「聞けない」について。
話を聞かないで、自分の思いを一方的に好き勝手に喋る。
人間関係で問題を起こす大きな要因である。
大人でも子どもでも見られる。
なぜなのか。
それが、欲求を満たす行為だからである。
社会的承認、関わりの欲求である。
一方で、聞く方は、忍耐を要する。
他人の欲求を満たすために聞いていることもある。
「興味ある楽しい話を聞いている」という幸せな状態を除き、基本忍耐である。
欲求をきちんと満たすことは大切である。
特に、生理的欲求の類は最優先事項である。
トイレに行きたいのを我慢する理由などない。
空腹を我慢する理由もない。
我慢を検討すべきは、他人に悪影響を与える場合のみである。
自分がトイレに行って、嫌な思いをする人はいない。
自分が好きなものを食べて、嫌な思いをする人もいない。
一方で、好き勝手に喋るという行為に関しては、聞き手がいる以上、嫌な思いをする人も出る。
これは、コントロールが必要になる。
食べるということに関しても、人を押しのけて奪うような場合は、コントロールが必要になる。
要は、他者との関わりが全てである。
聞けない、勝手に喋って騒がしい問題を多く抱える場合、この「他者を押しのける」という行為が随所に見られる。
他者を尊重する視点がないという根本・本質がある故に、聞けないという現象が起きているとみなす。
何かを取りに行く状況の時、我先にと群がる。
靴箱では人を押しのける。
列に割り込み、順番に並べない。
プリント等が足りないとわかった時は、自分の分を確保し、あとは知らない。
モノを好き勝手に置き、散らかっていても平気。
とにかく、他者を困らせて自分優先な状態である。
「我」が拡大している状態である。
何でもかんでも我慢が大切という訳ではない。
自分で満たすべき欲求は満たすことが、自分自身の適切なコントロールにつながる。
眠いのなら寝ればいい。
勝手に無理して起きているから、不機嫌になって周りに迷惑をもたらす。
身体が要求する、本当に食べたいものをきちんと食べればいい。
お腹が空いているから、イライラして周りに迷惑をもたらす。
自分で満たせる欲求は満たしている上で、我慢の力もつく。
他人でないと満たせないと思っている部分がある。
愛情の欲求や承認欲求がそれである。
これも本当は自分自身でしか満たせないものであるが、先に他人に満たしてもらわないと、やり方がわからない。
優しさの示し方は、周囲の大人たち、特に多くの場合は親が示してくれて初めて知るものだからである。
要は、聞けないという行為は、欲求不満の総合的な表れではないか。
聞けないことそのものをどうこうしようとしても、なかなか上手くいかないというのが、長年やっていての実感である。
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