2020年3月31日火曜日

自分のものなどない

私が学ばせていただいているある会で
「人間は、生きている間は、完全に自分で与えることはできない」
という話が出た。

つまり、自分ではどんなに、他人のためにやっているつもりでも、どうしても他者のお世話になってしまう。
何か金銭なり物資なり労働力なりを与えているつもりでも、元を辿っていけば、自分ではない他者からの恵みである。
完全に「自分発」ということは、ないのだという。

そもそも、命自体が与えられたものである以上、ここからは逃れられない。
つまりは、生きている間は、他者のお世話になり続けるしかない。
そういう中で、自分がやらせていただける範囲のことをせめてやらせていただくしかない。

そう考えると、仕事とは天から与えられた使命である。
己のためにあるものではない。
仕事における私とは、社会における公器である。

大きなことを成し遂げたいと思う。
一方で、小さなことを疎かにしてしまう。

仕事では、日々の小さなことが大切である。
思いやりと口にするのは簡単だが、これとて小さなことの積み重ねである。
以前に「背筋を伸ばす」ことが思いやりにもつながると書いたが、そういうことである。
言葉遣いも日々の態度も、物の扱いも整理整頓や清掃も、何でもすべてに言える。
粗雑なままではできないことである。

何事も、やらせていただく。
本当に自分のものなどない。

一つ、達観した見方ではあるが、経験豊富な年長者の方に学んだことであるので、シェアしてみた。

2020年3月30日月曜日

与えられるほど、欠乏する

石川真理子先生の「武士道から学ぶ現代の子育て」の話から。
次の言葉が印象に残った。

与えられれば与えられるほど、欠乏していく。

物が悪いとはいわないが、目に見えるものに頼りすぎるあまり、目に見えない本質の部分が伝えられていないのではないかという。

花が咲くためには根が必要である。
一方、根を鑑賞する人はいない。
しかし、根が張っていなければ、美しい花は咲かない。

ここを育てる。
人間にとって、心は根。
基本、根本。

そのような内容だった。

ここから私見。

教育において、与えるという行為には、弊害が伴う。
至れり尽くせりの快適すぎる環境においては、子どもが依存的になる。

一方で、欠乏を体験させることで、伸びる面がかなりある。

前にも書いたが、教師が4月、靴箱やロッカーににネームシールを貼ってあげる必要が本当にあるのか。
何も貼ってなければ、確かに子どもが困るかもしれない。
しかし、そのあとで必ずアクションを起こす。
「とりあえず適当に入れる」とか
「ネームシールを自分たちで貼るから作らせて欲しい」と頼んでくるとか、色々である。

教室も、教師がいちいち細かく環境整備をしてあげていると、自分たちで工夫してやらなくなる。
子どもが自分でやれることには、手を出さないというのが基本である。

ちなみに、根の話をすると、植物は一定期間水を与えないと、根を伸ばすようになる。
少ない水を求めて、地中に根が張るのである。
そうすると、強くなる。
ちょっとやそっとのことでは倒れない、へこたれない頑丈な植物になる。

欠乏を体験させる。
子どもが本当に可愛いのなら、やはり
「可愛い子には旅をさせよ」
である。
親や教師が我慢できるかどうかが勝負の分かれ目である。

子育てには、我慢して、見守る姿勢が大切である。

2020年3月29日日曜日

変てこな形式的なことを考えない

ここ一年以上、参加し続けている読書会がある。
テキストは毎回、森信三著『修身教授録』である。

この本の中に、次の一節があった。
===============
(引用開始)
それ故私には、修養などという言葉よりも、
「この求めてやまない心」という言葉のほうが、
はるかにぴったりと響くのです。
そこで諸君たちも、修身の時間だなどと言って、
変てこな形式的なことを考えてはいけいないのです。
(引用終了)
=================

これは教員養成大学の講義の文字起こしである。
この森信三先生の担当が、修身の授業である。
修身をないがしろにしていた訳では決してない。

しかしそれでも、修身の時間を
「変てこな形式的なことを考えて」
いると捉えていたようである。
今の道徳の授業の時間の抱える問題と相通じるものがある。

修身は、形式的なことではいけない。
道徳も然り。
形式的なものからは
「自分の生命を真に徹して生き抜いていこうとする、限りなくたくましい心を打ち立てる」(同著より引用)
というようなものは生まれないのである。

あらゆる授業、教育において言える。
形式的なことからは、生命が躍動するようなことは生まれない。
型を覚えるだけである。

それは、何を教えているのか。
自分の教育に迷いが出たら、
「森信三先生ならどうするのか」
「吉田松陰先生ならどうするのか」
というように、
「尊敬する○○先生ならどうするのか」
と考えてみるようにしたい。

2020年3月28日土曜日

「何で先生はいつもニコニコしてるの?」

ある日の朝、子どもに「何で先生はいつもニコニコしてるの?」と尋ねられた。
「みんなを見ていると、嬉しくなるからだよ」と答えた。

ちなみに、私は元来それほど愛想のいい方ではない。
しかし、これは仕事をする上で、必要に迫られて努力して、意識的に身に付けてきたものでもある。
そこで、今回は「教室での表情」について考える。

一般的に「ニヤニヤしている」というと、良くない印象である。
一方で「ニコニコしている」というと、良い印象である。

似ているようで違うこの二つの表情は、どう違うのか。

緊張緩和のための笑いというのがある。
あるいは、相手を見下すような時にもこれは出る。
つまりは、自分本位の下心のある笑いである。
これが意味のないニヤニヤ顔になる。
自分本位から発するその表情は、相手に不快な印象を与える。

相手を安心させるための笑顔がある。
例えば笑顔のプロでもある客室乗務員は、別にいつも自分自身が上機嫌で楽しい訳ではない。
笑顔の方が、お客様が安心するし、声をかけやすいから、相手のためにそうしているのである。
それが結果的に、自分の仕事のやりやすさにつながっている。

つまりは、自分本位のエゴか、他者視点の貢献のためかという違いである。
それが、表情に出る。
同じようで全く別種の表情になる。

笑顔でいるコツがある。
相手を好きになることである。
相手の良いところを見ようとすることである。

笑顔の練習には、赤ん坊、あるいはペットがいい。
つまり「無条件に可愛がってもらえる存在」である。
勝手にこっちの表情が和らいでしまうような相手である。
(可愛がりすぎて「デレデレ」レベルになるとやりすぎなので注意である。)

この感覚でもって相手に接する。
教室に入った瞬間に出会った子どもと「おはようございます」と言い合えることに、喜びと感謝を感じられるか。
目の前の子どもたちといられることを、心から嬉しいと思えるかどうか。
ここに「ニコニコ」になれるかどうかの全てがかかっている。

いつもいると、この感謝の心がなくなってくる。
「有難う」の反対は「当たり前」である。
自分なぞの話を、毎日教室に来てまで、子どもが聞いてくれる。
一体いつからそんなに立派な人間になったのか。
畏れるべきことである。

そう考えると、感謝の気持ちも湧いてくる。
毎朝出会えることを心から嬉しく思える。
だから「ニコニコ」してしまうのである。

なお、一番良くないのがむすっとした「仏頂面」である。
あるいは、眉間に皺が寄って、苦虫を噛み潰したような表情。
これが基本だと、怖い。
かのゲーテも「人間の最大の罪は不機嫌」と喝破したぐらいだから、これは不変の真理である。

「元々こういう顔なんです」は、通用しない。
相手がどう受け取るかが全てだからである。
教室に教える人として入るなら、そこは客室乗務員なみの努力が必要である。

これが基本にあるからこそ、時に出す「真剣な表情」が効いてくる。
「あ。これは本気だな。」と表情で伝わる。
子どもにとって、わかりやすいのである。
つまり、それこそが安心である。
恐怖は、よくわからないという不安から生じるものだからである。

子どもにとって「わかりやすい先生」になる。
そのためには、やはり笑顔が基本と考える次第である。

2020年3月27日金曜日

特別な対応は不平等か

特別対応と平等について。

特別扱いはいけない。
差別はいけない。
その通りである。

しかしながら、必要な手立ては、人によって違う。
前にも書いたが、高い所に手の届かない人には、踏み台が必要である。
普通に届く人には、不要である。
これは、松葉杖や車いすの使用などについても同様である。

これを「平等」の名のもとに、全員に踏み台を使わせる。
あるいは、全員に使わせない。
これこそが、愚かな行為である。

ただ一方で、全員に「同じ」を強いることもある。
交通ルールが最もわかりやすい。
「スポーツカーだから制限速度を越えて飛ばしていい」ということにはならない。
制限速度のルール遵守は全員に平等である。

学校教育でも、ここを混同しない。

それは、本当に揃えることが平等か。
あるいは逆に、揃えないことが本当に平等か。

ケースによって、真逆になる。

ごく簡単に言うと、全員一律のルールは、個人の自由が他者の自由を侵害する場合に適用される。
逆に、個別の特別対応は、個人の困り感に寄り添う場合に適用される。

整理整頓が極度に苦手な子どもがいる。
この子どもの机の片付けを手伝う。
一方で、いつもきちんと自分で整えているあの子どもの片付けには手を出さない。

つまり、凹みに対して援助をし、自分でできることには余計な手をかけない。
平等である。

これを誤って捉える人もいる。
算数でもなんでもいいのだが、どんどん自力で先に進める力がある子どもがいる。
これを「早すぎる」ということで、制する。
力を制御させ、我慢させる。

これは不平等である。
個人の能力に制限をかけている。
迷惑にならないのだから、先に進ませればよい。
あるいは、さらに高い課題を与えればよい。
ここで制限をかけるのは、不平等である。

一方で、例えば食べるのが早い子どもがいる。
「早いもの勝ち」にしてお代わりができるシステムにしているとする。
これは競争による弱肉強食システムである。
小さい見方だが、同じ給食費を払っている者同士と考えると、逆に不平等になる。
基本は同等の権利を有すると考えるのが自然である。

一律に考えないことである。
特別な対応が差別になるわけでも、平等になるわけでもない。
常にケースバイケースである。

それは、特別に対応すべきか。
あるいは、一律同じにすべきか。
一つ一つの場合について、検討すべきことである。

2020年3月26日木曜日

〇〇について指導しないのはなぜですか?

年間を通して、実習生や学生ボランティアなど、様々な人が教室に勉強に来る。
そうして、放課後などに様々な質問を受ける。

その中で
「〇〇について指導しないのはなぜですか?」
という質問を結構受ける。
○○に入るのは、一般的に「こうすべき」といわれていること全般である。

知識として学んだことと、現場で実際に見るものが違うからである。

例えば、私も常々述べているが
「聞く」ということは、いの一番に指導すべき事項である。
いわゆる学級崩壊とは、話を聞けない状態に他ならない。

だから、話をしっかり聞くということを最初にしつこく指導する。
今私が担任している学級でも、一年生の4月から、耳にたこができるほど指導してきたことである。

その割に、私が話している時に、あまり徹底していない様子を見て、学生が質問してきた。
「話を聞く」が大切という知識をきちんと頭に入れているからこそ気付けることであり、とてもいい視点である。
こういうことに気付けること自体、将来有望である。

これは、決して知識が誤っている訳ではない。
かといって、現場の私の対応が誤っている訳でもない。

知識として学ぶものは、一般化されたものである。
最も汎用性が高く、広く通用しそうというものが、知識として伝達される。

一方で、一般化された知識というのは、万人にフィットするものではない。
大量生産の既製服のようなものであり、それはオーダーメイド品ではない。

つまり、教育に限らず全ての現場は
「一般的にはこう対応すべきだとされているけれども、今回は敢えてこうした」
ということの連続である。
ここが仕事の難しさであり、面白さでもある。

当然、現場経験のない学生にとっては「なぜ??」の連続である。
これはインターンや各種職人の弟子というような立場の人にとっても、同じだろうと思われる。

今回の「話を聞く」の件については、私が今年度あえて「周りとおしゃべりしやすい環境」を作ってきていることに起因している。
「教師の話を聞く」の段階から「仲間との交流」を重視する段階にいるからである。
今の学級と私との関係性から、私の話を真剣に聞かせること自体は、大変に容易である。
むしろ、聞きすぎるから、どうやって教師に目を向けさせないか、に注力している。

しかし、そんな文脈は一般的ではない。
そんなことを知識として記すと、とんでもないことになる。
いきなり真似したら、学級崩壊まっしぐらコースである。

だからこそ、知識をベースとして見ることが大切になる。
あくまで基本があり、応用があり、更に自在になってくると、こういう風にもできる。
そういう見方ができるようになるのも、基本的な知識があってこそである。
武道で言う「守破離」の各段階の違いである。

まずは、知識やマニュアルを大切にする。
その上で、目の前の相手にどうするかを考えて実行し、改善を加えていく。
このステップが、技を磨く上で大切になると思う次第である。

2020年3月25日水曜日

好きか嫌いかを自分で決める

前号の「統計結果に騙されない」に関連して、自分の頭で考えるということについて。

統計結果というのは、謎の「みんな」という架空の存在の意見である。
「みんな」に流されるのは、危険である。
歴代にもってきた学級でも、子どもへ常々伝えていることである。

自分で考えて挑戦したなら、失敗してもいい。
むしろ、その失敗は推奨する。
自分の「安全領域」から出ることは、当然失敗を伴うが、同時に成長のステップでもある。

しかし、それが「みんな」がやったからやったことなら、最悪である。
ダメだとわかっているのに、「みんな」がやったからやった。

もしこれが個人の判断でやったならまだいい。
反省もできる。

しかし、「みんな思考」は、反省の余地を残さない。
そこに「私の責任」が存在しないからである。
みんながやったから仕方ないというような、無責任思考に陥り、無責任志向になる。

要は、常に子どもに伝えるのは、「自分の頭で考えろ」ということである。
これは、常に自分自身へ言っているともいえる。

このメルマガ上でも何度か紹介した、次の言葉がある。
(参考:http://www3.plala.or.jp/yokosan/nogutironbun-03-04.htm
私と同じく、野口芳宏先生を師と仰ぐ北海道の先生のH.P.である。)

==============
好きか嫌いかは,自分が決める。
良いか悪いかは,社会が決める。
正しいか正しくないかは,歴史が決める。
==============

「正しさ」は、長い歴史の中で規定されるのだから、到底「自分」の及ぶ範疇ではない。
良し悪しは、社会である「みんな」が決めるのだから、これも自分では決められない。
自分では「よかれ」と思ってやったことがある人にとって悪かったなんて、ざらである。

しかし、好きか嫌いかは、自分で決められる。
つまり、それをするかしないかはという行動は、自分で決められるのである。

しかし行動を「みんな」に決めてもらうようになると、どうなるか。
先の言葉にならえば、好きか嫌いかを、自分で決められなくなるということになる。
即ち、好きと嫌いの判断がつかなくなるということである。

自分では「嫌」だと思っているのに、ニコニコしてしまう。
自分では「好き」なのに、興味のないふりをしてしまう。
それを繰り返している内に、自分の好きと嫌いが本当にわからなくなる。
嫌いなものを「好き」と思い込むこともあり得る。
本当に好きなことを忘れてしまう。

子どもはその点が素直である。
その時に好きなことしかしない。
興味ないことにはさっぱり興味を示さない。
ある意味で、健全である。

学校は、学習指導要領が存在する以上、どうしても「みんな」化する面がある。
どんなに個性をうたっても、平均化を求める運命にある。
だからこそ、教える立場は「みんな」という言葉を使う時に、注意を払う必要がある。

統計、メディア、ニュース、SNS。
「みんな」を知ることには使えるかもしれないが、それは架空の存在である。
「みんな」という謎の存在に踊らされない。
それにも、日常がすべてである。

2020年3月24日火曜日

統計結果に騙されない

様々なアンケート結果や統計データを見ての気付き。

統計結果を「真実」として見てしまう。
これは、数学的リテラシーの欠如である。

ごくわかりやすい例だと、棒グラフや折れ線グラフ。
例えば、ある試みをした後で、前後の変化が5%しかなかったとする。
50%が55%になったというような場合である。
100%が上限で0%が下限の縦軸では、ほぼ横ばいである。

しかし、これも縦軸の数値をいじれば、激変して見える。
上限の数値を60%にして、下限を省略して40%にすれば、かなりの大幅な変化に見える。
グラフは、完全に見せ方次第である。
見せ方のためのツールなので、当然といえば当然かもしれない。

データの見方について、演習問題をやってみる。
次の結果を見ていただきたい。

Q あなたはお子様が通われている学校に、次のようなことを望みますか。
(後ろの数値は「とても望む」「まあ望む」の合計)
1 子どもの学校での様子を保護者に伝える 96.8%
2 保護者が気軽に質問したり相談したりできるようにする 92.7%
3 学校の教育方針を保護者に伝える  92.2%
4 いつでも自由に学校を見学できるようにする 65.7%
5 学校の教育方針を保護者の代表が参加する委員会で決める 40.2%

【引用資料】
「学校教育に対する保護者の意識調査」2012  P.8
Benesse 教育研究開発センター・朝日新聞社共同調査
https://berd.benesse.jp/up_images/research/all.pdf

全国の7000人弱の保護者の回答結果である。
この結果を見て、どういうことを考えるか。

「保護者に様子を伝えることが一番大切なのだ」
「保護者が気軽に質問や相談できることが何よりも求められている」
と考えたとしたら、拙速である。

このデータは、自由記述によるものではない。
一つ一つの定まった項目に、四件法(4段階できくもの)を用いたものである。
つまり、「そうだ」としか思えない質問項目なら、確実に上位にくる。
もう一度、アンケート項目を見返してみる。

「子どもの学校での様子を保護者に伝える」
これを「望まない」と答える人がどれぐらいいそうか。
「子どもの学校での様子に関心がない」というに等しい。
わざわざアンケートで尋ねなくとも、ほぼいないということが容易に想定される。

「保護者が気軽に質問したり相談したりできるようにする 」
「学校の教育方針を保護者に伝える」
ともに、同様である。
学校に質問や相談ができない、方針がわからないということが、いいはずがない。
尋ねるまでもない項目である。

そもそも、アンケートというものは、大抵の場合、求める方向性がある。
「こういう風に答えるだろう」という項目を設定し「ほら、みんなこうですよ」と示したいということが多い。
商品についている「満足度99%!(当社調べ)」なども同様である。

統計結果に騙されない。
メディアの流すニュースには、意図がある。
その辺りの裏を読み取る力は、子どもにもつけるべき数学的リテラシーの一つである。

2020年3月23日月曜日

ドッジボールは是か非か

前号の「姿勢を正す」ということと関連した気付きを書く。
「丁寧」や「穏やか」「思いやり」といったことについて。

突然だが、読者の皆様は、ドッジボールを好きだろうか。
私は、子ども時代からずっと好きだった。
すばしこい上に、投げる力が強く、バシバシ当てることができたからである。

さて、ここに「強者の理論」が入っている。
どんどん当てられるから楽しい。
これは、ごく一部の子どもであり、学級の10%程度である。
多くは、「時々投げるチャンスが来ることがある」という程度である。
または「当たりたくないからずっと外野」という超消極的参加の子どももいる。

実際に学級担任を長年やってきて、ドッジボールは休み時間の定番遊びの一つであった。

しかしである。

体育で行ったことは、ほとんどない。
(ほとんど、というのは、遊びの応用に使えるように、王様ドッジなどの方法を単発で教えたことがある。)
なぜかというと、この運動に次の運動への発展性がないからである。
「ゴール型」「ネット型」「ベースボール型」のいずれにも当てはまらない。
「動く人間を的にして当てる」という運動が、ドッジボール以外にないからである。

よくよく考えると、これは、狩猟に似た遊びである。
逃げる獲物を狙いすまして撃ち落とす。
古来から世界各国で行われている辺り、人間が本能的に好む遊びであると思われる。

しかしながら、これを学校教育で行うべきかというと、甚だ疑問である。
学校で育てるべきは「本能」ではなく、「思いやり」や「丁寧さ」という社会で生きる力である。
ドッジボールで育つ力は、はっきりいって、真逆である。

最近は、これを電子空間上で行う取り組みも出てきた。
実際のボールが当たる訳ではないので、身体的な痛さがないのがいい。
ただ、人間を的にするという基本は同じである。
ゲームとしては有り得ると思うが、体育としていいかどうかは、正直まだわからない。
ただ、間違いなく一つの新しいエンターテイメントにはなりそうである。

そういう中での譲り合いを学ばせる、という意図も、あるにはある。
しかし、実際は、強者が弱者に譲るだけで、他の学習のような学び合いにはならないというのが実際である。

実はこれを考えたきっかけは、外国の学校で学んできた子どもたちが
「何なのこれは?」
と言ったということを聞いたのがきっかけである。
やったことがなかったらしい。
そして、「なぜ人にボールを当てていいのか」が理解できなかったらしい。
(他のことでは、明らかにダメな行為であるので、ある意味当然である。)

小学生のドッジボールは是か非か。
最近、ここに色々な説が入ってきているようで、なかなかホットな話題である。
私は単純に自分が好きだからやっていたが、ここ数年は考えさせられている。
とりあえず、今はやらずに考えておこうかというところである。

2020年3月22日日曜日

姿勢を正して頂けますでしょうか

前号と関連して、本物に触れるということについて。

世の中には、明らかに「次元の違う」人がいる。
立ち振る舞いや言葉遣い、醸し出す雰囲気などが、尋常ではない人である。
一般の人とは、生き方がまるで違う人である。
周りの人に「感化・影響」を与える人物である。

こういう人に会えそうな機会がもしあれば、積極的にそこへ出かけるべきである。

今回は、生粋の武家育ちの方のお話を聞く機会があった。
「武士道から学ぶ現代の子育て」というテーマである。
講師は作家・武士道研究家であり、日ノ本塾主宰の、石川真理子さんである。

冒頭に「教える人の歌」として、次の言葉を紹介された。

言葉で教える人尊し 姿で教える人なお尊し

石川さんは、祖母を尊敬していたという。
祖母の前で「こうしなさい、ああしなさい」と言われなくても、そうしたいと思う。
きれいな言葉や振舞をしたいと思わされるような凛とした姿に、感化・影響された訳である。

つまりは、教育は行動にあり、その姿にあるといえる。
武家の人間として躾けられた「原則」が二つあるという。
一つ目は、背筋を伸ばすこと。
二つ目は、口角を上げて明るい表情で、朗らかであること。
これらが、ひいては「人を大切にする」ということにつながる。

この話の後、会場全員に対し
「皆様、姿勢を正して頂けますでしょうか」と言われた。
私は会場の後ろから見ていたからわかるが、確かにみんあ、お世辞にも姿勢がいいとは言えない状況だった。
全員がすっと背筋を伸ばすことで、会場が「凛」とした空気になった。

続けて、辛くなったら「あと5分」を繰り返すというお話をされた。
これが、克己心を鍛える基本となるという。

武士道の本質は、克己心。
すなわち公の精神であり、私の対極である。

そもそも武士は、戦いの中だからこそ仕事があるといえる。
平和な江戸時代に、警護の役割を失った武士が、一般の人に何をできるか。

それは、人々に「規範」を示すこと。
あるべき姿を示すことである。

発せられた言葉が同じであっても、姿で重みが変わる。
「何を言う」より「誰が言う」である。
目の前の講師の先生の姿が、それが真実であることを如実に物語っていた。

長くなるのでここまで。
次号、もう少し学びをシェアしていく。

2020年3月21日土曜日

本物に触れる

前々号に関連して、良いものを取り入れるということについて。

食べ物に絞って考える。

外食に行くと、大抵味付けが濃いものが多い。
なぜか。
それが一番、味を誤魔化せるからである。
素材の良し悪しを抜きにして、「旨い感じ」が出せる。

舌がそれを覚える。
すると、素材の味がわからなくなる。
ソースや醤油、ケチャップ、マヨネーズやドレッシングの味を「うまい」と感じるようになる。
そうなると、身体に良い淡泊な野菜そのものの味はわからなくなる。

世の中には、明らかに違う次元の味がある。
しかし、それには気付くこともない。
馬鹿馬鹿しいと思えるほど、高い(=ハイコスト)からである。
無農薬野菜の生産コストを考えればすぐにわかる。
「同じようなもの」を安価で食べることができる以上、わざわざ食べには行かない。

これは、あらゆることにいえる。
本物と偽物の区別がつくのは、本物を知っている人だけである。

仕事もそうである。
何となくできてる感じだと、より良いものを知ろうと思えない。
「今のままで十分」となる。
こうなると、成長は止まる。

環境も大切である。
周りのレベルが自分と同じぐらいだと、安心する。
しかし、それでは「より良いもの」にはなり得ない。
やはり、外へ見聞のために出る必要がある。

良いと悪いの区別がつくようにする。
そのためには、何事も、「本物に触れる」ということが第一歩である。

2020年3月20日金曜日

問題は常識を打ち壊す~卒業式と練習~

学校のテストで出る問題では、既存の知識や考えを問う。
一方で人生における問題というものは、今までの人生を常識を問う。

つまり、問題には、常識を打ち壊すはたらきがある。
大きな問題ほど、大きく常識を転換せざるを得ない状況にする。

今回のウイルス騒ぎで、社会は大混乱である。
学校も、これまでにない事態に、手探りで右往左往している状態である。
学校に問題を突き付けてきて、あらゆる常識を問われているといえる。

さて、恐らく大方の小学校は、今週あたりが卒業式である。
(正確には「卒業証書授与式」であるが、便宜上ここでは卒業式と書く。)
練習なしの卒業式。
小学校以外では割と当たり前のことなのだが、小学校にとっては前代未聞の出来事である。
(世間一般の式典において、主役や出席者に練習させることはない。普通、練習するのは進行側だけである。)

卒業式をそのままやったらどうなるのか。
とんでもないことになると予想されるだろうか。

これは当然「どうにかなる」と考える。
というより、どうにかなるような構成にするのである。

「練習しないとできない式」は、動きの形式が細かくきまっているからである。
何もかもが、いちいち微に入り細を穿つといように、細かすぎるのである。
決められた一定の動き、レールから外れてはいけないという教育。
今の社会に求められている教育の真逆である。

卒業式の本質は、祝福である。
晴の舞台である。
参加者は卒業する6年生を祝福し、6年生はお世話になった周りの人々に成長した姿を御披露目する舞台である。

当たり前だが練習で叱られるためや、在校生が忍耐力を鍛えるためにやるものではない。
それだと、本質と真逆になってしまう。
しかし、これまでの常識では、そういう場にしていた面がなかったか、ということである。

卒業生は堂々と卒業証書を受け取り、あらゆるお世話になった人々へ恭しく礼をして感謝を伝える。
それを、参加者みんなで心より祝福する。
これが大切な本質であり幹であり、それ以外のあらゆる要素は枝葉末節である。

今回の卒業式はどうなるか。
当然、どの学校も、成功である。

恐らく、例年通りの正確な動きはできないだろう。
しかしながら、例年以上に、心を込めて参加し、懸命に動くはずである。
中には、定められた動きを「間違える」子どももいるかもしれない。
それを見た周りの人々が「みっともない」などと思うだろうか。(いや、いるにはいるが、単に偏屈な人である。)
そもそも、見る側にとって、式典での正確な動きなど、知ったことではない。

今回、卒業式ができただけで「有難い」ことである。
だから、どの学校の卒業式も、成功なのである。
大学などでは、既に卒業式はおろか、入学式まで中止になっているのである。
そんな中でも、何とかやりたいという願いが結実したのだから、大成功に決まっている。

さて、問いたいのは、次年度以降である。
卒業式には、毎年本当にあんなに練習が必要なのか。
昨年度も同じことを書いたが、今回の問題への対処をきっかけに、ぜひ真剣に検討していただきたいところである。

2020年3月19日木曜日

心と体に良いものを取り入れる

以前、車のエンジンがかからなかったことがあった。
バッテリー切れである。
ロードサービスの方に来てもらって、事無きを得た。

車は、一部が駄目になると、全てが動かなくなる。
他の機械類も同様。
だから、部品が多いものほど、壊れやすい。
タイヤは四つあるが、一つでもパンクしたらアウトである。

一方で、人間は一部の機能が壊れても、何とか動ける。
足をケガしても、何とか歩ける。

要は、融通が利くか利かないかである。
例えばアナログは融通が利くが、デジタルは基本融通が利かない。
ここは一つ考えるべきポイントである。

人間というのは、よくできている。
車なら、ガソリン車に灯油を入れたら、一発で壊れる。
一方、人間は、摂取したのが多少変な食べ物でも、何とか消化してエネルギー源にする。

しかしである。

変なものを食べ続けたら、それが蓄積する。
無理したままでも進めるが、後でその代償を払うことは避けられない。

柔軟性があるとか融通が利くとかいうことは、ここがダークサイドである。
融通が利くものには、無理が通る。
しかし、無理はあくまでも無理である。
余計な負荷がかかって、蓄積していくことは避けられない。
(若い時分の不摂生を後悔している人も多いことだろう。)

学級経営や仕事を振り返ってみる。
そこに、無理はないか。
だめなのに、通していることはないか。
無理をしていると、最終的には子どもにそのしわ寄せがいく。

身体に良いものを摂取する。
同様に、頭や心にも良いものを取り入れる。

無理や不合理を通して「大丈夫」といっている人には、特に見直して欲しい点である。

2020年3月18日水曜日

丁寧の意識的行動化

ここ最近、何かと「丁寧にしよう」と書いている。

ところで、自分は何事にも丁寧な方か。

これは私の場合、残念ながら「NO」である。
丁寧どころか、放っておくと、振り返らずにどんどん先に進みたくなる。

ここがポイントである。
だからこそ、丁寧を心がける必要性が出る。
どちらかに寄りすぎると、推進力かコントロールかを失う。
アクセルとブレーキの関係である。

つまり、意識せずに自然にしていると、粗雑になりやすい。
だから、意識的に、丁寧を心がける必要が出る。
元々が丁寧で穏やかで言葉遣いもきれいな人ならば、何も意識する必要はないのだが、そうはいかない。

再三「丁寧に」と書いてきたのは、つまり自分のためである。
自己認識である。

以前紹介した『insight』(英治出版)に書いてあることだが、自己認識においては、二種類ある。
一つが、自分が認識している自分。
もう一つが、他者が認識している自分。
これら二つの理解を合わせて、正しい自己認識と呼ぶ。

つまり、自分がどうであるかと、自分がどう見られているか。
このあたりを意識して「セルフプロデュース」をする必要がある。

「自分に足りないところがある」と自覚していれば、変えられるはずである。
あるいは「自分に足りないところがあると思われている」と自覚していることも同様である。
自己認識が足りないと、これができない。

私の場合、自分で「丁寧すぎる」と思うぐらいやって、周りからはやっと「まあ悪くはない」ぐらいの評価になる。
自分で「普通」だと思うぐらいだと、周りからは「いい加減で雑」という評価になる。

誰しもに当てはまる訳ではないが、私と同じように元来が丁寧さに欠く人なら、やはり気をつける必要がある。
気を抜くと、姿勢も崩れるし、言葉遣いも乱れる。
再三述べているように、我が子という宝物を預けている保護者から見ると、丁寧でないのは、何かと不安なのである。

内面や心を直接変えるのは難しい。
だから、外面や行動を変える方が容易だし効果も早い。
せめて見えるところぐらい、丁寧さを心がけようという次第である。

2020年3月17日火曜日

「全ての対応が丁寧」が原則

前号に関連して、電話対応の話。

「電話は、かけた側が先に切るのが原則。」
なぜならば「こちらに用事があってかけて、それが済んだからこちらが先に切る」
という一連の流れがあるからである。

その通りである。

しかし「教師の電話対応」として考えた場合
「基本的にこちらから電話を先に切らない」
ということを、原則として採用してよい。

どういうことか。

あらゆる「常識」には「原則外れ」がある。
電話応対の場合、「相手が上の立場や顧客の時は、たとえこちらがかけた側でも、後に切る」
という原則外れが起きる。
こちらの用事が済んだから先にさっさと切るというのが、失礼に当たるからである。

そして、教師、特に学級担任が職場からかける電話の相手として一番多いのは誰か。
いわずもがな、保護者である。

保護者に対して、丁寧な対応をする。
これに間違いはない。
上下とか年齢とか、そういうことは関係なく、「丁寧」に限る。
(決して「卑屈」ではない。「凛として、丁寧」である。)
なぜなら「大事な子どもを預からせて頂いている」という立場だからである。

子どもは物ではないので、いい例とはいえないかもしれないが、次のような場合を考えてみる。

自分の宝物がある。
それを自分の代わりに預かって大事に保管してくれるという「金庫」がある。
その対応をしてくれる係員が、横柄だったりいい加減な感じだったらどうか。
預けること自体が不安になる。

学級担任は、宝物を預かっている立場なのである。
だから、「全ての対応が丁寧」というのが原則なのである。
これは、子どもに対するところからである。
「上下関係」というような小さな問題ではなく、「人間としての関係」であり、職務上の責務ともいえる。

常識の存在価値は、人間関係がスムーズにいくこと。
その常識の「根本・本質・原点」を考えて、使えるものは上手に使う。
一方で、必要な時にはその原則を変えて対応するような柔軟さをもつことが肝要である。

電話だけでなく、あらゆる「常識」「当たり前」についていえることである。

2020年3月16日月曜日

電話応対の常識は「非常識」

今年2.22に書いた
「参考になさってください」
の記事に関連して、読者の方からメールをいただいた。

簡単に言うと、一部の教師の電話対応が常識外れでひどすぎるという御指摘である。

メルマガ読者の中の教師の皆様が嫌な思いされないように、老婆心ながら以下にチェック項目を示してみる。

1 電話口で、管理職含めた同僚教師のことを「〇〇先生」と呼んでいる
2 電話を受けたが近くに該当者がいないため、「お待ちください」といって一旦保留し、何分も待たせている
3 会話が終わったら、即座に電話を切っている
4 電話を切る時に、そのまま受話器を電話機に置いて切っている。

「今更こんなこと」と思う方も多いとは思うが、若い内に教えてもらわないと、いつまでも「未知」のままである。
未知なのは本人の罪ではなく、教えない周りの罪である。(子どもに対する時と同じである。)
以下、一応の正解を示す。

1 外部の人との電話口において、同僚は管理職であっても呼び捨てをする。
2 「〇〇が現在近くにおりませんので、後ほどこちらからおかけ直しさせて頂いてもよろしいでしょうか?」と伺う。
3 会話が終わってから、数秒の間を空けてから電話を切る
4 切る際は、音がしないように、手でフックをゆっくり押してから、受話器を置く。

全て当たり前のことだが、意外と知らないものである。
特に現代は、家に携帯電話しかない、あるいは携帯電話のように一体型の電話しかない、ということが結構ある。
そうすると、受話器と電話機本体が別々にある(公衆電話のような)型のものは、使ったこともないということになる。
また今は携帯電話が基本なので、他人宛の電話を受ける機会は、実際の職場に出るまでないかもしれないのである。

当然、使い方も応対の仕方も、知らない。
電話応対の常識は、若い人にとっては「非・常識」の事柄である。
そうなると、教えるのは、職場の先輩の責務である。

また,自身の電話応対ではなく、職場で他に電話応対中の人がいる時のマナーもある。
この時に、次のようなことをしてしまっているとしたら、要注意である。

×おしゃべりをして大声で笑っている
×子どもの話など、個人情報や守秘義務の情報が洩れる会話を近くでしている
×印刷機や掃除機など、会話に支障がありそうな騒音の出る機器の作業

要は、誰かが電話中は、静かにするのがマナーという当たり前の一点である。

今更すぎる話だが、特に若い人によっては役立つかと思ったので、紹介してみた。

2020年3月15日日曜日

有難みを思い出す

3.11から、10年目に入った。
震災当時の騒ぎを思い出す。

被災地が混乱していたのは、当然である。
残念なのは、当時全く関係ない地域まで混乱していたことである。

コンビニやスーパーから一気に食糧品等がなくなった。
餓鬼による買占め行為である。

台風19号の時もそう。
ガソリンスタンドに行列。

今回のマスク騒動。

全て同じである。
3月5日のメルマガに書いた、節度と節制の問題である。

千葉県の南部でも、3.11の震災から数週間、給食に変化があった。
最初は給食自体が止まった。
次に、再開したら、お米と一品のおかずだけだった。

これに、当時私の担任していた5年生の子どもたちは、どう反応したか。
「有難いね」
「おいしいね」
である。
これが、節度である。
食べられるだけでも、相当に恵まれた方だとわかる境遇である。

「これだけ?」「もっとおかずないの?」
とは言わない。
「今は食べ物が少ないから、少しで我慢しよう」
これが、節制である。

少ないと、有難みがわかる。
湯水のように使っていたものが、当たり前でないと気付く。
「ある」ことの有難みを思い出せる。
大規模停電の時にも、水が止まった時にも、散々経験したことである。

無いなら無いなりの生活を考えるべきである。
少しでもあるなら、その少しで成り立つ生活を考えるべきである。
他から奪ってまで自分の欲望を満たそうとするのは、餓鬼の行為である。
「少ないなら分け合う」が、人間の人間たる証である。

異常事態というのは、当たり前を見直す機会になる。
震災の教訓を忘れていないか。
今回のウイルスから派生した一連の騒ぎは、この教訓を生かせていないことを思い出させる天からの声である。

2020年3月13日金曜日

マスクの買占め行為はウイルス的行動

昨今のマスク騒動について。

厚生労働省等の主要機関から、次の注意喚起ポスターが出された。
https://www.mhlw.go.jp/content/10900000/000594878.pdf

こんなことを国が先導しないといけないような事実は、情けない限りである。
災害の度にこの手の買占め騒ぎ。
災害時には世界の賞賛を浴びた日本というような内容の道徳教材もあり、それは事実だったはずである。
日本人としての誇りは、一体どうなってしまったのかと残念に思う。

教育メルマガという視点から、雑感(というより憤り)を述べる。

知っている人は知っていると思うが、私はマスクを付けることが苦手である。
呼吸がしづらいし、何より顔の半分が隠れて表情が伝わらないのが嫌なのである。
だから、日常から付けない。

その代わり常に在庫はある。
風邪の時には、必要だからである。
今のような異常でない日常生活の中では、普通に手に入るから、元々の在庫として、いつも通りある。

ちなみに、今の私には不要である。
極めて健康な上に、主に移動は車だし、感染者に濃厚接触するような集団に入る機会も考えられない。
一方で、風邪気味の人や、満員電車通勤の人が、今の時期だけは欲しいというのは、わかることである。
世の中のマスク需要が高まっていること自体は間違いない。

今はアルカイックスマイルがデフォルトの客室乗務員ですら、マスク着用が義務である。
機内は密室だから、当然ではある。
接客等でマスクを付けざるを得ない職種というのは存在する。
また、医療関係等、日常からそれが義務付けられている職種もうなずける。

しかしである。
先のポスターにもあったように、買い占めることで、これら必要な人に行き渡らなくなる。
マスクを今絶対に付けないといけない人の割合は、そんなに多くない。
本当は、全く不要な人が付けたり、「念のため」在庫として貯めこんだりしている訳である。

また、これを転売して儲けている人もかなりいるようだが、地獄行き確定である。
人を騙したり苦しめたりして儲けたお金が人生を幸福にすることはない。

震災の時にもそういう輩がいたが、鬼や悪魔というのはあの世ではなく、人間の世界にいるものである。
そして、マスクを不要なほど多く買ってほくほく安心している人は、これら転売業者の悪の片棒を担っている「悪魔の手先」である自覚が必要である。

高額で買う人がいるから、不当に値上がりし、不当な商品が出回る。
残念ながら、買っている本人はすごく悪いことに加担している自覚が全くない。
悪質ペットショップが日本にはびこる問題と、本質は同じである。
善意や愛(正確には自己愛)に基づいた悪が、自覚がない分、最も悪質である。
知らない内に悪魔の使い、手先になっているといえる。

さて、マスク不足問題の本質に戻る。
転売屋は別として、多くは我が身と家族を守るという「純粋な思い」(自己愛)のためにマスクを不当に多く購入している訳である。
これが、先のポスターにあったように、本当に必要な人に回らないという事態を引き起こす。

「感染防止」の視点から、ロジカルに考えて、「つけてもらわないと絶対に困る人」は誰か。

単に満員電車に乗る人たちではない。
客室乗務員等の接客業の人や、医療関係者ですらない。
これらは、どちらかというと、自分自身の気分と、周囲の目の問題である。

せきやくしゃみの出る、風邪気味の人が付けるべきである。
体調が悪いなら、マスクどうこうより、そもそも外に出ない方がよい。
(こういう時に「がんばる」人が一番迷惑である。)

そして何より、言わずもがな、キャリアを含む感染者自身である。
次点でその家族、最後に念のため程度が、そのごく身近にいる人々である。
絶対に必要な人は、予防を含めても、全体の割合としてはごく少数派である。

この人たちに、マスクが届かなくなる。
どうなるか。

行きつく先は結局、感染者の増加である。
結局、我が身かわいさでよかれと思った行為が、巡り巡って、自分自身と家族の感染リスクをも大幅に高めている訳である。
その人たちが不要にためこんだ(そして多分使われることはない)マスクがあれば、不幸が防げたかもしれないのにも関わらずである。

前にも書いたが、一人に1ずつなら、市場のマスクの在庫も生産も十分に間に合うのである。
一人が2以上抱え込むから、在庫が足りなくなって、混乱を引き起こすのである。

世界中のマスクが足りないのではない。
足りていないのは、知性の方である。
まず算数ができていなくて、同時に道徳もできていないのである。

ちなみに、感染者ではない人がマスクをつけても、空気感染を防ぐ効果はほぼ期待できないと厚生労働省でも報じている。
「自分の顔を触りにくくなる」以外の効果はほぼ皆無であり、ほとんどの場合非感染者は着用自体が不要であるといえる。
(ただし、関係ない人も付けていることで、本当に必要な人もつけようとするので、予防できているという面はある。)
マスク着用は、感染者自身のためというのが、いの一番の意味である。

「他人に感染させない」という観点から、予防として全員がつけるべきだというのであれば、納得できる。
だとしたら、他人の分まで横取りしたら、余計にリスクが高まる。

つまり、マスクの買占め行為は、感染者(キャリア)のマスク着用機会を阻害する。
買い占めることで、ウイルスの感染拡大を助けている、ウイルス仲間ともいえる。

この行為自体が「悪いものが感染して増え続ける」というウイルスの性質そのものを現わしている。
ウイルス自体に感染していない人間がウイルスに操られ、その人間こそがウイルス化しているといえる。

情けない話である。
実際にウイルスに感染して苦しんでいる人よりも、心の方を勝手にウイルス感染させてしまっている人が大量発生している。

これは、普段から日常的な道徳として子どもたちに教えていることである。
「隣の人が不幸になったら、その隣の人も不幸になって、やがて自分が不幸になるんだよ」
「自分だけがいい思いをして助かるということはあり得ない」
「助け合うというのは、実は自分のため。教えてあげるというのも同じ。」
「日常がすべて」
・・・

しかしながら、大人のこの行動を見て、子どもは何を学ぶのだろうか。
その子どもたちは、どんな大人たちになっていくのだろうか。

いじめをなくそう。
自分の頭で考えよう。
協力することが大切。
主体的で対話的で深い学びをしよう。
・・・この社会の大人を見て、馬鹿騒ぎを見て、これらの言葉が信じられるか。
全部、机上の空論であると教えていることになる。

学校の先生を批判してもいい。
確かに、どうしようもない先生も中にはそれなりにいるかもしれない。
ただ、子どもの価値観は、一番身近な大人である親や社会の大人の影響を強く受けているということを忘れてはいけない。

今、日本だけでなく、世界が、エゴにまみれた地獄絵図の様相を呈している。
それは、ウイルスそのものではなく、人間の所業によるものである。
日本は3.11から10年目にして、この何の反省もない現状では悲しすぎる。

子どもたちに、こういう世の中を見せるのは、もうこれを区切りに終わりにしたい。

2020年3月11日水曜日

ウイルス騒ぎと節度

節度について。

先日、親戚に不幸があり、宮崎県に帰った。
電車はおろか、店一つない山奥の限界集落である。
こんな山奥の学校であっても、ウイルスの影響で休校である。
集まっても10人弱のはずなのだが、全国に例外はないということである。

さて、ここに来て親戚と話すと、「遠方のスーパーでもマスクが売っていない」という。
何なら、キッチンペーパーとかすらないという。
みんな穏やかに暮らしている印象だったが、ここも例外ではないということである。
いや、そもそも店自体が少ないから、逆に致し方ないのかもしれない。

東京都内でマスクが売り切れる。
これは何となくわかる。
人口密度と需要が違う。
急激な需要増加に供給が追い付くなるのも、まあわからないでもない。

しかしである。
これは、需要と供給の問題ではあるが、本質は節度の問題である。
そして算数的には、割り算の問題である。

割り算には、二種類ある。
用語としては、包含除と等分除という。

包含除とは、一つ当たりの量が決まっていて、それがいくつあるかを求める割り算である。
例えば「一人2個あめを渡す。10個あるが、何人に渡せるか」というタイプの問題である。
何人かいて順番にもらっていって、自分までがもらえるかわからない。
あるいは、受験の倍率のように、「何人に一人が合格」という場合である。
いわゆる「ゼロサムゲーム」である。
ということで、私はこれを「ドキドキ割り算」と教える。

等分除とは、全体量に対し、決まった数で同じ量に分けるもの。
例えば「2人いて、あめが10個ある。一人当たり何個もらえるか。」というタイプの問題である。
量の増減はあるが、人数分、みんな均等に確実にもらえる。
ということで、私はこれを「にこにこ割り算」と教える。

学級の給食のおかわりシステムも、どちらかの割り算を採用していることが多い。
先日紹介したが「牛乳」の場合を例に出すと、牛乳が3本余っていて、6人希望者がいたとする。

じゃんけんして2人に1人がもらえるのは。「ドキドキ割り算」。
式は6÷3=2である。
倍率2倍である。
ドキドキである。

3本の牛乳を別の容器に6人で等分に分けるのが「にこにこ割り算」。
式は3÷6=0.5あるいは1/2。
6人全員で分け合い、一人あたり一本の半分の量をもらえることになる。
にこにこである。

さて、マスク不足問題は、明らかに包含除、「ドキドキ割り算」の方である。
普段のマスクの在庫量を100とする。
一人当たり1個ずつ、100人に売る想定での在庫管理である。
客1000人を想定する店なら、1000個在庫を抱えておく状態である。

店舗としては、余剰在庫というのは「リスク」である。
売れない在庫を抱えると負債になる。
(店舗をもたないアマゾンのようなネット店舗が最強な理由の一つである。)
だから、売れる想定分しか在庫はない。
つまり、基本は1人に1個の想定である。

ここで突如、1人で5を買う人間が出たとする。
この種の人ばかりが集まると、
式 100÷5=20
である。
100人分あるはずのマスクが、強欲な20人の手にしか渡らなくなり、残り80人の取り分は「0」である。
中には10とかもっと買う人もいる。
必要な人数に行き渡るはずがない。

ちなみにこれは、在庫量を増やしても「焼け石に水」である。
先に大量に買った20人はかなり強欲なので、もっとあるなら、もっと買ってしまうからである。
さらに残った80人の内の多数も疑心暗鬼になっているため、買える時に買う量が1個で済まない。

結果、静観している人には、いつまでもマスクは行き届かない。

しかし、マスクでも何でもそうだが、通常一人あたり「1」以上は使わない。
それ以外は、最終的には余剰在庫であり、先に述べたように、負債である。

節度である。
一人あたりの取り分、分け前というのは、自然の摂理で決まっている。
一生の内にたくさん食べたいからと、1回ずつをどんなに大量に食べても、死ぬのが早まるだけである。
一人当たりの総量は「1」であり、同じである。

買占め問題。
今日で丸9年となる、東日本大震災の教訓が生きていない。

今回のウイルス騒ぎは、地球上の人間一人一人に節度をもてという、天からの啓示であるように思えてならない。

2020年3月6日金曜日

前向きな批判を取り入れる

1月に行った「フューチャードリームセミナー」での気付き。

冒頭、主催者でる老月敏彦先生の提案に
「子どもを変えようとしない。環境を変えよう。」
とあった。
これこそが、全ての核心である。
その「環境」の最たるものが、教師その人である。

セミナーでは、技術を学べる。
技術を学ぶと、教師は思う。
「これであの子がやるようになるかも」「教室が変わるかも」
そうはいかない。
最大の環境である、教師自身が変わらないからである。
子どもを変えることはできない。
きっと、この考え方では、百万回セミナーに出席しても何も変わらない。

講師の素晴らしい教室での実践を見る。
大抵の場合、講師の指導技術に対するコメントがないため、まだ経験の浅い参加者の多くは、その真意や価値を理解できない。
実践から見える子どもの姿、輝く教師の姿に、ただただ「圧倒」されるばかりである。

それを見て
「よし、自分もこういう教室を作ろう!」と思うか
「とても自分には無理だ」と思うか。
どちらでもいいのだが、大切なのは「何のためにやっているのか」の理解である。

「協働的な学び」を求められる今であっても、敢えて一斉指導をするのはなぜなのか。
「びしっ」と手を挙げさせる理由は何なのか。
子どもが生き生きと表現できるようになる価値は何なのか。
子どものどんな将来を見据えているのか。
いかなる技術が用いられているのか。
根本的な思想は何なのか。

参加者は、講師の話を「鵜呑み」にしてしまう傾向がある。
自分も経験があるからわかるが、講師の話というのは「雲の上の存在」「絶対」という勘違いをしやすい。
課題や問題点だらけのものでも、批判が入らないため、完璧なものに見えてしまう。
価値が何だかわからないけど、すごそうだからやってみようということになってしまう。

だから、他者目線の「前向きな批判」を含めた解説が必要である。
子どもを指導する時と同様、気付かないことを価値づけたり、不備を指摘して修正しようとするからこそ、伸びる。
今回のセミナーでは、これがあったため、参加者の学びは深かったのではないかと思われる。

今後、この騒ぎが落ち着いてから、セミナーを主催する予定があるなら、大いに検討していい点である。
セミナー乱立のこの時代、有効な方式だと思う。

ただし、講師同士が褒め合うようなものはダメである。
それをしていると、内部から腐ってくる。
参加者が一見して気付かない不備・不足・不十分を補うものが求められる。

学校の教育活動では、全てを「子どものため」と考えればいい。
同様に、セミナーでは「参加者のため」の目線を常にもち、よりよいものを作っていきたい。

2020年3月5日木曜日

笑顔は仕事~恐怖のマスク~

大学一年生が実習に来た際に話した内容。
「学級づくりについて教えてください」という大きなテーマの依頼である。

何はともあれ、伝わりそうな大事な内容を話そうと考えた。
そこで
「学級担任にとって、笑顔は仕事の一部です」
という話をした。

前日の夜、あるいは朝、嫌なことがあったとする。
誰かとケンカしたかもしれないし、車をぶつけて凹んでいるのかもしれない。
しかし、そんなことは子どもには一切関係ない。

教室は、子どものための空間である。
そして、教師は、子どもに良い影響を与えるのが仕事である。
子どもが元気になる空間を作るのが仕事である。

よって、教室では笑顔。
無理でも笑顔である。

そもそも、毎日生きていて、そんな笑顔なことばかりがある訳ではない。
そんな低確率な「自然」に任せていては、仏頂面が大半になってしまう。
「別に」といった感じで「普通」の表情では、不愛想に見えてしまう。

子どもは、それをどう受け取るか。
「恐怖」である。
教師の顔色を伺うようになる。
しかし普段が仏頂面の人ほど、そういう子どもを育てたくないという。

だから、基本は笑顔でいる必要がある。
「普通」が笑顔なら、顔色を伺う必要がなくなる。

また普段が「満面の笑み」である必要はない。
柔らかめの表情、「アルカイックスマイル」程度でいいのである。
0より上の状態とわかればよい。

一方、一番怖いのは、怒っている顔よりも「無表情」の方である。

なぜこの話を冒頭にしたかというと、参観中の大学生たちの表情がわからなくて怖かったからである。
事情としては、当時「万一インフルエンザを子どもにうつさないように」ということで、全員マスク着用が義務付けられていたのである。

何より、安全第一である。
学校の感染予防の観点からすると、当然であり、致し方ないことである。

さて、全員マスク着用&上下黒系スーツがクラス会議で円になっている子どもの椅子の後ろを取り囲み見下ろす図。
これは、かなり怖い。
「参観」というより、気分は「監視」である。
参観慣れしているはず子どもたちだが、かなり固い空気になっていた。

事後検討会の際、マスクを取ってもらうと、みんな実に爽やかな笑顔の大学生たちなのである。
これだけで、全く違う人間に見える。
挨拶も爽やかである。

つまり本来「マスクをしたまま授業をする」というのは、現状のように余程の事情がない限り、避けた方がよいことなのである。
マスクは、一切の表情を消す能面の役割を果たすという側面を忘れてはいけない。
喜怒哀楽の表情が伝わらないということは、一切の指導が入りにくくなると考えて間違いない。

笑顔は仕事。
「嫌なことがあったんだから仕方ない」というのは、子どもの論理である。
不摂生をしないことや笑顔であることは、仕事の一部である。

対人間の仕事の基本中の基本だが、見落とされがちな点であると思い、書いてみた。

2020年3月1日日曜日

保護者対応の原則「背中を向けない」

「保護者対応が苦手」という声は多い。
本来子どもの成長を共に願う味方であるはずの保護者が「敵」になってしまうのである。
大変残念なことである。

なぜなのか。

これは前号に書いたことにも関連するが、「本質」を外しているのが原因であることが多い。
学校の教育の本質は一点。
「子どもの成長を第一に願う」という一点である。

失敗パターンも一点。
本質の真逆を考えればよい。

ずばり「保身」である。

我が身を守ろうとするから、失敗するのである。
きちんと見ないから、恐ろしいのである。

どういうことか。

つまり保護者だって、教師の行為が子どもの成長を考えてのことと理解していれば、文句なぞ言いようがない。
教師が「自分勝手」に見えているから、文句の一つも言いたくなるのである。

これは、商売を含めたすべての場合にいえる。

お客様が、クレームを言うとする。
お客様が、何を求めているのか。
商品を購入したとするならば、商品が不当だったからである。
不備があるからである。

そこで、逆に「火に油を注ぐ」行為を考える。
それは、「言い訳」である。
「うちは悪くないんですよ」という対応である。

これは、ほぼ100%確実に炎上する。

お客様は、悔しい気持ちを救って欲しいのである。
商品をどうにかするか、対応をして欲しいのである。
だからわざわざ重い口を開いているのである。

正しい対応は、言い訳の真逆を考えればよい。
つまり「言い分をきく」が第一で、「何ができるか」の提案が第二である。
商品の何が不備かをきき、できる限りのことを提案するというだけである。

学校の場合に当てはめる。
保護者が何かを要望してきた。
まずは、きく。
何がして欲しいかもきく。
次に、「できること」を提案する。

ここで要注意なのは
「相手がして欲しいこと」=「自分ができること」
ではないという点である。

「何ができるか」の提案と同時に「何ができないか」をはっきり伝えるというのも大切である。

この時、保身が見えるようではだめである。
相手のために、誠意をつくす。

その上でできないことをはっきりと言うのは、本質を守るためである。
その要望をきいたら、長期的に見て子どもの成長を阻害するようなことは、受け容れられない。
伝える理由も、その一点である。
「子どもの成長のためにならない」からである。

対応の原則は、まず相手に正対し、続いて寄り添うというのが基本である。
一番ダメージが大きいのは、背中を向けて逃げようとするところを撃たれることである。
そのみっともない姿で食らうダメージは、致命傷である。

相手から逃げてはいけない。
逃げるほど、追いかけてくるものである。

そうとはいえ、こちら同様に相手も人間なのだから、中にはごく稀に理不尽な人もいる。
万が一理不尽な相手なのであれば、守ってもらう方が確実にいい。
理不尽な相手は、執拗に追い回すことに関しては得意分野である。
どんなに逃げても勝ち目はない。

こういう自分にはどうにもできそうにない場合、逃げるのではなく、周りに助けてもらう方を考えるべきである。

子どもの成長を第一に考えている人なら、確実に人は助けてくれる。
逆に、保身を考えているだけの人なら、まあ誰も親身に助けようとは思えない。
だから、子どもに誠実であることこそが、何より最も有効な保護者との良好な関係づくりの手段になる。

どんなに怖い気がしても、目をそらさない、背中を向けない。
か弱く身勝手な「私」ではなく、子どもの成長を第一に考えた「教師」という公の使命を負った人間として話す。
保護者対応が苦手な全ての人に伝えたい、原理原則である。
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