前号の「選択の自由と幸福」に関連して、「譲る」ことについて。
社会の中では「他人に譲って自分は選ばない」ということが考えられる。
卑近な例だと、誰かが差し入れでケーキを数種類を買ってきてくれて、誰から選ぶかという場面。
多くの場合「甘いものが特に好きな人(と認識されている人)」に先に譲る。
甘いものがそこまで好きじゃない人にとっては、正直どれでも同じという面もあるからである。
苺ショートケーキだろうがモンブランだろうが構わない。
この場合は、譲っても特に問題がない。
しかし「自分は苺ショートケーキが大好きで、モンブランは苦手」ということもある。
この場合、自分が譲ってモンブランが残ると、辛い。
どれでもよくはないからである。
最後にちょっと切なさが残る。
もっと重要な場合だと、例えば親友と同じ人を好きになってしまった場合。
親友に譲るかという話である。
これも、是非はあると思うが、譲る人は譲る。
辛抱と切なさが残る。
また「譲る」というのは、他の人の「やりたくない」を引き受けるという面もある。
例えば学校のPTA役員を決める際、「役員の押し付け合い」というのが起きることがあるらしい。
そういう時、譲る精神のある人は「では私がやりましょう」と手を挙げる。
無益な争い自体を好まないからである。
だから、多少大変でも、自分が辛抱すればよいと引き受けるのである。
つまり譲るという行為には、自分の損得を考えると難しい面があるといえる。
ここで「譲るやさしさと切なさ」ということを考えるにあたり、大好きな次の絵本を思い出した。
『花さき山』斎藤隆介 作 滝平二郎 絵 岩崎書店
https://www.iwasakishoten.co.jp/book/b192936.html
偶然にも、今年はこの本が出版されてから50周年だという。(上記出版社H.P.上に特設サイトが開設されていた。)
50年間愛され続ける作品というのは、人の魂に訴える本質的な何かがある。
「やさしいことをすると美しい花がひとつ咲く」というのがこの作品の中心的な価値観である。
この「やさしいこと」の例として挙げられているのが「辛抱」と「譲る」という行為である。
以下、本文より引用する。
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(引用開始)
つらいのをしんぼうして、じぶんことよりひとのことをおもって
なみだをいっぱいためてしんぼうすると、そのやさしさと、けなげさが、
こうして花になってさきだすのだ。
(引用終了)
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やさしいことは、辛抱や切なさを伴うことがある。
傷つかない保証付きでやさしさを発揮するというのは、なかなかに難しい。
親切が仇で返ってくることもしょっちゅうある。
世界が思いやりに溢れていて、誰もが愛と感謝で生きているとする。
こうした時は争いは起きず、自然に譲り合うということが起きる。
譲って傷つくこともない。
「競争」がないのである。
しかし、現実の社会はそうはなっていない。
自己を最優先に考え、他人よりも損をしたくないし、「平均」「普通」より上でいたい。
(「自分は平均以上か」という質問に対しては、過半数の人が平均以上だと答えるという、統計的におかしなことが起きる。)
だから、譲ってくれる人がいれば喜んで受け取り、場合によっては他人から勝ち取って奪うこともある。
競争社会である。
それでも、譲る人は譲り続け、与え続ける。
競争社会に生きる人は「それは損している。馬鹿だ。」という。
しかし、本当に心からそれをする人にとっては、それは損でも何でもない。
「損得」の世界ではなく「尊徳」の世界に生きている。
尊さなり徳なりを積んでいるのである。
それは、目に見えない価値観の世界である。
魂を磨く行為である。
私はここまで子どもたちをたくさん見てきて、魂の美しさは年齢に関係ないようであると感じている。
大人でも子どもでも、気付いている人は気付いている。
むしろ、幼児の方が気付いているようにすら思う。
(生きている内に余計な価値観を外側にたくさんくっつけられて、美しさが見えなくなっている場合も多い。)
多少しんどい思いをしても、譲る行為は尊い。
譲った後にしばらくして後悔することもあるが、それが人間である。
しかし尊いからといって、その行為を他に求めるのは、またそれも違う。
あくまで本人が気付いて行うことだからである。
9月の台風の時の記事でも書いた「ボランティアはさせていただく精神で」というのと同じである。
多少しんどい思いをしても、やはり「させていただく」ことなのである。
幸福感と辛抱。
相反するようだが、これらはワンセットである。
辛抱するからこそ、幸福感がある。
身体感覚的には、お腹が空くからこそご飯が美味しいのと同じである。
譲れる人になる。
それは成長の一つの形である。
2019年11月26日火曜日
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