特別対応と平等について。
特別扱いはいけない。
差別はいけない。
その通りである。
しかしながら、必要な手立ては、人によって違う。
前にも書いたが、高い所に手の届かない人には、踏み台が必要である。
普通に届く人には、不要である。
これは、松葉杖や車いすの使用などについても同様である。
これを「平等」の名のもとに、全員に踏み台を使わせる。
あるいは、全員に使わせない。
これこそが、愚かな行為である。
ただ一方で、全員に「同じ」を強いることもある。
交通ルールが最もわかりやすい。
「スポーツカーだから制限速度を越えて飛ばしていい」ということにはならない。
制限速度のルール遵守は全員に平等である。
学校教育でも、ここを混同しない。
それは、本当に揃えることが平等か。
あるいは逆に、揃えないことが本当に平等か。
ケースによって、真逆になる。
ごく簡単に言うと、全員一律のルールは、個人の自由が他者の自由を侵害する場合に適用される。
逆に、個別の特別対応は、個人の困り感に寄り添う場合に適用される。
整理整頓が極度に苦手な子どもがいる。
この子どもの机の片付けを手伝う。
一方で、いつもきちんと自分で整えているあの子どもの片付けには手を出さない。
つまり、凹みに対して援助をし、自分でできることには余計な手をかけない。
平等である。
これを誤って捉える人もいる。
算数でもなんでもいいのだが、どんどん自力で先に進める力がある子どもがいる。
これを「早すぎる」ということで、制する。
力を制御させ、我慢させる。
これは不平等である。
個人の能力に制限をかけている。
迷惑にならないのだから、先に進ませればよい。
あるいは、さらに高い課題を与えればよい。
ここで制限をかけるのは、不平等である。
一方で、例えば食べるのが早い子どもがいる。
「早いもの勝ち」にしてお代わりができるシステムにしているとする。
これは競争による弱肉強食システムである。
小さい見方だが、同じ給食費を払っている者同士と考えると、逆に不平等になる。
基本は同等の権利を有すると考えるのが自然である。
一律に考えないことである。
特別な対応が差別になるわけでも、平等になるわけでもない。
常にケースバイケースである。
それは、特別に対応すべきか。
あるいは、一律同じにすべきか。
一つ一つの場合について、検討すべきことである。
2020年3月27日金曜日
登録:
コメントの投稿 (Atom)
-
名称の謎の話。 小学校で行う跳び箱の切り返し系の技といえば、開脚跳びとかかえ込み跳び。 かかえ込み跳びは「閉脚跳び」とも呼ばれる。 名称が二つあるのは、学習指導要領での表記の変遷による。 以下、体育の豆知識。(興味ない方は読み飛ばしていただきたい。) かかえ込み跳び...
-
教材研究という言葉が一般的である。 教えるために、教師として教材を読むのが教材研究である。 (まるで私がわかった風な口をきいているが、完全に野口芳宏先生の受け売りである。 以下同様。) 教材研究の前にすべきは、素材研究。 教えるためでなく、一読者として作品について調べ、読み込む...
-
前号の続き。 教師にとっては、結構知っておくべき「大切」な事ではないかと思う。 (そして、教師以外の人々には本当にどーでもいい話題であるかもしれない。) 例の如く野口芳宏先生よりずばり。 「課題」は出されたもの。 「問題」は感じたもの。 つまり、教師から与えたものが「学習課題」。...
0 件のコメント:
コメントを投稿