2021年6月29日火曜日

自治的学級づくりは全ての時間に行う

 自治的学級づくりについて。


自治的な学級をつくりたいと思っている人は多い。

子どもたちが主体的になっていきいきと学ぶ姿は、多くの人が求めるところである。


これを、学活の時間だけで作ろうとしても、無理である。

クラス会議だけに力を入れたら自治的な学級ができるかといえば、そんな訳はない。


自治的な学級をつくるのであれば、全ての時間に自治的学級づくりを取り入れていく。

朝の支度から帰りまで全てである。

国語や算数、体育などの教化でも、当番活動でも係活動でも休み時間でも、全てで自治を意識して指導する。


基本的な指導方針は、それで自力がつくかどうかである。

最初は教えるが、後は自力でできるようにしていくのが基本である。

たとえ躓いた時、転んだ時に助けるかどうかも、自力で立ち上がって進んでいけそうかどうかで判断する。


自分たちで何とかできることを常に求めていく。

指導者がすることは、直接手を貸すことよりも、自力あるいは仲間と協力して解決できるよう促すことである。


そうすると、必ずうまくいかないこと、トラブルが起こる。

トラブルは成長のための必修科目である。

間違い、失敗、ケガもけんかも全て含まれるが、どれも「必修」である。


失敗するには、チャレンジする機会と場の設定が必要である。

一日の中に、チャレンジできる時間をいくつ設けられるか。


例えば朝の会にどれぐらい子どもが使える時間があるか。

例えば算数の授業中に、どれだけ子どもが何かを選択してチャレンジできる時間があるか。


また、それらをした際に必須で生ずる失敗へのフォローがなされるか。

失敗して馬鹿にされたり笑われるようでは自治的学級づくりはできない。

失敗を当然のこととして受け止めるだけでなく、むしろ挑戦の証、成長の糧として歓迎する風土をつくろうとすることである。


今やっていることは、子どもの自治につながるか。

集団を指導する際に常にその視点があると、指導に一貫性が生まれるはずである。

2021年6月27日日曜日

大きな声は手詰まりの証

 指導での気付き。


授業中、指導者の声がだんだん大きくなってくる。

これは、手詰まりになってきた証であり、危険信号であると考える。


なぜか。


声が大きくなってきたということは、騒がしくなっているということである。

つまり、収拾がつかない状況に陥っているという面が一つ。


更に、声が大きくなるということは、虚勢を張っている時の行為である。
(聞かないだろうから)聞かせようという思いが強い時にも、声が大きくなりがちである。

また、焦っている時にも声が大きくなる。

怒っている時もそうである。

つまり、心理的に不安定で追い込まれている時に出るのが、大きな声である。


本当に自信がある状態というのは、心理的に穏やかである。

自信がある人が、大きな声を出すことはない。


例えば、ある二人が言い合いをしているとする。

声を荒げている方と、冷静に話している方がいたら、後者が優勢であるように見える。


自分の声が大きくなってきていることに、気付けるか。

ここがポイントである。

自分を客観的にメタ認知できるかどうかである。


これから、ますます暑くなってくる。

環境が身体に及ぼす影響は大きく、身体が心理に及ぼす影響も大きい。

暑くなってくるこれからの時期こそ、声の調節には気を付けていきたい。

2021年6月25日金曜日

「おこだでませんように」を考える

 先日、小学館の編集者の方から、低学年のおすすめの絵本について尋ねられた。

今月の『『教育技術小一・二』6・7月合併号

https://www.shogakukan.co.jp/magazines/series/053000

に載っているものがそれである。


いくつか挙げたが、誌面の関係で精選された。

そうしたら、私のおすすめのいくつかは、他の人もおすすめしていたとわかった。

例えば、次の本である。


『おこだでませんように』 くすのきしげのり・作 石井聖岳・絵  小学館(2008)

https://www.amazon.co.jp/dp/4097263293


七夕近くの時期に特におすすめの本である。

いつも怒られている子どもの七夕の願いが「おこだでませんように」。

切実である。

読むと心が温かくなり、かつ、大人にとっては、ちくりと(あるいは、ぐさりと)刺さる本である。


さて、この「おこだでませんように」は、あるやんちゃすぎる子どもの願いとして書かれている。

しかし、これは、子ども、大人を問わず、ほとんどの人に当てはまる願いではないのかと思ってしまった。


みんな、一生懸命がんばって生きている。

そして、失敗はしたくない。

なぜか。

怒られるからである。

大人たちも、小さい頃から現在まで、刷り込まれている感情である。


今はSNS全盛で、ミスをしたら怒られるどころではない。

見ず知らずの人たちからまでも叩かれ、蔑まれ、潰される時代である。

(逆に、共感さえ生めれば、世界中を味方にできるチャンスでもある。)


時代の流れも手伝って、多くの人の最上位の願いが「人から怒られないこと」となる。


人によっては

「暴力を振るわれませんように」

とか

「嫌味を言われませんように」

とかに変化する。

社会でも家庭でも同じである。


平穏無事はいいことだが、攻撃されないことを人生の目的に生きるというのは、人間的というより野性的である。


周囲に怒られない生き方。

それは、周囲に溶け込む生き方であればいいが、周囲に媚びる生き方にもなり得る。

決して、飛び出てはいけない。

決められたことを相手に求められた通りに遂行すれば、怒られない。


しかしながら、それは感情のないロボットの超得意分野である。

プログラミングである。

人間がプログラミングを学ぶのはいいが、人間が他者にプログラミングされていいものかどうか。


じゃあ怒る側が怒らなければいいじゃないかということになる。

(ちなみに、怒られた側も実は同じぐらいかそれ以上に怒っている。)

しかしながら、一切怒らないというのは難しい。


特に集団の指導的立場や責任者の立場にあると、尚更である。

アンガーマネジメントという用語が出てくるぐらい、世界中の人々の関心事である。

感情自体は自然発生するものであり、扱いを学べるが、多くの場合、発生させないことは無理である。


怒ってしまう原因の方を考える必要がある。

多くの場合「こうであるべき」に忠実だから、怒る。

それは、常識やルールである。

(あなたは私に従うべき、というのもそれである。)


どうでもいい常識やルールを見直さないと、周囲は怒りの種だらけである。

学校でいえば、ルールが多くなればなるほど、ルール破りの機会は多くなる。

そう考えると、今の感染症対策の学校下で、教員と児童双方のストレスが溜まらない方がおかしい。


ルールが激増したのだから、既存のルールを見直して大幅に減らす必要がある。

今までのルールに上乗せしたら、潰れるのは火を見るよりも明らかである。


怒られないことが最高の目的になってしまう現状。

この根本を見直すべき時に来ているように思えてならない。

2021年6月23日水曜日

問題解決力を育てるには

 学級経営の話。


結論から。

教師は、子どもが自力で何とかできる問題を解決してあげてはいけない。

それは、子どもの生きる力を奪う行為である。


全ては持論であるため、万人の絶対解とはいえない。

よって、次に書く方法への責任もとらないし、真逆の方法をとってうまくできる人に対して否定もしない。

保険をかけているようで嫌だが、誤解はもっと良くないので、前置きをしておく。


私は、基本的に子ども同士のけんかについては、なるべく介入しての解決はしないようにという方針である。

例えば押した押されたは一方的な問題ではなく、双方の問題である。

電車の中などで、いい大人同士でも揉めている。

「あなたが悪い」の応酬合戦である。

間に入っても、双方に禍根を残すだけで、ろくなことはない。


子ども同士のけんかというのは、はしかや風疹のようなものである。

ただはしかや風疹と違う点は、ワクチンがないので、お互いに罹って自力で治すしかない。

外から治してあげてしまうと抗体ができないらしく、また何度でも罹る羽目になる。


「いじめ」とみなしても直接的にすぐ助けるかどうかは、本人が解決できるレベルにあるかどうかで判断する。

一見して一方的な場合であっても、なるべく自力で何とかできる方向にサポートできないかを検討する。

今後自分が担任から外れた後に、その子どもが絶対にいじめられないという保証はないからである。

可能であれば、いじめをはねのける力をつける方を優先する。


いじめられている子どもを、何度も何度も直接助けた年もあった。

結果、担任を外れた後の次の学年で、その子どもはますますまたいじめられていた。

担任がしっかりと守ってあげたが故に、その年のいじめが一時的に潜り込んでしまっただけだった。

本人の自力を育てるのを、守るのと同時に行う必要があったのである。


これは逆に、いじめている側にもいえる。

大人が解決してあげていると、いじめている側の改善も成長もない。

いじめの対象としていた子どもが突如反発してきた時に、初めてひるむ。

あるいは、周りが一緒になって反発してきた時に、初めて考える。

強い大人が前面に出て守っている間は、一時的に退避するだけで、次のチャンスを伺い続けることになる。


この原則は、学力にもいえる。

大人が手取り足取り、きめ細やかに教えてあげている間は、本当の学力はつかない。(代わりにロボット化が進む。)

それよりも、自力で学べる力をつける方が大切である。


学力をつけるとは、子ども自身の人生の課題の一つだからである。

アドラー心理学でいう「課題の分離」である。

子ども自身の人生の課題を、勝手に周囲の大人が奪って解決してはいけない。


手取り足取り教えている状態とは、運動に例えるならば、歩ける子どもをおんぶして走ってあげている状態である。

代わりに走ってあげて、子どもの足腰が強くなる訳がない。

ただし目的地には無事に着くので、それを自力だと勘違いしてしまうのがさらに厄介である。


これを書いていて思い出したが、10年くらい前にも、街中の学校で田んぼをこしらえて、米づくりをした話を書いた。

川や水路がないために、我々担任団が夏休みも欠かさず交代で水の管理をし、苦労に苦労を重ねて育てた。


そして出来上がった米を収穫した子どもの感想が

「お米って簡単に作れるんだとわかりました」

である。

絶望的な気分になった。

これは、教育としてみた時に、完全な失敗である。


米作りの苦労をほとんど学べないで、収穫という結果だけを見てわかった気になってしまった訳である。

これに類似したことは、学校教育のあらゆる分野に見られる失敗である。


むやみやたらに子どもの問題解決をしてあげないこと。

自分の人生に責任をもてる子どもを育てていきたい。

2021年6月21日月曜日

荒れや問題行動の根本を見抜く

 荒れというのは、それ自体を問題として考えてもあまり意味がない。

あくまでも苦しみの表出、叫びとして、荒れや問題行動という形で見えているだけと考える。


例えば、やたらと攻撃的で、何かにつけて人の間違いを指摘し、揚げ足を取ってくる子どもがいるとする。

普段から同級生にも嫌味な言動、態度が見られる。


この子どもの言動の根本的原因として、家で自分が同じことをされている可能性がある。

家の中で何か間違いをするとすぐに指摘され、馬鹿にされたり罵られたりしているのかもしれない。

あるいは、他人に対してそういう言動が日常的に見られるのかもしれない。


ひどい場合、それが肉体的あるいは精神的虐待にまで発展していることもある。


つまり、自分が普段受けている言動が、外に向かってそのまま出ているといえる。

(周りからすれば、単なるとばっちりであるが。)


これに類似したひねくれた言動や乱れた言葉が多い子どもは、一見するとただの性格の悪いひねくれ者にしか見えない。


しかし実際は性格が悪い訳ではなく、苦しみの「サイン」を出していると見抜くのが妥当である。


また、一見自信がありそうで、実は学級の誰よりも自己肯定感が低く、指導よりも支援・治療が必要な状態でもある。

存在自体を全面的に肯定し、認めることが必要な状態である。

(ただし、行為自体は肯定しない。行為面への部分否定&人格肯定である。)


また、テストや学校の勉強はよくできているが、大人の見ていない裏での言動が荒れているという子どもがいる。

これは受験に関わっている高学年以降に特に多い。

家庭や塾などで過剰なプレッシャーをかけられている可能性がある。


ここへの対処は、非常に難しい。

学校では、その根本的原因を取り除いてあげられないからである。


この場合にできることは、その子どもの勉強面以外の良さを認めて伝えていくことである。


その子どもの「できる」を肯定し続けても、より「できる」を求め続けるだけで、永遠にきりがない。

(以前書いた「100点満点を褒めてはいけない」という記事のあれである。)

そもそもその「できる地獄」にはまっているのだから、それはしない。


それよりも、全然違った面を見つけることである。

実は動植物に対して優しいとか、下学年への面倒見がいいとか、そういったことである。

いつも掃除をがんばっているとか、困っている人にちょっとした声かけをしているとか、何でもいいから、本当に些細なことである。

その上で「存在自体」を認める必要がある。


とにかく、存在否定が一番きつい。

「〇〇ができない自分は価値がない」と思ってしまうのが辛い。

だからこそ、その子は力を求め続けて努力するのだが、このラットレースには終わりがない。

せっかく全国大会で優勝した子どもが「これでもう〇〇をしなくて済むんだ・・・」と安堵するのと同じである。

それでは悲しい。


できなくてもいい。

そのままでいい。

これらの言葉は、そういった歪んだ苦しみの中にいる子どもにこそ必要である。


荒れや問題行動は、あくまでもサインであり、それに気づければ逆にチャンスである。

何を発しているのかを見抜き、適切な支援をしていきたい。

2021年6月19日土曜日

「困る」の本質を考える

 次の本からの気付き。


『何も持たず存在するということ』角田光代 幻戯書房(2008)

https://www.amazon.co.jp/dp/4901998331


『対岸の彼女』で直木賞を受賞するなどしている、大変著名な作家が10年以上前に出したエッセイ集である。

気負わず読めて、とても面白い。


この本の中で「困る」というタイトルのエッセイがある。

以下、一部引用する。


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(引用開始)

「私が困っている」ということと、「だれかが私を困らせている」というのは、必ずしもイコールで結ばれない。

これは、「困る」を「怒る」に置き換えても同じことだ。

(引用修了)

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ちなみに、電話で仕事の依頼が来たが、時間がないから断ったという時の話である。

相手は「困りましたねえ」と大きくため息をついたという。

それで「いけない、私はこの人を困らせている」と思い込み、引き受けてしまった。

しかし電話を切った後で「なんか、違うじゃん!」と気付いたというお話である。


この文章がとても響いた。

教育現場に限らず、あらゆる間違いの元凶はここである。


例えば、教室で「私」の言うことをきかない子どもがいて、困っているとする。

「困っている」のは間違いなく担任である「私」である。

しかし「その子が私を困らせている」というのは、真実か。

その二つはイコールか。


これは残念ながら「否」である。

私が困っていることと、相手が私を困らせていることは、イコールではない。

困っていることの根本的原因は、私自身の捉え方の方である。

それは、相手の行動のせいではない。


私が困っているから、相手に「言うことをきいてくれ」と頼んだり、あれこれ手をうつのは構わないのである。

相手はそれで聞くようになるかもしれないし、聞かないかもしれない。

しかしながら「私が困っているのはあなたのせいだ」と言うのは違う、ということである。


要望されている子どもの立場になって考えてみればよりわかる。

子どもである「私」は、担任の先生に「あなたが言うことを聞かないのが困る」と言われた。

しかし、子どもである「私」は自制心がきかず、言うことを聞けないでついはしゃいでしまう。

自分は、相手を困らせる悪い子だと思う。


・・・これは、結構よくあることであり、かつ悲劇的である。

確かに、言うことを聞いて欲しい相手と、聞けない自分の間は、ミスマッチである。


しかしながら、ここは折り合いをつけるしかない。

担任の先生の側も、子どもの側も、それぞれ自分の100%を通せると思わないことである。

離れて別々の空間にいられれば問題ないが、そうはいかないのだから、お互いの譲歩が必要である。

そしてこの場合、子どもの側はやろうにも「できない」のだから、大人の側が大きく譲歩するしかない。


結局、学級経営における指導力云々というのは、このあたりの折り合いのつけ方にあるといえる。

上手に折り合いをつけられる場合もあれば、そうでない時もあるというのが現実である。


「自己責任」も程度があり、相手の求める全てに応じるということではない。

求められたとて、がんばってもできないことなど、責任を負えない部分があって当然である。


極端な話、足が不自由な人に「走れないのはあなたの責任だ。なぜ私の言うように走れないのだ」

というような冷徹で非常識な人はまずいない。

しかし、直接目に見えない部分だと気付かず、そういう無茶を言ってしまっていることは多々ある。


職場という見方で置き換えてもそうである。

どうしても残業続きになってしまって困っている「私」がいるとする。

しかしそれを職場のせいにするのは違う。

職場が私に「残業しろ」と命令して困らせている訳ではない。

残業せざるを得なくて困っているのは、あくまで私である。


逆もいえる。

例えば「残業してもらっては困る」と雇い主の側が言う。

しかし「残業して雇い主の私を困らせているのはあなたの責任だ」と従業員に言われても、それは違う。

命令権限があるのならきっぱりと帰らせるべきだし、従業員が残業しないような手だてを打つのが雇い主の責務である。


要するに、自分の思い通りにいかない点を、お互い人のせいにしてはいけないということである。

困っているなら、まず自分で自分をどうにかするよう工夫することである。

お互いに事情がある。

自分すら自分の思い通りにいかないのに、相手が自分の思うようにいくはずもない。


誤った夫婦の関係にもいえる。

DV夫が「俺が暴力をふるうのはお前のせいなんだ」と泣くことがあるという。

それで、妻の側は「この人が暴力をふるうのは私のせいなんだ」と自分を責める。


・・・傍から見れば全く非論理的なおかしな話だが、本人たちは本当にそうだと思い込んでいる。

「私の怒り」=「あなたの責任」なのである。


そしてこれが、親子間でも起きるというのは、夫婦間以上に捨て置くことのできない事実である。

子どもは、無力である。


まとめると、「困る」も「怒る」も、自分と対象とを結びつけないことである。

それぞれの立場から見た、別個の話である。


内容的にはのほほんとしたエッセイなのだが、本質的なことに気付かされた次第である。

2021年6月17日木曜日

病は感謝のきっかけになる

 前号に引き続き、よいところを見つけることと感謝について。


先月、不覚にも微熱を出してしまい、そのために年休をいただいた。

昨今、たとえ微熱であっても熱があれば、どんなに働きたい気持ちがあっても、子どもの前に立つことは不可である。

安全第一である。


休む時には、職場の仲間に頼るしかない。

もう、当日いきなり穴を空けて申し訳ないという気持ち以外、ひたすら感謝しかない。


結局、どんなにがんばっても、一人では仕事はできない。

どんなに自分の力量を高めようと勉強したり技能を磨いたりしても、自分が出られない時には人に頼るしかない。


サッカーなどのスポーツと同じで、常にチームプレーである。

ゴールキーパーなしでフォワードの自分が点を取りにいけるはずがない。

交代要員0でプレーするのはリスクが高すぎる。

控えの選手が他にいるからこそ、思い切ったプレーができる。


病気になるのは、感謝に気付くためにあると何かで読んだことがある。

(何で読んだか思い出せないが、私の考えではないことだけは確かである。)

要するに、自分自身の体を労わっていないこととか、周囲への配慮の足りなさとか傲慢不遜だとかに気付くためである。


例えば、身体症状として、喉が痛くなる。

これは「喋りすぎ」という警告であるともいえる。

頂きものの身体を酷使しすぎなのである。


例えば、病気で休まざるを得なくなり、自分のピンチヒッターを頼む場面。

この状況になると、普段いかに周囲に支えられてきたかを振り返ることになる。

普段から支えられて過ごしていると、それが「普通」のことになってしまい、有難さに気付けない。


気を抜くと、自分だけがよければいいという「我利我利人間」になってしまう。

そこへの戒めのために、時々病気になるのだと考えた。

(そこを埋める羽目になった同僚の方々や子どもたちにはえらい迷惑なことかもしれないが。

長期的に見て、ということでご勘弁いただきたい次第である。)

2021年6月15日火曜日

意図していいところを見つけて感謝する

 学級担任をしていると、問題がたくさん起きる。

これは当然で、同じ空間に35人も人間がいて交流して、何も起きないという方がむしろ不自然である。


一方で、実はいいこともたくさん起きている。

ちょっとした助け合いだったり、見えない親切な行為であったり。


何度も書いているが、悪い部分ばかりが目立って目に入る。

小さなことでも、悪いことは目につく。


一方、地味だけどいいことは入ってこない。

いいことで入ってくるのは、大きないいことだけである。


ニュースと同じである。

悪い方ばっかり些細なことから取り上げられて、いいことは、よっぽどなことでない限りスルー。


これを逆にする。

これは、意識してやっとできるようになる。


ネガティブは人間の本能であり、ポジティブは理性だからである。


生物は、放っておいても、悪いことが目につくようにできている。

ポジティブだとすぐに捕食されたり危険な目に遭ってしまう。

危険の多い自然界で生き残るには、ネガティブであることが大切である。


しかし、人間の世界はそうではない。

通常、命の危険にさらされることはない。


だから、本能的に備わっているネガティブスイッチは意図的に切っておかないと、都合が悪いことになる。

逆に、いいことを見つけるポジティブな目をもつ必要がある。


そうすると、当たり前のことに感謝が湧く。

給食一つとっても、当然の権利のように食い散らかすのか、感謝の念をもって頂くかで全く変わる。


子どもを見る時も、意図的によいところを探す。

むしろ、少しのよくないところはスルーする時があってもいい。

本能とは真逆である。


そもそも教育自体が、子どもを自然のままにしておかないための場である。

放っておけば、本能のままに無秩序になること必至である。


自治的な学級、のびのびと自由な学級というのは、集団の子どもたちが理性的である。

理性で本能のもつ強大なパワーを上手にコントロールできるから、力を発揮できるともいえる。


いいところを意図して見つけるという理性の力を身に付けること。

これには訓練が必要である。


まず子どもに対して見つける前に、自分の毎日からである。

当たり前のことに感謝できるようになると、子どものしていることの素晴らしさに気付きやすくなる。


逆に、自分の毎日に文句ばかり言っていると、悪いことばかりが目につくようになる。

自分の周りを理性的に見つめてみれば、すべてが与えられたもので、自分の力で獲得したものなど何一つないことに気付かされる。

全てが「授かりもの」「頂きもの」である。

(しかし、それをすぐに忘れてしまう。)


学級での毎日を楽しく元気に過ごしたいのなら、子どもに求める前に自分からである。

2021年6月13日日曜日

良い発問の5条件と捨てる大切さ

 定期的に開催しているオンライン学習会のシェア。


「発問」をテーマに行った。


私の方から、冒頭に「良い発問」の5条件について紹介した。

以下の本からである。


『国語科授業の教科書』野口芳宏 著 さくら社

https://www.sakura-sha.jp/book/jyugyo/kokugoka-jyugyo-kyokasho-kaitei/


1 一義性(明快性)をもつ


2 生産性(開発性)がある


3 子どもの反応に差異性(多様性)が見られる


4 潜在差異を顕在化する


5 二者択一化する


これらの条件を満たしているものほど、良い発問になりやすいとこの本の中で紹介されている。

実感としても、間違いなくそうである。


この例として、参加者の中から、4年の社会科の学習での次の発問をしたという話が出た。

「水道の水は作られたものか」という、社会科名人有田和正先生の発問である。

自然から来ているので「天然水」ではないのかというので迷う。

思考を広げ、深めるのに役立つ発問であり、先の5条件の全てを満たす。


優れた発問は子どもの思考を刺激する。

逆に、どうでもいいことをたくさんきくと、思考はだれる。

1つの授業で主発問は1つないし2つまでである。


授業づくりでは、捨てることが大切である。

大切なことに時間を割くために、どうでもいいことをきかない。

それは生きていく上での全てのことにも共通していえることかもしれない。


発問の話一つでもかなり深めることができた。

参観者の質問により、自分の思考も刺激される。

今後も学習会は続けていきたい。

2021年6月11日金曜日

学校は変われるか

 いつの時代も、学校が時代の変化に対応しきれない原因について、現場からの雑感。


当たり前すぎるが、学校の変化速度よりも、子どもの方が変化が早いし、柔軟である。

時代の流れにさっと乗れるのはどちらか。

圧倒的に、子どもである。

高度情報通信社会の今、先取りした教育を子どもに提供したい学校が、世間や子どもに遅れをとってしまう時代である。


例えばプログラミング教育が学校に浸透するのは、相当時間がかかりそうだと予想され続けていて、現実にそうなっている。

一方で、プログラミング教育の目指すものが子どもに浸透したのは、あっという間。

なぜなら、子どもの日常生活には、ゲームを始めとしてこれに関わるものが溢れているからである。


人気のゲームソフト「Minecraft」で子どもたちがやっているのは、プログラミングである。

プログラミングとは

「コンピュータプログラムを作成することにより、人間の意図した処理を行うようコンピュータに指示を与える行為」

と定義されており、ゲームの内容と完全に合致する。

他にも「マリオメーカー」などの人気ゲームでも近いことが行われている。

プログラミングは、学校教育から隔離され続けてきたゲームの、最も得意分野である。


例えば、ダンスが好きな子どもは多い。

わざわざ体育で必修化しなくても、止めようとしても勝手に踊る。

動画で解説&真似をしようというのは、YouTubeの得意分野である。

YouTube上の安全性が今後更に確保されるようになったら、もっと広まることは間違いない。

(今は改善されてきたとはいえ、広告やアップされている動画などに、子どもに自由に見せるにはまだまだ不安が残る状態である。)


学校が「遅い」「閉鎖的」「時代錯誤」等々、批判されるのは、今に始まったことではない。

学校は、みんなが経験済でご存知の通り、一般社会と隔離された空間であり、今までずっとそういう仕組みできている。

これは、学校の「安全・安心を最優先」「公平性の確保」という立場から、致し方ないことである。


「開かれた学校」を標榜した矢先に不審者対策をせねばならない状況になる。

監視カメラや警備員の配置、校門の閉鎖など、逆に閉鎖性を強化せざるを得なくなってしまった。

インターネットの利用に常に及び腰なのも、セキュリティの不安が拭えないからである。


「個別最適な学び」を標榜してパソコンを導入するものの、各家庭の状況は様々である。

当然、家庭によってはパソコンやネットが活用できない状況があり得る。

そうなると、まず公平性の担保が優先される。

だから、全員の使用に対し「待った」がかかる。


「公平な状態」からのマイナスになるような「犠牲者」を出してはいけないという前提がある。

個を大事にするがゆえに、個の権利が制限されるという構造である。


だからこそ、社会では絶対に通用しないような論理がまかり通っていることも多々ある。

あまりに巨大になってしまった組織は、発展よりも崩れないことが最優先されるため「保守」が基本である。

学校に限らず、巨大企業にもよくある構造といえる。


今、GIGAスクール構想に対し、地方自治体のインフラ整備が追い付いていないことにメディアの批判が集中している。

ただ、ネット回線のダウン問題は、学校としてもどうにもしようがない。

本校でもよくあるが、ネットを多くの人が集中的に使用する時間帯というのがあり、根本的解決方法が見つからない状態である。

(そもそも、ものすごい性能の回線を開発・提供してくれるのも一般企業頼りであり、お手上げ状態である。)


一人一台端末を導入したからといって、いきなりGIGAスクール構想の理想形になるはずがない。

ここで批判が殺到するからこそ、より保守的になって動けなくなってしまうという構造である。

何と言っても組織の体自体が異常なほどに大きいのだから、動きも鈍くなって当然である。

1つの会社にポンとコンピューターと回線を導入するのとは訳が違う。


動くと叩かれる、という構造が、より学校の進化を鈍化させている。

学校という組織にしてもそうだし、教師個人の創意工夫にしてもそうである。

新しいものを導入することに対し、アレルギー的な反応を示すようになってしまっているところがある。


学校は変われるか。

多分、組織単位で変わることにどうこうするのは、難しい。

個人や学年などの小さな単位でできることを粛々と行い、変えていく。

実際に、そうやっている人たちが全国に点々と存在している。

我々一教員にできるのは、そのような地道な動きからである。

2021年6月9日水曜日

発表も安全・安心がベース

教室は、自分の考えを発表する機会が多い。

そして、声が小さいと聞こえづらい。

そうなると「大きな声で」という指導が入りがちだが、これだけだとうまくいかない。

前提条件がある。


まず、たとえ小さな声でも何とか聞こえる環境を作る方が先である。

原則は、仲間の発表中は全員が黙って聞く姿勢をとり、全力で聞くことである。


これがあると、何が起きるか。

何より、安心感ができる。

自分を尊重されているということも伝わる。

互いがそうなる。


安全・安心こそが挑戦のベースである。

それなくして、声の小さな子どもが大きな声で発表できるようになることなど考えられない。

(声が小さい子どもが普通に聞こえる程度の声量になるのは、発達も考慮してかなり時間がかかると思ってよい。)


大人でも、人前で自分の考えを発表をするのが苦手という人は多い。

当たり前のようだが、経験が大切である。


経験を積むにも、どういう場であるかである。

ぎすぎす、緊張して危険な空気の場で、発表に挑戦などできるはずもない。


プレゼン能力も、学習技能の一つである。

子どもたちに身に付けさせるべき能力である。


受け身で正解としての知識を与えられることに慣れていれば、自分で考えなくなる。

考える必要がないからである。


自分で調べたことを発表する機会が多くあれば、当然それも上手くなる。

そうであるならば、安心して発表できる場をいかに多く設けることができるかにすべてがかかっている。


子どもに大きな声や積極的な発表を求める前に、教室に安全・安心な空気が確保されているかを確認したい。

2021年6月7日月曜日

「はだかの王様」の学級担任

毎朝の絵本の読み聞かせを続けている。 

童話が好きである。


ところで、働いていて、自分を「はだかの王様」の各登場人物みたいだと思うことがある。


王様の立場で考えることがある。


王様は、よくわからないが、とりあえず立派であるべきと思われている。

あるいは、そう見えるように振る舞うべきだと、周りも言う。

だから、本当はそんな立派な人でもないけれど、人前では立派な感じで振る舞う。


与えられた立派な服(権力)もある。

立派な服(権力)が自分にはさっぱり見えていないけれど、自分もそれを一応「着て」見せる。

「みんなには、本当に立派に見えているのかな?」と疑問に思いながら。



大臣や役人の立場で考えることがある。


王様に贈られきた、愚か者には見えないらしい、素晴らしいとされている服。

私には、さっぱり見えない。

しかし、どうやら、周りの人たちには見えているらしい。

「素晴らしい!」と絶賛しているし、あの目にはきっと間違いなく見えているのだ。


何と言っても、偉くて頭のいい大臣も絶賛している。

世間にも認められているものみたいだし、みんなが言うのだから間違いない。

自分が愚か者なのだと知り、隠す。

本当に実際に見て思っていることを言えば、今の私の立場が危うくなる。



民衆の立場で考えることがある。


自分などにはとてもお目にかかることすらできない地位にいる、あの王様がパレードをしている。

しかし、裸だ。

明らかにおかしい。

でもみんな絶賛している。

どうやら、これだけ人々がいて、自分は愚か者の部類らしい。


・・・いやいや待て。

いつもさぼってばかりのあいつや、詐欺師のあいつにも見えているみたいじゃないか。

やっぱり明らかにおかしい。


どれだけの人が、本当は見えていないのだろう?

しかし、言えない。

下手なことを言えば、村八分になる可能性もある。

ほめそやす必要はないが、とりあえず黙っておこう。

きっと、みんなもそう考えているはずだ・・・。



子どもの立場で考えることもある。


王様が裸で歩いてる。

教えてあげなきゃ、可哀そうだ、と純粋に思う。

「あ。裸だ」とつぶやき、みんなに言おうとする前に、お母さんに家の中に引き戻され、厳しく叱られる。

「馬鹿なことを言うんじゃないよ!

あれが裸に見えているなんて、あんたと一緒に育てたあたしも愚か者だと思われるだろ!」と。


村の子どもはほとんど全てがこの対応をされて、家の中で閉じ込められて黙っているだけである。

しかし中に、パレードの最中に親の言うことも聞かずに一人で高い木に登っているようなやんちゃ坊主がいる。

この子どもだけが大声で本当のことを言ってしまう。

「王様ははだかだ!」



「はだかの王様」は、本当によくできた寓話だと思う。

どの立場で見ても「刺さる」ポイントだらけである。


王様だと感じる時は、学級に「君臨」してしまっている時である。

本当はやらせたくないけどやらせている時も、これであり、一番多くて、一番辛い。


大臣だと思う時は、子どもではなく、同じ立場の人々といる時である。

「それはあまり意味がないんじゃ・・・」「これは言いにくいが言った方がいいかも」と思う時がある。

実際、言う時もあるが、まあ空気が読めない感じになることもしばしばである。

そして地位や立場によっては、言いたくても言えないだろうとも思う。


民衆だと思う時は、声が届かない立場からの命令に従わざるを得ない時である。

もう、民衆には抵抗のしようもない。

下手なことを言ったら冷遇されるだけである。



学級担任で、私と同じように思っている人は、決して少なくないはずである。

ただ、「正直な子ども」には、なかなかなれない。

この「正直な子ども」になれば、せっかくの安全な道から逸れて、行く先は間違いなく茨の道である。


「子ども」という立場は、本来地位や権力を離れて自由である。

国を変えるのも、結局は子ども次第である。

子どもたちが、権力に屈したり空気を読んで周りに迎合するのではなく、自分の本当の意見を言えるようにするにはどうするか。

それを教える大人はどうあるべきか。

自治的学級づくりにも通じる課題である。

2021年6月5日土曜日

がんばる自分を肯定する

 今回は完全に現役教師の読者に向けて。


昨今、「楽しく」「自分らしく」「肩の力を抜いて」

といったことが推奨されている。

それ自体はどれもいいことなのかもしれないが、「がんばる」の地位が下がりすぎているようにも感じる。


「がんばらなくていい」

これは、マイナスから0にするための、治療薬的な言葉である。

つまり、相手が病んでいる状態の時には、これである。

病気の人の場合、がんばって働くよりも、休んで治療に専念してもらうべきである。


勤勉は、成長や発展の基本である。

現在ワクチンが開発されてやっと一部に出回り始めたのも、この勤勉の賜物である。

医療関係者の方々が、通常以上に勤勉に努めてくれたお陰で、やっとこの状態が保てたといえる。

たとえ自分はがんばっていなくても、他の人にがんばってもらった結果といえる。


学校の教師の仕事に限って言えば、がんばらなくて成り立つようなことはほとんどない。

あらゆることが見通しと準備と対応の連続である。

がんばらなくても立派にやりとげられるような仕事内容なら、こんなに病気になったり苦労したりしている人は少ないはずである。


勤勉に、一生懸命やることが基本である。

ただ、工夫もして一生懸命努力しているのに思うような成果が出ず、自分が馬鹿馬鹿しくなることがある。

この時に自分自身を疑ってしまうことが、辛さの一番の原因ではないかと経験上感じるのである。


つまり、がんばりすぎて病気になったというより、がんばりを認めてもらえないと感じる状況が病気を生む。

無理難題を押し付けておいて「あなたの工夫やがんばりが足りないせい」が常套句という人も世の中にはいる。

何でも承諾して引き受けるのではなく、できないことはできないとはっきり断る勇気をもつ方のがんばりも必要である。


がんばって真面目にやっている自分を肯定すること。

そして自己否定に走らないこと。

がんばりの問題ではなく、そもそも根本的に無理や無駄があるのではないかと疑うこと。


そもそも、気合で乗り越えようとするのが必ずしもいいこととは限らない。

やれば高確率で危険な大ケガをするとわかっていることを中断するのも勇気の一つである。

(それでも無理にやるのは勇気ではなく単なる「蛮勇」である。)


思うような結果が出ずに、勇気をくじかれかけている今の教師に必要なのは、こういう当たり前の考え方なのではないかと思う。

2021年6月3日木曜日

やっていいか、いけないかの区分けを考える

道徳で「やっていいことといけないこと」というテーマを扱い、授業を行った。


題材は簡単に言うと、主人公が友達の図工作品に、よかれと思って勝手に「改善」を加えたというお話。

インターネット上の著作権にも関わる問題である。


ここで話し合う前提として、一つはっきりさせておくべき点がある。

「人のものに勝手にさわらない」という点である。

ここを議論させても仕方なく、前提として共通理解し、おさえておくべき点である。

ここは教える道徳である。


こういうことまで全部考えさせると、訳がわからない授業になる。

考える以前の柱が必要である。

「学校には余計なものをもってこない」というのは、学級開き段階で教えるべき点である。

「トラブルの9割はものを介する」というのが原則である。


さて、考えるべきところとして設定したのは

「やっていい」 「いけない」

       ↑

この間を何で区分け、線引きするかという点だった。


小学2年生の子どもたちからは様々な意見が出たが、大きく2つの考えが出た。


A 自分がやりたいか、やられたら嬉しいか

B 相手がやられて嬉しいか、迷惑にならないか


AとBの考えは、連動している。

AなくしてBは想像ができない。

しかしながら、AだけでBを確定するのは危険である。


特に幼児期は

「自分の認知」=「他人の認知」である。


以前に紹介した

「皆さん知っていると思いますが、昨日は私の弟のお誕生日でした」

である。

(参考:「教師の寺子屋」過去記事

 https://hide-m-hyde.blogspot.com/2018/12/blog-post_5.html


即ち、自分がそうだと感じたことは相手も当然そうだと感じる、と考えている可能性がある。

自分の思いは相手に正しく伝わっていると考えるのである。


しかしながら、現実はそうではない。

現実には、自分がどう伝えても、相手がどう感じるかについては一切選択権がないのである。


こういうことに思いを巡らせるというのが、道徳をみんなで学ぶ意味であると考える。

仲間から、意外な答えが出てくる。

お互いにびっくりする。

それで、お互いに理解が深まる。

そう考えると、一人で算数の学習はある程度できても、一人で道徳の学習というのはなかなか難しい。

価値観の違いのすり合わせが肝である。


今回の点で難しいのは

「相手が望まない」=「自分はやるべきではない」

とも限らないという点である。


極端な話、悪いことをしているとわかっている人は、注意をされたくない。

意図的なスピード違反で警察に捕まりたい人などいるはずがない。

しかし、本人が望んでないから違反していても捕まえるべきではない、という理屈は社会的にもおかしいことになる。

特に教師がこの考えだと、全ての指導に遠慮しがちになり、学級は荒れ放題に荒れる。


個人的な考えについても言えて、すべて相手に合わせて自分を押し殺すという方向はこれも考えるべき点である。

(またそれが幸せという考え方もあり、その違いも尊重されるべきである。)


それぞれの「違い」を学ぶということ。

哲学的になりがちであるが、このように確定しきれない点もあるのが道徳の難しさと感じた次第である。

2021年6月1日火曜日

偶然かつ参加必須の集団と同好会を分けて考える

 緊急事態宣言の延長やらオリンピックの開催の是非やらで、意見が多方面に分かれている。


多様性の時代、一億総発信時代の今、国レベルで総意を得るのはもはや不可能に近い。

国会議員のように国民の代表者レベルの人数でもまとまらないのに、国民全員の意見がまとまるわけがない。

そうなると、多様性の時代だからこそ意見がまとまらないということになり、逆に一人ずつの意見が尊重されることはない。


そうなると、結局は、各組織の首長(リーダー)の決断、決定次第である。

そして個人である自分は必然的にそこ(例えば日本という国)に属しただけである。

「〇〇派」でもなんでもない個人なので、リーダーの決定に対し、合わないこともあって当然であり、それを発信できる時代である。

それはたとえ小さな組織であれ、無作為に集まった集団のリーダーにとっては、困難が多い。

全員が反対意見を言えるということは、容易に決断できず、なかなか決定に従ってもらえないということである。

(総理大臣の苦労など全く想像もつかないが、一日やっただけで胃に穴が開きそうな気がする。)


一方で、同好の士の集団、つまり同好会にとっては、活動がしやすい時代でもある。

全員が発信者になれるということは、自分に合う意見も合わない意見も容易に見つけやすくなる。

SNS上であれば、合う人にはつくなり付き合うなりして、合わない人につかない、付き合わなければいい話である。


この二つを混同すると、辛くなる。


必然の集団である仕事上では、自分と意見の合わない人がいて当然である。

学校なら、管理職、同僚、子ども、保護者。

全員が自分と合うなんて有り得ない。


いや、むしろ自分を支持してくれる人など、少数派のはずである。

学級に35人もいて、全面的な支持派が何人もいるはずがない。

「先生大好き!」の印象のある低学年の子どもたちであっても、甘く見てはいけない。

(低学年ほどそうなってくれがちなのは、そもそも他に頼れる人があまりいないからである。)

高学年の場合など、趣味・志向で人間関係をきちんと区別できるのだから、そこに自分がマッチしなくてもある意味当然である。


もしも1人でも支持してくれる人がいれば、御の字であると考える。

特に保護者の8割以上(多分9割超え)は、とりあえず仕方ないから一年間合わせて預けてくれていると考えて間違いない。

それぐらいの申し訳ない気持ちでやっていくと、多分丁度いい塩梅である。


一方、誰とでもつながれるこの時代、プライベートまで合わない人と付き合う必要はない。

多種多様な中から、好きな集団、好きな人を選べる。

(一昔前の、都市部以外の地域社会とかだと、多分ほとんど選べなかったのではないかと推測される。)


例えば、この無料メルマガという仕組みは、それが顕著である。

読みたいと思ったらすぐ登録できる反面、合わないと思ったら、即刻即座に解除ができる。

自分にとって、有益でない、あるいは不快なものをわざわざ見続ける必要はない。

ある意味、とてもライトかつドライな仕組みである。


一方で、良いと思ったら人にすすめるはずである。

同じ集団に誘いたくなるような人は、自分と合う人だけである。

同好会としての性質が強くなっていく。


これら、偶然かつ参加必須の集団と、同好会の二つを混同しないことである。


好みかどうかに関係なく参加している団体については、向上や改善のためにきちんとリーダーやメンバーにも自分の意見を述べる。

(あるいは、リーダーに黙って従うの方を選ぶのも、自分次第である。)


一方で、同好会についてはあまりに自分と合わない場合、そこのリーダーやメンバーに意見をしても仕方がない。

その集団から離れること、そして新たに自分と合う集団に属すことである。

誰もそれを止めないし、むしろ歓迎される。

自分はもちろん、古い集団と新しい集団の全員にとってそれが幸せである。


そう考えると、学校や仕事での諸々が辛いのは、ある意味当たり前である。

自分の属している同好会の、もてはやされ感や心地よさがあるはずはない。

自分と合わない意見もあって当たり前と思って、甘えず精進していきたい。

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