2022年1月30日日曜日

学級経営の手法と本質

 学級経営の手法について。


学級経営とは、手法ではない。

在り方である。


・・・というのが本当に言いたいところだが、それでは多くの困っている先生方の役に立たない。

多分、多くの人が知りたいのは「どうするか」という具体的なやり方、手法である。

在り方が本当は大切なのだが、それを理解する前にやり方を実践していれば身に付く面もあるので、記してみる。


まずやり方を考える前提として、恐れの発想からやるものは、長期的に見て大抵失敗する。

例えば「学級が荒れないように」という発想になった時点で、既に恐れているし、失敗している。


発想の出発点をいつも「子どもが良くなる」あるいは「自分も含めた全員の幸せ」に置く。

ある特定のことだけにではなく、全ての教育行為の起点をここに置く。

子どもたちに「24時間道徳です」と教えているが、自分自身にも言っていることである。

(ちなみに、ここでいう道徳とは教科のことではなく、生きるのにより良い道の選択というような意味合いである。

一般道徳的に見て悪いことを一切してはいけないという意味ではない。)


具体例を挙げて説明する。


「あいさつをきちんとしよう」と指導したいとする。

これだけだとうまくいかない。

どんなあいさつが「きちんと」なのか、あるいは良いものなのか、イメージできないからである。

効果的指導とは、相手がイメージできるものを指す。


私は、機を見てあいさつの指導をする。

次のように板書する。



「どんなあいさつが良いあいさつでしょうか」と問いかける。

一通りきいた後、先の板書に続ける。


あかるく

いつも

さきに

つたわるように


これが「きちんとあいさつ」の具体的な内容を指す。

あいさつの本質は、互いの幸せである。

ここを外さない指導をすればいい話である。


「どんな風に?」=明るく(相手の気持ちを暗くしてしまうとあいさつの意味がない)

「いつ?」=いつも(自分の気分どうこうは関係ない)

「どちらから?タイミングは?」=自分から先に(迷っている暇はない)

「どれぐらいの声の感じや表情で?」=伝わるように(声の大きさそのものが問題なのではない)

という内容を短くエッセンス、キーワードとして伝える。


その上で「結局、お互いが気持ちよく生きるため」というあいさつの本質も確認していく。


一単元の授業などではなく、あいさつという日常の些末なことの指導である。

ただ、こういった小さなことを応用して指導していけばいいというだけの話である。


ちなみに、欧米において、あいさつは身を守るためだという話を聞いたことがある。

人種も言語も何もかも多様な人間と出会った際に「敵ではない」ことを示す必要があるのだという。

これは「恐れ」発想である。

正しいのかもしれないが、実際は多分「ハロー」と笑顔で自然と気持ち良く挨拶しているだけではないかと思う。

子どもに指導する時のあいさつの目的が「敵だと思われないため」ではやはり悲しいし、本質を外す。


学級経営の話になると、こういった指導をあらゆる場面で、かつ総合的に行うことになる。

メルマガやブログの分量では到底書ききれないほどあるので、これまでまとめた書籍の方にも是非あたってみて欲しい。

指導の本質的エッセンスが汲み取れること請け合いである。

2022年1月27日木曜日

お節料理へのニーズの変化と本質

 年末、道徳の学習で、お正月について扱った。

日本の伝統的な文化についてである。


その中で「おせち」を詳しく取り扱った。

食材に込められた願いについては、おせちを食べない家庭も増えていることもあり、意外と知らないものである。

(子どもの指摘した通り、ほぼダジャレだが。それでいいのである。)


お節料理は、神様にお供えし、共に食べるための保存食である。

「火の神様」を休めるために、正月の三が日は台所に火を入れない。

即ち、料理から解放される日でもある。


しかし現代においては、こうならないことが多いという。

昔はお節料理の中心である甘いものが御馳走であったが、今はそうでもない。

普段から甘いものも御馳走も溢れており、これだけではやはり飽きる。

そうなると、本来のお節料理にはない豪華な海鮮料理や肉料理が加わったりする。

それでも、三日間をお節料理だけではなかなか満足できない。


従って、三が日も台所としては特に変わらない状況になる。

(あるいは、お取り寄せや外食という手もある。)

元は休むための仕組みだが、その点については時代のニーズにマッチしなくなってきているとも言える。


同じような現象は、社会全体にも起きている。

本来は誰もがお休みするはずの三が日だが、一月一日から営業中の店もたくさんある。

他が休んでいる中で商売すれば、儲かるのは自明の理である。

そうなれば、みんな休まなくなるのも必然である。


では、営業しているのが悪いのかといえば、それは全く違う。

それぞれ都合も事情もある。

顧客の強いニーズがあるからこそ、自然と成り立っているといえる。


誰かに都合のいい特定のルールに全員が揃えようということ自体、時代に合わない。

誰かの都合に合わせる時、誰かが不都合を起こしている。

例えば、昨年から今年にかけて、感染症対策としての営業自粛で揉めに揉めたが、それも同様である。

「自粛した場合は支援金。だが強制しない」のように、相手の都合に応じた選択肢の提示、幅が必要である。


学校も、もはやこの特定のルールに揃えようということに無理が生じている。

個々のニーズが異なるのに対し、同一のものを提供しても、うまくはまらない。

給食のアレルギー対応のように、あらゆるものに個別の対応が必要になっている。


そうなると、学級担任には対応の選択の幅、裁量権が欲しい。

裁量権の大きさとルールの厳重化は、トレードオフの関係である。

今は、感染症対策やタブレット端末使用という新しいことに対してルールが厳重化している。

その一方で、個別の特別対応を迫られるという状態である。

裁量権がある程度あれば、スムーズに対応できる。

「裁量権は一層制限するがよりよい対応をせよ」という無理難題を突き付けられている状態では、全員が不幸である。


学校にも、規制の緩いおおらかな時代があったという。

今では信じられないぐらい、学校と子どもと家庭の距離も近かった。

例えば「子どもを教師が自家用車で送る」「送った先のご家庭で夕飯をご馳走になる」

といったことも、一昔前は珍しくなかったようだが、現代では禁止事項であり、そもそも起き得ないことである。

現代は子どもにとっても、ボールで遊べる場所も木登りも何もかも、ルールと禁止が乱立している状態である。


子どもの安全を脅かす要素は、極力取り除かれ、「安全」な学校生活が求められる。

(「 」付なのは、それが将来的に本当の意味で安全とはいえないと考えるためである。)

それら子どもの行動を統括する担任に課せられるルールの多さと厳しさは、想像以上である。


しかしながら、子どもは時代が移ってもあくまで子どもであり、ルールに縛られる存在ではないため、勝手気ままに動き回る。

そして、それが自然であり、そうあって欲しいと願う。

それをわかって敢えて口うるさく言うのが親や教師の役割の一つである。

「廊下を走らない」というルールがなくならない以上、それを注意する行為もなくなることはない。

それは、どんなに時代が移っても変わらないことである。


現代におけるルールを守らせようという行為の多くが、揃える意識に端を発しており、子どもへの愛情とは違うように思う。

本当に必要なルールであるかどうかの再検討が大いに必要である。


恐れに端を発する行為は、やはりどこかで無理が生じる。

人間は元来、幸せを主体的に選んで生きる存在である。


お正月のお節料理へのニーズが変わっても、幸せを求める本質は変わらない。

お正月はゆっくり休むのだという目的に合致するのであれば、何を食べて過ごしてもいい。


学校も、時代のニーズの変化はあるけれど、子どもの幸せと成長に資する場であることは忘れずにいたい。

2022年1月24日月曜日

「ま、いっか」の思考法

 次の本から。


『運命を拓く』 中村天風著 講談社文庫

https://bookclub.kodansha.co.jp/product?item=0000197824


「絶対積極」という言葉がある。

著者の中村天風氏の言葉である。


目の前の出来事への捉え方が全てであるという。

ただこれは、何でもかんでもポジティブに捉えるということではない。

大切なのは、出来事への意味付けというか、その後の心の持ち方である。


例えば真っ白なシャツにソースがはねたのを「やった!」と思うのは無理がある。

それ自体はあまり歓迎したい出来事ではない。


これに対し「がっかりして落ち込んで一日何となく不機嫌になる」という反応をすることができる。

「最悪!」と呟いて一人で怒り続けることもできる。

これは、本人の選択である。


一方「新しいものに買い替える丁度いい機会か」と前向きに捉えることもできる。

あるいは「そういう運命だったのだろう」と割り切って考えることもできる。

「ま、いいか」と文字通り洗い流すこともできる。

これも、本人の選択である。


感情自体を否定しないことである。

例え悟りに達した聖人であっても、喜怒哀楽は感じるという。

ただそこに執着しない、積極的な心構えをもてることが大切だという。


学校では、様々な出来事が起きる。

嬉しいことだけではなく、中にはがっかりすること、哀しみや怒りを感じる出来事も起きる。

「怒ってはいけない」と思うと無理が出る。

一方で「その怒りに支配されない」というのは、心の訓練次第である。

基本的に「感情は数秒」なので、考えすぎて引きずらないことである。


嬉しいことを何度思い返しても嬉しい。

感情の反復活用である。


怒りや哀しみを繰り返し思い出して考えれば、それも増幅する。

元の感情とは違ったところで更に怒り哀しむことになる。

「母が昨日あれを洗濯してくれていなかったから、白いシャツを着る羽目になった」

「それだってそもそも・・・」

などと見当違い、お門違いな怒りを新たに生みだし続ける。


私が比較的汎用性があると思って使うものは、先にも挙げた

「ま、いいか」

である。

子どものトラブルのいちいちに目くじらを立てていては、こちらが倒れる。

大概はこのキーワードで乗り切れる。

(ただし、以後の再発防止対策はとるようにする。

またトラブルが起きればお互い嫌な思いをするからである。)


「絶対積極」の境地には達せないまでも、ゆるゆるやれるのではないかと思う。

2022年1月22日土曜日

忘れる力

面談等をすると、時々聞かれることがある。

「どんな悪いことをしたか」を一つずつ挙げていって欲しいというものである。

これは、どの年のどの学年でも、数%の確率で出る要望である。


対象は我が子の時もあるし、他者の時もある。

当然、他の子どものことの場合は教えられない。

しかしながら、その子自身についても、いきなり聞かれても答えられない。


なぜか。


忘れているからである。


とても残念な回答だと思うが、大事なことなので繰り返す。


忘れいるからである。


私に限らず、同じという人は結構多い。

中には、子どもの悪さのいちいちを克明に記憶して再現できる記憶力のある人もいないではない。

しかし、絶対数としては、恐らく少ない。


記憶が頼りにならず忘れるのを知っているので、文書として記録をしてある。

なぜ記録しているかというと、先のように他人に尋ねられるからである。

場合によっては、遡って全て報告しないといけないこともあるからである。

いじめ防止対策の一環として、全校のトラブルが一括集約されて記録されている学校は多いことと思う。


しかし、記録したら記憶から消えるというのは自然の摂理である。

いきなり聞かれても、答えられない。


じゃあ予め全員分を一覧で用意しておけばいいではないかというかもしれない。

しかし、尋ねられてそれをサッと取り出してつらつらと述べても、それはそれで嫌味な感じがしないでもない。

(待ってましたと言わんばかりに、それを待ち構えている面談というのはどうかと思う。)


要望されたら時間を置いて後日また報告という方が現実的な対応である。


一番言いたいのは、この「忘れている」ということについてである。

これは、学級担任としてやっていく上で、結構大事な能力であると勝手に思っている。

「忘れる力」と言ってもいい。


特に、嫌なことは忘れた方がいい。

子どもたちは、ミスを多くする。

天使でも悪魔でもなければ、神様仏様でもないのだから、大人同様に人間らしく嫌な言動だってたくさんする。

それをいちいち全て覚えていたら、お互い辛い。


前の日に失敗をしても、次の日の朝に会ったら「おはようございます」と気持ち新たになるからいいのである。

それをお互い昨日のミスを引きずって暗くなっているとすれば、そのデメリットは果てしなく大きい。


担任が子どもの「悪さ」を全て覚えていたら、辛くてやってられない。

それを忘れて、今目の前でがんばっている姿に集中できるから「いいね!」が言えるのである。

一種の自己催眠と言えなくもないが、これは結構大切なことである。


忘れる大切さ。

そして、忘れるために記録しておく大切さ。

結構大切なことではないかと思う。

2022年1月19日水曜日

全員勝利の方程式

 「負けるが勝ち」という諺がある。

これを説明するのはなかなか難しい。

「負けた方が勝ち」ということなのだが、その説明だと堂々巡りになる。


「譲り合うが勝ち」の方が表現として的を射ているように思う。

互いに相手に譲り、合意点を見つけるのが勝ちという状況は結構多い。

(逆に、譲ってはいけない状況もある。

明かに悪くない時に謝ってしまってとりあえずその場を取り繕っておさめようとすることなどである。)


これに関係するのが、以前にも紹介した「敗北宣言」である。

https://hide-m-hyde.blogspot.com/2021/02/blog-post_27.html


実は、指導に関して担任と子どもとの勝負で言えば

「どちらも負け」か「どちらも勝ち」

のいずれかしかない。


なぜならば、

「子どもが良くなる」=「担任の仕事の成功」であり、

「子どもが悪くなる」=「担任の仕事の失敗」だからである。

「=」で結ばれている左右は入れ替えても成立する。


だから、大局的に見れば、両方勝ちか両方負けの状況しかない。

(家族の中で誰か一人が不幸になれば、みんな不幸な暗い気持ちになるというのと同じである。)


例を挙げると、子どもが友達のものを壊してしまったけど認めないとする。


担任としてもやられた子どもとしても、きちんと認めて謝ることを願う。

それをやってしまった子どもが認めて謝ることを「敗北」と捉えるならば、そこを正直に言うことはない。

関係者全員が不幸であり、勝者なき「全員敗北」である。


一方で、子どもがきちんとやってしまったことを認めて心から謝って改善行動をとるとすれば、

「やってしまった子ども」「相手の子ども」「担任」の「全員勝利」である。


これは、親と子どもはもちろん、担任と保護者との関係でも同じである。

担任と保護者の共通の願いは「子どもが学校に通って良くなること」である。

だから、これが上手くいったのが「勝ち」で失敗したのが「負け」である。


どちらがどちらへでもいいのだが

「悪いのはそっち」の応酬をし続けている以上、子どもの不幸スパイラルは止まらない。

その勝負の白黒をつけるよりも、子どもが良くなると思えることを、それぞれがすればいいのである。


相手の行動を自分の都合のいいように変えようとすれば、待っている結果は「全員敗北」の一択である。

その応酬をしている、特に子どもが知っている時点で「全員敗北」していることを関係者全員が自覚する必要がある。

(だから、連絡帳などの子どもの目に付くところには、決してトラブルについて書いてはいけない。

夫婦喧嘩の醜態を子どもの目の前で晒してトラウマを植え付けるようなものである。)


結論としては

「互いの意志を尊重する」=「全員勝利」

というのが勝利の方程式である。

これは「相手の望むままに自分が振舞う」のとは真逆で、相手が意志をもって行動するのを互いに認め合うことである。

つまり、自分の意志を大切にしながら相手の気持ちも慮る必要がある。


そして「+」の場合でも「-」の場合でも方程式はそのまま作用する。

方程式に当てはめれば「相手を自分の意志通りに動かそうとする」=「全員敗北」となる。

親や教師の命令通りに「素直」に育てた子どもがある時突然牙をむくというのはよくあるが、勝負はずっと前から決していたのである。


「ダイバーシティ」は昨今のトレンドキーワードの一つである。

互いの違いを尊重する「全員勝利」の学級を目指し、そんな社会を作る一助にしていきたい。

2022年1月17日月曜日

「自分が好き」な子どもになるには

 道徳の授業で「ぞうさん」(まどみちお 作)を扱った。

誰もが知っている有名な童謡である。


A「ぞうさん ぞうさん おはながながいのね」

B「そうよ かあさんも ながいのよ」


命のつながりが基本テーマなのだが、アイデンティティにも関わる話である。


まず、誰が誰に向かって言っているのかを問うた。

Aの発話者が誰でBの発話者が誰かという話である。


まずAで意見が分かれた。

Aが「ぞうの友だち」なのか「動物園に来ている人間」なのかで割れた。


これはどちらにもとれるが、とにかく「本人が象ではない他者」である。

もし本人も象なのであれば、「おはながながいのね」の問いかけは不自然になるためである。


Bは「ぞうの子(子ぞう)」であるという解釈が一般的である。

Aで「ぞうさん ぞうさん」と呼び掛けており、「かあさんも」と答えているためである。


要するに「ぞうのかあさんから生まれた子どもだから、私も当然鼻が長い」のである。

親が象以外の生物であれば、鼻が長いという特徴は遺伝しない。


象は象から生まれ、人間は人間から生まれる。

命がつながっているとは、そういうことである。


Bは、極めて肯定的な返答である。

「いいでしょ、えっへん」という感じすらある。

存在への自己肯定感である。


まどみちおさんの詩には、このようなものが多い。

例えば『くまさん』という詩がある。

冬眠から目覚め、寝ぼけて自分が誰だったか忘れてしまったくま。

水に映った自分の顔を確認して思い出し「自分がくまでよかった」と締めくくる詩である。



命のつながりへの意識をもつことは、祖先への感謝をもつことでもある。

祖先の誰か一人でも欠けていたら自分が生まれていないということへの畏敬の念を抱くことでもある。


せっかく頂いた命、奇跡の確率で生まれてきた自分を大事にする。

これが、なかなか難しいようである。


「自分が嫌い」という子どもは、少なくない。

表面的にスタイルで答えているのではなく、本当にそう思っている子どもが結構いるのである。

大人ならもっと多いかもしれない。


これは、根源的に不幸を生む。

存在を否定すること以上に辛いことはない。


この強い意識は、大きく二つの方向へ行動を促す。


一つは、自分と他者を傷つける姿勢である。

自分と同様に他者も無価値化しようとする。

いじめや暴力・暴言の類はこの姿勢が表出したものといえる。

SNSで他者からの称賛を求めたり批判するのもこの意識からである。

自分の存在を肯定している人間であれば、他者からの称賛への関心をもたず、他者への攻撃もしない。


もう一つは、自分自身の「できる」を追い求める姿勢である。

「できる」「役立つ」ことにより自分の存在価値を高めようとする。

しかしこれはどんなに成果が上がっても、根源は満たされない。

自己有能感による他者への優越感は、同時に危機感と劣等感を生み続けるからである。

(=○○ができない自分には価値がない。)


一見優等生が突然「プツッ」と切れたように無気力化するのもこれである。

私が「100点をほめるな」と言い続けているのはこのためである。


これらは、大人にこそ当てはまる。

大人の姿勢が子どもにそのまま映る。

なぜなら「命はつながっている」からである。


子どもが自分を嫌いな根本は、大人が自分を嫌いだからという可能性がある。

子どもへ「自分大好き」を求めること自体は間違っていない。

しかし、それ以前に大人である私たち自身が、自分の存在への肯定をする必要がある。

それができない以上、子どもが自分を好きになることは難しいし、他人に優しくなることも難しい。


何かがある・ない、できる・できないに関わらず、自分がそこに存在していていいという感覚。

なぜ自分がそう思えないかを自問することで、見えるものがあるかもしれない。

2022年1月15日土曜日

学校の在り方を見直す

 教員対象の学習会において、保護者対応に関する悩みを持ちかけてくる人は多い。

一方で、保護者の側へ悩みを聞くと、学校の「謎ルール」への不満や悩みが多い。


次の記事を参考資料に考える。


『学校が恐れる"わが子ファースト親"の異常行動 小・中・高を"保育園化"させる元凶』

プレジデントオンライン 鳥居りんこ


この記事にも書かれているような問題は全国各地に存在する。

一方で、学校の側にも問題があって、この記事にもあるように、「転ばぬ先の杖」だらけで、過保護すぎるのである。

過剰サービスが行き過ぎた結果、本来必要な業務の方ができていないという本末転倒な事態である。


以前に何度も紹介した「恩恵は権利に変わる」を地でいっている。


これらの対応には膨大な時間がかかる。

そこで、ここには学校ごとに、様々な人が関わる体制をとっている。


例えば学校カウンセラーに悩みを打ち明けて解決していることがある。

生徒指導主任や、場合によっては管理職が主に対応しているところもある。


担任は双方にとって当事者すぎて、うまくいかないことも多いのが現実である。

このような体制は、担任にとっても保護者にとっても、とても助かるものである。


働き方改革において「チーム学校」という言葉が出てきた。

これをただのお題目にしないことが大切である。


また学校は、子どもが失敗しながら学ぶ場である。

失敗を見守り、時に手を差し伸べて立ち上がる手助けをするのが子どもに関わる大人の役割である。

「転ばせない」という方策は、長い目で見て大怪我のもとである。


働き方改革のためには、学校の在り方の改革が必要である。

学校は子どものための機関であるという原点に立ち返る必要がある。

学校の本分は教員のための場ではないし、保護者のための場でもない。

すべての子どもの成長のための場である。


それが子どものためになるのかどうかという視点が外れてしまっている部分が見受けられる。

学校の「謎ルール」も「過剰サービス」も、その点から見直しが必要である。

保護者に求めるところもあるだろうが、それ以上に学校の在り方そのものの方を先に見直すべきである。

学校の「保育園化」は、学校の過剰対応が引き起こした結果である。

「You reap what you sow」(自分で蒔いた種は自分で刈り取る)のことわざ通りである。


過剰サービスの行き着く先は、全員にとっての泥沼である。

どこからどこまでが、各自の責任、守備範囲なのか。

学校の在り方の根本的な見直しが必要である。

2022年1月12日水曜日

学習と振舞い

 広義の意味の「学習」について。


人間は学習する。

学習により、どのように振舞うべきかも決める。


最優先に来るのが、身の安全である。

安全を確保するための振舞を学ぶ。


組織の人間であれば、多くの場合、正しいことを通すよりも、保身が先になる。

自分の身の安全が優先される。

安全・安心を感じない組織ほど、そうなる。


子どもたちも同様の学習をする。

まずは身の安全の確保が最優先される。


正しいことをしていれば守ってもらえるとわかれば、その行動を選択する。

一方で、正しいことをやっても損をするだけだとわかれば、その逆をいく。


卑近な例だと、騒げば注目されて得をするなら、騒ぐ。

粗暴な振舞をしている方が有利な立場に立てるとわかれば、そのように振舞う子どもが増える。


一方で、粗暴な行為を適切に抑制されるようだと、その行為は減る。

集団内に安全と安心が確保されると、他人のための行為や自己を高めるための行為が増える。


一般社会であれば、警察や消防といった公の機能への信頼感である。

盗んでも何をしても捕まらない、あるいは無罪放免になる社会であれば、犯罪は増える。

日本は警察の機能がしっかりと強いからこそ、外を安心して歩ける。

いざという時は消防や救急隊が控えてくれているからこそ、万が一があっても何とかしてくれると安心できる。


そして、安全・安心が確保されていると感じるほど、人にも優しくなる。

親切な行為も増える。

人への思いやりをもつには、自分に余裕があることがベースである。


子どもはそこをダイレクトに学習する。

正しいことが正しいと評価される社会であれば、正しい行為が増える。

勉強をがんばれるのも、勉強へのがんばりが報われると信じられるからである。


成長において最も大切な関係は、子ども同士の関係である。

しかしながら、そこをサポートするベースとなるのは、親や教師といった大人の作る環境である。

ここが子どもの振舞い方を決定する。

何を評価し、何を良しとし、何を認めないかである。


その環境で、何を学習しているか。

子どもが学習していることは、実は大人が自分たちで学習していることの反映である。

大人が自分の環境で学習しているパターンを振り返り、改善していく必要がある。

2022年1月10日月曜日

揃えるをやめる

学校教育において、本当に目指す児童像とは何かを考える。


本来は、各校の学校教育目標にあるような児童のはずである。

大体が

「生き生きと学ぶ」

「自由で創造的」

「表現力がある」

「個性を生かす」

「自分が大好き」

「自ら進んで」

「他人を思いやる」

などの言葉に表現されるところである。


では、実際に学校教育がそうなっているか。

残念ながら、そうなっていない現実がしばしば見られる。

お題目を声高に叫ぶほど、真逆になりがちである。


実際の学校において求められがちなもの。


「従順」

「もの覚えがいい」

「再現力がある」

「黙っててきぱき動ける」

「疑問をもたない」

「規律を守れる」

「空気が読める」


といったところである。

集団管理にとって都合のよい要素が多いように感じる。

これらの要素が多い子ども集団は、管理しやすい。

そしてそれらの要素は、学校教員そのものの在り方にも直接反映している。


実際、現在の学校の多くは独創的な子どもを育てる場になっていないようである。

多くの大学の附属学校や私学とて例外ではない。

一条校(学校教育法第一条に定めれた学校)として、現在の学習指導要領に則れば、そうはならないことは明白である。

それを見限った人たちが、オルタナティブスクールなど自由な教育カリキュラムを組める場へ流れてしまっているところがある。


なぜこうなってしまうのか。

教員の中には、強い情熱をもち、子どもを自由に生き生きと教育したいと願っている人が数多くいるにも関わらず、である。


根本にあるものは、先の集団管理優先の風潮である。

独創的で個性的なことをやると、嫌がられたり批判されたりする風潮がある。

「はみ出る」ことを教育委員会はもとより、学校も教員も保護者も良しとしない。

それを喜ぶのは、子どもたちだけである。


管理職が「NO」と言ったことは当然認められないが、それ以上に、教員は同僚間をこそ気にする。

学年主任に「揃えて」と言われたら、揃えざるを得ない。

その学年主任に対しては、他学年や保護者から同様の要望が来る。

たとえそれが時代遅れであろうが、あまり良いとは思えないことであっても、である。


それを言われたら、もう止めて周りに合わせざるを得ない。

自分一人ではできない仕事が多い以上、教員間の和を乱してまでやるメリットはないし、できない。

それが教員のリアルな世界である。


子どもの苦しみも同種である。

揃える、みんなと同じであることを求められる苦しさ。

テストで測定されるのは独創性ではなく、定められた動作の再現性である。

さらに子どもの場合、特定の基準でランキングされる苦しさが伴う場面も多い。


子どもがここから解放されるためには、先に大人が解放される必要がある。

子どもに自由にさせられないのは、そもそも教員にその権限がないからである。


権限がないため、結果的に、先に挙げたような管理優先の考えで子どもを教育でなく管理する羽目になる。

自分も心から望んでいないことを他人にするのだから、辛いのも至極当然である。


暗い話が続いたが、ではどうすればいいのか。

これにはもう「揃えない」の一言に尽きる。

「○○はこうだから」(=常識)を、誰も一切合切言わないことである。

違う人間が違う人間を教えて、違う人間同士が集まっているのに、隣と同じように揃う訳がない。


正方形や長方形の図形ばかりなら並べて敷き詰められる。

しかし実際は多角形やら円やらそれに当てはまらない形やら、てんでバラバラである。

人間の規格が揃っているという前提自体が異常である。


「揃えよう」は、一昔前に価値のあったことである。

例えば軍隊では、揃っている方がいい。

例えば機械が行うような定まった動作を命令通り繰り返す人間が必要なら、揃っている方がいい。

今現在、それは無価値化し、要らないはずである。


「ここだけは揃えた方がいい」をどれぐらい捨てられるか。

学校は、始業時間のようにどうにもしようのないことをはじめ、それだらけなのである。

せめてやり方や進め方ぐらい、独自性を認めたいところである。

掲示物の位置とかどうでもいいことを揃えているから、他のどうでもいいことも揃えたくなるのである。


教員が揃えるをやめる。

教員の揃わないを認める。

混迷を極める現在の学校現場に、何よりも優先して提言したいところである。 

2022年1月8日土曜日

平等と能力主義

 昨年は「ジェンダー平等」が流行語大賞トップ10に入ったという。

日本での意識が高まったと捉えられる。


日本のジェンダー平等への意識の低さは国際的にも知られたところである。

これから是正されるべき点である。


一方で、学校文化において男女平等というのはなかなか進まない。

文化的な面においても、身体的な面においても両者には差がある。

その差があること自体を否定するのもまた違う。


平等の行き着く先を考える。

男女でも何でもそうだが、平等の行き着く先は、個人の能力の差である。

これは能力主義であり「メリトクラシー」と呼ばれる。

「merit」=「業績、功績、価値、実力」による「-cracy」=「~による支配」である。


男女を全く無視して能力だけで見た時、身体的な差への配慮も排除される。

これは平等な社会といえるかという問題が生じる。

ジェンダー平等の目指すところは、ここではないはずである。


各種試験というのが、能力主義の典型である。

結果には納得のいく形になるかもしれないが、これだけの世界というのは恐ろしい。

全てが能力で決まる世界では、一部の強者以外は自分らしく生きてはいくことが認められない。


学校においても、ここへの判断は難しいことがある。

能力だけで何かの選抜をすると「全部男子」「全部女子」という事態が起き得る。

ここの能力的な結果に、男女の発達の差が絡んでいないのかどうかは、悩ましいところである。


では差を埋めるような配慮のある公平ならいいのかというと、そこも難しい。

例えば給付金と年収に関することが問題になっているが、あれは「公平」に対する不満である。

累進課税制度が本当に公平といえるかどうかである。


学校教育においても、価値観は変動するし、何が平等で何が公平なのかは変わる。

常に何がよりよいものなのか、追求し続け考え続ける必要がある。

2022年1月6日木曜日

教育を不自然にしない

 前号では規格品文化からの脱却ということを書いた。

規格品とは、工場製品である。

人間をこれに当てはめることの不自然さに気付くことである。


不自然ではいけない。


教育は自然のままにしておかないことである。

ただこれは、手入れをするということであり、自然のまま野放図にしておかないということである。

手入れはしても、育てるのはあくまで自然の力である。

化学肥料や農薬などの各種薬物を入れて育てることとは全く違う。


売り物にする花たちは、飾って観賞するために作られる。

だから、売り物のバラや菊を無理に無農薬で栽培する必要はないかもしれない。


一方、人間が食べる場合はどうか。

農薬がたっぷり使われたものを食べたいか。

成長促進剤をたっぷり使われたものを食べたいか。

そんなの嫌に決まっている。

人間も生き物であり、取り入れるのも自然のものが本来だからである。


教育も、人工的な変なものに囲まれすぎていないか。

自然に学ぶ、自然から学ぶという視点を欠かさないことである。

個々人の自然な発達というのがある。

GIGAスクール構想が進んだからといって、人間の発達としての自然な学びの必要性がなくなる訳ではない。


過度な習い事や受験勉強もそうである。

本人が望まないのに、点数を競わせて無理をさせて詰め込むようなものは不自然である。

不自然な育て方には、いつか必ずボロが出る。


病気になった時も、免疫機能で直すのが自然である。

薬は毒でもあり、風邪薬を飲むというのは根本的治療になり得ない。


頭痛薬も同じである。

薬効により一時的に痛みを取り除いてくれるという点では、モルヒネ等と同じである。

それで一時的に助かるのだが、頭痛になる根本的原因をどうにかしない限り、その症状はつきまとい続ける。


教育現場においても、薬を使うことがある。

抽象的な意味合いとしてだけでなく、実際に使うこともある。

しかし、それで症状がおさまることによる弊害の大きさについては、常に疑う必要がある。


「定型発達」も「学齢別」も、本来的には不自然な考え方である。

個々人バラバラなのが、自然である。

スーパーマーケットに並んでいる野菜のような人間だけが「正しい」訳ではない。


自然が基本である。

人間は自然そのままだと自分たちが困るから、色々と工夫する。

しかしその目指すべき方向は、自然に逆らうのではなく、自然と共存する方法の模索である。

2022年1月4日火曜日

規格品文化からの脱却

前号で「やめる」ことの大切さを書いた。

業務の断捨離である。

「まだ使える」「高かった」は、とっておく理由にならない。


大抵の保護者は、学校への疑問や不満がある。

特に校則の増える中学校以降は顕著である。


これまで教員も含めた数々のルールへの不満を聞いてきて、多くの場合における共通点がある。

それは「そうする理由がわからない」である。

合理性に疑問符がついているのである。


一方で合理性があると思われるものには、不満の声が上がることはまずない。

例えば「廊下を走らない」などといった決まり事(マナーに近い)は、安全な集団生活を送る上において合理的である。

(誰もいない廊下ならいいのかという議論は起きるかもしれないが、やたら例外規定を作るとルールが複雑・煩瑣になる。)


例えば「靴下は白」というルールに合理性があるか。

これは、様々な理由をつけても、正直かなり苦しい言い訳に聞こえる。


では、なぜこのような不合理なルールが存在するのか。

「かつて必要だった」からである。

先の「高かった」と同じで、かつて価値があったのである。


戦時中、あるいは高度経済成長期、命令を聞く、統率、ミスのない動きに高い価値があった。

「揃える」の能力に高い価値を置いた時代があったのである。

ここでは制服の靴下は白がいいに決まっている。

同一規格品として、揃うからである。

(別に揃うなら他の色でも構わないが、決めたのが白なのである。)


ちなみに、白にたとえ一本のラインが入っているものでも、これは×である。

商品でいえば「規格外」であり、売り物にならない。

規格品なのだから、完全統一のみである。


かつて価値のあった「みんな」「揃える」という「規格品文化」(松尾造語)が根幹にある。

私も経験があるが「みんな遊び」「みんなで揃えて」をを確かに推奨していた時期がある。

(今は避難訓練に関することなど、絶対必要なこと以外はほぼやらない。)

時代の変化による価値の変化である。


規格品文化では「並べる」「比較」に付随して「ランキング」がある。

規格品同士で並べると、違いがわかる。

理想の基準に近い、似ている者は優れている。

そうでないものは劣っている。

定まった基準があるから、序列がつく。



こんな規格品文化の価値観が、ダイバーシティをうたう今の世の中に必要かという話である。

時代錯誤も甚だしい。

戦時中とか工業化時代の価値観である。

今の社会で生きている子どもや保護者からすれば、不合理に見えて当然である。


問題は、その理由を問われた時の、学校側による

「そういうルールなので」

というダメな切り返しである。


もしそれを言うなら併せて

「こういう合理的な理由からこのルールがあります」

が必要である。

学校へ不満をもたれる所以である。

相手にルールを守らせるのだから、合理的にきちんと説明する責務がある。


余談だが

「シャープペンシルか鉛筆か」

問題については、両者は実際目的と用途、機能が異なる物であり、並べて比較するものではない。

クレパスと色鉛筆ぐらい違う。

(伝わるだろうか。)


小学校は単に筆記具を使って書く場ではなく、書くことそのものを学習する場でもある。

よって、ここで互いの主張を争ったところで、永久に議論のずれが生じることは避けられない。

「書ければ同じ」という主張と「書くことの学習のため」という主張は、論点が違う。

議論が平行線なのは、合理性以前の問題だからである。


話を戻すと、要らないものを思い切って切ることが大切である。

お互いに余計な負担をかけるだけのものは、なくす方がよい。

無思考に慣例に従うのは、人間のロボット化への道である。

逆に、よく考えずにやたらと騒ぐのも、人間の動物化・野生化であり進化と逆の方向である。


合理性をもって判断し、不要なものは切る。

学校のあらゆる規格品文化からの脱却を切に望むところである。

2022年1月2日日曜日

教育改革にはお金と「やめる」が前提

 次の記事を参考資料として、考察する。


西日本新聞

『35人以下学級 現場に悲鳴も 「きめ細かい指導」 喜ばしいが… 増えぬ教員、多忙に拍車』



この記事で取り上げられている問題自体は、教育問題の中の枝葉末節でしかない。

ずばり、お金を一切かけずに、それでも新たなことを更に加えて、何とかしようという発想。

これこそが、積み重なる学校への新施策失敗の根幹的原因であると考える。


GIGAスクール構想はこの点、かなりお金をかけた成功例と言えるのではないかと感じている。

まだまだ自治体ごとに不備は多くあるものの、一人一台PCとネット環境配備が兎にも角にも実現したことが大きな前進である。

これもそもそもは、予算がきちんと割り当てられたからである。

(ただし、これを維持発展するには、今後もこれまで以上に予算確保が必要である。)


今の教育現場は、お金をかけなければ、どんどん悪くなる一方である。

理由は明確で、現場の個々人の努力量が既に限界値に達している(というよりもとっくに限界突破している)ためである。

無理がたたって病気になる人も増え続けるが、人的リソースも底をついており、補充に入る代わりの人がいない。

「もっとがんばれ」「工夫しろ」がもはや通用しない。

「24時間働けますか」と言われたら、明確に「NO」である。


部活動問題も同じで、土日含めて定額働かせ放題問題の根幹はここである。

部活動の指導にきちんとお金がかかるなら、顧問にこんな理不尽な無茶はさせられない。

ここは、無償であっても部活動指導が生き甲斐となってやりたいと感じている一定数の人にとっても関係がある。


なぜならば、時間外給与がつく=残業が管理職の許可制になるということだからである。

つまり、学校に予算を充てる教育委員会の許可制になるということでもある。

当然、やたらにOKを出せない。


そうなると、無償でもやりたい人から反発がくる。

だから、これを逆手に利用して、「部活動は無償ということで仕方ないですよね」がまかり通ることとなる。

教育において強いのは「子どものため」に見える側だから、正当な不満をもつ側が理不尽に感じても勝ち目はない。


お金をきちんと払い続けられる十分な予算の割り当てがあれば、この問題は起きない。

やりたい人はやって、やらない人はやらないがきちんと成立する。

きちんと正当な労働対価としての手当もつくのだから、納得もいきやすい。


つまり、どれだけ大金がかかることを教員に無償でやらせているのかということである。

民間会社のスポーツクラブで考えたら、とんでもない金額になる。

当然、そんな大金は出せないのだから、十分な予算が割り当てられることは近い将来においてはまず考えられない。

そうなると、みんなが納得する在り方が実現するには、民間委託になるか、無償の完全希望制になるかである。


これは、小学校や他の学校でも同じである。

世界中へ周知されている通りの日本の教員の異常な残業量は、お金を払うべき部分を闇に葬っている結果である。


教員免許更新制の、国がお金をかけないで研修させようという発想も同じである。

本来、そのような大きな研修を導入するのであれば、各校への大幅な人員の増員が必須である。

各人が研修に出たり課題に取り組んだりしている間、現場の仕事に大きな穴を空けることになるからである。


しかし、人も予算もつかない。

現状の全く空きがない業務に更に上乗せの形になる。

結果、負担は全て限界まで疲弊している現場教員へいく。

現場から廃止賛成の声が多く上がるのも至極当然である。


基本給については、学級担任をやるのにも、これからの若者に「割に合わない」と判断されても仕方がない。

国民全体の学歴も生活水準も向上した以上、教員という職業的魅力も今まで通りのようには映らない。

(個人的には、給与の額自体には不満がない。

しかし現場でこれから教員がやることの多さや精神的な辛さとの釣り合いを考えると、これからの人が選択するかは疑問である。)


責任ある仕事が大変なのは当然である。

しかし、今後もどんどん大変さがかさ増ししていく未来が世の中に既に見えているとしたら、教員の世界は益々厳しくなる。

先のニュースのような声は、これからの若者の耳にも届く。

希望をもって教員になろうという人が増える未来が見えない。


国家が教育にお金をかけない以上、国の未来はない。

35人以下学級が実現して現場が助かる本来の理由は、単純に1校当たりの人員増につながるからである。

あくまで理由はそこであり、それ以外の理由はない。


学級の人数が減るから単純に楽になるとは限らない。

指導困難な子どもが数人いれば、たとえ1学級20人以下でも十分にきつい。

これが40人学級だろうが、逆も然りである。


何よりきついのが、担任外のいざという時に対応できる余剰人員がいなくなることである。

学校規模が大きいほど、生徒指導が困難な学校であるほど「いざ」という時が頻繁に起きるので、常に非常事態になってしまう。


よりよい環境にはまずお金が大切。

新しいことを始めるのにも、お金が必要。

当たり前すぎる話である。

何かを止めるなら、余裕ができるのだが、教育界はほとんどスクラップなしのビルド&ビルドである。


これまで「常識」にされてしまった過剰サービスをやめることが大切である。

一つ増やす時には二つ捨てるが原則。

やめられるところはスパッとやめていくという勇気が必要である。


だから、教員免許更新制が本当に廃止されるであれば、教育界には珍しい「快挙」である。

これから必要な教育改革は、何かを始めること以前に、今までやっていた常識やサービスをやめて切っていくことである。

やめる分には予算がかからない上に、現場にも余力が生じる。

いいことづくめである。


それでももしまた何か新しい施策を始めるつもりなら、先に十分な予算を確保してもらいたいと切に願う次第である。

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