1月に行った「フューチャードリームセミナー」での気付き。
冒頭、主催者でる老月敏彦先生の提案に
「子どもを変えようとしない。環境を変えよう。」
とあった。
これこそが、全ての核心である。
その「環境」の最たるものが、教師その人である。
セミナーでは、技術を学べる。
技術を学ぶと、教師は思う。
「これであの子がやるようになるかも」「教室が変わるかも」
そうはいかない。
最大の環境である、教師自身が変わらないからである。
子どもを変えることはできない。
きっと、この考え方では、百万回セミナーに出席しても何も変わらない。
講師の素晴らしい教室での実践を見る。
大抵の場合、講師の指導技術に対するコメントがないため、まだ経験の浅い参加者の多くは、その真意や価値を理解できない。
実践から見える子どもの姿、輝く教師の姿に、ただただ「圧倒」されるばかりである。
それを見て
「よし、自分もこういう教室を作ろう!」と思うか
「とても自分には無理だ」と思うか。
どちらでもいいのだが、大切なのは「何のためにやっているのか」の理解である。
「協働的な学び」を求められる今であっても、敢えて一斉指導をするのはなぜなのか。
「びしっ」と手を挙げさせる理由は何なのか。
子どもが生き生きと表現できるようになる価値は何なのか。
子どものどんな将来を見据えているのか。
いかなる技術が用いられているのか。
根本的な思想は何なのか。
参加者は、講師の話を「鵜呑み」にしてしまう傾向がある。
自分も経験があるからわかるが、講師の話というのは「雲の上の存在」「絶対」という勘違いをしやすい。
課題や問題点だらけのものでも、批判が入らないため、完璧なものに見えてしまう。
価値が何だかわからないけど、すごそうだからやってみようということになってしまう。
だから、他者目線の「前向きな批判」を含めた解説が必要である。
子どもを指導する時と同様、気付かないことを価値づけたり、不備を指摘して修正しようとするからこそ、伸びる。
今回のセミナーでは、これがあったため、参加者の学びは深かったのではないかと思われる。
今後、この騒ぎが落ち着いてから、セミナーを主催する予定があるなら、大いに検討していい点である。
セミナー乱立のこの時代、有効な方式だと思う。
ただし、講師同士が褒め合うようなものはダメである。
それをしていると、内部から腐ってくる。
参加者が一見して気付かない不備・不足・不十分を補うものが求められる。
学校の教育活動では、全てを「子どものため」と考えればいい。
同様に、セミナーでは「参加者のため」の目線を常にもち、よりよいものを作っていきたい。
2020年3月6日金曜日
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