勤務校が50周年を迎えた。
それを記念して、職員を対象に先達から学ぶという研修の機会を得た。
そこでいただいた話の数々が大変素晴らしかったので、一部シェアする。
「恩恵は権利に変わる」という、示唆に富んだ言葉を教えていただいた。
例を挙げる。
ある行事をした後に「お疲れ様です」とコーヒーを出してもらったとする。
その時、思いがけぬ恩恵に、自然と「有難う」の言葉が出る。
ここまではいい。
翌年、同じ行事に参加する。
終わった後に、特に何もなかったとする。
すると「コーヒーは出ないの?」となる。
「去年は出してくれたのに。」と不平・不満を抱く。
なくて当たり前のことのはずが、いつの間にか権利に変化している。
ごく単純化すると、そういう話である。
なるほど納得である。
ここからは私見。
こういうことは、世の中に溢れている。
社会が発達し、サービスが向上するほど起きる。
最初はちょっとした店側の心遣いのはずが、客はやがて「してもらって当然」になる。
だから「御客様」である自分が神様のように扱われないと不満になる。
それは店側のおもてなしが恩恵ではなく、権利に変化しているからである。
これがあらゆる関係で起きる。
学校と保護者の間でも起きる。
「前の担任は云々」もその一つ。
一方で「保護者が云々」も同様。
どちらも、他人に責任転嫁している点で同じである。
むしろ、互いに「いつもお陰様で」の心があって然るべきである。
学級と子どもの間でも起きる。
学校は、子どもを良くして返すのが仕事である。
いらぬ「サービス」をしすぎて「御子様」を育てないことである。
大人や社会に対して不敬な子どもを育てているのは、他ならぬ学校自身である。
視点を変えて、労働争議なども、権利を主張しすぎるとこれになる。
給料の額面に不満を訴える前に、自分が給料分以上きっちり働けているかを振り返る必要がある。
労働時間の長さに不満を訴える前に、自分が短くする工夫や勉強をしているかを振り返る必要がある。
自分が受けている「有難い」恩恵を忘れていないか。
何かの権利を主張する時は、いつでも振り返るようにしたい。
2016年12月20日火曜日
登録:
コメントの投稿 (Atom)
-
名称の謎の話。 小学校で行う跳び箱の切り返し系の技といえば、開脚跳びとかかえ込み跳び。 かかえ込み跳びは「閉脚跳び」とも呼ばれる。 名称が二つあるのは、学習指導要領での表記の変遷による。 以下、体育の豆知識。(興味ない方は読み飛ばしていただきたい。) かかえ込み跳び...
-
教材研究という言葉が一般的である。 教えるために、教師として教材を読むのが教材研究である。 (まるで私がわかった風な口をきいているが、完全に野口芳宏先生の受け売りである。 以下同様。) 教材研究の前にすべきは、素材研究。 教えるためでなく、一読者として作品について調べ、読み込む...
-
前号の続き。 教師にとっては、結構知っておくべき「大切」な事ではないかと思う。 (そして、教師以外の人々には本当にどーでもいい話題であるかもしれない。) 例の如く野口芳宏先生よりずばり。 「課題」は出されたもの。 「問題」は感じたもの。 つまり、教師から与えたものが「学習課題」。...
0 件のコメント:
コメントを投稿