2019年11月30日土曜日

天国か地獄かを決める環境要因は、人。

先日学級の「朝の話」でした話。

仏教における「天国と地獄」の話をした。
↓参考URL 仏教辞典 「三尺三寸箸 極楽の箸はなぜ長いのか」
https://bukkyouwakaru.com/dic/s34.html

私の学級の朝の会は円座して行うので、「円卓」という設定での話をした。
この話の概要は以下の通り。

1 地獄も天国も円卓の中央にご馳走が並んでいる
2 1m以上ある長い箸でしか食べられない
3 地獄の住民は自分が食べようと箸を振り回して周辺の人を傷つけ、自分も食べられず、けんかをはじめる
4 天国の住民は向かいの相手を優先して「どうぞ」と互いに食べさせ合う

簡単いうと、これだけのたとえ話である。

伝えたい内容としては
「地獄か極楽かを決めるのは、モノではなく人」
ということである。

どんなモノに囲まれた環境であれど、優しさと思いやりの溢れた人が集まれば、そこは天国になる。
競争心と我欲に溢れた人が集まれば、そこは地獄になる。

人間界は、それらが入り雑じっている。
天国は、作れる。
地獄も、作れる。

学級も職場も家庭も同じである。
誰がいればいいとかあの人がいるからダメだとか言っている間は、自分自身が地獄をつくっている。
自分は何ができるのか、人を思いやって考えて動けば、自分自身が天国をつくっている。

「譲る」が本質的に幸せにつながるという所以である。

2019年11月28日木曜日

自分を磨くのは何のため

前号の「譲る」ということについての話の続き。

教育実習生にした話。

人生において何が大切か。
人一倍努力し、自分を磨き、能力を高めることで、何が得られるのか。

大学生に聞くと、大抵は「自己実現」の大切さを挙げる。
それは、大学生という社会的な位置にも関係するのかもしれない。
ある意味、社会に自分の価値を売り込む時期である。

子どもも、同じような傾向がある。
子どもの場合「夢」という形をとる。
「将来の夢は〇〇です。だから△△をがんばります。」
〇〇に入るのは、職業名である。

つまり、自分の夢を実現させるためにがんばるのである。

これは、間違っているか。
もちろん、間違っていない。
素晴らしいことである。

しかしながら、実際に社会に出ると、ちょっと思っていたのと反応は違う。
努力の末に夢を実現、あるいは目標を達成しても、意外と誰もほめてはくれない。
待っているのは、「それで、あなたは何ができるの」という問いかけである。

単に自己実現(と思われるもの)をしても、幸福になれる訳ではない。

では、幸福感を得られる瞬間とは何か。
ずばり、人の役に立てたと感じられた時である。
ただひたすらにがんばったことに対し「ありがとう」と言ってもらえた時である。

結局、その高い素晴らしい能力は、社会に役立てるためである。
例えばスポーツ選手は身体能力を高めることで、チームに貢献できる。
勉強をして専門知識を深めることで、何かしら社会の役に立てる。
それぞれの仕事のスキルを伸ばすことで、社会に貢献できる。
だから、自分を磨くことに価値があるのである。

いつからそれができるのか。
これは、学校にいる時からできる。
クラスの中で自分が得意なことがある。
これは、それを苦手とする人さえいれば、助けるチャンスである。

人の役に立てることの喜びを知ると、もっと自分を役立てたくなる。
そうすると、それがモチベーションとなり、更に自分を磨くことになる。
結果的に、なりたい自分に近づける。
幸福感も高まる。

それが、人一倍努力し、自分を磨き、能力を高めることで、得られるものである。

努力するのは、競争に勝って、一番になるためではない。
人の役に立ち、自分を最大限に生かすこと。
これからの共生の社会に生きる子どもたちに、学校で教えるべきことの一つである。

2019年11月26日火曜日

譲る行為は「尊徳」の世界

前号の「選択の自由と幸福」に関連して、「譲る」ことについて。

社会の中では「他人に譲って自分は選ばない」ということが考えられる。

卑近な例だと、誰かが差し入れでケーキを数種類を買ってきてくれて、誰から選ぶかという場面。
多くの場合「甘いものが特に好きな人(と認識されている人)」に先に譲る。
甘いものがそこまで好きじゃない人にとっては、正直どれでも同じという面もあるからである。
苺ショートケーキだろうがモンブランだろうが構わない。
この場合は、譲っても特に問題がない。

しかし「自分は苺ショートケーキが大好きで、モンブランは苦手」ということもある。
この場合、自分が譲ってモンブランが残ると、辛い。
どれでもよくはないからである。
最後にちょっと切なさが残る。

もっと重要な場合だと、例えば親友と同じ人を好きになってしまった場合。
親友に譲るかという話である。
これも、是非はあると思うが、譲る人は譲る。
辛抱と切なさが残る。

また「譲る」というのは、他の人の「やりたくない」を引き受けるという面もある。
例えば学校のPTA役員を決める際、「役員の押し付け合い」というのが起きることがあるらしい。
そういう時、譲る精神のある人は「では私がやりましょう」と手を挙げる。
無益な争い自体を好まないからである。
だから、多少大変でも、自分が辛抱すればよいと引き受けるのである。

つまり譲るという行為には、自分の損得を考えると難しい面があるといえる。

ここで「譲るやさしさと切なさ」ということを考えるにあたり、大好きな次の絵本を思い出した。

『花さき山』斎藤隆介 作 滝平二郎 絵 岩崎書店
https://www.iwasakishoten.co.jp/book/b192936.html

偶然にも、今年はこの本が出版されてから50周年だという。(上記出版社H.P.上に特設サイトが開設されていた。)
50年間愛され続ける作品というのは、人の魂に訴える本質的な何かがある。

「やさしいことをすると美しい花がひとつ咲く」というのがこの作品の中心的な価値観である。
この「やさしいこと」の例として挙げられているのが「辛抱」と「譲る」という行為である。

以下、本文より引用する。

==============================
(引用開始)
つらいのをしんぼうして、じぶんことよりひとのことをおもって
なみだをいっぱいためてしんぼうすると、そのやさしさと、けなげさが、
こうして花になってさきだすのだ。
(引用終了)
==============================

やさしいことは、辛抱や切なさを伴うことがある。
傷つかない保証付きでやさしさを発揮するというのは、なかなかに難しい。
親切が仇で返ってくることもしょっちゅうある。

世界が思いやりに溢れていて、誰もが愛と感謝で生きているとする。
こうした時は争いは起きず、自然に譲り合うということが起きる。
譲って傷つくこともない。
「競争」がないのである。

しかし、現実の社会はそうはなっていない。
自己を最優先に考え、他人よりも損をしたくないし、「平均」「普通」より上でいたい。
(「自分は平均以上か」という質問に対しては、過半数の人が平均以上だと答えるという、統計的におかしなことが起きる。)

だから、譲ってくれる人がいれば喜んで受け取り、場合によっては他人から勝ち取って奪うこともある。
競争社会である。

それでも、譲る人は譲り続け、与え続ける。
競争社会に生きる人は「それは損している。馬鹿だ。」という。

しかし、本当に心からそれをする人にとっては、それは損でも何でもない。
「損得」の世界ではなく「尊徳」の世界に生きている。
尊さなり徳なりを積んでいるのである。
それは、目に見えない価値観の世界である。
魂を磨く行為である。

私はここまで子どもたちをたくさん見てきて、魂の美しさは年齢に関係ないようであると感じている。
大人でも子どもでも、気付いている人は気付いている。
むしろ、幼児の方が気付いているようにすら思う。
(生きている内に余計な価値観を外側にたくさんくっつけられて、美しさが見えなくなっている場合も多い。)

多少しんどい思いをしても、譲る行為は尊い。
譲った後にしばらくして後悔することもあるが、それが人間である。

しかし尊いからといって、その行為を他に求めるのは、またそれも違う。
あくまで本人が気付いて行うことだからである。

9月の台風の時の記事でも書いた「ボランティアはさせていただく精神で」というのと同じである。
多少しんどい思いをしても、やはり「させていただく」ことなのである。

幸福感と辛抱。
相反するようだが、これらはワンセットである。
辛抱するからこそ、幸福感がある。
身体感覚的には、お腹が空くからこそご飯が美味しいのと同じである。

譲れる人になる。
それは成長の一つの形である。

2019年11月24日日曜日

選択できるのは幸福といえるか

学級の子どもにとっての「幸せ」とは何か。
これは学級担任として常に持ち続けている、主要テーマである。

このテーマに関連して、今回は「選択肢」について。

常に選択できるのは幸せか。
ここに関して、ずっと答えが出ない。

世の中には、選択できない不幸というのがある。
路上生活で、それしか食べるものがない子ども。
それをするしか生きる手段がない子ども。
色々な考え方があるが、やはりどう考えても、それが幸福とは思えない。

選択できる不幸というのがある。
AかBが選べる。
よくよく検討して、迷った挙句、Aを選んだ。
しかし、Aは思ったようなものではなかった。
Bがすごく良く見えてきたが、もう手に入らない。
これは、(見方に問題があるとはいえ)不幸である。

選択できる幸福というのがある。
AかBか好きな方を手に入れられる。
明らかにAが好き。
迷いなくAを選んで手に入れた。
文句なく幸せである。

選択できなかったけれど幸せというのがある。
最初から、Aということに決まっていた。
そして、今でもAが好きである。
これも、幸せである。

余談だが、離婚率が最も低いのは、「見合い」による結婚の場合だという。
実際、私の祖父母は、見合いで結婚したということを聞いた。
それも、相手の顔も見ない内に、もう既に全て決まっていたと祖母が語っていた。
戦争中で、色々な世相的事情があったそうである。

それで、嫌じゃなかったのかと聞いたら、「えかったっちゃねえとかね~」(良かったと思う)と言っていた。
お蔭様で自分が今ここにいることを考えると「えかったっちゃかね」と思う。

選択肢がないということは、あながち不幸とも言い切れないようである。
(しかしながら、単に本人に他の選択をしても幸せになれる素養があるだけかもしれない。)

これは「自由度が高い」ということにも関連する。
これが、いいことがある反面、手放しにいいとも言えない、というのが実感である。

今の自分の学級は、割と自由度が高いと思う。
しかしながら、何かにつけて「(先生に)決めて欲しい」という声は結構上がる。

なぜか。
ずばり、自由で選択できることが、往々にして「争いの種」になるからである。

自分なりに考察してみた結果、どうやら選択の自由の良し悪しには条件があることがわかってきた。

例えば、何かを選ぶ時。

学級の誰がどう選択しても、その選択したものが全員に行き渡るなら、選択が直接幸福感になり、問題は起きない。
例えばABCの三つから一つ選んでいいという状況。
学級30人で、ABCもそれぞれ30個ずつ用意されている。
これなら、争いは起きようもない。

一方で、誰かの選択が誰かの選択を阻む状況にある場合。
これは、選択できることが逆に不幸を生む種になり得る。

先の状況で、ABCが10個ずつしかない。
Aが大人気で、30人みんながAを欲しがったとする。
この場合、10人は満足して、20人は妥協してBかCになる。

更に言うと、Aを獲得した10人の中には、自分だけ望み通りになったことへの罪悪感を抱く人もいる。
Aが欲しいのに手に入らなかった周りの人を思って心を痛める人も出る。
そうなると、みんなが不幸である。
「最初からABCが割り当てられている方がまだいい」という人も当然出る。

競争はこれである。
1位は一人であり、最下位まで順位がつく。
一方が勝つから、他方は負ける。
いわゆる「ゼロサムゲーム」である。

学級における自由度は、どうあるべきか。
これは、個人の嗜好性や考え、哲学等に大きく左右される。

「自分だけが幸せになればいい」という考えの人にとっては、「平等」自体が不満である。
上下の差がつくことを求める。
勝負ではっきり白黒つけたい。
だから、選択肢がないことは耐え難い。
ただし、失敗した時の不幸度も高い。
勝ったら優越感で満足するが、負けたらものすごく悔しい。(質が悪いと、文句も言う。)

「みんなが幸せになるのがいい」という考えの人にとっては、自分の選択は正直二の次である。
自分だけが満足するより、争いが起きないことの方がいい。
だから、特にけんかや暴力は嫌いである。
この人たちにとって、選択の自由度は高くても低くてもどうでもいい。

だから、学級に求めるものが、個々で異なる。
「もっと自由と選択肢が欲しい」となるか「もっと規律と安定が欲しい」となるか。
どちらにも妥当性がある。

理想は「自由に選べるけど争いがない」という状態である。
しかし、これが実現している時、実は陰で誰かが我慢していることが往々にしてある。

学級における選択の自由はどうあるべきか。
まだまだ暗中模索である。

2019年11月22日金曜日

同僚性の欠如が不幸の根源

教育メルマガである以上書かざるを得ない、世間を騒がせている教師間のいじめ事件について。

この事件については方々で取り上げられており、周知のことである。
誰がどこからどう見ても陰湿で極めて悪いことである。
社会への負のインパクトも極めて大きく、日本中の学校教育関係者自体への信用失墜は免れない。

あれを知って、「教員になろう!」と思う若者が減ったことも容易に推測される。
次年度以降の全国の教員採用試験の壁も更に低くなった訳である。
つまり、教員の質の低下が加速する。

これによって、現場はまた同様か更にひどい事件を引き起こす人材(人災)を採用する可能性が高まる。
その最終的な被害者は、子どもたちであり、未来の社会である。
負のスパイラルの加速であり、痛恨の極みである。

今回の事件について、個人の性質等のことは置いておく。
残酷すぎて、到底尋常な精神でやれる行動ではない。
それに至る個人の精神構造については、想像を絶しており、複雑すぎて、正直全くわからない。

よって、ここでは集団としての問題のみに焦点をあてる。

今回の問題の集団としての構造的根本は、「同僚性の欠如」の一言に尽きる。
要は、みんな自分のこと、保身しか考えていなかったのである。
(視聴率をねらって、子どもが見る時間でも刺激的な映像を流すマスメディア側の人たちの問題と、本質は同じである。)

人は誰しも、自分が幸せになりたい。
幸せの形は違えど、みんな幸せになりたいのである。
それ自体は、自然なことであり、否定すべくもない。

そう考えると「他人の幸せを心から願う人はどうなのか」という疑問が湧く。
それは「誰かに幸せになって欲しい」という願いであり、それもやはりその人自身の幸せの形である。

そうであるならば、自分が本当に幸せになるにはどうするか考える必要がある。
それには、環境である。
幸せの必要条件としては、自分の周りが「快適な環境」であることが挙げられる。
周りが不幸だと、その不幸はやがて自分にも感染するのは、自明である。
(戦争が、その最もわかりやすい形である。)

教師の場合で考える。
第一の人的環境要因は、子どもが考えられるだろう。
学校が子どものための機関であり、教師が子どものための職業なのだから、当然である。

しかしある調査によると、教員のストレスに直接関わる第一要因は、「子ども」ではなく「同僚」であるという。
「保護者」も要因に挙げられるそうだが、保護者との問題も、同僚性が高い場合、解決できる。
つまり、子どもが言うことをきかなかろうが問題を起こそうが、同僚性が高ければ、何とかなる。
逆に言えば、同僚性が低いと、すべてが壊れる。

自分自身が本当に大切なのであれば、同僚を大切にする必要があるということになる。
自分のことしか考えないのは、結局自分を不幸にする。
同僚のことも考え、自分のクラス以外の子どもの幸せをも願ってこそ、自分自身も幸せになれる。
自分の周りにいる、不幸な状況にある人を放っておかないことである。
(一方で、他人を幸せにする義務もない。やりすぎは、幸せの押し付けになる。)

これは、教師だけでなく、保護者にもいえる。
我が子以外の子どもへの関心をもつことで、我が子が幸せになる。
保護者同士も、同様である。

「学級王国」と呼ばれる状態こそは、不幸の根源である。(「我が子第一主義」も同様。)
隣のクラスに勝つことを目的にしていては、自分も子どもも真に幸せになることはない。
同僚のクラスもその子どもも共に成長することを願うことで、自分も自分のクラスも幸せになれる。
自分の学級だけが順調であることに得々としている間は、不幸に向かっていると考えてよい。
そう考えると「学級経営」という言葉自体も、今後は考え直していく必要がある。

今回の件で最も怖いのは、一緒にいじめに参加した人がいたこと以上に、周りが止めなかった(止められなかった)ことである。
これは、子どものいじめの根幹的な問題点と完全一致する。
「言うべきを言う」というのは、本来他人を大切に思うからこそ発露する行為である。
(だから親は我が子に厳しくなりがちだし、真逆の「甘やかし」は言うべきを言わないので、子どもを不幸にする。)

いじめ自体は、前提として、どんな小集団にも発生し得ると考えるのが現実的である。
しかしながら、それが深刻化するか否かは、その集団のモラル一つにかかっている。
当事者ではなく、周囲が「悪いものは悪い」とはっきり認識し、止めることができるかにかかっている。
(ちなみに当事者は、何かしら問題を抱えているので、そういうメタ認知の視点がもてないことが多い。)

ここが全てである。

「愛の反対は無関心」という偉人の言葉の指す通りである。
(マザー・テレサの言葉だとかそうでないとか、諸説あり。)

学校における、職員の在り方。
学級というものの在り方。
競争から、共生へのシフト。

今回の事件は、全国の学校の抱える問題点が、かなり悪い形で表出した、氷山の一角である。
全国の学校関係者は、他山の石として、自分自身の働き方や在り方を見直していくべき機会である。

2019年11月20日水曜日

子どもの権利を尊重する

今日は世界「こどもの日」である。
11月20日が「子どもの権利条約」制定日であることがその理由である。

1954年、国連が世界中へ「こどもの日」を定めましょう、と呼びかけた。
その際、日本には既に1948年に制定した「こどもの日」があったため、そのままこの5月に当てたという経緯があるらしい。
(以上、ありがとう、ウィキペディアさん。)

日本のこどもの日について、祝日法2条によれば、
「こどもの人格を重んじ、こどもの幸福をはかるとともに、母に感謝する」
とある。

戦争や暴力、貧困の一番の犠牲者になるのは、子どもたちや女性である。
特に幼い子どもは、これら不可抗力に対し、自らを守ることができない。
保護が必要である。

子どもたちに対し、殊更に「権利」という言葉をつける意味はそこにある。
決してわがまま放題を認めるためではない。
大人には当然ある「権利」が子どもにも同様にあるのですよ、という再確認である。

当たり前のことだからこそ、再確認するようにしたい。

2019年11月18日月曜日

「ディスる」は、いじめ。

「校長先生の話」。
どういう印象をもっているだろうか。
世間一般では「つまらない話」の代名詞として通っている面がある。

しかし、それは誤解である。
もちろん、何の実感もこもっていない、血が通ってない埃をかぶったような話をする人も、中にはいるかもしれない。
しかし、そういう経験を一つ二つしたからといって、十把一絡げに全てを判断するのは、乱暴である。

日本人にも、自己主張の強い人がいるし、英語が得意な人もいる。
アメリカ人にも、控えめで発言しない人もいるし、日本語を日本人以上にわかっている人もいる。

つまり、今言ったようなことが、各国の人への、「私がステレオタイプ的と捉えているイメージ」である。
「校長先生の話」も同じように思われていると考えている訳である。
しかし、興味深く、ためになる校長先生の話というのは、世の中に実際かなり多く存在する。(と私は経験上思っている。)

以前にも書いたことがあるが、校長より「リスペクト」の大切さについての話があった。
本校の合言葉であるから、何度も登場するのは当然である。
全校児童の前で話すというのは、低学年から高学年までに伝わるように話すというのが、難易度の高さにつながる。

導入に「ディスる」という言葉が挙げられた。
高学年ほど、よく知っている。
いいか悪いかは別として、低学年でも知っている子どもがいる。
この略語の語源は何か、という問いである。

この語源が、実は「ディスリスペクト」である。
リスペクトの反対。
相手を蔑み、揶揄し、ぞんざいに扱う行為である。

これについて考えるようなお話で、今回も実に心に響いた。
話を聞くのが楽しみになるためには、一回ずつに力を入れることであると毎度ながら学べた。

以下は、それを聞いた後の、完全に私見。
私の考えである。

人間というのは、馬鹿にされると怒る。
無視されて腹が立つのも、順番を飛ばされると腹が立つのも同じである。
しかしながら、現代はこの人を馬鹿にするという最低の行為が、世間に肯定されている感が否めない。

例えば国民的地位を獲得したテレビの「お笑い」は、馬鹿をやる人、間の抜けた人、ズレた人をみんなで笑う文化である。
(中には、小噺のように、高度な一線を画すものもあるにはあるが、例外的である。)

そして、笑われている対象も笑っている。それがルールである。
そこに乗れないのは「寒い奴」「冗談のわからない奴」である。
「ボケ」であっても「ツッコミ」であっても自虐であっても同じで、そこの域を出ることはできない。
(そもそも、こういうことを言うと「ウザい」「寒い」「めんどい」等の一言で切ること自体も、相互コミュニケーション不全と思考停止の表れである。)

例えば「転ぶ」という行為を見て笑う。
「間違い」を見て笑う。
すべて「ズレ」である。
そこに笑いが起きる。
笑われた方は、怒ったりせずに、へらへらと、平然としている方が、周りに「いいね」と受け入れられる。

つまり、「ディスる」とは、単純に考えて嫌な行為であるが、やられた方は素直に気持ちを出せないという面がある。
しかし学生にきくと、「仲間同士のただのいじり」と答えるという。
「いじめじゃないの?」と問うと「相手が嫌って言ってないから」とケロリ。

いじめの定義に立ち返る。
いじめは、相手がどう感じているかが全てである。
つまり、顔で笑って心で泣いている可能性がある。
それは、想像力のある人間であれば、配慮できるはずである。

「ディスる」ような発言を親愛の表現だと感じられるかどうかは、関係性がすべてである。
余程の信頼関係がある者同士なら、それもあり得る。
お互いを「馬鹿」呼ばわりしながらリスペクトしているということも、決してないとはいえない。

しかしながら、それは「特殊状況」である。
それが一般化してくると、これは危険である。
「呼び捨ては親愛の証」というような解釈もあるが、ここの危険性である。

社会では、相手をリスペクトした呼称を付ける(「さん付け」等)というのが基本である。

ちなみに、高学年で担任や周囲から呼び捨てやあだ名で呼ばれている子どもは、リーダー的立場、支配的立場にある傾向が強いというデータもある。
乱暴な子どもが呼び捨てにされがちなのと相関性がありそうである。
逆に、発達の遅い子どもはあだ名で「ちゃん」付けされる傾向が強いというのが経験による私見である。

話を戻す。

基本は、相手を落とすような発言や扱いは、慎むべきである。
誰に対しても、リスペクトの気持ちをもって接するのが基本である。
(例えば、店員さんにぞんざいな態度をとる客も問題である。逆も然り。)

顔の見えないネット上なら何を言ってもいいといような大人の意識が、子どもに確実に反映されている。
「みんなでやれば怖くない」という集団意識と同調行動が、色濃く子どもに反映されている。
ここははっきりと言いたいのだが、いじめがなくならないのは、学校教育のみで解決する問題ではない。
かなりの部分、大人社会が反映している。

(しかしながら、そのような大人を作ったのは学校教育であり、その責任からは逃れられない。
そして、今世を騒がせている学校教員によるいじめ問題は、学校教育の根本を揺るがす大問題であるが、今回ここでは述べない。)

相手をけなさない。
馬鹿にしない。
傷つけない。

当たり前のことが、当たり前でなくなっている。
世間の「ノリ」や流れで、本質を見失わないようにしたい。

2019年11月16日土曜日

偽善者、どんと来い。

前号に続き、道徳教育についての所感、二点目。

二点目は「偽善者と言われるぐらい動け」である。

これは「モラル・ライセンシング」についての考えと関わる。
モラル・ライセンシングについては、以前も書いた。
https://hide-m-hyde.blogspot.com/2018/04/blog-post_10.html

簡単に言うと、人間は、善だと思うことを見たり発言したりすると、満足する。
自分がそれと一体になった錯覚に陥る。
偉い人の傍にいたり接したりすると、自分も偉くなったような気になるのと同じである。

そうすると、実際に少しぐらい悪いことをしてもいいという変な結論になる。
整合性もなく論理も滅茶苦茶だが、人間は感情の生き物なので、そういう風にできている。

ちなみに「ネット袋叩き」「炎上」も同じ効果である。
「正義」の側に立って集団で正義の剣を振りかざすため、優越感に浸れる。
いいことをした気になる。

だから、悪い行動をとる、あるいはいい行動をとらない、という結果になる。

逆をいくべきである。

いいことを言わなくていい。
代わりに、いいことをする。

あからさまにいいことを実際にやって、偽善者と呼ばれればいい。
そうすれば、世界は実際に一つ助かる。

先の関東への台風直撃で、義援金を贈ったロックスターがいる。
その被災地の出身だからということで、被災地での活動も行ったとニュースにあった。
この人は過去何年もあらゆる災害時にそういったことを続けてきており、トータルの寄付金は億を越える。
もはや一般人に「偽善」「売名」などと呼ばれるレベルをはるかに超越している。

ここまでくれば全く否定できないほどわかりやすいが、たとえ普通に「売名行為」であってもいいのである。
被災地で苦しんでいる人にとって助かるのは、外でいいことを言う人ではない。
物理的にも物質的にも、資金面でも、実際に助けてくれる人である。
(ちなみに、それをネット上などで呼び掛けて集めてくれる人も、単なる言葉ではなく実際的な動き、働きである。)

例え人気取りだろうが売名だろうが、実際の行動が全てである。
また、助けてくれるなら「力が強い方」がよりいい。
被災地であれば、どうせなら、素人より建築関係のプロの方が助かるに決まっている。

一方で、「数が命」という面もある。
「自分なんか役立たない」と思って動かないより、個人の力が弱くとも、集まってくれた方がいい。
何かしらできることがある。
「そんなことしても無駄」「弱いくせに」「偽善者」
などとパソコンやスマホで冷ややかな論評をしている人より、
はるかに実際的にも道徳的にも価値が高い。

偽善者、どんと来いである。

もっと、堂々と、いいことをしよう。

例えばそれは、日常生活でもいえる。
ごみが落ちてたら拾えばいい。
しんどそうな人がいたら、席を譲ればいい。
やる人がいなければ「やります」と言えばいい。
そういう人や子どもに「ゴマすり」「点数稼ぎ」「いい子ぶって」みたいに冷ややかな言葉や視線を浴びせる学級や社会に、明日はない。
いい行為には、大いに「いいね!」の声をあげるべきである。

だから、道徳的な発言自体に、意味はないと考える。
どうせ授業でやるなら「良いとわかっているのにできないんだけど、どうしたらいいか?なぜなのか?」をえぐり出す方がよほどためになる。
そこに共感しつつ、できる行動を一つやってみることである。

学級に道徳的行為を根付かせるなら、言葉ではうまくいかない。
よい行いを、実際にやること。
それを認めること。
冷やかさないこと。

愚直な、わかりやすい「よい行い」を認める。
斜に構えない。
学級で「朝の歌を誰よりも一生懸命に歌っている子どもを絶賛する」というのと同じ原理である。

何よりも、それに大人も挑戦してみる。
大人は、恥ずかしがるからいけない。
幼児が砂場でお友達を作るみたいに、すっと自然にやってみればいい。

自分にも何かできることがあるかもしれない。
そう思って実際に動く人が一人でも増えたらいいと願う次第である。

2019年11月15日金曜日

子どもと教材の距離感を考える

学校における道徳教育は、あるいは道徳科の授業はどうあるべきか。
ここについてはずっと関心事であるため、何度も記事にしている。

何度も授業をして、実感していることがある。
次号と合わせて、二点述べる。

一点目。
登場人物の気持ちになって考える活動は、無理が生じるという点。

これは、その立場に立って考えられるかという問題である。
つまり、想像力命となる。
それは、経験の下支えが大きい。

例えば、全財産を失って路上生活を余儀なくされた状態から、努力して世界的大富豪になった人物の気持ちを想像してみる。
これは、かなり難しい。
話を読んだり映画を見てすごいとは思えるが、その立場に立っての想像はかなり難しい。
自分の実際の経験と、かけ離れすぎているからである。

経験値が多いほど、想像はしやすい。
つまり、教材と子どもとの距離の問題である。

これは他教科にも言える。
例えば算数で軽量スプーンを使った問題を解く際、料理の経験の有無は理解度を大きく分ける。
家にデジタル時計しかない家庭に育った子どもが、小学校に入ってアナログ時計を読む問題を解くのはかなり難しい。
以前も書いた「南国の子どもが雪を想像する困難さ」というのと同じ話である。

ただ、そういう経験とかけ離れた立場の状態に立って考えるというのは、価値がない訳ではない。
見たことや触れたことのないものは学ばなくて良いというのは、暴論である。
単に、そこへ配慮をしないと、問題が生じるということである。

有名な古典的教材でいうと、『手品師』。
街はずれに住む、大きな舞台を夢見て売れない手品師の気分。
大チャンスを棒に振って、一人のかわいそうな子どもの前で手品を見せる気分。

この立場になって子どもに想像させるのは、かなり難しい。
自然、話の方向が、情緒的になる。
「優しさが大切」みたいな変な着地点にいきやすい。
現実的に、切実に、問題解決的に考えられないのである。
(やりようではあるが、えてして強引になりやすい。)

子どもと教材の距離感を考えるというのが、肝になる。

次号は、道徳教育と実際の行動の乖離についての考察を述べる。

2019年11月14日木曜日

メディアの子どもへの影響を考える

前々号の「正義とは仮面」に関連する話。
メディアの子どもへの影響、社会への影響について。

「仮面ライダー」はじめ、正義のヒーローものが、子どもたちに勧善懲悪をすすめる結果となった、という話が書いてある。
「正義のヒーロー」を書いてきた脚本家が言うのだから、見当違いな話、ということはないはずである。

メディアの子どもに与える影響は、絶大である。
テレビが出始めの頃は、見られる番組も少なく、その中に野球中継があり、『巨人の星』があった。
だから、少年たちの多くは巨人に憧れた。
みんなで集まってこぞって野球をやり、将来の夢はエンジニアかプロ野球選手。
メディアによって価値観が統一されていった初期の時期だったと推測される。

今はどうか。
インターネットによって、触れられる世界が無限に広がり、価値観が多様化している。
広すぎるが故に、様々な価値観の影響を受ける。
しかしながら、テレビの影響は未だに大きい。
アニメの類は、特にそうである。

多くの漫画・アニメ・映画やドラマは、「勧善懲悪」の形をとる。
それも、悪役が、わかりやすすぎる程に、すごく悪い。
人々を苦しめることを目的としていたり、私利私欲にすごく目がくらんでいたり、世界征服を企んでいたりする。
「悪対正義」の構造がわかりやく、理解しやすい。
ヒーロー側は、苦難を乗り越えて、強くなっていき、最後に悪を倒す。
『仮面ライダー』の構造である。

繰り返すが、この「正義」は、「仮面」である。
強い者(この場合は、テレビ番組の製作者)によって規定されている。
それが本当に正しいこと、真実であるかは関係がない。
ある立場から見た「正義」であるが、それは強い者の立場である。
(弱い正義というのは、存在しない。)

この構造は、ヒーローものに限らない。
王子様やお姫様が出てくるような物語や昔話の類も、大体同じ構造である。
その場合、性格の悪いいじわるな人や魔女が悪役である。
ついでに余計なことに、最後に王族になったりお金持ちになったりする。
「正義」に「勝利」と「地位と名誉」が紐づけされる構造である。

これでいいのか。

現実の世界では、努力をしても勝てないことも多いし、大金持ちにもならないし、まして王族にはならない。
多くの人々の実際は、相当な努力をし、報われない中にも慎まやかな喜びを得る。
それは他人からの「ありがとう」の一言かもしれないし、やり切った充実感かもしれない。
そうそう、派手なことは起きないものである。

メディアが、こういった現実の世界とはかけ離れた「成功」の形を提示していないか。
子どもの価値観が、正義が、変な形で規定されていないか。
サクセスストーリーというのは、子どもにもわかりやすいがゆえに、そこが怖いところである。
現実は、お互いの正義や利害関係が複雑に絡み合う。
そんな単純構造をしていないのである。

学校では「正義は悪をやっつけていい」というのは「先生が言ってた」という形をとる。
あるいは「誰誰はきまりを破っていたから悪い奴。だから注意した、叩いた。」という形をとる。

もう少し幼稚な時期だと「いけないんだ~」の言葉となる。
誰が「いけない」と言っているのか。
学校のきまり、つまり、低学年の子どもにとって絶対的存在である「先生」であるという主張である。
だから、子ども同士の諍いにおける最強の脅し文句は「先生に言う」である。

全部、他人の価値観である。
本来「私はそれをいけないと思う」と言うべきところを、他人のせいにしている。
強い他者が保証した正義を振りかざしている。

そうなるように、小さい頃から、社会に仕込まれている。
何しろ「正義は勝つ」のだから、仕方ない。
悪い奴には、正義の鉄槌である。

本当に、相手が絶対に悪いのか。
自分にも悪いところや、落ち度があるのではないか。
相手にもそうせざるを得ない立場にある何か事情があるのではないか。
そういったことに思いを馳せることが、本来大切なはずである。

メディアの子どもに与える影響というのは、絶大である。
SNS全盛の今、みんなで正義の声を挙げて、個人を叩くことが多すぎる。
それは、正義の皮を被った集団リンチである。
子どもたちに、いじめを推奨している行為である。

マスメディアの存在の影響は、教育現場にとっても、常に考慮しておくべきことである。

2019年11月13日水曜日

言葉のもつ力

前号も紹介した、次の本からの気付き。

『ことばの贈りもの』 松岡享子 著 東京子ども図書館
https://www.amazon.co.jp/dp/4885690234

言葉というもののもつ力について。

この本の中に、言葉のもつ力の一つについての記述がある。
幼児に「ひっくり返す」という行為を覚えさせる場面。
その言葉を教える場合とそうでない場合とを比べると、習得速度に雲泥の差が出るという。

ある行為と「ひっくり返す」という言葉が結び付く。
そうやって、子どもは学びを獲得していくという。

つまり、言葉と経験は、紐付いている。
そうやって、言葉を獲得するとと共に、経験自体も獲得していく。
経験に言葉が結びつき、効率よく記憶されるのである。

だから「書く」という行為には意味がある。
経験を書くことで、流れてしまうものが記憶に残り、学びとなる。
先人の書き残したものがあるから、それを受け継ぐ我々は恩恵を受けられる。
言葉のもつ大きな力である。

そして、言葉にはその表現に限界がある。
同じ言葉を知っていても、その内実は全く違うということはままある。

例えば「家族」とは、どういうものを指すのか。
ストリートチルドレンのように、家族を持ったことのない子どもに、わかることができるか。
あるいは、両親がいる子どもを二人並べても、同じ家族という言葉の指す意味やイメージは全く異なる。
あるいは、兄弟間でさえ違うかもしれない。

「家族っていいね」という話をしても、全くそうとは思えないという子どももたくさんいるということである。

そう考えると、一律に何かの価値について指導するということへの無理もよくわかる。
言葉の指す意味の違う者同士が、同じ理解をできる訳がない。

だからこそ、感じ方の違いを話し合うことに意味がある。
「まさかそう感じていたとは」というギャップに気付ける訳である。
誤解が解けることになる。

つまり、一方的に伝えても、伝わらない。
受信者側のフィルタを通る時には、言語の意味変換が行われるからである。

これは、幼児や低学年の子どもを指導すると、練習になる。
大人が普通に使う言葉のいちいちの意味が、さっぱりわからないからである。
だから「何で?」「どういうこと?」とたずねてくる。

問われると、初めて気付く。
確かに、言われてみると、どういうことなのだろう、と悩むことになる。

先日の学級会では「思いやり」とは何かについてみんなで悩んだ。
「思いやり」という言葉をつかうと、すべての問題が解決したようになってしまう。

しかしながら、それは実際にどういうことなのだろうか。
例えば、言うべきことを言うのは思いやりか。
嘘をつかないのは思いやりか。
「優しい気持ちで相手の立場になって考えること」
と辞書にあれば、優しいの指す意味も問われる。
すべては、個々の経験と紐付いているため、共通の理解ができないのである。

いつでも相手の立場で物事を考えられたら、争いはなくなる。
しかしながら、なぜその行動を自分がとれないのか。
または、それをできない立場、心境の人がいるのか。
そこに切り込まない限り、素晴らしい言葉も、空虚である。

言葉のもつ力は、偉大である。
だからこそ、素晴らしい言葉を使う時は、難しいし、注意が必要である。
子どもとともに考えることを、これからも大切にしていきたい。

2019年11月12日火曜日

正義とは仮面だ

タイトルは、次の本からの引用。

『ことばの贈りもの』 松岡享子 著 東京子ども図書館
https://www.amazon.co.jp/dp/4885690234

「正義とは仮面だ」とは、ウルトラセブンや仮面ライダーの脚本家である市川森一さんの言葉である。
我々、ウルトラマン、仮面ライダー世代の人間からすると、衝撃的な言葉である。

つまり、誰でも正義の仮面を被れるということ。
この本の中では、地下鉄サリン事件におけるオウム真理教信者の「正義」についての記述がある。
正義の仮面さえ被れば、どんな卑劣なことも「正しいこと」としてしまえる恐ろしさである。
原爆問題と同じ構造である。

ここからは私見。

「正義」についての疑問は、以前から何度も書いてきた。
例えば、次の記事である。
『日本語の「正義」にあって英語の「justice」にはない、大切なもの』
https://www.mag2.com/p/news/260399

「正義」というのは、正しさである。
正しさというのは、常に相対的である。
物差しがあるからこそ、正しい(プラス)と誤り(マイナス)が規定される。
誰かに与えられたものといえる。

「正義の仮面」を与えられたと勘違いする人間は、危険である。
正義を他者に規定されるため、思考が停止する。
「正しいと言われたから、やってもいい」ということになる。
(「ウルトラマン」で子どもの頃からずっと疑問だったのが、破壊されるビルの中の人々のことである。
ハリウッド映画での様々なヒーローの、街中の逃走・暴走・追跡シーンも同様である。
正義のためだからやっていいという類のものではない。)

これは子どもの「先生が言ってた」と同じ幼稚な思考パターンである。
子どもは、子ども同士を自分の考えに従わせる場合、子どもにとって強い「正義」である先生や親を利用する。
そこに正義が規定されているのだから、「錦の御旗」「絶対」として堂々と正義の剣を振りかざせる。

これは、大人社会でも同様である。
相手より上の立場の意見である「正義」をちらつかせれば、弱い者は言うことをきく。
自分の存在の大きさは関係なくなる。
「あの偉い人が言ってた」となれば、それは急に正義になる。

教育現場では黒いカラスが白くなることなど、ざらにある。
(ゆとり教育などは、その最もわかりやすい例である。)

ネット上で、「叩く」行為も全てこれである。
この場合の正義は「世論」という架空にして確かに「ある」存在から与えられている。
(それが故に完全に責任者不在なのが厄介である。)

思考停止してはいけない。
絶対的な正しさは存在しない以上、常に考える必要がある。(この一文自体も矛盾を含むのが、悩ましいところである。)
正しさは、常に自分の心で追い求める。

正義とは、仮面。
例えば学校の正義とは、文科省から与えられた仮面である。
指導する際にも、このことは常に忘れずにいたい。

2019年11月11日月曜日

学校の不適応

不登校は「問題」である。
問題とは、解決できなくて困るということである。
逆にいえば、困っていないこと、将来的にも困りが予想されないことは、問題とはいえない。

誰が困っているのか。
何に困っているのか。
この辺りの焦点がずれると、不毛な議論になる。

子どもが、学校に不適応を起こしている。
これは、学校から見た「問題」である。
子どもが学校に適応できるように、どう工夫しましょうということが「問題」になる。

学校が、自分(子ども自身)に不適応を起こしている。
これは、子どもから見た「問題」である。
学校に自分は適応できるのか、またそうすべきかということが「問題」になる。

さて、見方を変えたが、もう一つ、この議論には前提となる事柄がある。

それは
「学校の存在は正しい」
という大前提である。

こういう大前提を考え直そうと言うと、反発を食らいやすい。
そういうことは「当たり前」のことであり、考えること自体が不快なことだからである。

学校の存在は、正しいか。
正確には、現在の、実際の学校教育の在り方は正しいか、である。
それも、社会に対しての在り方である。

子どもが学校に不適応を起こしている以前に、
学校が社会に不適応を起こしている点があるのではないか。

学校の今の教育の在り方は、社会の要請に合っているといえるのか。

例えば「みんなで揃えましょう」ということは、社会でどう生かされているのか。
テストの点数の平均点や成績の評定は、今の子どもたちが大人になる頃に、どれぐらい生きるものなのか。
学校教育の枠の中できっちりやれることが、変化の著しいこの時代に、逞しく生き抜く力を育むことにつながるのか。

学校教育におけるこの手の疑問を挙げていくと、枚挙に暇がない。

さて、そんな疑問を抱くのは、一部の特異な人間かというと、そうでもない。
恐らく、かなり多くの人が感じてはいることである。
「学校の意味ないと思うことあるある」として、お笑いやネットの悪口掲示板等のネタになることもしばしばある。
しかし、特に学校関係者は、言わない。

なぜか。
内部で叩かれるからである。
学校における「今までこうしてきた」は、何にも勝る最強の存在価値である。

更に言うと、自己否定にもなる。
ここまで積み上げてきた先人の「実績」を否定することにもなる。
誰よりもお世話になってきた、この学校教育を否定することにもなる。

それでも、今の調子だと、子どもたちは、社会の求める姿には育たない。
基本の成功ロールモデルが、どうしてもやっぱり高度経済成長期のままなのである。
「我慢」や「揃える」「指示通りに動く」「決められた正解を答える」等の能力は、「24時間働けますか」の時代に求められた能力なのである。

ここが変わらない限り、社会に求められている自主的で個性的な人間は、残念ながら育たないと思われる。
(そもそも公教育というのは個性を育む場ではない、という議論は一旦脇に置いておく。)
特に「天才」タイプは育たない。
不適応を起こしている子どもの中には、いじめ等が原因ではなく、学校教育に意味を見出せない子どもも含まれているはずである。

だとしたら、学校現場が変わるしかない。
子どもの見方一つとっても、学校の在り方は変わるはずである。

目の前の子どもは、学校教育の中の「当たり前」の何に苦しんでいるのか。
その「当たり前」はその子どもにとって、本当に必要か。
例えば、そんなことを問うだけでも、変わる部分があるはずである。

できることから、地道にやっていきたい。

2019年11月10日日曜日

学級経営と授業

「学級経営」という言葉がある。
「経営」を英語に直訳すると「マネジメント」という言葉になる。
つまりは「学級マネジメント」である。
学級担任とは、学級という組織のマネージャーである。

マネジメントといえば、かの有名なドラッカーである。
この考えに基づくと、マネージャーは
・目標設定および動機付け
・役割分担
・メンバー同士をつなぐ
・リスク管理
等々の役割をもつ。

学級におけるこの部分を担保するのが、学級担任の中心的な仕事と考えると、わかりやすい。
学級における目標を定めてやる気を引き出し、子ども同士をつなげながら、安全面に配慮した役割分担をして組織体を動かす。
ここが学級担任の主な役割である。

授業はどうか。
実は、授業は「学級担任の直接の仕事とは別」と考える方が、わかりやすい。
学級担任の仕事というより、授業者としての仕事である。
現に、学級担任以外にも専科や外部講師のように、授業だけをする役割もある。
授業者には先の考えに基づいた「授業マネジメント」の視点が必要である。

つまり、授業中に目標を定めてやる気を引き出し、子ども同士をつなげながら、安全面に配慮した役割分担をして進行する。
毎回の一つの授業中に、これら全てを行う必要がある。

つまり、授業を直接するのは、学級担任でなくともよいといえる。
現に、中学校以降では担任が自分の学級で授業するのはごく一部の教科だけである。
逆にいえば、学級担任がすべきマネジメント面を放置していては、仕事をしているとはいえない。

学級経営の力と授業の力は、方向性の同じ別の能力であると考える。
ここを分けて考えないと、学級経営は授業づくりが先か学級づくりが先かという不毛な議論になる。

したがって「学級経営はいいけど授業は下手」という場合もある。
逆に「学級経営は成立していないけど授業(あるいは論)はできている」という場合もある。

例えば、授業自体は良いが指導案で表現するのが下手ということもある。
「指導案は完璧だけど実際の授業は・・・」というのもある。
実践者と学者との違いともいえる。

現場教員としては、実際の授業ができる方を求められる。
研究者ならば、逆である。(附属小学校のような実践研究校に至っては、この辺りがややこしい。)
実務と理論の齟齬である。
もちろん、両輪あれば最高だが、現場で必要なものと学問の世界で必要なもの、求められるものは違う。
一般社会における現場と官僚との意見が全く噛み合わないのも、そこに原因の一つがある。

では、学級担任は、結局どちらから手をつければいいのか。
学級経営も、授業も、どちらもやるよう役割を振られているのだから、どちらもやる。
ただし、分けて行う。
自分が今考えている方策が、学級マネジメントなのか、授業マネジメントなのか、自覚することである。

優先順位はある。
当たり前だが、いじめがある状態で「みんなで仲良くしよう」というテーマの道徳や特活の授業をやっても、大怪我は目に見えている。
いじめ解消という学級マネジメントが優先である。(いじめはマネジメント視点の全てに反する。)
それが解消してからの、その授業である。
あるいは、その問題に気付かせるような授業マネジメントをして実施し、その後の学級マネジメントに生かす。

学級経営と授業。
特に小学校では、異なる二つを一緒くたにしてしまうから、混乱してしまうと考える次第である。
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