学校のテストで出る問題では、既存の知識や考えを問う。
一方で人生における問題というものは、今までの人生を常識を問う。
つまり、問題には、常識を打ち壊すはたらきがある。
大きな問題ほど、大きく常識を転換せざるを得ない状況にする。
今回のウイルス騒ぎで、社会は大混乱である。
学校も、これまでにない事態に、手探りで右往左往している状態である。
学校に問題を突き付けてきて、あらゆる常識を問われているといえる。
さて、恐らく大方の小学校は、今週あたりが卒業式である。
(正確には「卒業証書授与式」であるが、便宜上ここでは卒業式と書く。)
練習なしの卒業式。
小学校以外では割と当たり前のことなのだが、小学校にとっては前代未聞の出来事である。
(世間一般の式典において、主役や出席者に練習させることはない。普通、練習するのは進行側だけである。)
卒業式をそのままやったらどうなるのか。
とんでもないことになると予想されるだろうか。
これは当然「どうにかなる」と考える。
というより、どうにかなるような構成にするのである。
「練習しないとできない式」は、動きの形式が細かくきまっているからである。
何もかもが、いちいち微に入り細を穿つといように、細かすぎるのである。
決められた一定の動き、レールから外れてはいけないという教育。
今の社会に求められている教育の真逆である。
卒業式の本質は、祝福である。
晴の舞台である。
参加者は卒業する6年生を祝福し、6年生はお世話になった周りの人々に成長した姿を御披露目する舞台である。
当たり前だが練習で叱られるためや、在校生が忍耐力を鍛えるためにやるものではない。
それだと、本質と真逆になってしまう。
しかし、これまでの常識では、そういう場にしていた面がなかったか、ということである。
卒業生は堂々と卒業証書を受け取り、あらゆるお世話になった人々へ恭しく礼をして感謝を伝える。
それを、参加者みんなで心より祝福する。
これが大切な本質であり幹であり、それ以外のあらゆる要素は枝葉末節である。
今回の卒業式はどうなるか。
当然、どの学校も、成功である。
恐らく、例年通りの正確な動きはできないだろう。
しかしながら、例年以上に、心を込めて参加し、懸命に動くはずである。
中には、定められた動きを「間違える」子どももいるかもしれない。
それを見た周りの人々が「みっともない」などと思うだろうか。(いや、いるにはいるが、単に偏屈な人である。)
そもそも、見る側にとって、式典での正確な動きなど、知ったことではない。
今回、卒業式ができただけで「有難い」ことである。
だから、どの学校の卒業式も、成功なのである。
大学などでは、既に卒業式はおろか、入学式まで中止になっているのである。
そんな中でも、何とかやりたいという願いが結実したのだから、大成功に決まっている。
さて、問いたいのは、次年度以降である。
卒業式には、毎年本当にあんなに練習が必要なのか。
昨年度も同じことを書いたが、今回の問題への対処をきっかけに、ぜひ真剣に検討していただきたいところである。
2020年3月20日金曜日
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