2019年11月11日月曜日

学校の不適応

不登校は「問題」である。
問題とは、解決できなくて困るということである。
逆にいえば、困っていないこと、将来的にも困りが予想されないことは、問題とはいえない。

誰が困っているのか。
何に困っているのか。
この辺りの焦点がずれると、不毛な議論になる。

子どもが、学校に不適応を起こしている。
これは、学校から見た「問題」である。
子どもが学校に適応できるように、どう工夫しましょうということが「問題」になる。

学校が、自分(子ども自身)に不適応を起こしている。
これは、子どもから見た「問題」である。
学校に自分は適応できるのか、またそうすべきかということが「問題」になる。

さて、見方を変えたが、もう一つ、この議論には前提となる事柄がある。

それは
「学校の存在は正しい」
という大前提である。

こういう大前提を考え直そうと言うと、反発を食らいやすい。
そういうことは「当たり前」のことであり、考えること自体が不快なことだからである。

学校の存在は、正しいか。
正確には、現在の、実際の学校教育の在り方は正しいか、である。
それも、社会に対しての在り方である。

子どもが学校に不適応を起こしている以前に、
学校が社会に不適応を起こしている点があるのではないか。

学校の今の教育の在り方は、社会の要請に合っているといえるのか。

例えば「みんなで揃えましょう」ということは、社会でどう生かされているのか。
テストの点数の平均点や成績の評定は、今の子どもたちが大人になる頃に、どれぐらい生きるものなのか。
学校教育の枠の中できっちりやれることが、変化の著しいこの時代に、逞しく生き抜く力を育むことにつながるのか。

学校教育におけるこの手の疑問を挙げていくと、枚挙に暇がない。

さて、そんな疑問を抱くのは、一部の特異な人間かというと、そうでもない。
恐らく、かなり多くの人が感じてはいることである。
「学校の意味ないと思うことあるある」として、お笑いやネットの悪口掲示板等のネタになることもしばしばある。
しかし、特に学校関係者は、言わない。

なぜか。
内部で叩かれるからである。
学校における「今までこうしてきた」は、何にも勝る最強の存在価値である。

更に言うと、自己否定にもなる。
ここまで積み上げてきた先人の「実績」を否定することにもなる。
誰よりもお世話になってきた、この学校教育を否定することにもなる。

それでも、今の調子だと、子どもたちは、社会の求める姿には育たない。
基本の成功ロールモデルが、どうしてもやっぱり高度経済成長期のままなのである。
「我慢」や「揃える」「指示通りに動く」「決められた正解を答える」等の能力は、「24時間働けますか」の時代に求められた能力なのである。

ここが変わらない限り、社会に求められている自主的で個性的な人間は、残念ながら育たないと思われる。
(そもそも公教育というのは個性を育む場ではない、という議論は一旦脇に置いておく。)
特に「天才」タイプは育たない。
不適応を起こしている子どもの中には、いじめ等が原因ではなく、学校教育に意味を見出せない子どもも含まれているはずである。

だとしたら、学校現場が変わるしかない。
子どもの見方一つとっても、学校の在り方は変わるはずである。

目の前の子どもは、学校教育の中の「当たり前」の何に苦しんでいるのか。
その「当たり前」はその子どもにとって、本当に必要か。
例えば、そんなことを問うだけでも、変わる部分があるはずである。

できることから、地道にやっていきたい。

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