、次のようになる。


「クラスは寛容性を大切にするからこそ、不寛容な人があまりに多く入ってくるのを許すわけにはいかない。」


つまりは、担任が強く求める信念があると、それに反するものを受け入れにくくなる。

不寛容な人というのは、例えばクラスにおいていじめをする子ども、排他的な考えの子どもということになる。


例えば「いじめは許さない」という信念自体は一見悪くない。

しかしながら、実際にいじめをしてしまう子どもに対し、許さないという選択肢をとることは難しい。

本当に許さないとなると、それが新たな排除行為、いじめとなってしまう矛盾が生まれる。


例えば「みんな仲良し」を正義とすると、そこに馴染まない子どもは正義に反することになる。

「一人でいい」という子どもや「特定の人と仲良くしたい」は悪になる。

これを認めないこと自体、既に「みんな仲良し」に反する矛盾を生じている。


即ち、ある価値を「善」あるいは「正義」と規定してしまうと、矛盾が生じる。

例えば「自由な学級」は一見いいようだが、「やりたくないことはやらなくていい」ということを同時に認める必要が生じる。

これは困る。

権利と義務はセットになっていないと、機能不全を起こす。


つまりは、バランスである。

どんな状況においても確実な正義というのは存在しない。

自由な方がいいこともあれば、決まっていた方がいいこともある。

時と場合と状況によりけりである。


また、誤解を生みそうなのを承知で敢えて言えば、ある事柄に寛容な人と不寛容な人が混ざっていていい。

それが学びを生む。


不親切教師のススメ』では、「みんなでドッジボール」はやめようと書いているが、ドッジボールそのものを遊びから排除せよと言っている訳ではない。

やりたくない人まで無理に巻き込んでやらなくていいではないかという主張である。

これは、学習全般に関しても同じである。


ただ、その学びを成立させるためには、互いが傷つけ合わないようなルールの設定は必要である。

そこは学級担任の役目である。


話をすることと、相手の話を聞くこと。

特定の正義を押し付け突き通しすぎないこと。

価値観を擦り合わせること。


そういった試行錯誤の中で学級は成り立つといえる。

2022年8月27日土曜日

成功は失敗のもと

 学級経営において最も気を付けるべきこと、失敗しやすいことについて。


失敗は成功のもとである。

これは間違いない。


一方で、成功も失敗のもとである。

これも間違いない真理である。


成功が次の成功を生む、という場合、状況に応じてアップデートしている。

成功体験をそのまま再現しようとすると、かなりの高確率で失敗する。


学級経営においてはこれが顕著に見られる。

昨年度うまくいった、という感触があると、次の年に高確率で失敗する。

あるいは、失敗していることに気付かず一年間突っ走ってしまうこともある。

(これは子どもが勢いに押さえつけられていて、問題が表面化していない場合で、担任を離れた次年度に問題が噴出する。)


なぜなのか。


当たり前だが、相手をしている集団が違うからである。

そして、時代がすごい速度で移り変わっていくからである。

さらに、成功による驕りが生まれ、目を曇らせるからである。


十年前の六年生集団と今の六年生集団が同じはずはない。

ごく小さなことで言えば、たとえば今はタブレット操作が常識になっているのである。

家庭での小学生のスマホ所持率も、十年前とは桁違いである。


同じ「一年生」だろうが「六年生」だろうが、呼称が同じなだけで、毎年全く違う集団である。

例えば高学年担任を経験している方が慣れているから次も高学年で有利だろうと思うかもしれないが、必ずしもそうともいえない。

以前の成功体験が、足を引っ張るからである。

以前と全く異なる集団であるのに、つい同じであるかのように対応してしまうのである。

これが失敗した経験であれば決して同じようにはしないのだが、成功したと感じていると、この過ちを犯す。


まして学校を異動した年であれば、尚更である。

家庭環境も学校の常識も、全く異なる。

同じ性質のはずがない。

心して新たな目で見て学ぶ姿勢がないと、とんでもないことになる。


今、うまくいかない、と感じている内は、恐らく感覚が正常である。

うまくいかないと感じているならば、自分のやり方を変えることができる。

相手が悪いのだと考えれば、そこから先は転落の道しかない。


うまくいかないならば、やり方を変える。

過去の成功体験は、捨てる。

ごく当たり前のことだが、学級経営における要点である。

2022年8月24日水曜日

学級目標を作る意義

 前号に続き、学級開きに始まるスタートに必要な諸々の手立てについて。

今号は、学級目標作りの意義について書く。


学級目標は必要か。

これは、場合によるが、基本的にないよりある方がよいという類のものである。

自分自身を振り返ると、作った年と作らなかった年があるが、特になくても問題ないという時もある。


ただ、高学年担任をした際に作らなかったことはない。

高学年の学級に際しては、必須とまではいわないが、かなり有用性の高いものである。


なぜか。


端的に言うと、子どもの自我が確立してくるためである。

「自分は他人と違う」という感覚が強くなる。

そうなると、危険を感じ、周囲が仲間だと思えなくなる。

幼児が砂場で初めて出会った子とすぐお友達になれるのと対照的である。


そうなると、偶然の群れである学級に、意思疎通のための共通言語が必要になる。

チームとして共有できる目標を設定する必要が出てくる。

全体がどちらに向かって動いていこうとしているのかがわかれば、協力もしやすい。


では、具体的にどう作るかだが、過去の記事に何度も紹介しているので、そちらを参照していただきたい。

ブログ「教師の寺子屋」過去記事(これ以外にもブログ上部の検索ボックスに「学級目標」と入れるとたくさん出る)

2015年5月11日 「最高のチームを育てる学級目標」

https://hide-m-hyde.blogspot.com/2015/05/blog-post_11.html

2016年7月7日 「がたがたの土台を想定して学級目標をつくる」

https://hide-m-hyde.blogspot.com/2016/07/blog-post_7.html


この記事にも書いているが、学級目標作りと同時に願いの共有とデトックスができるのである。

これにより、学級における最高の理想の姿と最低限度ラインの上下両方を設定する。

やって欲しいこととやられたくないことを、全員で言語的に共有できるのである。


このメリットはかなり大きい。

学級目標の完成そのもの以上に、作る過程においての効果が大きいのである。


新しい学級ではとにかく毒出しが必要である。

学級目標に限らず、個人面談でも何でもいいが、不満を吐き出せる場を設ける。

呼吸でも何でもそうだが、入れるより出す方が先というのが物事の原則である。


学級目標はただのお飾りではなく、学級経営の強力なツールとして活用していきたい。

2022年8月21日日曜日

学級開きから思いを伝える

4月にメルマガ上で書いた記事。

夏休み明けからの「二度目の学級開き」にも参考になるかと思い、掲載する。


4月に異動した先で、校内研修として学級開きについて担当させてもらった。

特に何も知らない教員一年目などは、何をしていいかわからないものである。

具体例や最低限のことを知っておいて損はない。

(私もやって欲しかった。)


あらゆる仕事において、知識を得て技能を身に付けることは必須である。

まず最低限度の知識と技能がないと仕事にならない。

自分が普段生活でお世話になる人を考えてみればわかる。

例えば「やる気はあるけど知識と技能は全くない医師」に手術をしてもらいたい人などいない。


しかしながら、思いややる気というのは、見えないエネルギーである。

エネルギーである以上、相手に伝わる。

学級開きからその後において、最も大切なことはこの思いのエネルギーである。

そもそも準備をしようという時点から、思いのエネルギーが溢れている証拠である。


子どもたちは、見抜く天才である。

この大人がどういう思いで自分たちに対しているのかを、じっくり観察し、直感で見抜く。

上手く取り繕ろおうとしても見抜かれる。

上手く操作しようという功利的な思いも見抜かれる。

愛想笑いや表面的な褒め言葉なども、全て見抜かれる。

思いのエネルギーがどうしても伝わるからである。


だから、本気で対する以外にない。

「見抜く技術」は伝えられるが、「見抜かれない技術」を伝えるのは難しい。

特に相手が子どもの場合には無理である。


若い人の学級が荒れるという話を時々きくが、その学級の子どもに尋ねてみると以外と満足していることもある。

知識不足でやり方が下手でも、そこに強い思いがあるからではないかと思う。


一方で、ベテランの安定しているように見える学級の子どもが、裏で大きな不満を抱いていることもある。

勢いのある教師のもつ学級の子どもが、結果を出しているようで実は疲れ果てていることもある。

やり方が上手いから問題が表面化していないだけで、思いがないか、方向が誤っているからである。


思いの方向性、エネルギーの方向性というのは決定的に大切である。

例えば教師であれば子どもに対し「できるようにさせたい」と思うのは自然である。

しかしながらそれが「そう願う子どもの思いに応えたい」のか「自らの指導力を示したい」のかでエネルギーの方向性が全く違う。


そもそも、できるようになりたいと思っていない相手に教えることなど本来できないのである。

そうなりたいと思えるようなきっかけを与えるのが先で、それでもどうやってもそう思わない人を無理矢理向かせるのは誤りである。


思いの方向性というのが根本的に大切である。

さらに言うと、こちらが本気であっても、押し付けととられては迷惑がられるだけである。

一方、そもそも思いがないのでは話にならない。

(目的が知識と技能の伝達だけならそれでも構わないが。)

学級開きから全て、相手目線をもちつつ、自分の思いを表明し伝えていく。


前提として、出会わせて頂いた目の前の子どもを尊敬している必要がある。

上から目線は必ず伝わる。

逆に功利的に迎合するような姿勢も伝わる。


あんな子どもを尊敬なんてできないという意見もある。

しかしながら、そう思っている時点で、既に相手から教わる要素がかなりある。

悔しく辛いことだが、そう思う相手のもつ本質的な価値を見いだせないところにこそ、自分を成長させてくれる点がある。

かつて『やる気スイッチ押してみよう!』の第1章冒頭にも書いたが、「気になる子こそ、神様」である。

(参考:ここについては下記リンクの中の「立ち読み」で見られる。

https://www.meijitosho.co.jp/detail/4-18-164614-1


知識と技能は最低限の前提。

感化・影響を与えられる思いこそが本質。


新年度、せっかくの場を与えてもらったのであれば、そこに心を入れて大いに励みたいところである。

2022年8月16日火曜日

身体は一見「不親切」

 ちょうど4カ月前、アキレス腱を断裂し、手術及び入院をした。


半年以上前から、その兆候があった。

つまりは、去年の冬頃からである。

足首への違和感である。

最初は「ちょっと痛いかも」「筋肉痛かな」ぐらいであった。


そのまま特に気にせず、激しい運動もやっていた。

痛くて運動できない時期があっても、数日すれば、痛みが和らぐ時期がある。


すると「もう治ったかも」と勘違いする。

虫歯と同じである。

実は、内部でより悪化しているのだが、一時的に症状を感じなくなっているだけである。


途中でまた痛くなっても

「痛い気がしているだけ」

「またすぐ治る」

と思い込もうとする。


ある日、身体が限界に達したことを伝えてくる。

その部位がアキレス腱なら切れて歩けなくなる。

その部位が心臓や脳なら、その場で卒倒する場合もある。


身体の方は、きちんとシグナルを送り続けている。

「痛いよ」「このままだとまずいよ」とめげずに伝え続けてきてくれているのである。


身体の方には、罪も落ち度もない。

問題は、その再三の警告を無視した思考の方である。

ポジティブなのではなく、単に無思考、考え無しなのである。

これはいけない。


人間の身体というのは、本当によくできている。

何か異常があれば、それを「痛み」という不快なシグナルで脳に伝える。

なぜ不快なシグナルをわざわざ使うのかというと、人間は不快を避けることを優先して行うためである。

何より優先的に扱ってもらうため、痛みや苦しみとして伝える訳である。


しかも、理不尽にも耐える構造をしている。

どうしようもない食物を胃に放り込んでも何とか消化してエネルギーに変換する。

体に悪い煙を吸い続けても、過度のアルコールや糖分を摂取しても、何とか分解し、適応しようとする。

実に働き者で、健気である。


要は、身体の痛みというシグナルは、一見「不親切」なのである。

痛みという不快感を与えることで、「これは良くない状態」と認識させ、それを避ける行動を喚起し、よりよい状態に導く。

ここで痛みを我慢したり、逆に「親切」にも痛み止めで痛みを取り除いたりすると、より悪い状態になる。


我慢して痛みに耐えるということ一つをとっても、その内訳は様々である。

先に述べたように、身体の異常サインを無視して我慢するのは、身体にとってマイナスの我慢である。

逆に、きついが痛みを我慢してリハビリに専念するのは、身体にとってプラスの我慢である。


何が本物の親切かということである。

痛いのを忘れるために痛み止めを飲んだり、眠いのにカフェインドリンクを飲んでがんばったりすること。

逆に、痛いだろうけど敢えてリハビリをさせたり、過労に対し発熱や頭痛という形で強制的に休ませたりすること。


相手のため、身体のためを本当に思っているのは、どちらなのか。

答えは明白である。


常識から外れた提案をされると、拒絶が起きる。

提案する側も批判されたりいじめられたりするのは痛いし怖いから、勇気もいる。

しかしそれがリハビリになるのであれば、痛みが予想されようとも、我慢してやるべきである。


やりたいことをやるのではなく、やるべきことをやる。

勇気をもって、世の中に『不親切教師のススメ』をすすめていきたい。

2022年8月11日木曜日

「勉強しなさい」と言う権利はない

 知っている人もいるかもしれないが、私はほぼテレビ番組を見ない。

社会人になってからは月当りの視聴時間0ということも珍しくない。

オンデマンドで映画等を見ることはあるが、普通に民放等で流れている番組を見ることはほぼない。

なので「好きなテレビ番組は?タレントは?」という質問に閉口してしまう。


見ない主たる理由は、自分自身が「面白いと思えない」「見てて疲れる」からである。

これは「サッカーなんてつまらない」「マラソンなんてわざわざ疲れることをやる人は信じられない」という人の理由と同じである。

個人の価値観の違いであり、それそのものを否定するものではない。

マスメディアがこれだけ隆盛しているのだから、世の中に求められていることは間違いない。

どんなことであれ「蓼食う虫も好き好き」である。


それでも、スマホなどの媒体からニュースは目に入る。

専らネガティブなものが多いが、不祥事や失言、番組へのクレームなどは取り上げられることが多いようである。

先日も、番組中でお笑い芸人に不適切な行動があったということでニュースになっていた。


こういう風潮は、結構気になる。

何かというと、お笑い芸人がやっているようなバラエティ番組に、割と厳しめの道徳が求められているという点である。

無論、前号でも書いたように、お笑い番組には、後で見返してみて大きな過ちがあるネタもかなりある。


なぜならば、大衆がメディアに求める笑いというものは、日常を吹き飛ばすことによって生じるものだからである。

それはつまり「当たり前」を壊すものであり、時に不道徳であることも珍しくないからである。


時代の風刺画などを見てもそれはわかる。

基本的に「ふざけて」いるのである。

一般的にやってはダメなことをしたり言ったりするのを見ることで、溜飲が下がる思いがする性質のものである。

(それらは、落語や芸能などの愉しみ、ユーモアとは一線を画す。)


そこにクレームをつけるのは、なぜなのか。

「子どもに悪影響」とか「○○が可哀そうだ」とか色々ある。

要するに、親切心である。


しかし、「子どもに悪影響」な演出が、例えばお笑い芸人が進行を務めるバラエティ番組中に出ることは、予想通りなのではないか。

そもそも子どもに見せている時点で、そこは承諾済なのではないだろうか。

そして、大人の側はある程度以上、その笑いを求めているのではないだろうか。

(ネガティブなニュースが週刊誌他、世に溢れていることがその証である。)


テレビ番組のプロデューサーの感覚の鈍さがよく批判されるが、視聴者の側のその辺りの自分勝手な感覚も、どうにも気になるのである。

実際、視聴率を取るというのは「とにかく面白いと思われた方が勝つ」という弱肉強食の世界であり、キレイゴトでは済まされない。

メディアにネガティブで大衆的なものを多く求めている割に、同時に真逆の良質な道徳性を求めすぎな気がするのである。


要は「自分が不快」なだけならば、今後見なければいいだけの話。

自分が直接的に不利益を被っている立場なのであれば、相手に正すよう要望を出すのも当然である。


一方「誰かが迷惑する」「誰かが可哀そう」というのなら、余計なお世話である。

そんなもの、周りが騒ぎさえしなければ、その「誰か」である本人の課題である。

余計な親切心である。


学校にもこれは当てはまる。

「子どもが可哀そう」と思って、色々先回りして手出し口出しをして、その種を潰そうとする。

これが、親切教育である。


例えば「勉強しなさい」は、子どもの将来が悪くなっては可哀そうという、親切心からである。


不親切教師のススメ』P.86から引用する。


=================

(引用開始)

「勉強しなさい」というのは、親から子どもに対してよく出る言葉のようだが、教師がこれを発していることもある。

勉強ができないと将来困るだろうという親切心、もしくは教師としての責任感からである。


結論から言うと、不親切教師は、決して勉強しなさいとは言わない。

この言葉が、子どもの主体性を大きく損なうことを知っているからである。

「勉強しなさい」は明確な命令であり、「あなたのため」という親切心に満ちた名目における、善意による行動の支配である。

この支配が成功した暁には、親や教師たちははずっと子どもの勉強の面倒を見るはめになる。

子どもは支配されている以上、自分で決められなくなるからである。

大人の顔色をうかがうことが、行動の価値判断基準になる。

そして、勉強するかどうかということは、子どもの課題ではなく、周囲の大人の課題にすり替わる。

主体性をもった子どもとは真逆の方向に育つ。

(引用終了)

=================


勉強ができなくて困るのは、誰なのだろうか。

教師が困るのか、親が困るのか。

そんなはずはない。

勉強をすべきというのは、「こうなって欲しい」というこちら側の願望にすぎない。


他人の課題に対し、どうこう言う必要はない。

細かく口出しをするのは、信頼していない証拠である。


他人の行動に口出しし得るのは、自分が困る時である。

例えば「私の将来と名誉のためにあなたに勉強して欲しい」というのなら、まだわかる。

(わかるが、最低な理由だとも思う。)


そして、頼まれた側は「お断りします」という権利もある。

他人の権利を侵害しない範囲で、個々の自由は尊重されるのである。

自分の権利を行使するために、他人の行動に対しての強制はできないのである。


他人の課題に対しては、基本的に不親切でいいのである。

どうしても力になりたいのなら「困ったら相談に乗るから、声をかけて」という程度である。

相談するかしないかは、相手に決定権がある。

子どもに「自己決定」の機会を多く設けることが肝要である。


ついつい親切になりがちな人にこそ、『不親切教師のススメ』を是非読んでもらいたいと切に願う。

2022年8月9日火曜日

「正義」の「犠牲」にならない

 先日8月6日は広島の原爆忌、今日9日は長崎である。

毎年、世界からここでのスピーチが着目される。


ある「正義」の立場に立脚して考える。

すると「仕方なかった」となり、正当化になる。

国際社会での交渉の常套手段である。


何に「正義」を置くかで、物事の見え方は変わる。

戦争も、どちらの国に、どこに「正義」を置くかである。


「世界中の戦争を終わらせる」に「正義」を置くと、それを妨害するものは攻撃しても正しい行為となる。

「自分の国を守る」に「正義」を置くと、自国を守るための攻撃は正しい行為となる。


個人レベルに落とし込むと「家族を守るため」が第一義となることもある。

さらに個人にすると「自分の命を守るため」には手段を選ばなくなる。

以前にも紹介した「貧しいなら豊かな人間から盗んでもいい」という理論である。


要は、本当の意味の正義などというものは存在しない。

あるのは、他の犠牲を前提とした各々の「正義」である。

「セイギ」を繰り返すと「ギセイ」になるという関係である。

(これはある歌の歌詞にあった表現だが、言い得て妙である。)


学校教育にもこれは言える。

戦争中、国民教育としてセイギを教え唱え、国内外に多くの犠牲を生んだのである。

これは、日本に限らず、戦争に加担した全ての国も同じである。


これは、現代にも当てはまる。

学校においては、セイギがある。

例えば文科省や教育委員会から降りてきた命令はセイギである。

学校職員はこれに従うことが前提として働いているのだから、論理的に必然である。


さて、問題はその出処が、つまり上の機関において、何を「正義」としているかである。

そこから出るセイギが、末端の人間にとって、犠牲となっている可能性がある。


「○○調査における学力向上」

「教員の資質向上」

などがセイギとして掲げられていることが往々にしてある。

一見正しいが、あくまでこれもセイギである。


教員の資質向上ができたらいいということに反論はない。

しかしそれがどこから来たのかである。


学校現場は、問題が山積している。

そして、人手不足で大変である。

そこから

「問題教員がいるからだ」

「即戦力の教員が必要なのだ」

という発想になったと考えるのが妥当である。


しかし現場の大変さの根本は、一部の「問題教員」のせいでも新規採用者の資質の低さのせいでもない。

(この「問題教員」という言い方は好きではない。

「モンペ」と同じで、真っ当な主張や止むを得ない失敗をした人間に対しても、何か一括りにされる語感がある。)


現場を大変にしている根本は、ビルド&ビルドの発想による山積みのタスクである。

そして、それらセイギの命令に、いちいち無思考で従っているから、という見方もできる。


セイギの命令の中には、どうでもいいことがたくさんある。

「○○スタンダード」という名の命令が横行していることもある。

それらをおかしいと考えている人はかなりいる。


しかし、そこに対し、誰も声を挙げない。


それに従って「仕方のないことだ」と言う。

その時、目は濁る。

どんどん、濁っていき、やがてすべてが白黒にしか見えなくなる。


先日、ネットニュースで使われていた言葉だが「教員の奴隷化」である。

この姿は、金子光晴作の「奴隷根性の唄」という詩の通りである。

「土下座した根性は立ち上がれぬ。」のである。


ここを変える。

我々は、奴隷ではない。

志ある教員集団である。


おかしいことにはおかしいと言う。

何でも命令だからという理由では従えない。

そのためには、まず先に自分自身がおかしいことをしていないかという自己点検からである。


『不親切教師のススメ』では、そのことを訴えている。

自己主張をしているのではない。

教員も子どもも保護者も、まずは自己を尊重し、だからこそ他者を尊重して生きようという提言書である。


「正義」の「犠牲」にならない。

どんなに正当性を主張されようが、ダメなものはダメである。

自ら立ち上がり、声をあげる人が多くなれば、今とは何かが変わるはずである。

2022年8月3日水曜日

差別をするのは意地悪な人間か

 絶対的に正しいことも悪いことも存在しない。

この大前提の認識に立って書く。


主張とは、一つの正義である。

主張を一つすれば、正義が一つ生まれる。

即ち、悪が一つ生まれる。

物事は表裏一体であるので、それは必然である。


そして正義も悪も、人間が頭で作り出した概念である。

自然の創造物ではない。


他の生物を殺して食うライオンを悪とする動物も植物もいない。

草食獣は、腹を空かせた肉食獣が自分を食うと知っているから、逃げる。

そうでないものからは逃げない。


それは、悪とか善とかの概念の問題ではない。

生きるか死ぬかというだけの話である。

生物は、生きること、種を保存することに生命の全てを注ぎ、そのための選択をする。

それだけの話である。


あらゆる主張には、必ず正義(善)があり、同時に裏側に悪とみなされる概念が存在する。

一方、そこで「悪」とされている概念を「善」とみなす人もいる。

「善」からすれば先の正義は「悪」である。

「悪には悪の救世主が必要」とは、とある有名な漫画のキャラクターの台詞だが、言い得て妙である。


つまりは、絶対的な正義も悪も存在しない。

そこには一つの主張があるだけである。


前置きが長くなったが、次の本を書いた。


『不親切教師のススメ』 さくら社


ここで述べている主張は、もしかしたら今まで学校がしてきたことを大きく否定することになるかもしれない。

人間には「恒常性(ホメオスタシス)」があるため、変化を嫌う。

しかし、成長とは変化の中の一つである。

嫌でも、向き合う方が長期的視点で見て、プラスになる。


例えば、本文に背の順に関する記述がある。

P.119より一部抜粋して引用する。


================

(引用開始)

学校では、何かにつけて「背の順」で並ぶ。

このことに対し、違和感をもつ日本人は少ないのではないか。

小学校入学時どころか、幼稚園・保育園児の頃からあまりにも当たり前にやらされることなので、

自然にそういうものだと思わされる慣習の一つである。


冷静に考えて、背の順に並ばせるのは、身体的特徴による差別の誇示である。

背丈という本人にはどうしようもない身体的特徴を並べて比較し、小さい方から大きい方へと序列をつけて並べる。

一番小さい人と一番大きい人を確定して、誰の目にも明らかなように序列を公表する。

これが身体的特徴による差別であることは、大人が会社等でこれを強制されないというのを考えればわかる。

(体重順に並ばせるのも全く同じことである。)。

明確な差別であり、いじめの類の行為である。

(引用終了)

=================


はっきり主張しているが、書いた本人が背の順で並ばせたことがないのか。

答えは「NO」である。

これまで、当たり前としてやってきた。

つまり、これまでの自分を否定して、変化しようということである。


では、差別意識があったのか。

これも答えは「NO」である。

差別しようなんて意識が、あるわけがない。


背の順に対し、差別意識があって意地悪でやっている人など、恐らく日本中探してもまずいない。

むしろ善意であり、仕事の一環として真面目に行っているだけである。


しかし差別というのは、本人や社会にその意識がない時ほどよく行われているものであり、強力な凶器となる。

周りは何の気なしに言ったことや笑ったことに対し、本人は実は深く傷ついている、というのは誰しも経験があることではないか。

あるいは、無意識下に押し込み「そういうことを気にしたり考えたりする自分が異常で悪いのだ」と責めていることすらある。


意図していない差別というのは、これまでの歴史でもたくさんあり、反省と改善・進化を繰り返してきている。

子どもの権利条約が出されたこともそうだし、人種差別、ジェンダー差別などはまさにそれである。

例えば「ホモセクシュアルを笑う」というのは、かつてテレビメディアが先導して行い、多数の国民に喜んで受け入れられてきた。

今になって思えば、まさに負の歴史である。


実際、私も子ども時代、そういう経験がある。

テレビでもお笑いのネタになっていたこともあり、それを笑うのは当然だと思い込んでいた。

性的指向が男性という同級生は、からかいの対象であった。

私がそういうことを差別ではないかと意識しはじめたのは、高校に入って自分の頭でよく考えるようになってからである。

大学にいっても周囲から同じような差別的発言を聞いていたので、当時は社会的な意識自体がかなり低かったように思う。


では、その時笑っていた子ども時代の同級生や私たちは、意地の悪い凶悪な人間であったか。

これも答えは「NO」である。


では、なぜ子どもがそうなってしまったのか。

社会の常識、「当たり前」からである。

それは、根本的には、教育によって作られる。


学校で身の回りの「当たり前」になっていることの中には、恐ろしい差別が含まれていることがあるのではないだろうか。

それを見つめ直し、変えていく必要があるのではないだろうか。

今まで自分が当たり前としてやってきたことだけに、痛みも伴うだろうが、大切なのは、よりよい変化、成長であり、未来である。


これが、本書『不親切教師のススメ』で提案している、これからの教育の形の「主張」である。

主張である以上、一面の正義であり、悪も生まれる。

そして、この正義が悪という見方もあり得る。


様々な意見があることを覚悟の上で、本書を上梓した。

一つの主張として、考える材料にしていただければ幸いである。

2022年7月30日土曜日

学校の「これって必要?」を考える

今回のタイトルは、「学級づくり修養会HOPE」で話し合った今月のテーマ。


学校には、不要なものが多すぎる。

これは、自然なことである。


学校の業務を、机の引き出しの中の物に譬えて考える。

放っておけば、余計なものがどんどん増える。

配られたプリント類。

ちょっとしまっておいただけのはずの、ごみの類。

ある時期にはよく使っていたが、もうずっと使っていないものもある。

(高学年の子どもの机の中には、低学年の時からずっと使っていないクレヨンやカスタネットが入っていることが結構ある。)


何が必要か。

物の並びを整える「整頓」ではない。

そんなことをしても、物が空間に占める割合に変化はない。

必要なのは、物を捨てる「整理」の方である。


学校には、過去に降り積もった業務が多すぎるのである。

もうとっくに不要な昭和時代に使っていたものまで、堂々と居座って空間を占めている。

(これは、体育倉庫や教材室にある物などと同じである。)


必要なことは、業務を効率よくこなすことではない。

業務の必要性自体に疑いの目を向けて、見直して捨てていくことである。


「学級づくり修養会HOPE」では、ざっとあげても次のような業務が話題に出た。


○保護者等が関連するもの

・アンケートの類(しかも過剰サービスを助長する内容)

・保護者参加行事のリハーサルと過剰な保護者向け演出

・過剰な卒業式練習(式典の主役は誰?)

・通知表の所見

・持ち帰り忘れの物への対応や家庭への荷物届け


○ルールに関するもの

・「階段2段飛ばし禁止」や中学の「靴とソックスは白のみ」のような謎ルール

・何でも学年で「揃える」

 例:学級通信は学年全員出すor誰も出さないかのどちらか縛り

   掲示物

・髪型や服装への規制

・シャープペンシル禁止

・上履きは必ずバレーシューズ

・必ず体操服の裾をしまう(短い丈のものでも)

・水泳の○○禁止(ラッシュガード、ゴーグル、派手な?水着、日焼け止め)

・清掃時の赤白帽着用(毎日使用なので1週間洗わない子が多数で、夏場は特に不衛生)


○学習活動に関するもの

・宿題(家で泣きながらやっている子どもがいる)

・朝の歌

・大量のプリント学習


○時間外勤務やプラスアルファで行うもの

・登校指導

・朝練(陸上、運動会、合唱、その他部活動等)

・職員朝礼

・親睦会


○新しく降りてきたものや提出に関するもの

・キャリアパスポート

・ICT機器関連のチェックリスト

・コロナ感染関連のチェックリストと各種報告

・週案


○時代の流れに逆行しているものと思われるもの

・大量の紙の印刷物(職員会議や各種資料)

 &綴じ込み作業(職員全員で密集して作業。感染症対策って何?)

・プールと水泳指導(プールの水質維持と指導の安全面確保の困難。失敗すると体育主任が賠償責任の例も。)

・宿泊行事(アレルギー等の個人疾患や宗教等に対する各種個別対応の困難)

・土曜授業



今羅列したものは、全員が「不要」と言った訳ではない。

20人ほどの参加メンバー個々の意見である。

一つ一つについて話し合ってみると、多くに「それはあった方がいい」という逆サイドの意見が出る。

物事は必ず裏表の両面セットであり、個々の価値観が違うという前提を考えれば、当然である。


大切なのは、これらを議論の俎上に載せることである。

そうすると、自分とは全く異なる価値観の存在を学べて、視野が広がる。

道徳の授業と同じである。


7月22日に発刊となった『不親切教師のススメ』では、これら諸問題に対し、真向から意見を述べている。


例えば、先の「上履き」や「服装」等に関しては、次のように書いている。

本文の中の第27項「標準服」の合理的配慮(P.97~99)より一部抜粋して引用する。


========================

(引用開始)

先の体操服でもそうだが、この「標準」という発想は何かと応用が利く。

あくまで標準であって、これを本人が気に入れば使えばいいし、他の選択肢を選ぶ個人の自由もあり、

多様性を認める今の時代に大変合っているといえる。

また、全て完全に自由というのも、逆に不自由を感じるものである。

その点、「標準」が設定されているというのは、選ぶのが大変だと思っている人にとっては、とても助かる選択肢の一つとなる。


例えば、上履きもその一つである。

学校の上履きといえば、恐らく多くの人が共通のものを思い浮かべる。

あれは一般的には「バレーシューズ」という名称で販売されている種類の靴である。

学校指定の場合もあるが、昨今はこれもあくまで「標準」として設定し、他の選択肢をもたせている学校もある。


足の発達という観点からすると、靴底が薄くフラットなバレーシューズは、実はあまり優れた履物とは言えない。

ただ、安価であるという点と、蒸れにくいという点においての利点もある。

現在はベルトで調節ができるタイプのものや、靴底が足の形に沿ったアーチになっているものも出てきており、

子どもの足の発達への関心が高い保護者などはそのようなものを選びたいと思っている場合も多々ある。

やはりこれも標準を定めた上で個々に選択できる方が合理的だろう。


学校におけるあらゆる服装に「標準」を取り入れてみることで、逆にそれ以外の選択も取りやすくなる。

逆転の発想だが、多様性を認めていこうというこれからの時代において、有用な考え方である。

(引用終了 メルマガ用に一部改行)

==============================


ここに書いてあることは「標準(スタンダード)」の推奨である。

「標準」はあくまで「標準」であり、これに縛りつけるものではない。

迷子を防ぐという観点から基準点となるものを示しているだけで「標準」から外れても構わないのである。


HOPEでの話合いでも、ある事柄に対し

「市で統一して欲しい」

という意見と

「市で統一されているからきつい」

という真逆の意見が出た。


つまりは、市で基準を示してくれないと、最初の判断に困るという意見。

もう一方は、他と同じを求められても厳しいという学校の意見。

要は、実態の異なる学校に同じ一律の対応だから厳しいのであって、基準だけ示してくれればいい。

あとは、学校裁量である。


これが、本書の随所で示している「標準(スタンダード)」という提案である。

学校の業務の基本を「標準(スタンダード)」という発想で見直し、必要か不要かを選択できるようにしたい。

2022年7月24日日曜日

不親切教師のススメ

 「まず、根本、本質、原点を問う。」

師の野口芳宏先生の言である。


今ある常識にとらわれず、かつその常識が現存する妥当性を検討する。

自分の好みで何でもかんでも反対すればいいという単純なものではない。

時を経てなお残る風習・習慣というのには、何かしらの理由がある。

それを踏まえた上で、常識を問い、アップデートしようという姿勢が必要である。


そんな思いを込めて、新たに一冊の本を書いた。


『不親切教師のススメ』 さくら社刊


目次を羅列する。

ここを読むだけでも、教育観を磨くことにつながるはずである。


一、「楽しい授業」をやめる

──親切・丁寧・サービス満点をやめて、学力向上

1 サービス満点の「楽しい授業」を捨てる

2 やってる感で○つけをしない

3 不親切こそ学力を向上させる

4 寄り添い過ぎれば「つきまとい」

5 学習を我慢させない

6 「漢字が書けないと将来困る」のウソ

7 読めない漢字もばんばん板書

8 「○○ができない」で困るのは誰か

9 「できる」以外の目標を


二、習字の掲示をやめる

──教室環境をこねくりまわさない

10 教師が作る美しく整った教室掲示

11 同じ字を並べて掲示する意味は?

12 「私の選んだ字」で個の掲示

14 個人別クリアファイル掲示物

15 教室のモノの配置

16 教室に「子どもだけの空間」を


三、「してあげる」をしない

──担任がすべてを請け負わない

17 名前シール貼りの親切

18 「主体性をもたせる」?

19 「休み時間を削って授業」は権利侵害

20 あえて一緒に遊ばない

21 休み時間は「みんな」で「ドッジボール」

22 「一人ぼっち」の子ども

23 百点満点をほめるより

24 勉強しなさいと言う代わりに


四、「揃える」をやめる

──時代おくれの根性論排除

25 真夏も真冬も体操服は同じ

26 体操服指定縛り

27 「標準服」の合理的配慮

28 「揃えない」ことで自由になれる


五、「きちんと座りましょう」のナンセンス

──個性や発達の違いを理解する

29 「座りなさい」より「歩いてもいいんだよ」

30 「乱暴な子」と言われてしまう子ども

31 発言できなくても構わない

32 「喋らない子」はよく聞いてくれる子

33 「背の順」は身体的特徴による差別の誇示

34 髪型・服装指導問題 その1

35 髪型・服装指導問題 その2

36 左利き用文房具

37 給食は「完食」が目的じゃない

38 「苦手なもの」はあっていい


六、かわいい子には……

──「危ないからやらせない」が将来一番危ない

39 子どもの危険対処能力

40 学校は「安全第一」

41 鬼ごっこは「自己責任」

42 子ども同士のけんか

43 破る者がいる前提のルール


七、子どもの家庭を覗かない

──それこそ余計なお世話であると知る

44 家庭にも不親切教育をすすめよう

45 親切な教師は、毎日宿題を出す

46 宿題を出すのならば

47 「母の日」「父の日」はスルー

48 「早寝早起き朝ごはん」ができない家庭

49 感謝の手紙を「書かされる」違和感



目次を読んでみて、もし「ん?」と思う引っかかりがあったら、そこを読むべしというサインである。

引っかかりがあるということは、自分の中の常識を揺るがされているということに他ならない。

あるいは、立場上、本当はそうしたいのにできていないという現状があるはずである。


これまで、ずっと伝えねばと思ってきたことを書いた、入魂の作である。

教育の現状、ある程度の経験年数と場数、かつ自分の立場とのバランス等考慮し、世に出す最高のタイミングだったと思う。

(経験や立場が上になりすぎると、ある面で表現の自由が縛られる。)

公立校から少し離れていた立場の、あのタイミングでなければ、これほど赤裸々には書くのはためらったかもしれない。


言いたいことを言うのではなく、言うべきことを言う。

書きたいことを書くのではなく、書くべきことを書く。


書いていて時に身がすくむ思いもしたが、「書かずばやまじ」の思いで書き上げた。

是非とも手に取って読んでいただきたい、入魂の一作である。

2022年7月23日土曜日

字面に振り回されない学級づくり

子どもが主役のクラスづくり。

私も大賛成の方向である。


しかしながら、それが勝手に実現するならこんなに楽なことはない。

実際それは、教師が主体で全部引っ張っていく場合よりも、遥かに手間も指導技術もいる。

そして子どもが主役であっても、指揮者であるプロデューサーや監督がいなくては映画も舞台も成立しない。


近年、この手の方向の書籍はよく売れているようである。

多くの人にとって、子どもが主体的に動く学級の方がいいに決まっている。

誰だって、できればあれこれと手出し口出しをしたくないはずである。

個の多様性を求める時代のニーズに合っているのである。


ただし学級づくりには、段階がある。

書籍でもセミナーでも公開授業をした時などでも、何度も紹介している、次の「学級の成長段階」である。


第1段階 学級開き

第2段階 一斉指導

第3段階 ペア・グループ活動

第4段階 自治的活動


(引用元 

『スペシャリスト直伝! 学級を最高のチームにする極意』赤坂真二著 明治図書p.25


目指すは第4段階の「自治的活動」である。

この段階では、教師は活動する子どもの背後に隠れ、本当に必要な時以外には出てこない。

いわゆる「教師がいなくても大丈夫な学級」である。


学級開きから、ここを常に目指すというのが大切である。

楽しいことをするのも自己開示するのも、全てこの「自治的活動」という段階への目的達成のための手段である。

子どもが楽しんだからいい、仲良くなれたからいいというのとは、全く違う。


一方で、いきなり自治的活動の段階を求めるのも違う。

段階に合った方法や手段、道具というものがある。

鉄棒初心者にいきなりオリンピック選手のやる技に挑戦させようというようなものである。

全くできないか、無理してやれば大怪我である。


だから、最初の「学級開き」の段階では、とにかくこの場が安全だとわかるようにする。

安心をつくる。

縦糸(教師との信頼関係)の構築に努める。

ここに尽きる。


次は、「一斉指導」の段階である。

いきなり個々が好き勝手にやっていては、根本の安全と安心が脅かされる。

まずは基本的なことを一斉指導できき、できるようにするという段階を踏む。

全体として基本的な知識と技能を身に付ける段階である。


3番目にやっと「ペア・グループ活動」が中心となる段階である。

横糸(子ども同士の信頼関係)を強くしていく段階であり、これまで以上に思考力・判断力・表現力が求められる段階である。

「中心となる」というのは、この段階においても一斉指導はするし、安全・安心を築くための活動もするからである。

もちろん「学級開き」の段階でも、ペア・グループ活動を取り入れることはある。

まだ成熟していない段階であっても、イベントとして、自由に取り組むような自治的活動に挑戦することもある。

あくまで、各段階における中心的活動だということである。


第4段階にいけば、一斉指導の機会はぐっと減る。

イベントの企画や運営も自分たちで実行委員を立ち上げて実施する。

安全・安心を確保するための問題解決も基本的に自分たちで行う。

どうにもならない時には、やっと教師の出番である。


だから決して、教師は「本当にいなくていい」ということにはならない。

完全に離れるのではなく、「自分たちでできる!」を遠目に見守る段階である。

本当に完全に離れるのは、3月末の別れの時である。

敢えて望まずともその時は訪れる。

子育てにおける親子の関係と同じである。


「子どもが主役」「教師がいなくてもいい」というのは、そのような状態を指す。

字面ばかりを追うと、単なる放任の無責任と勘違いされる可能性があるが、そうではない。

子どもの自立を促すという強い責任感と高い指導力、うまくいかないことへの忍耐力をもって取り組む必要のある方針である。


字面で善し悪しを判断しない。

全ての教育手法や方針は、使い手次第である。

2022年7月16日土曜日

したいよりもされたくない優先

 前回、権利も恩恵に変えられる、という話を書いた。

これに関連して、権利についての考え方。


学級では、子どもに権利の在り方を教える必要がある。

権利の誤った主張が、様々なトラブルを引き起こすからである。


全ての人に自由に生きる権利があると憲法でも定められている。

法的に定めらている基本的人権である。

この「法的に定められている」というのが一つのポイントである。


生まれながらの権利とは言うが、実はそれを保障してくれる社会が前提になくては成り立たない。

つまり、当たり前のようで、実は「有難い」ことである。

社会によって規定されている以上、社会の規定したルールが作用する場の上でのみ、その権利は保障される。

(武力による占領下のような、社会が正常に機能しない異常事態においては無効となる。)


全ての人にこの権利が保障されている。

ここで矛盾が起きる。

したいという人の自由と、それをされたくないという人の自由のぶつかり合いである。


社会のわかりやすい例で言うと、恋愛関係や婚姻関係である。

あなたと付き合いたいという人がいて、あなたはその人と付き合いたくないとする。

変な言い方だが、受け身の形で書くと「私はあなたに付き合われたくない」という状態である。

どちらの権利が優先されるかは、明白である。

されたくないという拒否権の方が優先される。


つまり、自分の権利(したい)は他人の権利(されたくない)を侵害しない範囲において有効なのである。

「自分がしたい」よりも、「人がされたくない」が優先されるのが、社会である。

交通ルールなども基本設計はこれである。

スピードを出したい自分の身勝手な自由の権利よりも、スピードを出されたくない歩行者や他の車の安全の権利が優先される。


子どもに伝えるとしたら、違う例で伝える必要がある。

授業中に大声で騒ぎたいという子どもと、静かに授業を受けたいという子どもがいる。

どちらの権利が優先されるかと問いかける。


これはすぐにわかるが、静かに受けたい子どもの権利が優先である。

大声で騒ぐことは、周囲の他者への「攻撃行為」である。

音というのは聞きたくない人の耳にも入ってしまうため、無差別な暴力行為になり得る。

また、授業全体の進行を妨げる行為でもあるため、全体の利益を損なう行為ともいえる。


したいよりもされたくない優先。

これを理解するだけでも、学級で起きるトラブルのかなりの部分がカバーされるのではないかと思われる。

2022年7月9日土曜日

権利も恩恵に変えられる

「恩恵は権利に変わる」ということを常々伝えてきた。

参考:「教師の寺子屋」2016.12.20記事

https://hide-m-hyde.blogspot.com/2016/12/blog-post_20.html


思い返せば東日本大震災の折、あらゆる当たり前の有難さが身に染みた。

震災直後「白米と牛乳」という給食が出た時、そこには有難さしかなかった。

あの当時、おかずがどうこうなどという不平不満が出ようはずもないのである。

そしてあれ以来、食事ができるということの有難さを考えて、食事を味わうことが多くなった。


つまり、権利も恩恵に変えられる。

当たり前の権利だと思い込んでいたことも、振り返ることで恩恵であると捉え直すことができる。


そのきっかけは「不足」である。

不足を感じる状態にならない限り、当たり前だと思い込んでいるものの有難さにはなかなか気付けない。

どんな御馳走も満腹状態ではおいしく食べられないというのと同じである。

泳いでいる時のように、空気を自由に吸えない状況になって、初めて空気の存在や有難さがわかる。


一方で、恩恵としての有難さを感じるためにわざわざ不足の状態になる必要はない。

その真実さえ知っていれば、恩恵と感じられるということもある。

例えば世界の貧困地域の子どものクリスマスの願いが「学校に行けますように」だと知る。

そのことで、日本にいながら学校に行くことの意義を考えられる子どももいる。

(「も」いる、というのがポイントで、感じられない人には一切感じられない。)


低学年には、この「恩恵が権利」という言葉だとやや伝わりにくい。

そこで

「してもらっていることは当たり前になる。

 当たり前の反対は有難い。」

という言葉にして教えてきた。

当たり前とは即ち権利意識である。


今ロシアとウクライナが戦争状態にあるせいで、平和を有難い恩恵と捉えやすくなっている。

世界的に見たら全く平和ではないのだが、それは今までの日本を見ても同じことである。

ここ数日の大きな地震は、福島をはじめとする東北地方が未だ被災地であることを改めて思い出させる。


日常生活の小さな規模で見ても、この恩恵と権利、あるいは有難さと当たり前の捉え方が大切となる。

相手からの恩恵を当たり前と捉えられるようになると、恩恵を与える側は、馬鹿馬鹿しい気持ちになってしまう。

親が子どもを養育するのは当たり前かもしれないが、子どもがそれを言い出したらどうか。

お互いの捉え直しが大切である。


子どもが毎日学校で学べるのは当たり前か。

子どもが毎日学校に来て自分の教えを真剣に受けることは当たり前か。

学校で毎日働けることは当たり前か。


当たり前だと思っていることは、ないと腹が立つ。

一方で、有難いことだと思っていることには、感謝しかない。


どちらを選ぶのが幸せか。

あらゆる権利も恩恵も、捉え方次第である。

2022年7月2日土曜日

GIGAスクール構想がちょっと嫌になってしまった先生へ

 一人一台端末が当たり前になり、学校の当たり前も変わった。

「GIGAスクール構想」の目指す全ての子どもに開かれた学びの世界がある、はずであった。


一応確認だが「GIGA」は「Global and Innovation Gateway for All」

=全ての児童・生徒のための世界につながる革新的な扉

の頭文字である。

「1ギガバイト」とかの意味のギガではない。

(それとかけているのだと思っているが、そのネーミングについての公式見解なし。)


次世代への理想を掲げたGIGAスクール構想だが、正直上手く機能していないという声が多く聞こえる。

新しいもの導入は、インフラ整備だけでもかなり大変なのである。

スキルは後回しでモノからの導入となると、多くの人の間で混乱が生じる。

ただでさえ新しいものに恐怖を感じやすい学校現場において、ある種の「嫌悪感」が生じてしまっている様相である。

しかし、ICTに関して遅れまくっていた学校が大きく前進したのだから、本来はいいことのはずなのである。

GIGAスクール構想が、一人一台端末が、ちょっと嫌になってしまった先生が、前向きになるための処方箋はないか。


今月出た拙著は、ここに答える内容となっている。

『1人1台端末で起こるクラスのICTトラブルへの予防と対応』


この本は、一人一台端末が本格始動された2021年、この問題への解決を図るべく書いたものである。

実践については自身の勤務校の他、「学級づくり修養会HOPE」の協力を得た。


ICTを無策でそのまま使えば、問題が起きることはわかりきっている。

学級経営と同じなのである。

まず予想できる事態への予防に全力を尽くす。

その上で、トラブルには適切に対処する。

ICTの本を装って具体的な解決策を示しつつ、内実は学級経営の本である。


ネットマナーや個人情報についてどう教えるか。

学校としての端末使用ルールは、本当に適性と言えるか、トラブルが起きたら担任次第になっていないか。

その使用方法については、本当に子どもが悪いのか、実は与え方やルールが悪いのか。

そもそもネット環境が悪い&リテラシーが低い状況で、端末をまずはどう扱うべきか。

この辺りのことについて、全国各地での具体例を挙げて示している。


ここ数号、態度について書いてきたが、態度以前の問題というものもある。

知らないことをできるはずがない。

端末使用など、まさにここである。

態度が悪いのではなく、そもそも根本的にわかっていないという前提が必要である。


あらゆることが重なる中、試行錯誤しながらリアルタイムで書いた。

現場の「今」の温度が伝わる本になったと思う。

ぜひご一読いただきたい一冊である。

2022年6月25日土曜日

「悪い態度」は変えられるか

引き続き、昨年度の3月に「態度」をテーマに連続で書いたメルマガ記事を転載する。


自分から見て「態度が悪い」と感じた人がいるとする。

前号までも書いたが、この「悪い」は「評価」である。

それも自分という基準からみた、相対的評価である。

この「悪い」は、絶対的な評価ではない。

絶対的な悪というのが存在しないのと同じで、あくまで自分という主観からの相対的な評価である。


ではなぜ自分の感性がこの相手に対し「態度が悪い」という評価を下したのか。

ここには理由があるはずである。

いくつか考えてみる。


攻撃的、あるいは威圧的な態度であると感じられた。

または、やる気がないような、自分を見下すような態度であると感じられた。

もしくは、馬鹿にしている、無視している、ぞんざいに扱われていると感じられた。


基本的に人は自分を尊重しない態度をとられると、態度が悪いと感じやすい。

それはつまり自分にとっての「脅威」であり「恐怖」を引き起こす。

この辺りの空気を何となくでも感じる時、一般的にはその相手に対し「態度が悪い」あるいは「嫌い」という評価を下す可能性が高い。

大人でも子どもでも同じである。


(つまり、これと真逆の態度には「良い」「好き」という評価を下しやすいともいえる。

「安全」「安らぎ」「癒し」を感じる場合である。)


「嫌な態度」と感じられる場合、なぜそうなのか、という背景を考えることが大切である。

即ち、「嫌な態度」の相手を慮るというなかなかハードルの高い行為である。


威圧的な態度、攻撃的な姿勢、悪態をつく人というのは、必ず何かを恐れている。

恐れというものは動物的本能による根本的一次感情であり、この点は野生でサバイバルしている動物と同じである。

そこで、身近にいる動物である犬の場合で考えてみる。


怯えている犬は、怖いから吠えたり唸ったり怒ったり、人をわざわざ遠ざけるような行動をとる。

逆に、人のことが大好きな犬は、全身で相手への喜びを示し、すり寄って来る。(これはこれで興奮してうるさいこともある。)


これは、犬が嫌いな人間の側の心理も同じである。

吠えられて怖いから、嫌う。

咬まれるのではないかという攻撃に構えている状態である。

本当に犬が嫌いな人は、犬を前にすると筋肉が緊張し、汗が出る。

闘争・逃走本能のスイッチが入り、瞬時に動けるようにするためである。


つまり、相手の「態度が悪い」(=脅威・恐怖)と感じられる時、お互いのことがどんどん嫌いになってしまう構造をしている。

吠える犬は相手が闘争・逃走的反応を示すので、より吠えるようになる。

吠えられる人の側も、より吠えられるものだから、闘争・逃走本能がより強く出るようになる。


どちらかがこの本能的反応をストップしない限り、悪循環は永遠に続く。

犬と人間の場合なら、当然人間の側から態度をコントロールするしかない。

犬の方が先に理解を示すということを期待するのは無理がある。

犬の方が本当に自分を嫌っているのではなく、根源的には恐れているだけなのだと理解することからである。


そう考えると、人に対して嫌い、あるいは怒りを感じる場合というのも、考え方の根本は同じである。

全ての負の感情の根本は、恐怖という感情からである。

何かしら、自分を脅かす存在と感じられるから、嫌なのである。

相手の態度からそれを感じ取ってしまうのである。


つまり、態度というのは、態度が悪いと気付ける側が先に変えない限り、解決しない。

相手の態度も確かに悪いのかもしれないのだが、それを恐れている自分の感情にまず気付くことからである。


例えば、担任教師と児童・生徒の関係がこじれているとする。


その時、子どもの側が先に「こんな態度取る必要なかったな」と気付いてくれることが期待できるかどうかである。

これは、普通に考えて、期待すべきではない。


教師の側が「この子がこんな態度をとるのはここへの恐怖があるのかも」と先に理解する方が、主体的である。

もしそれが理解できれば「態度が悪い」というように見えなくなる可能性もある。


「話を聞かずに喋りまくる」という子どもがいたとする。

明かに態度が悪い。

しかし、この子どもの根本的恐怖は「自分が無視されること」かもしれない。

つまり、きちんと話す番が回ってきて、聞いてもらえると理解して安心すれば、態度が改善される可能性がある。

それを伝えるのが、教師のできる主体的な「態度への指導」である。


席につけずに動き回る子どもも同様。

態度が悪いように見えるが、動き回るのは、不安だからである。

じっとしていることが恐怖という可能性もある。

じっとしていなくても大丈夫と安心することで、逆に落ち着くこともある。


学力の低さと問題行動に相関があるというのも同様。

やる気がないように見えるが、根本的には不安なのである。

真面目に受けてもどうせできないのではないかという恐怖感がある。

そうなると、不真面目にやっている態度を見せることで、自分を守ることができる。

そうすれば「やってもできない」という最も傷つく可能性を潰せるからである。


態度への指導というのは、理解から始まる。

しかし、こちらも嫌い、怖いという思いがあると、これが難しくなる。

犬嫌いの人がそれを克服するのと同様、なかなか最初のハードルが高い。

その場合、周りのサポートが必要なこともあるかもしれない。

そして完全にこじれた関係は、修復が難しいというのも事実である。


しかしながら、教師の側が理解を先に示す以外に、主体的解決への道はない。

態度が悪くて嫌な思いをしているのはこちらも同様なのだから、こちらが積極的に解決の手立てを打つべきである。


態度の指導を考えるヒントとして使えればと思い、示してみた。

2022年6月18日土曜日

態度について指導する点とは

相手によって態度を変える、と聞くと、良くないことのように思える。

しかし、この良し悪しは、場合によりけりである。


嫌がられるのは、部下には横柄なくせに上司にだけやたら腰が低い、というような場合である。

あるいは、気弱な人や穏やかな人には強気な態度で、強面の人や権威に対しては急にヘコヘコしだす、というような場合である。


これらは態度がどうこうではなく、心根の方が悪い。

人を理不尽に差別する心の醜さが態度に直結してしまっている悪例である。

別に上司に対して腰が低いこと自体は問題がなく、むしろ謙虚に見えていいことかもしれないのである。

しかし、そこに「目下の人間には横柄」という情報がくっつくことで、途端に悪い評価に転じる。


実際は、心根が優しくとも表現として見える態度がぶっきらぼうなだけの人もいる。

一方、心の中では相手を見下していても、それを一切態度には出さないという人もいる。

(特に接客業などでは、必須の態度である。)

逆に言えば「誰に対してもぶっきらぼう」という評価がされているのであれば、それを知っている人にとっては特に問題がない。

「本当は見下している」という評価がされているのであれば、それを知っている人にとっては丁寧な態度も逆にマイナスである。


このように、態度への評価というのは、心への評価と一体のところがある。

初対面やあまり知らない相手であれば心は全くわからないので、態度だけで全て判断されるということである。

だからこそ、接客業では心根はいざ知らず、丁寧な態度が望まれる。

一方で、詐欺師が相手を騙せるのも、心根にある魂胆を知られておらず、目に見える態度のみで評価されるからである。


態度については、教えるべきことである。

態度は、自己表現の一種である。

態度は、相手にどう理解され評価されるか、ということに直結する。


つまり、相手によって、態度は適切に変える必要が出る。

お客様に接する時と家族に接する時が同じでは不自然である。

「相手を大事にする」という点を外さなければ、その態度は相手によって違って然るべきである。


同じ相手でもTPOに応じて全く変えることがある。

時と場と機会に応じた相応しい態度や言葉というものがある。

同僚と話すにしても、訪問先にいるのと社内(職員室内)では違って当然である。

電話口では立場に関係なく身内を呼び捨てにするというのも、適切な態度の変化である。

(外部からの電話に「○○先生はいらっしゃいません」の誤りである。)


子どもに教えるべきは、態度が自己表現という点である。

挨拶は、態度の一つである。

どのような挨拶をするか、あるいはしないかという自己表現である。


物の扱いも、自己表現である。

相手を見て両手で物を渡せば、丁寧な態度の人という評価を受ける。

つまり、相手を見ず片手で渡すことで、無礼な態度の人という評価を受ける。

片方を学べば、逆も同時に学べるのである。


そして態度への評価は、多分に相手の受け取り方次第である。

丁寧な態度のつもりが、よそよそしいという評価を受けることもある。

親しみやすい態度のつもりが、なれなれしいという評価を受けることもある。


服装にしても髪型にしても、内面の自己表現の一つであり、その評価は受け手次第である。

きれいに装いを整えたつもりが、華美だ、派手だという評価を受けることもある。

親しみやすくカジュアルにしたつもりが、だらしないという評価を受けることもある。

長く伸ばした髪をきれいだねという人もいれば、鬱陶しいから切れという人もいる。

染めた髪を似合ってていいという人もいれば、髪は黒しか認めないという人もいる。

若い社会人や学校に通う子どもたちが悩むのは、この辺りの自己認識と評価とのギャップなのかもしれない。


態度について教える。

こういう態度が絶対にいい、ということを示すのではない。

態度は自己表現であり、相手による評価対象であるということを教える。

態度の選択は、社会における対人スキルである。


態度について指導できるとしたら、この程度のことまでである。

2022年6月11日土曜日

態度を指導するのは覚悟がいる

メルマガ第2099号(2022/2/19)の記事


態度とは、人間関係を構築する上での、外から見える内面の表現である。

またあくまで表現なので、言葉と同様、内面がそのまま出ている訳ではないという前提が必要である。


そして聞く態度が悪いと、気になる。

指導したくなる。

こちらが不快という点もあるが、子どもの将来を考えるという面もある。


この「将来を考えて」というのは、長期的視点として非常に大切である。

今を凌げばそれでいいという考えとは違う。


しかしながら、過ぎたお節介も考えものである。

こちらは子どもの将来を考えて指導しているが、相手がそれに感謝してくれるとは限らない。

むしろ、大半は「口うるさい」と思われるだけかもしれないというリスクをはらむ。


本人が「別にそれでいい」というのなら、それは本人の選択である。

ただ知らせるべき点は、悪い態度をとれば周囲が不快に思い、周囲からの扱いもそれ相応になるという点である。

望ましくない態度を改める気がないという場合、そういう覚悟をもってその態度を貫くことである。

つまり、態度について指導する場合、お互いに覚悟が必要になる。


相手が求めないお節介やサービスは、基本的に要らない。

こちらの都合で伝えることはあっても、相手にとっては要らないものであることは変わりない。

本来、態度が不快な相手には、相手をしないことが一番である。

教育の仕事の場でなければ、進んで関わることはまずないはずである。


なぜこんなことを書くかというと、それに深く悩まされる人が多いためである。

そんな悩みをもつような人は、基本的に善良で真面目な人である。

「指導者である自分が悪い」と自分を責め、思い悩むようだが、本当は関係ない。

相手の態度は、誰がどう教えようが、相手が子どもだろうが大人だろうが、そのまま相手自身の課題である。

こちらの立場がどうであれ、互いを尊重する人間関係という点では平等であり、同じである。


しかし実際は、不快な態度の人も相手にせざるを得ないというのが、人間社会の現実である。

店員さんに対し、客だから偉いとでも言いたげな態度の人がいるが、それを理由に退店させる訳にはいかない。

子どもの社会でも同様で、同じクラスに意地悪をしてくる子がいても、すぐにクラスが変わる訳ではなく、全く接さずに生きるのは難しい。


そうなると、この嫌な人の相手をする側は、これ以上怒らせたり嫌がらせをされたりしたくないから、懐柔策に出る。

なだめすかしたり、ご機嫌をとったりして、その場をやり過ごす。

結果、横柄な人はますます横柄になり、横暴になっていく。


冒頭の話に戻るが、長期的視点である。

学校は、よくなる可能性のある人を、横暴な人に育ててしまってはならない。

こういった不快な態度の子どもに対しては、子ども同士ではなかなか注意できないため、結局指導者がやるしかない。

短期的にはこちらが嫌な思いをしても、長期的視点での対応がやはり望ましい。


最高なのは、本人に気付かせられることだが、これは思考がまだ柔軟な子ども相手でもかなり難しい。

内面を変えるというのは、本人にしかできない主体的な作業なのである。


態度が悪いという相手を諌める時、こちらがノーダメージという訳にはまずいかない。

何と言っても、一筋縄ではいかない相手だからこそ、ここまで増長してきたのである。

相手が怒る場合はまだましで、「ウザいんですけど」というような対応をされることも珍しくない。

理不尽に逆恨みされて陰口を叩かれることすらも覚悟しないといけない。

それらもリスクをとった結果として、受け止めるしかないのである。


そうなると、どこまで自分のリソースを差し出せるかである。

態度についての指導をするというのは、そういうリスクへの覚悟がいる。

こちらも傷つく覚悟がなければできないことなので、多くの場合、難しいとされるのである。


子どもへの本質的な態度の指導というのが、どこまでできるものなのか。

もう少し掘り下げていきたいテーマである。

2022年6月4日土曜日

態度の意味について教える

「聞く」について考えていく中で、多くの場合、態度面を問題と感じていることがはっきりした。

見た目聞いていないようでも、心と頭という面からすると、聞いていることがある。

態度面は体の担保する部分である。

つまり、唯一無二のはっきりと外から見える部分である。


だからこそ、「問題」として捉えられやすい。

心や頭の面は、テストしてやっとその断片がわかる程度である。

その点、態度への評価は、そのままである。


生きていく上で、態度は非常に重要である。

嫌われても構わないという人もいるが、それでも多くの場合、わざわざ人を不快にしたいとは思っていないはずである。


子どもに直接教えられるのは、この態度面である。

礼儀と言い換えてもいい。

頬杖をついて話を聞いていれば、あまりいい印象がもたれないということは、教えないと意外とわかっていない。


前回の学習会でも、ここが論点になった。

聞き方を、態度面という型から指導すべきか否かということである。


私は「聞いているフリ」が最もよくないと考えている。

それは、自分を飾る、あるいは相手を見下している行為だからである。


一方で、先にも述べた通り、型を教えないと間違えたままということも起き得る。

それも互いに不幸である。


着地点として、型としての態度の意味を教え、その先の選択は個人の責任、という考え方である。

どうするのがいいのかは知っている上で、後は本人の選択である。

無論、相手が不快になるような態度でいれば、それに見合ったものが返ってくるというだけである。

それが跳ね返ってきた際に文句を言わないことである。


(意地悪すればいつか大きくなって時差で返ってくるということも併せて教える。

自業自得に、文句を言わないことである。)


態度の意味を教える。

その先は、自己責任とする。

「聞く」を教える上において、重要なことではないかと考える。

2022年5月28日土曜日

主体的に聞く

 「第3回学校教育のリアルな本音を語る会」は、「聞く」をテーマに開催した。

「聞く」というありふれた行為に対し、改めて問い直すことで、認識の違いがはっきりと出た。


「聞く」に関する学校のリアルな悩みは何か。

それは、多くの場合、態度面である。

しかしながら、態度が本当にその人間の内面を映し出しているとは言い切れない。

そんなことについて参加者と共に話し合っていった。


やはり、画面上であっても、顔を突き合わせての議論というのは、意義がある。

毎月のオンライン学習会もそうだが、前向きな議論からは、何かしら新たに生まれるものがある。


聞くという行為は、読むという行為と同じで、インプット作業である。

同時に、インプットしながら、頭の中で自分との対話が起き、アウトプット作業がなされる。

聞くや読む、見るという行為も、話すや書くという行為と同様に、主体的な行為といえる。


逆に言えば、頭の中で対話が起きないようでは、本質的に聞いた(あるいは読んだ、見た)とは言えない。

ただ聴覚的あるいは視覚的な刺激に脳が反応しただけである。

それでは「馬耳東風」「馬の耳に念仏」である。


(ここでなぜ「馬」ばかりがそんな扱いを、という疑問が湧く。

これは、決して馬を見下している訳ではなく、馬が他の何よりも人間の生活に密着した動物だったからだという。

永六輔さんが、「子ども電話相談室」で答えてくれている内容である。

なるほど納得である。

https://www.tbs.co.jp/kodomotel/etc/20020728.html


そう考えると、子どもがやたらと「何で?」を連発してくることには深い意味がある。

子どもの脳内で知的作業が為されている証拠である。


成長するにつれて、だんだん「何で?」と思わなくなってくる。

大人の社会で「何で?」を連発していると、仕事が進まないし、不適応扱いされる可能性もある。

だから、言わない。


これは、知的退廃である。

見たこと、聞いたこと、読んだことに「何で?」「変だな?」「どうしてだろう?」と思わなくなる。


子どもは、その点、遠慮なくぐいぐい来る。

低学年の子どもなど、かなり根本的な問いかけをしょっちゅうしてくる。

ごく日常的に使っている用語にも「それって何?」が出てくる。


先日は、「ゲームって何ですか」と問われた。

あまりにわかっていると思いこんでいたことへの質問に、改めて問われて戸惑う。

わかった気がしているだけで、よくわかっていないことに気付ける。

(ちなみにゲームの定義としては「遊び」「勝敗」がキーワードである。)


全ての学習は、主体性が命である。

受動的と思われている行為にも、主体性が内在する。


真に聞く行為は、極めて主体的である。

「聞く」をテーマに深堀りしていき、自分自身の理解が深まったのが何よりの収穫である。

2022年5月21日土曜日

物分かりがいい教師は良い教師といえるか

 ここ数回「聞く」がテーマだが、まとめに入る。


前回は子どもが「聞かない」ということの必然性について書いた。

今回は教師が「聞かない」ということについて考える。


子どもが話し手になる状態を考える。

聞くのがこちらという立場である。


優れた聞き手は、優れた話し手を育てられる。

聞く力を磨く必要があるのは、教師の側にも同様である。


ところで、教師の「聞く力」あるいは聞く技能というのを、どう捉えるか。

理解力があるとか、よく話を聞いてくれるとか、色々あるだろう。


それらを一言で言えば、「物分かりがいい教師」である。

いつも話をよく聞いてくれる。

わがままを聞いてくれる。

愚痴も聞いてくれる。

分かりにくい話も理解して、更に噛み砕いて説明してくれる。


子どもにとっては、ありがたい存在である。

しかし、それが子どもの将来にとってプラスになっているかは、疑う余地がある。


先のような存在は、「ガス抜き」として必要である。

癒しである。

つまりは、本来的には家庭の担う部分である。

(実際はそれがままならないから、学校のスクールカウンセラーのような仕事に需要がある。)


物分かりが良く、自分のことをわかってくれて、だめなことでも何でも話せる居心地のよい聞き手。

親友のような関係である。

あるいは、理想のパートナーのような関係である。


ただこれは本来、学校の教師や、会社の同僚や上司など、自身の属する公の社会に求めるべき存在ではない。

公的ではない、私的な関係である。

もしこれを公的な社会に求める場合は、聞いてもらいたい側が時間単位でお金を払う仕組みになっている。

医師やカウンセラー、占い師等のプロの提供する時間は、無料ではないからである。


教師があまりに物分かりが良いと、不都合が生じる。

自分勝手なタイミングで話していいという認識となる。

あるいは、分かりにくい話でも分かってくれるとなると、分かりやすく話そうという必然性がなくなる。


すると、分かりやすく話すための努力や工夫も生じない。

結果、身勝手で冗長で私的で分かりにくい話し方になる。

相手のことを考えて、短くズバリと言う「公的話法」(師の野口芳宏先生の言葉)は身に付かない。


最も良くないのが、「オウム返しスピーカー教師」である。

子どもがどんなに小さい声で話しても、分かりにくい説明をしても大丈夫。

教師が全て「翻訳」「拡大」して全員に話してくれる。(しかも長々と。)

子どももそれを学ぶため、子ども同士の発言は一切聞かず、教師の話す内容にのみ集中すればよい。

分かりにくい説明をしたら、それは全て翻訳下手の教師のせいなのだから、そこを責めればよい。


これは、必ず教育実習生に教える話である。

ついつい、良心的サービスでやってしまうのだが、子どもの成長を大きく阻害する。


一方、(一見)物分かりの悪い教師が担任だと、子どもの側に苦労がかかる。

算数の解き方の説明一つとっても、話し方に工夫と努力がいる。

下手に説明しても、担任教師を含めみんな「?」であるから、発言者の子どもへ「もう1回お願いします。」となる。

子ども同士も、教師が何も言ってくれないものだから、発言者の子ども自身の方を見て真剣に聞くようになる。

話す側も本気になって話す。

結果、子どもたちには、話す力も聞く姿勢も同時に身に付く。


至極単純化すると、そういうことである。

これが、日常生活の全てにおいて行われるのだから、当然子どもの成長の度合いが変わる。

子どもが主体となって進行する理想的な「クラス会議」で行われていることは、まさにこの状態である。


物事は表裏一体であり、「聞かない」という否定的に見える現象にも利がある。

「聞かない」の肯定的な面も、見直す必要がある。

2022年5月14日土曜日

「聞かない子ども」になる方法

 前号に続き「聞かない」を考える。


逆説的アプローチで「聞かない子ども」を育てるような指導を考える。


一つは、前号で書いた「どうでもいい話をする」「分かりにくい説明を長々とする」である。

これを日常化していけば、子どもが聞かなくなる。

全ての子どもにとって防衛的かつ合理的手段ともいえる。


もう一つは、聞いてなくても問題ない状態にするということである。

例えば、単に聞かずに騒いでいる子の「もう1回言って!」のリクエストに易々と応じてしまう。

例えば、ルールを決めたけれど、破っても何もなし。

端的に言って、真面目に聞いている人が損をする対応である。


どちらにも共通しているのが「熱心さ」である。

熱心に、説明をする。

熱心に、相手の要望に応えてあげる。


いずれも、良い結果を結ばない方向の努力である。


努力をするなら、逆の方向に力を入れるべきである。


短い説明で済む努力。

あるいは、説明しないで済む努力。


真面目に聞いている人が得する努力。

必要だから決めたルールは守るよう促す努力。


当たり前のことが抜けることで、聞かない子どもになってしまう。

「最近の子どもは話を聞かない」という声もあるが、指導の在り方も大きく関与しそうなところである。

2022年5月7日土曜日

「聞かなくてもいい」はあり得るか

前号では「教えない」の大切さについて書いた。

教えすぎるから、聞かなくなるのである。


今号ではここについて取り上げる。


「聞く」に関する指導の悩みが存在するのは「聞けない」からである。


前提から疑う。

「聞かなくてもいい」という状況はあるか。

ある。


教師が時にリラックスしてはさむ雑談など、別に全員が聞いてなくてもいい。

下らない話であり、ただお互いのリラックスのためでもある。

話す側にとって必要でも、聞く側にとって必ずしも要るものではない。

(聞いてないでぼーっとしている方がむしろリラックスしているかもしれない。)


全員のいる場で、特定の一人に用があって話しかけることがある。

(「○○さん、連絡帳を提出してください」など。)

これも全員が聞いている必要はない。

この問題点を挙げるとしたら、全員が聞かなくていいことを、全員に聞こえるように話している側にある。

個別に声をかけるべきところである。


つまりは、話す側にとっての自己都合的なニーズがあって話すという場合、相手は聞かなくていいという状況があり得る。

無理矢理売ろうとしている下手なセールスマンのようなものである。

教える側が「テストに出るからよく聞いて欲しい」と思っていても、相手はそう思っていない。

相手側に聞くニーズがない場合である。


(教師の側は「子どものため」と主張するかもしれないが、その内実は自分のためであることも多い。

私は若い時分、テストの平均点にやたら拘っていた時期があったのでよくわかる。

とても駄目な行為であったと反省しきりである。)


ここで反論が予想される。

子どもは授業中ぐらい全てきちんと聞くべきではないかと。


それはその通りなのである。

その通りなのだが、その通りではないこともある。

教師がいつも訳のわからない話をしていたり、下らないことばかり言っていたとする。

そうなると「真面目に聞く価値なし」と聞き手である子どもに判断される。


集中力というリソースには、限界があるからである。

無駄づかいはできないのである。


厳しいことを言うと、いつも訳のわからない説明をしているから、聞かないということである。

客観的に見て「聞かなくてもいい」状況である。


つまり「聞く」という行為は、話し手と聞き手の両方で成立する。

「聞かない」相手の中に問題を探しがちだが、実は話し手の側に問題が存在することも多々ある。


逆に言えば、どんなに相手のためを思って話しているつもりでも、最終的に結局は相手次第である。

相手が「聞きたくない」と思っている以上、「聞く」という状況は成立しない。

「日常が全て」である。


「聞く」という行為も、損得の問題なのである。

聞いて得するなら聞くし、得をしない(=損をする)なら聞かない。

大人も子ども同じであるが、そこはむしろ、忖度しない子どもの方がシビアである。


それは決して不道徳な話ではない。

メリットとデメリットは、人間の行動を決定づける最重要の要因である。


聞く子どもを育てたいなら、「聞かなくてもいい」を促進するような話はなるべくしないよう心がけたい。

2022年4月30日土曜日

聞く力をつけるために教えない

 「聞く」に関連して、教えるということについて。


本人が考えれば辿り着けることは、教えない方がいい。

これが基本である。


よく読めばわかることは、教えない方がいい。

これが基本である。


つまり、よく聞くことは大切だが、自分で考えてわかる方が上策である。


一方、聞くことは学力の根本でもある。

聞くことで、何をすべきかわかる。


大切なことを一つ伝えたら、後は活動へ移る。

長々と聞かせても無駄である。

聞いたことについて、本人がよく考え、使いこなせるようになる方にシフトした方がよい。


これは子どもに限らずだが、よく考えずにやたらとすぐに尋ねてしまう傾向がある。

その方が、楽だからである。


質問する力も大切だが、よく考えた上でする質問でないと、結局は本人にとってもマイナスである。

(これは、日頃から大切と伝えている「助けて力」とは根本的に違う。

「助けて力」は、自分ではできないことに困った際に使うべき力である。)


例えば私の学級では、毎年「自力でわかるようなことは質問しない」と4月の段階で予め指導してある。

自分で読まなくなり、結果的に子どもにとってマイナスになるからである。


だからこそ、人が話している時は真剣に聞くことを指導する。


個人的に自分が聞いていなかっただけのことを、全体の進行をしている人に対して思い付くまま質問することは、進行の妨げである。

迷惑行為である。

一生懸命に聞いている人(=前向きで真剣で真面目な人)の集中力を阻害することになる。


聞いたり読んだりして、自分でわかる

↓×

周りの仲間を見てわかる

↓×

周りの仲間にきいてわかる

↓×

先生などの大人にきいてわかる


というステップで、初めて質問にいたる、と教える。

自分で少し努力すればわかることをやたらに質問するというのは、望ましくない行為である。

(自己有用感を求めている人には歓迎される。

また例外として、1年生の最初の時期は、ただ単に先生と関わりたいだけなので、その欲求はある程度満たす必要がある。)


まして、全体に対して話している人にストップをかけてどうでもいいことを尋ねるというのは、言語道断のマナー違反である。


要するに、聞く力をつけるにも、読む力をつけるにも、教えないことである。

常日頃より話を最後まで聞き、粘り強く読み直す習慣を身に付けるように指導し、やたらと教えてあげないことである。

懇切丁寧に教えてあげる行為が、学力を総合的に下げる原因となっている可能性が高い。


教師の仕事は、教えることである。

だがその本質は、子どもに力がつくことである。

一生懸命教えたつもりで力がついていないのでは、本末転倒である。


教えて力をつけたいからこそ、やたらに教えない。

これは、結構な恐怖である。

勇気と根気と我慢のいる行為であるが、教え導く立場にある全ての人に必要な姿勢である。

2022年4月23日土曜日

聞けないは欲求不満の表れ

「聞けない」について。


話を聞かないで、自分の思いを一方的に好き勝手に喋る。

人間関係で問題を起こす大きな要因である。


大人でも子どもでも見られる。

なぜなのか。


それが、欲求を満たす行為だからである。

社会的承認、関わりの欲求である。


一方で、聞く方は、忍耐を要する。

他人の欲求を満たすために聞いていることもある。

「興味ある楽しい話を聞いている」という幸せな状態を除き、基本忍耐である。


欲求をきちんと満たすことは大切である。

特に、生理的欲求の類は最優先事項である。


トイレに行きたいのを我慢する理由などない。

空腹を我慢する理由もない。


我慢を検討すべきは、他人に悪影響を与える場合のみである。


自分がトイレに行って、嫌な思いをする人はいない。

自分が好きなものを食べて、嫌な思いをする人もいない。


一方で、好き勝手に喋るという行為に関しては、聞き手がいる以上、嫌な思いをする人も出る。

これは、コントロールが必要になる。


食べるということに関しても、人を押しのけて奪うような場合は、コントロールが必要になる。


要は、他者との関わりが全てである。


聞けない、勝手に喋って騒がしい問題を多く抱える場合、この「他者を押しのける」という行為が随所に見られる。

他者を尊重する視点がないという根本・本質がある故に、聞けないという現象が起きているとみなす。


何かを取りに行く状況の時、我先にと群がる。

靴箱では人を押しのける。

列に割り込み、順番に並べない。

プリント等が足りないとわかった時は、自分の分を確保し、あとは知らない。

モノを好き勝手に置き、散らかっていても平気。


とにかく、他者を困らせて自分優先な状態である。

「我」が拡大している状態である。


何でもかんでも我慢が大切という訳ではない。

自分で満たすべき欲求は満たすことが、自分自身の適切なコントロールにつながる。


眠いのなら寝ればいい。

勝手に無理して起きているから、不機嫌になって周りに迷惑をもたらす。


身体が要求する、本当に食べたいものをきちんと食べればいい。

お腹が空いているから、イライラして周りに迷惑をもたらす。


自分で満たせる欲求は満たしている上で、我慢の力もつく。


他人でないと満たせないと思っている部分がある。

愛情の欲求や承認欲求がそれである。

これも本当は自分自身でしか満たせないものであるが、先に他人に満たしてもらわないと、やり方がわからない。

優しさの示し方は、周囲の大人たち、特に多くの場合は親が示してくれて初めて知るものだからである。


要は、聞けないという行為は、欲求不満の総合的な表れではないか。

聞けないことそのものをどうこうしようとしても、なかなか上手くいかないというのが、長年やっていての実感である。

2022年4月17日日曜日

「話を聞く」は前提だが

 話を聞くことについて。


前号では、道徳を例に価値観を押し付けないが、前提をおさえるという話を書いた。


人の話は聞くものである。

これは前提。


ただし、聞いたことをすべて素直に受け容れるべきということではない。

これが価値観の自由。


究極のところ、前提すらも絶対的な正解ではない。

前提は多くの場合、自分の育った国の文化によって作られる。

世界基準で見た時、その常識的絶対解は、不都合なものの可能性もある。


例えば、他人との待ち合わせ時刻に遅刻してはいけない。

これは前提。

ただし、これは国によって大分程度の差の大きい前提である。


かなり時間に対しての概念が寛容な国もある。

待ち合わせの1時間遅れでやってきて、笑顔で「お待たせ」という国だってある。

こちらが怒っても「何が問題なの?」と不思議がられる羽目になる。


では、日本の子どもたちにそのように教育をしていいかというと、これは不都合が生じる。

日本の企業や一般社会には、時刻にきっちりしているものが多い。

(少なくとも、現在の鉄道運営関係の仕事に就くのが難しくなるのは間違いない。)

常識的に、時間は守るべきというのが日本の一般社会の大前提にある。


常識とは「common sense」であり、直訳すれば一般感覚である。

多くの人が共通でもつ一般的知識である。


日本で電車が少し遅延しただけで文句が噴出するのは、「電車は時刻通りに来る」という常識があるためである。

それが前提になければ、文句を言おうという感情自体が湧いてこない。


そして常識に絶対は存在せず、常に相対的なものである。

ある時期を境に、地球を中心に回っていたはずの太陽に対し、逆に地球が太陽を中心に回りだすようなことも起きる。

月に行きたいと思った人が非常識と馬鹿にされていたのに、今ではそれは常識的な考えとみられるようなことも起きる。


だから、絶対解は存在しないという大前提があるものの、とりあえず前提となる相対的な解としての道徳がその時代に決定している。

常識は文化的な知識であり、それは教えないと決して知り得ないものである。

そうすると、道徳の授業で何をすればいいのかわかる。


仮にだが、自分がブラジル育ちで日本に来て教師になったとする。

「別に時間にルーズでもゆったり生きるのがいい」という価値観をもっているとする。

これ自体に何ら問題はない。

ただそうであっても、子どもに基本的生活習慣を身に付けさせる上で「時間を守る」と教えるのが職務上の使命である。


その前提があった上で、もし相手との時間を守れなかった時にどうすべきか、初めて考えられる。

「素直にひたすら謝る」という選択肢もあるし、「相手に事情を理解してもらうよう努める」という選択肢もある。

そこは価値観の違いがあっていいところである。


ここに「時間を守る」という前提がないと、先の「何で怒ってるの?」という反応になってしまい、人間関係に支障をきたす。

前提があれば「遅れてしまったのは申し訳ない。ただ知って欲しいのが・・・」という話になる。

道徳教育において教える前提は、社会全般における円滑な人間関係の前提である。

(無人島で自給自足して暮らすのであれば、全く不要の知識である。)


だから、宗教が根付いている世界の国々では、道徳の授業がない代わりに、宗教教育や公民教育等が実施される。

前提となる常識(一般知識)は、学校で教えずとももっているからである。

例えば、神の教え、意志に反するものはいけないという常識がある。


日本では、学校がその常識的な面を教育する役割を担う。

「なぜ人に親切にするのか、できない時をどう考えるか」

「なぜ誠実であるべきか、相手が不誠実な対応をした時にどう考えるか」

「なぜ差別がいけないのか、いけないことなのになぜ根強く存在するのか」

といったことを、一つずつ丁寧に扱っているといえる。

(もちろん、先に家庭教育があってこそより有効に機能する。)


そのように考えると「話を聞く」というのは、子どもに身に付けさせたい前提の姿勢といえる。

これは取りも直さず「人を大切にする」ということと同義である。

「聞く」という主に国語科における技能面と同時に、道徳的な面を併せもつ。


基本姿勢として、誰かが話している時は「聞こう」と思えるようになることが理想であり、それが教育の方向である。

では、そう思えない子ども、そうしようとしない子どもに対し、どうアプローチすべきか。


つまりは、前提が抜けている子どもたちへの教育である。

ここに苦戦している現状が、全国の教室に散見される。

ここについて、次号以降も考えていく。

2022年4月9日土曜日

価値観は押し付けないが大前提はおさえるべし

 前号で「言うことを聞かない」ということについて書いた。

相手が話を聞いてくれるかどうかは、完全に相手側に主導権がある。

こちらがどうこうできるものではない。


ただ、これを自分の側に適用していいか、ということである。

つまり、私は人の話を聞かなくていいのか、ということである。


これは、どう考えてもよろしくない。

相手の言うとおりにする必要はないが、相手が誠実に話をしているなら、こちらは聞くのが筋である。

(それを理解できるかどうかということは、また別問題である。)


つまり、人の話は聞く方がよい、というのがまず大前提にあり、ここは外せない。

前提を疑うという姿勢自体は大事だが、全てを疑っていると何も決められないという面もある。


これは、道徳教育にも通ずる話である。


昨今の道徳教育において強調されているのが

「価値観を押し付けない」

という点である。


つまり、ある出来事についての価値観は、人それぞれだから尊重しようということである。

例えば互いが異なる宗教同士、あるいは無宗教であることも尊重される。

だから、価値観の違いも生じるし、それらは互いの権利を侵害しない範囲で最大限尊重される。

(そしてここが当然になっていないから、戦争や差別といった問題になっている。)


では、道徳授業では、何も教えてはいけないのか。

あるいは、とにかく子どもが自由に考えて発言すればよいのか。


そうではない。


ある教材を扱うにあたり、それぞれ中心となる価値項目がある。

思いやりだったり公正・公平だったりと色々ある。

ここから完全に離れた「話し合い」は、単なる勝手なおしゃべりの場であり、それは授業とはいえない。


ただ、どれをもって「思いやり」があるとするか、あくまでここを押し付けないということである。


前提として「思いやり自体は大切」ということがある。

ここを外してしまうと、訳がわからない道徳授業もどきになる。


例えば、以前にも書いた、「アラジン」の行為をどう見るかという問題である。

主人公がどんなに不遇であろが鮮やかな手口でかっこよく盗もうが、盗みは犯罪である。

ここは絶対に外してはいけない前提の部分である。


ただ、貧しくて盗みをせざるを得ない相手の生活状況というのを、配慮して想像する必要はある。

その場合でも、あくまで大前提は「盗みは犯罪で良くないこと」ということだけは外さない。

前提がおかしいと、全てがおかしくなる。


道徳授業でも、この前提はまずおさえる。

物語の主人公が作中で色々な判断をするが、それが適切かどうかという判断は、個々人の価値観の違いでいいのである。

ただし、前提として例えば「公正・公平は大切」といった部分は共通の土台としておさえた上での話合いである。


「優先席は本当に必要か」ということについて、必要派と不要派に意見が割れていいのである。

ただし、その場合も「困っている人や弱っている人は労わるべき」ということは大前提にあった上である。

「だからこそ優先席が必要」

という意見と、

「だからこそ優先席でなくても譲るべきなのだから不要」

という意見の違い、価値観が自由なのである。


道徳授業で迷路にはまりこむ光景を随所で見るが、この辺りが根本原因でないかと考え、提示してみた。

2022年4月2日土曜日

「言うことを聞かない」を考える

 言うことを聞かない。

時代を問わず、子育てや教育に限らず、広く人々の頭を悩ませている事柄である。


さて、この「言うことを聞かない」だが、辞書では色々な扱いで正式な言葉としてある。


「明鏡ことわざ成句使い方辞典」によると

1 人の言うことを聞き入れようとしない。

2 体などが思うように動かない。


「広辞苑」によると

1 命令に従わない。

2 身体や機械などが思い通りに動かない。


とある。

「聞く」について問題としているのは、明らかに1の方である。

しかしながら、2のように考えているのが問題なのではないかというのが、今回の問題提起である。


2については、明らかに「自分の身体」についての話である。

しかしながら、言うことを聞かせたい相手(子ども)は、他人である。


人の身体を、思い通りに動かせるものなのか。

そして、広辞苑の解説にもあるように、それは自分の身体でないなら「機械」相手とみなしている場合である。


そもそも、他人が自分の「言うことを聞く」のがおかしいという前提をもってみる。

「言うことを言う」のは、自分にできるのである。

しかし、それを「聞く」主体は、相手である。


そう考えると、古今東西問わずに人々を悩ませている原因がわかる。

他人の体は、自分の思い通りには動かない。

自然の摂理であり、普遍の真理である。


「聞き入れるかどうか」ですら、相手の意思決定であり、こちらにはどうにもできない。


さて、それでも動かしたいという強い欲求にかられると、何をするか。


威圧的態度や怒りといった感情で動かそうとする。

場合によっては集団圧力や哀しみと言った感情で動かそうとすることもある。


要するに、それが出てしまった時点で、教育的には失敗である。

もしそれで動いてしまったら、相手が「モノ化」したと同然である。


怒っても泣いても教育的には負け。

それでも、感情が出てしまうのが人間である。

それは、その手が手っ取り早いからである。

しかし、それは本来、言語が使用できない赤ん坊のための手段である。


感情に頼らない「聞く」ための教育はどうするのかを考えていく。

2022年3月30日水曜日

心を傾けて聴く

引き続きテーマは「聞く」の中の「聴く」について。


自治的学級づくりの中核的活動の一つに「クラス会議」がある。

係活動、目標作り、イベント企画、課題解決、等々の自治的活動のあらゆる決定が、クラス会議を中心に行われる。


このクラス会議では、特に聞く力が必要な中心的学力となる。


まず、黙って聞く必要がある。

次に、その話を理解する必要がある。

加えて、自分の価値観で判断せず、相手の立場になって「聴く」必要がある。

トータルな「聞く力」が必要となる。


ここでは教師の立ち位置が難しく、かつ重要なポイントになる。

基本的に口を出し過ぎてはいけないが、放っておいては混乱するだけである。

介入の度合いがクラス会議の成否を分ける。


理想は「黙って聞いて見守る」だけである。

しかし、理想通りにいかないのが現実問題というものである。

集団が育つほどに見守るだけで大丈夫になるが、初期状態にはやり方、進め方を指導するため、介入がかなり多くなる。


この時、教師の価値観を出し過ぎてしまうのが問題である。

理想は子どもたちの自治的な話合いを見守るのだが、見過ごし難いものが少なくない。


例えば前号でも例を挙げたが「席替えの座席は自由」という決定が話合いの上なされたとして、果たして上手くいくか。

いじめや権力闘争がある中でこれをやったら、弱肉強食の酷い惨状になる。

そもそも、そういう学級の状態でクラス会議を放置しておけば、弱肉強食の決定になるのだから、当然である。


相手の価値観を尊重する「聴く」の姿勢であるなら、様々な立場の子どもに思いを馳せる必要がある。

ある決定は何人かの子どもにとっては都合がよいものの、ある子どもたちにとっては大変不都合なものかもしれない。


だからといって口を出し過ぎると、今度は教師の価値観に合わせた談合のような話合いになる。

例えば「団結して努力するのが素晴らしい」という価値観の教師の下で、決定されたものがあるとする。

クラス会議の話合いの中では「合意形成」が為されたように見える。

しかし、実際はクラスの聡い子どもたちによって教師の価値観への忖度がなされ、決定されていることがある。


「団結して努力」というのは一つの価値観である。

同時に「人に頼らない努力」というのも「みんなで努力よりもリラックスして楽しく」というのもそれぞれの価値観である。

どれが絶対の正解というのではなく、それぞれの正解である。


それぞれ別個の正解を持ち寄って、集団としてすり合わせていく作業がクラス会議である。

少数派や弱い者の意見が切り捨てられてしまうようでは、クラス会議の目指す「共同体感覚」の育成と真逆である。


即ち、集団の全員に「聴く」という姿勢が求められる。

相手の立場を慮るという下地がないと、教師を含めた弱肉強食の決定になる。


この「聴く」力は、全ての時間で育成するものである。

朝と帰りの挨拶から、各教科の授業や移動時間、休み時間から各種当番、係活動まで、全てで育成する力である。


つまり、教育活動の全てを通して育成するという道徳の力の一つである。

実際、「徳」という字と「聴」という字は似ている。

心を傾けて聴くという姿勢が必要である。


私が「聴く」ために、意識しているキーワードがある。

「本当はどうしたいのか」

である。

相手が話している時、本心としてはどうしたいのかを想像する。

書くと簡単そうだが、実際にやると大変に苦労する作業である。


ネガティブな言葉にこれをする。

「やりたくない」は、本当にやりたくないのかなと想像する。

「NO」が実際「YES」なのかもしれないのである。


ポジティブな言葉にもこれをする。

「やりたいです」も、本当にやりたいのかなと想像する。

「YES」が実際「NO」なのかもしれないのである。


何でもかんでも疑り深くなるという訳ではない。

本心を聴こうとするだけである。

明かに心から嬉しいであろう状況なら、こんな疑いはいらない。

しかし、子どもは無理したり強がったりして言っていることがあるので、この姿勢が必要なのである。

特に心優しい子ども、他人をよく気遣ったり譲ったりしてしまう子どもの場合は、要注意である。


「聴く」は難しい。

難しいからこそ、大人の側も生涯に渡って磨き続けていく必要のあるものだと考える。

2022年3月19日土曜日

全体か個か

前号の「聞く」と「聴く」の話に関連して、学級における全体と個のバランスについて。


今回は次の本から。


『21 Lessons 21世紀の人類のための21の思考』

ユヴァル・ノア・ハラリ 著 柴田 裕之 訳 河出文庫


この本の中に次の一節がある。P.188より引用する。

===============

(引用開始)

ナショナリズムがなくなれば、私たちはみな自由主義の楽園で暮らせるなどと想像するのは、危険な過ちだ。

ナショナリズムなしでは、部族社会特有の混乱状態の中で暮らす羽目になる可能性の方が高い。

とくに民主主義はナショナリズム抜きにしてはきちんと機能できない。

(引用終了)

============


個の時代と言われている現代にあって、全体主義はすこぶる人気がない。

日本では、一時期の行き過ぎた「会社に一生を捧げる」という考え方への反動もある。


しかしながら、現代の「知の巨人」とも称されるハラリ氏が述べるように、集団全体を考えない自由というのは存在しない。

自由主義や民主主義を目指す上で、集団を完全にないがしろにすることはできない。

個も集団によって生かされているからである。

自由や権利が、義務や責任の上に保障されるということと同義である。


学級でも、個人の思いを「聴く」ということはする。

しかしながら、そこにある要望を全て通すかというと、話は全く別である。

集団にとっての不利益となることは容認できない。


極端な例で言えば、例えば席決めである。

「私はこの席がいい」という個々の要望を「自由」と称して完全に尊重しようとすれば、破綻する。

互いの要望が確実にぶつかり、放っておけば争いになるからである。

その先に待っているのは、弱肉強食の世界であり、それはハラリ氏の述べる「部族社会特有の混乱状態」である。


社会としては、そこに共通理解されたルールが必要になる。

例えばある程度自由に座席を決められるにしても、一定のルールが必要になる。

それがどんなルールであるかは、その場に応じて決めるものであるので一概には言えない。


少なくとも、強い者が弱い者に対してマウントを取るような集団であれば、この自由方式は確実に使えない。

その場合、指導者が決めた方がよい結果が待っている可能性が高い。


話を戻すと、個の自由を尊重するには、互いを尊重する集団が成立している必要がある。

成員が集団に貢献しようとしないのであれば、自由という権利を与える訳にはいかない。

行き過ぎたナショナリズムは問題だが、個人主義で自己の利益のみを追求するのも同様に問題である。


指導者は「聞く」の姿勢で、常に適切な判断を必要とされる。

一方で「聴く」の姿勢で、個に寄り添う必要もある。

個が生きてこそ全体も生きるし、その逆も真だからである。

これは教師という立場に限らず、全ての集団の指導的立場にある人間に必要な姿勢である。


全体か個かという問い自体が成立しない。

個を生かすために全体を尊重する必要がある。

学校は個の成長のためだが、それは社会、広くは世界、地球という全体に貢献できる人間へ成長するための場である。


話を「聞く」と「聴く」のバランスへの一つの考え方として、提示してみた。

2022年3月12日土曜日

「聞く」と「聴く」


前号に続き「聞く」をテーマに考える。

まずは次の本から。


『LISTEN 知性豊かで創造力がある人になれる』

ケイト・マーフィ(著)、篠田真貴子(監訳)、松丸さとみ(訳) 日経BP


この本の冒頭で、監訳者が次のように訳注をつけている。

========================

本書タイトルの「LISTEN」には、能動的に「耳を傾ける」という意味があります。

========================


明確に「hear」との区別をしている。

前号でも「聞く」には種類があると書いたが、

「hear」は「自然と耳に音が入って来る」

という状態である。

意識を相手に向ける「listen」とは明瞭に意味が異なる。


「馬耳東風」ということわざがあるが、これは「hear」の状態ではあるが明らかに「listen」ではない。

子どもが教室で黙って席について話を聞いているようでも、それが「listen」であるかはわからないのである。

どんなに懇切丁寧に説明したところで、単に耳に音声が入っているだけの「hear」かもしれない。

この可能性を頭に入れておくことは大切である。


この本の中では、「listen」の訳をさらに「聞く」と「聴く」に意図的に表記を分けている。

両者とも相手の話に意識を向けている状態という点では一緒である。

前者の「聞く」を「自分の頭の中で判断しながら聞く姿勢」としている。

後者の「聴く」を「いったん自分の判断を留保して話し手の見ている景色や感じている感覚に意識を集中させる姿勢」としている。


この二つの違いは大きい。


「私は人の話がよく聞けている」と思っている場合、大抵が前者の「聞く」であるという。

特に教師はこうなりがちである。


例を挙げる。

国語で、一つの発問をしたとする。

「主人公が○○の行動をとったのはなぜでしょう。」


これに対し、子どもが答えていく。

そのいちいちに対し、教師は判断を入れて聞く癖がついている。

あるいは、いちいちに対し音声や表情、板書による言語等で反応していく。(=即時の評価)


これはある意味、仕方のないことといえる。

玉石混交の回答に対し「全部いいね」では学力が全くつかないためである。

「なぜ」という問いに対しては、文章を根拠とした「~~だから」と読み解いて、それを適切に伝える力をつける必要がある。

だから、どうしても聞くに際しての思考による判断が必要になる。

判断が前提の「聞く」が癖になってしまう所以である。

(この大きな問題点は、教師の側が知識不足だったり感性が鈍かったりすると、玉を石と判断して捨ててしまうことである。)


ちなみに「どう感じたか」と問うた場合については、全部認めればよい。

感じ方はあくまで人それぞれだからである。

それは道徳科の授業の問い方であり、価値観のすり合わせ作業である。

その時必要な姿勢は、自分の価値観をいったん脇におく「聴く」の方である。

即ち、カウンセリングマインドである。


教師が多く使う「聞く」と、カウンセラーが多く使う「聴く」は技術的に異なる。

父性と母性の違いにも近い。

迷っている人に対し、行くべき道を指し示し導くような姿勢と、丸ごと受け止めて頭を撫でてやるような姿勢の違いである。


元々、教師に多く求められていた役割は、前者の方であり、後者は家庭が担っていた。

家では「先生の言うことをよく聞いてきなさい」と送り出されていた時代である。

やることが、かなりかっちりと決まっていた。


しかしながら、現在はこれが違ってきている。

「子どもの心に寄り添う」

「個別最適な学び」

「多様性を認める」

といった「聴く」姿勢に近いことが多く求められるようになった。

(「そうせねばらならない」というルールが追加されたともいえる。)


つまり、教師に求められる「聞く」という技術一つとっても、時代の変化と共に質的な変容があったと言える。

先のように、判断する「聞く」には不易としての価値もありつつ、「聴く」の価値の比重が高まった。


この両者のバランスをとる難しさは、現場で教えている人間なら肌で感じているはずである。

「本当はこうしてあげたいけど、きまりでできない」などというのも、これと類似した問題である。

全体として「正しい」方向へ導く姿勢と、個に寄り添う姿勢のバランスである。


聞くという行為は、深淵である。

学校における「聞く」と「聴く」のバランスをどうするかを今後も考えていく。

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