2019年11月15日金曜日

子どもと教材の距離感を考える

学校における道徳教育は、あるいは道徳科の授業はどうあるべきか。
ここについてはずっと関心事であるため、何度も記事にしている。

何度も授業をして、実感していることがある。
次号と合わせて、二点述べる。

一点目。
登場人物の気持ちになって考える活動は、無理が生じるという点。

これは、その立場に立って考えられるかという問題である。
つまり、想像力命となる。
それは、経験の下支えが大きい。

例えば、全財産を失って路上生活を余儀なくされた状態から、努力して世界的大富豪になった人物の気持ちを想像してみる。
これは、かなり難しい。
話を読んだり映画を見てすごいとは思えるが、その立場に立っての想像はかなり難しい。
自分の実際の経験と、かけ離れすぎているからである。

経験値が多いほど、想像はしやすい。
つまり、教材と子どもとの距離の問題である。

これは他教科にも言える。
例えば算数で軽量スプーンを使った問題を解く際、料理の経験の有無は理解度を大きく分ける。
家にデジタル時計しかない家庭に育った子どもが、小学校に入ってアナログ時計を読む問題を解くのはかなり難しい。
以前も書いた「南国の子どもが雪を想像する困難さ」というのと同じ話である。

ただ、そういう経験とかけ離れた立場の状態に立って考えるというのは、価値がない訳ではない。
見たことや触れたことのないものは学ばなくて良いというのは、暴論である。
単に、そこへ配慮をしないと、問題が生じるということである。

有名な古典的教材でいうと、『手品師』。
街はずれに住む、大きな舞台を夢見て売れない手品師の気分。
大チャンスを棒に振って、一人のかわいそうな子どもの前で手品を見せる気分。

この立場になって子どもに想像させるのは、かなり難しい。
自然、話の方向が、情緒的になる。
「優しさが大切」みたいな変な着地点にいきやすい。
現実的に、切実に、問題解決的に考えられないのである。
(やりようではあるが、えてして強引になりやすい。)

子どもと教材の距離感を考えるというのが、肝になる。

次号は、道徳教育と実際の行動の乖離についての考察を述べる。

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