2011年10月31日月曜日

苦手なあの子の対処法

前号で、「親の嫌いな部分は自分の中の嫌いな部分」というようなことを書いた。
親から見ても同様で、我が子の気に入らない部分は、自分の中のコンプレックスである。
「お父さんみたいにならないように、しっかり勉強していい大学に入りなさい」などというのは、このケースである。

これは、学級の子どもにも当てはまる。

もし、自分の学級に「この子は苦手」という子どもがいたとする。
どこが苦手(または嫌)なのか、考えてみる。
すると、大抵、自分の中のできていない部分とか嫌な部分だったりする。

例えば「宿題を何度言ってもやってこない」というところが気に入らないとする。

その先生は、「完璧主義病」かもしれない。
自分自身が、完璧でないといけない(しかし完璧ではない)という、脅迫観念の持ち主かもしれない。

または、その先生自身が、子ども時代によく宿題を忘れて怒られていたのかもしれない。

はたまた、「人の言うことを聞かない」と思われている(と自分で思っている)先生かもしれない。

いずれにせよ、自分の中のコンプレックスと重ねていることは間違いない。
なぜなら、どうでもいいと思っていることには嫌とも思わず腹も立たないし、気にならないからである。

そういう風に分析してみると、苦手なあの子も違って見える。
何だか、自分に似ている気がして、親近感が湧いたりする。

「そんなはずはない」と思いたいところをぐっと我慢して、分析してみることをオススメする。
人間関係全般に使える考え方である。

2011年10月30日日曜日

親に感謝の気持ちを持つ

子どもにとって最大の教育環境は、親である。
生き方の根本を親に刷り込まれる。
根っこの部分は、全員親のコピーだと言っても過言でないぐらい、強い影響力である。
(これは、大人になっても同様である。特に親に対して嫌いな面は、自分の中の嫌いな面である。)

しかしいつも当たり前に世話になっているものほど、感謝の念を持ちにくい。
感謝を持つには、ちょっとした「失うイベント」が必要である。
健康に感謝するのが、風邪をひいた時であることと同じである。

修学旅行は、親から離れるチャンスである。
普段当たり前にお世話してもらっていることを、自分達でするチャンスである。
普段うっとおしいと思うこともある親に、会いたいなと少しでも思う。

修学旅行後は、確実に親に感謝の念を伝えるようにしたい。

また、修学旅行費を出してもらえることを、当たり前だと思わず、ありがとうと伝えさせたい。
これは、普段の集金でも一緒で、ちょくちょく確認する。
「お金をもらう時、ありがとうと伝えてる人?」
最初の頃は一人か二人だが、だんだん増えてくる。

当たり前すぎる存在の親に、感謝の念を持たせたい。

2011年10月29日土曜日

俳句作りは屋外で

震災の影響で校舎が使えず、体育館で授業をしている学校が、新聞で紹介されていた。
隣で体育をやっている中、授業をしているという。
集中力が続かないのが悩みだと書いてあった。

子どもにとって、集中して学習できる環境は大切である。
どういう場で学習するかで、学習効果が変わってくる。

ある国語の先生に聞いた話だが、俳句を作らせたいなら、外に出て作らせろという。
季節感を感じるには、教室より外がいい。
教室で作った句と外で作った句では、全く違うという。

子どもにとってよりよい環境を、常に工夫する必要がある。

2011年10月28日金曜日

根より土

先日、庭の木を一本抜いた。
直径20センチほどの、それほど太くはない木。
一年ほど前に切って切り株状態なのを、引っこ抜く作業である。

そろそろ弱ったと思い、いけると思ったのが、甘かった。
根っこが深いのである。
ついでに言うと、新芽が生えていた。
全然弱ってない。

とにかく根をはずそうと、根の周りを掘ったり、根を切ったりした。
全然抜けない。
根をたどって掘り進めるが、どこまで掘っても伸び放題である。

なぜ抜けないのか。
土が根をおさえているからだと気付いた。
(もっと早く気付けという声が聞こえそうである。)

作戦変更。
周りを掘って、土をなくす作戦に出た。
1時間以上悪戦苦闘して、やっと抜けた。

見た目直径20センチだが、実際掘ってみると、直径1メートル近くの範囲に根が張っていた。
実に立派である。
しかし、抜けた。

何が言いたいのか。

要するに、根も大切だが、それ以上に周りの土が大切だということである。
立派な根を生やすのはとても大切だが、土がなければ意味がない。
支えとなる土があるから、立派な木が育つのである。

教育となると、土や根どころか、花や実の部分に目がいってしまうことが多い気がする。
結果として花や実ができるのであり、辿っていけば、最終的には土である。

環境の与える影響は大きい。

2011年10月27日木曜日

地盤が大切

修学旅行で富士の樹海を見学した。
ガイドをしてくれる方がいて、樹海について色々教わった。

富士の樹海は、1000年以上前に起きた噴火による溶岩の上にできている。
だから、土が表面にしかなく、樹木は根を深く張れない。
かわりに、根は外に広がっていく。
そうすると、ある程度までは支えられるが、樹齢が大体300年を越えると、倒れるという。
だから、富士の樹海には大木は少なく、森自体が常に若く、常に成熟しない。

やはり、地盤が大切である。
大きな木を育てたいなら、良い土が豊富にある所でなくては育たない。
富士の樹海はそれ自体の良さはあるが、大きな木を育てるには向かない。

教育も同じだと感じた。
どんなに水を与えたり肥料をやっても、地盤が溶岩ではどうにもしようがない。
例えば、英語教育の推進。
本気でやるなら、もっと外国人がいて、英語を自然に使う環境でないと、根付かない。
英語を教科化するとかそういうこと以前に、地盤が大切である。

次号も、植物に関する話を。

2011年10月26日水曜日

禁止事項をどう覚えさせるか

「○○しないようにしましょう。」
「○○しましょう。」
夏休みの前の生活指導や、校外学習のしおりの「約束事」などに多く見られる。
事細かに色々守るべき事項があって、多いと30個ぐらい書かれている。

当然、子どもの頭には残っていない。
守って欲しいことなら、無数にある。

校外学習のバスの中で守って欲しいことの一部を例に挙げる。
バスの中では席を立たない
窓から手を出さない
シートベルトを着用する
具合の悪い人がいたらすぐに先生に言う
等々。

このあたりは、確実に守って欲しい。
全てに共通することは何か。
要するに「自分達の身の安全は自分達で守れ」ということである。
あまりごちゃごちゃ言っても、結局覚えてない。
(しかしながら、一回は具体的に指導しておくことも必要。)

事象だけをとらえず、本質を指導することが大切である。

2011年10月25日火曜日

ダメなあいさつ指導

修学旅行シーズンである。
観光地は一般のお客さんと修学旅行生でごった返している。

修学旅行は、その学校のレベルが露呈する。
教師のいない場で、その学校の児童生徒としての行動が求められるからである。

先日の修学旅行中に、他の学校の児童とすれ違う機会が多くあった。
一人はやたらにばかでかい大声で、すれ違う人にあいさつをしまくっている。
もう一人は、「こんちはこんちはこんちは」と、ただ言葉を並べまくっている。
すごく不愉快である。

また別の場面では、外国人だけ選別してやたらと「ハロー」と声をかけているグループがいた。
面くらってる外国人も多くいた。

校外学習前に「人と会ったらあいさつしましょう」と指導するのは、やめた方がよい。
自然にできるレベルならば指導の必要はないし、それ以下レベルの場合は、周りの人々にとって迷惑になる。
「公害学習」である。
外に出さない方がよい。

あいさつ指導は、普段から意味まできちんと教えたい。

2011年10月24日月曜日

風邪もチャンス

季節の変わり目、風邪が流行りだした。
風邪にも、意味を見出すことができる。

例えば、私は大抵、まず喉が痛くなる。
これは「しゃべりすぎ」の警告と捉えている。
「お前いつもしゃべりすぎだからちょっと黙ってろ」と。
または、「授業に無駄な言葉が多すぎる」と。
そういう警告を、神様だか自分の体だかしらないが、教えてくれている訳である。
また、健康のように、いつも当たり前にあるものに感謝しないさいと言われているようにも思える。

子どもへの話にも応用できる。
風邪は「ちゃんと睡眠とって」「栄養とって」と体が警告しているのだと、生活習慣についての指導にも使える。

何でも、チャンスだと思って利用した方がいいと思う。

2011年10月23日日曜日

自分で判断する

教育の手段は無限にある。
どの方法が正しいのかを考える。

あいさつの仕方を例に挙げる。

相手が子どもであっても「おはようございます」と言うのが正しいという意見がある。
相手を尊重しているからという主張である。

一方、「おはよう」と爽やかに言った方がいいという意見がある。
あいさつで心の距離を縮めたいからという。
ていねいすぎる言葉が、距離を感じさせるという主張である。

どちらが正しいのか。

人と場合によりけりである。
どんな環境なのか。
自分が、相手がどんな人なのか。
様々な要素によって、全く異なる。
正解は、ない。
自分が一番良いと判断した手段を使うだけである。
ただその時、他人の意見も参考にはした方がよい。
善悪の判断が、独りよがりになっていることが多いからである。

ついつい、指導主事や講師などの上の立場の人に指導されると、それが正しいように思ってしまう。
自分が尊敬している先生の言であったりすると、鵜呑みにしてしまうことも多い。
よくよく考えると、その人の主張であり、自分に当てはまるかどうかは別である。
(特に宗教は、その典型である。)
ただ、学校の方針としてこうと決まっている場合は、それに従うのが原則である。
納得いかない時は、きちんと職員会議等のしかるべき場で論議し、筋を通す。

「考える力」を子どもにつけるためにも、教師自身が自分で考え、自分で判断していく習慣を持ちたい。

2011年10月21日金曜日

自分はどの教育手段を使うか

どんなことでも、方法は無限にある。
教育の分野も同じで、何が最良かはわからない。

例えば、休み時間に毎日子どもと遊ぶ教師がいる。
一般的に見て、いいことだと思える。
特に体を動かすのが好きな子どもにとっては魅力的である。
しかし、子どもと毎日遊ばない教師はダメかというと、そんなこともない。
むしろ、運動嫌いの子どもは、もしかしたら疎ましく思っているかもしれない。(あくまで「かも」、である。)
「子どもと一緒に遊ぶ」というのも、教育の一手段であり、必須条件ではない。

例えば、音楽系の分野に長けた先生がいる。
子どもと一緒になって歌ったり楽器を演奏したりして、土日も返上して音楽活動をしている。
音楽好きの子どもにとって、この上なくすばらしい先生である。
じゃあ音楽ができない先生はダメかというと、そんなこともない。
音楽に興味がない子どもにとっては、有効な教育手段になりえない。
音楽も、一手段である。
運動も、書道のような芸術系分野も、何もかも一手段である。

どれも、「できるならできた方がよい」ぐらいのものであって、一人で全ては揃えられない。
そういう教育に使える手段を、いくつ持って、いくつ活用しているかが大切である。
バリエーション豊かな方が、様々な子どもの成長に対応できる。

自分一人で完璧な教師になろうとせず、周りと協力することが大切である。

2011年10月19日水曜日

ノートの意見を読む行為は「読む」?「書く」?「話す」?

子どもが、国語の授業で自分の意見をノートを書き、それをみんなの前で読んで発表するとする。
この行為は「話すこと・聞くこと」「読むこと」「書くこと」のどれで評価するのか。

一方、教科書の音読をさせる。
この場合はどうか。

国語の指導主事にお話を伺う機会があり、そんなことを質問してみた。
ちょっと考えてみてから読み進めて欲しい。

前者の場合は、意見を書くのが主な学習行為であることから「書くこと」で評価、
後者の場合は、書かれていることを読むのが主であることから「読むこと」で評価、とのこと。
まあ、当たり前だが、意見をノートに書いて、それを「声に出して」「読む」ので、評価項目を間違える人も多いという。

音読の話を前回書いたので、ふと思い出して、紹介してみた。

2011年10月18日火曜日

音読のレベルを上げる

音読には、読み手の読みの深さが表れる。
特に文学作品や詩では、それが顕著に出る。

文字をとりあえず読めればよしとするか。
速くすらすらと読めるようにしたいのか。
音読から朗読のレベルに引き上げたいのか。
目指す方向によって指導の仕方が異なる。
速さを求めると、内容が置いていかれることが多い。
しかし数を多くこなすことで内容が入ってくるという面もある。

読んでいる方は必死なので、放っておくとどう読むかにはなかなか目がいかない。
教師が発問で気付かせる。
例えば、宮沢賢治の「雪わたり」で
「北風ぴいぴい風三郎、西風どうどう又三郎」の一文を次々に読ませる。
普段から「大きくはっきり読む」のがいいと思っているので、大抵、元気よく読んでしまう。

ここは「細いいい声」で読まなくてはならない。

クラスで特に声の小さな子どもが読むと、ちょうどいいぐらいになる。
断定的に誉める。
普段、音読であまり誉められないので、びっくりする。
周りの子どもも、「なるほど」「わかった!」と声が上がる。
前後の文に着目すれば「細いいい声」で読むことに気付く。
こうして、だんだん文の意味も気にしながら音読するようになる。
内容面の読みが深まる。

音読のレベルを上げることで、読みのレベルも深めたい。

2011年10月16日日曜日

珍回答への対応

子どもが「珍回答」をしたとする。
クラスの仲間がどっと笑う。
この時、言ったこと自体が面白くて笑ったのか、その子どもを馬鹿にして嗤ったのかがある。
どちらにせよ、笑われた子どもは傷ついていることがある。

子どもが発言したくない理由に「間違った答えを言うと笑われるから」というものがある。
「間違える」=「笑われる」=「自分の価値を落とす」というような図式が成り立っている。
(大人はこれが顕著である。授業研でもよく見られる。)
この認識自体が間違いなのだが、子どもには教えてあげないとわからない。

私は、次のように話す。
「○○君の発言を笑った人がいるね。
確かに、答えとしては間違ったものだったかもしれない。
ところで、○○君はどうして間違った答えが言えたのだろう?」
少しだけ間をとって考えさせる。
「○○君は、自分の考えをはっきり言ったからだ。
勇気がないとできない。
挑戦しない人にはできない。
発言できない人には、間違えることはできない。
○○君の発言は、今回は間違っていたかもしれないけど、挑戦した証だ。
一番挑戦した人が、一番多く間違える。
間違えてを恐れず意見を言える○○君はすばらしいと先生は思う。
みんなは、どうだろう?
挑戦できているかな?」

こうしたことを子どもの中に常々インプットしていくと、クラスが変わってくる。
間違いに挑戦できる子どもを育てたい。

2011年10月15日土曜日

流行に踊らされない

日本の子どもの学力が、韓国始め、アジア諸国に追いつかれたり抜かれたりしたと焦っている。
偏差値教育から脱却するための「ゆとり」を取り入れた日本。
日本を目指して経済発展し、努力してきたアジア諸国。
高度経済成長時の日本のように「良い大学が良い就職」という概念が通っている国もある。
当然、受験戦争も熾烈である。
テストの結果も、至極当然といえる。

焦って急に方向転換して「学力向上」を旗揚げし始めた。
しかし、「前の時代と同じではいけない」と考えた。
だから「学力向上」は目指しつつ、「考える力」を、ということである。

こういうスローガンに学校現場が踊らされすぎてはいけない。
考える力が大切なのは、認める。
しかしこれとて、もう数年すれば、もっと他に大切なものが・・・と方向が変わる。
大体10年サイクルで変わる傾向がある。

変わらないことは、教育の目的は「よりよい人格の完成」であること。
大きな方向性さえ間違えなければ、時代の流行に翻弄されないで済む。

ブレないよう、信念を持って子どもの教育にあたりたい。

2011年10月14日金曜日

国語の授業における学力向上

国語の学力とは何か。
もう少し具体的に言うと、どんな授業をすれば学力向上につながるのか。
漢字はわかりやすい指標の一つだが、当然これだけではない。

例えば、文学作品を教える時。
一つ一つの場面を詳しく見ていき、主人公の心情の変化を見ていくというようなものが多い気がする。
詳しく解説されるので子どもはなるほどと思うのだが、それで果たして学力はつくのか。
例えばその過程で「話すこと・聞くこと」「書くこと」「読むこと」、それらを通しての「言語事項」のどの部分の力がついたのか。
そういうことがはっきり言える必要がある。
そこを考えて力がつく授業をしているのであれば、どんな教え方でも良いと思う。

さらに言うと、子どもが一人で他の文学作品を読む時やテストをする時に、役立つ力がついたのか。
そういう視点で見ると、力をつけるための授業を考えられるかもしれない。

なぜその活動をしているのか、時々自問してみる必要があるように思う。

2011年10月13日木曜日

提案とは何か

当たり前だが、なるほどという話を聞いた。

提案とは何か。

特に教育の研究集会における提案をする時。
「学習指導要領通りにやってみました」というのでは提案にならない。
かといって「文科省に反対する」のが提案ではない。

「普通にやるとここが問題なので、こうしてみました」というのが提案である。
そのままでは提案性がないし、飛躍しすぎてても使いようがない。

このあたりを踏まえ、「以前のものとここが違う」というものが提案性だといえる。
職員会議のような場でも、そういう意図を持って提案したい。

2011年10月12日水曜日

教育における環境と金

教育は環境が大切である。
「孟母三遷」という話があるように、我が子に良い教育を受けさせるために、労を惜しまず引っ越す人もいる。
本人の才能もあるだろうが、やはり教育における環境の差は大きい。

具体的には、お金である。
教育でお金の話を持ち出すと、嫌がる人も多い。
本気で教師になりたくてなった人ほど、「お金のために働いている訳じゃない」という人が多い。
多分、他の仕事でもこれは同様である。
お金をもらわくてもやりたいというぐらい好きなのである。すばらしいことである。

そういう個人的な話ではなくて、いわゆる教育予算のことを言いたい。

「お金がなくても工夫すればいい」という意見ももっともだが、限度がある。
子ども一人に一台ずつパソコンがある教室と、黒板とチョークしかない教室の差は、埋めがたい。
戦においては、どんなに剣の腕を磨いても、鉄砲の前には歯が立たないのである。

何が言いたいかというと、カネの問題を無視して教育の論議が進められていることに不満がある。
具体的に一つ例を挙げると、「情報化」を推進している割に、情報器機への予算が割り当てられていないことがある。

「デジタル教育器機を活用していますか」「使いこなせますか」というアンケートがくる割に、モノがない。
教室でプロジェクター(校内に3台)を使用するのだって、一苦労である。
授業の合間の休み時間10分間で用意しても間に合わない。
(教材を作るのは、簡単である。)
実質的に、日々使える環境にないのに、やれと言われるのが困る。
モノさえあれば、毎日だって使う。

読者の中には、最新器機の揃ったすばらしい学校に勤務している方もいるかもしれない。
しかし世の中には電子黒板はおろか、地デジ化すらされていない学校もある。

ない分は工夫するしかないが、やはりモノはあった方がいい。
時々県外の知り合いにでも尋ねてみると面白い。
自分の学校がいかに恵まれているか(またはその逆か)、驚くはずである。

2011年10月10日月曜日

[学力向上」のゴールはどこか

何を考える上でも、目的と目標は大切である。
「学力向上」のゴールは何なのか。

国家戦略的に見れば、「国際社会に通用する日本人を育てる」あたりである。

子どもからすれば、きっとそんなことどーでもいい。
高校3年生(または中3)をつかまえて質問すれば「○○大学(高校)に入る」だろう。
小学生にきいたら「立派な大人になるため」という真面目な回答か「お金持ちになるため!」といった直球な回答かもしれない。

とにかく、個人レベルでみたら、大学合格は学校での勉強の「ゴール」に設定されている。
「試験合格のため」という域を出ない。

ゴールの大学受験では、国公立を受験する場合、国語・数学・理科・社会・英語の5教科をまんべんなく理解していなくてはならない。
ここの試験では、考える力やユニークさよりも、知識重視である。
知識を頭にたたき込むには、あまり考えない方がよい。
疑問ばっかりもってると、先に進めなくて暗記できないからである。
(さっぱり分からないものも暗記しにくいので、意味付けは大切である。)
何しろ、膨大な量である。
「これはこうなの!」と言われたら「そうなのか!」と素直に納得できる方が強い。

じゃあ早いとこ効率的に知識をたたき込みましょうと小学校で言ったら、当然大反対される。
そこには「考える力」と「個性」と「自由」が育まれる必要があるからである。

一体、何がしたいのか。
目指すものに対する練習メニューが適していないような気がしてならない。
何だか、そんな矛盾が感じられるのが、「学力向上」に向けた「考える力の育成」である。

文句を言ってもしょうがないが、考える力をつけさせたいなら、大学受験から全て変えていくしかないと思う。

2011年10月9日日曜日

「考える力」を育てたいが

修学旅行で出かけきて、しばらく更新を怠ってしまった。
急に更新しなくなって不審に思った方がいたら、申し訳ない。

では、本題に。

学力向上は大切である。
と、言って反対する人はほぼいないと思う。
「学力とは何なのか」も、よく論議されている。

なので、敢えて「学力向上は本当に大切か?」とか「それが学力なのか?」ということを考えてみる。

学力の中で「考える力」の大切さは、中教審答申等の公的な機関でも言われるぐらいの共通認識事項である。
その割に、授業時数はカツカツである。
授業内容が増えた分、前より更に考える時間がなくなったように思う。
前にも書いたが、特に算数に関しては、足踏みしている余裕時数は皆無である。
悠長に考えさせていては、内容が進まない。

そういうことを言うと、「教え方を工夫しなさい」ということになる。
一部の優秀な人なら工夫できるかもしれないが、普通は無理じゃないかとも思う。
(だから現状がある。)
何か、根本的な解決方法が必要である。

2011年10月5日水曜日

急がば回れ

結果がすぐ欲しい。
だから、ついつい焦りがちになる。

8の字跳びの練習の失敗でよくあるのが「速く回しすぎ」という状態。
記録を目指すので、どんどん速くなってしまいがちである。
しかし、実際は「引っかからずに跳び続ける」という方から優先した方が上達が早い。
速く回すと、時々いい記録が出ることがある。
いい記録が出ると、ますます速く回そうということになる。
しかし、毎回引っかかっている子どもを放ってそれを続ければ、後々に問題になることは明らかである。

急がば回れという諺もあるように、その都度の問題をきちっと解決していった方がいい。
小さな問題が大きく発展していってしまう。

焦らずに、記録が少しずつ伸びていく過程も楽しみたい。

2011年10月4日火曜日

「割れる食器を使いましょう」

息子が1歳ぐらいの時の話。
妻が保健センターで子育てアドバイス会のようなものに参加した。
食事についての話で次のような話があったらしい。
「子どもにはプラスチックでなく割れる食器を使わせて。
落としたら割れることをそこで学びます。
根気強くつきあうことが大切です。」
早速実践。
息子、5秒で食器粉砕。
息子大喜び。
床は割れた食器と食べ物で惨状。
食器は、ほどなくプラスチック製に戻った。
その後、成長の過程で何の問題もなく自然に陶器製の食器を使うようになった。

保健士さんの言っていたことは、多分本当である。
実際にそのように子育てをし、うまくいったに違いない。
もしかしたら、多くの子どもはそれでうまくいくのかもしれない。
しかし、我が子はとてもではないが、それができる感じではなかった。
やり方がその子どもに合ってないのである。

大縄や8の字跳びの相談で「うまく跳べない、縄に入れない子どもがいる」というのが多い。
これについては、やり方のいくつかを以前メルマガで示した。
私のクラスのある子どもの場合、
「苦手な子どもの前後に得意な子どもを配置し、後ろの子どもが声をかけて背中を軽く押してあげる」
というのが一番効果があった。
これとて、本人に「できるようになりたい」という意志があり、周りに「仲間を何とか助けたい」という願いがあって初めて成り立つ方法である。
先の問いに対する一番の回答は、「その子どもなりに合った方法を担任自身が必死で模索してください」である。
8割の子どもに通用するノウハウなら、示せる。
しかし個人の問題については、やり方を必死で探すしかないのである。
実際に見ることができたら、アドバイスもできる。
原因が何なのか分析した上で、考えるしかない。
結局、本気でやるなら楽はできないのである。

その上で、役立つ情報を提供したい。

2011年10月3日月曜日

教え上手は、教わり上手

8の字跳びに関して、印象的なことがある。
自分が今の学校に赴任した初年度のことである。
6年生の担任だった。
当時、全校で8の字跳びに取り組んでいた(今は、高学年は大縄)。
私は前任校でも8の字跳びに取り組んでいたため、指導法などもある程度知っていた。
子どもと練習していた時、1年生の担任の先生がクラスの子ども全員を連れてやってきた。
「跳び方を勉強させて下さい。よろしくお願いします。」
ベテランの女性の先生である。
いつも明るく、子どもにも職員にも人気があり、子どもに力をつける先生だった。
当然喜んでお受けし、指導のノウハウは全てお伝えした。
結局そのクラスは、1年生にも関わらず、低学年の部で1位の記録を出した。

すばらしい人ほど謙虚である。
謙虚であるから、誰からも学ぼうとする。
相手の年齢や地位等に関係なく学ぶ。
自分よりはるかに経験がある人が「教えてください」と言ってくる。
言われた方は、びっくりする。
ますますその人に対して頭が下がる思いがする。
誠心誠意こめて自分の知っていることをお伝えしようという気が起き、さらにその人を尊敬するようになる。
結果、その人に衆知が集まるということになる。

だから、教え上手は、教わり上手である。
指導法に悩んでいたら、教えて下さいと素直に言った方がいい。

2011年10月1日土曜日

適時に行う

今年の夏は、暑い日が続いた。
暑い時は、勉強も運動も向かない。(水泳ならいいが。)
同じことをやるにしても、いつやるかによって結果は全く変わる。

例えば、ジョギング。
夏場であれば、朝4時から5時ぐらいであれば、かなり涼しく快適な中走ることができる。
6時になると、だんだん暑い感じがしてくる。
日中やれば、熱中症になって逆に健康を害する程である。
(今の時期なら、何時に走っても快適である。)

大縄練習を始めた学校もあるようだが、いつ練習するかは結構大切である。
やる気だけでカバーできない面もある。
特に大縄や8の字は集中力が命なので、集中できる環境で、短時間で一気にやることが必須となる。
昼休みにやってもいいが、食べ物を消化中であることも加味して考えると、あまりオススメできない。

何事もタイミングが大切である。
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