ある日の朝、子どもに「何で先生はいつもニコニコしてるの?」と尋ねられた。
「みんなを見ていると、嬉しくなるからだよ」と答えた。
ちなみに、私は元来それほど愛想のいい方ではない。
しかし、これは仕事をする上で、必要に迫られて努力して、意識的に身に付けてきたものでもある。
そこで、今回は「教室での表情」について考える。
一般的に「ニヤニヤしている」というと、良くない印象である。
一方で「ニコニコしている」というと、良い印象である。
似ているようで違うこの二つの表情は、どう違うのか。
緊張緩和のための笑いというのがある。
あるいは、相手を見下すような時にもこれは出る。
つまりは、自分本位の下心のある笑いである。
これが意味のないニヤニヤ顔になる。
自分本位から発するその表情は、相手に不快な印象を与える。
相手を安心させるための笑顔がある。
例えば笑顔のプロでもある客室乗務員は、別にいつも自分自身が上機嫌で楽しい訳ではない。
笑顔の方が、お客様が安心するし、声をかけやすいから、相手のためにそうしているのである。
それが結果的に、自分の仕事のやりやすさにつながっている。
つまりは、自分本位のエゴか、他者視点の貢献のためかという違いである。
それが、表情に出る。
同じようで全く別種の表情になる。
笑顔でいるコツがある。
相手を好きになることである。
相手の良いところを見ようとすることである。
笑顔の練習には、赤ん坊、あるいはペットがいい。
つまり「無条件に可愛がってもらえる存在」である。
勝手にこっちの表情が和らいでしまうような相手である。
(可愛がりすぎて「デレデレ」レベルになるとやりすぎなので注意である。)
この感覚でもって相手に接する。
教室に入った瞬間に出会った子どもと「おはようございます」と言い合えることに、喜びと感謝を感じられるか。
目の前の子どもたちといられることを、心から嬉しいと思えるかどうか。
ここに「ニコニコ」になれるかどうかの全てがかかっている。
いつもいると、この感謝の心がなくなってくる。
「有難う」の反対は「当たり前」である。
自分なぞの話を、毎日教室に来てまで、子どもが聞いてくれる。
一体いつからそんなに立派な人間になったのか。
畏れるべきことである。
そう考えると、感謝の気持ちも湧いてくる。
毎朝出会えることを心から嬉しく思える。
だから「ニコニコ」してしまうのである。
なお、一番良くないのがむすっとした「仏頂面」である。
あるいは、眉間に皺が寄って、苦虫を噛み潰したような表情。
これが基本だと、怖い。
かのゲーテも「人間の最大の罪は不機嫌」と喝破したぐらいだから、これは不変の真理である。
「元々こういう顔なんです」は、通用しない。
相手がどう受け取るかが全てだからである。
教室に教える人として入るなら、そこは客室乗務員なみの努力が必要である。
これが基本にあるからこそ、時に出す「真剣な表情」が効いてくる。
「あ。これは本気だな。」と表情で伝わる。
子どもにとって、わかりやすいのである。
つまり、それこそが安心である。
恐怖は、よくわからないという不安から生じるものだからである。
子どもにとって「わかりやすい先生」になる。
そのためには、やはり笑顔が基本と考える次第である。
2020年3月28日土曜日
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