2013年4月28日日曜日

授業参観に来てくれる卒業生に

たまにはつぶやきのようなものも書きたい。
(よって、今回の記事は全く役には立たないのでご了承を。)

授業参観があった。
毎年、必ず卒業生が何人か顔を出してくれる。
大概、校内に弟や妹がいるからだが、稀にそうでなくても会いに来てくれる卒業生もいる。

非常に有り難いことである。
すごく嬉しい。
しかし、そう思っているのに、思うように話せず、とまどう面もある。

懇談会とかも控えてばたばたしているし、ゆっくり話したいのに時間もない。
何となく、申し訳ないような気を勝手に抱くのが毎年の恒例である。

子どもも大人も、感謝を表現するのが苦手である。
あいさつを返せない子どもと同じ感じである。
そういうのが上手な先生を見て、羨ましく思う。

まあ、相手の側は何とも思ってないとは思うが。
ついででも、自分なぞの顔を見に来てくれることを、すごく有り難く思った。

2013年4月27日土曜日

誰に向けて贈る言葉

卒業やその学級の最後の日、毎年何かしら言葉を贈る。
読み返してみると、毎年、結構いいことを言っている。
お寺の説教のようである。

今年は簡単に言うと「素直であれ」「感謝せよ」「人を大切にせよ」だった。

さて、誰に向けて言っているのか。
当然、子どもに向けている。
しかし、よくよく見直してみると、自分向けでもある。
そういう人間がいいと思っている。
一方で、そういう人間に達しきっていない自分を感じている。

先の例で言うと
「素直さが足りない」「感謝が足りない」「もっと人を大切に」
と、自分自身に感じている。
一方で、少しずつそれに近づいてはいるから、それがいいと言える自分もいる。
例えば「手紙を書く」などは、「素直」「感謝」「人を大切に」全てを具現化する手段だと思う。
しかしながら、ものぐさな自分のせいで、即実行とは至っていない現状である。
(周りの実践している素晴らしい人々に影響を受け、ぼちぼち、出すようになってきてはいる。)

教え子に教わる、というのが常である。
教えながら、自分自身も教育しているのかもしれないと思った、卒業の日の贈る言葉だった。

2013年4月25日木曜日

啐啄同時

もう過ぎ去ったが、卒業式。
3月の卒業式の練習にあたり、学校長が一つの言葉を贈った。

啐啄(そったく)という言葉である。(多分、文字が表示されない。)
「啐」は「口へんに卒」で、「さけぶ、呼ぶ」という意味がある。
「啄」は「くちばしでつつく」という意味がある。
それぞれ、卵の中の雛鳥と親鳥の行為である。
「啐啄同時」とは、雛鳥が出たいと鳴いた時に、親鳥が卵の殻をつついて割る。
そのタイミングがピタリと合う様をいう。

教育をする上で、困難な点はここにある。
教師側は一生懸命教える。殻をつつく。
しかし、肝心の雛鳥は、出ようという気が全くない。
やたらガツガツつつかれて、うるさいなぁという感じである。

雛鳥はどうしたら、殻の外に出ようと思うのか。
そのタイミングをじっと待つ。
ただ待つだけでなく、親鳥は卵を温める。
こんなに一生懸命温めてるのに出ようとしない雛に苛立つこともある。
そこをじっと耐えて温める。
我慢しきれなくなってガツガツやると、余計出てこないという事態になる。
出てこないから更にガツガツやる。
悪循環である。

「水辺に馬を連れて行くことはできるが、無理矢理水を飲ませることはできない」ともいう。
どちらも、相手がそうしたいと思わせることがポイントである。

どうすると馬が水を飲むのか。
馬をたくさん走らせて喉を渇かすことかもしれない。
先に水を飲んで見せて、うまそうだと思わせることかもしれない。
放っておいても、飲み過ぎるぐらい飲む場合もある。
相手に応じて、やり方は様々である。

いずれにしろ、こちらが一緒になって、忍耐しながら努力・工夫する必要がある。
子どもの内面に働きかけること。
子どもが動こうと思ってくれないと、何も始まらない。
ある意味、教師や親の側は、そこを相手に依存する分、圧倒的に不利である。
不利であることを自覚し、願う思いで接する必要がある。

お互いの思いが、ぴたりと合った。
そんなことを感じた、卒業式だった。

2013年4月23日火曜日

よく歌う子どもにするには?


季節はずれだが、卒業式の話題。(メルマガだとタイムリーだったので。)
卒業式と言えば、歌。
「子どもが歌わない」ということが、特に卒業生の指導の悩みの種になる。
しかし、一方で、やたら歌えるクラスもある。
全員がのびのびと、本当に全力で歌うクラスがある。
ある先生が持つと、毎年そうなる、という先生がいる。
私の尊敬するある先生が担任すると、その先生のクラスには歌声で勝てない。
この差は何なのか。

先日受けてきた研修会で、講師の先生が仰っていた言葉がある。
「担任の先生がよく歌うクラスは、よく歌うクラスになる」
「担任の先生が掃除好きだと、掃除をよくするクラスになる」

つまり、子どもは、担任の鏡である。

担任の先生が歌うことが本当に大好きなら、子どもが歌わないはずがない。
担任の先生がはだしに素手でトイレ掃除をする人なら、子どもがトイレ掃除を嫌がることはない。
担任の先生が授業をすることが大好きなら、子どもは勉強が大好きになる。
全員が一概にそうなるとはいえないが、大部分がそうなることは経験上間違いないようである。

自校の子どもの抱える課題で、例えば次のようなことが話題になる。
「あいさつができない」
「本を読まない」
「道徳心に欠く」
「家庭学習をしない」
「掃除をしない」
「いじめをする」
「自主性がない」
・・・・
振り返るべきは、我々自身はその課題を抱えていないか、である。
繰り返すが、子どもは鏡、である。
例えば、職員同士が毎日元気よく最高のあいさつが飛び交う職員室。
その学校の子ども達があいさつができない、ということが、ありえるのだろうか。

尊敬する原田隆史先生の言葉で、私が特に好きな言葉は「主体変容」である。
教師とて、相手を変えることはできない。
自身が変容した時、その姿として子どもに映るだけである。

歌わせたかったら、本気で、のびのびと思い切り教師が歌う姿を見せる。
それが、第一歩であるように思う。

2013年4月21日日曜日

雑用を作らない

帰りの会で、毎日3分間の振り返り日記を書かせている。
やっている先生も多いと思う。
やってみるとわかるが、結構大変である。
読む&コメントに一人あたり1分かけると、30分ぐらいかかる。
これが毎日となると、かなりの時間である。
これがネックでやめた方も多いと思う。

「雑になるから雑用になる」という言葉を以前紹介した。
毎日ルーティーンでやることは、雑になりがちである。
日記が、雑用になっては本末転倒である。
雑用にするなら、止めてしまった方が良い。

日記は、「肯定的ストローク」の大チャンスである。
場合によっては、「否定的ストローク」で指導することもある。
とにかく、子どもとつながる大切な時間である。
普通は、一人ずつに面向かって即時に話すことを、じっくり伝えられる。
叱って帰してしまった子どもと、やりとりができる。
今日つながりきれなかった子どもと、つながることができる。
気付かなかったことを、教えてもらえる。

日記を読むことは、毎日の小さな仕事である。
小さいが、積み重ねで、大きな仕事になる。
それを、昨年一年間で実感することができた。
子どもの知らない一面を知ることができた。
言葉の少ない子どもの声をきくことができた。
思えば、日記が様々なトラブルを防いでくれたことも多い。
知り得ない情報を知ることができる。

自分の一日の仕事の中で、特に価値のある部分はどこなのか。
「全体の20%の時間が、80%の利益を生む」という言葉もある。
そこを「焦点」、「フォーカルポイント」などと呼ぶ。
子どもと雑談する時間などは、無駄なようですごく価値が高いように思う。
休み時間に子どもと遊ぶことにも、大きな価値を感じる。
日記を見る時間も同様である。

雑にすれば、雑用になる。
一日の中に雑用を作らないことである。
時間は、何より貴重なのだから、雑用をしている暇はない。

日記を続けたのが大変だった一方、価値をすごく感じたので、書いてみた。

2013年4月19日金曜日

係・当番を廃止する

学習会での学びシェアが途中だったので再開を。

今回は「係・当番活動を廃止する」ことについて。
「○○係」や「掃除当番」「給食当番」等は、学校生活をしていく上で必要である。
しかし、「係だからやる」「当番だからやる」という状態は、逆も生む。
例えば、「落ちているゴミを拾う」なんて係はいない。
気付いた人が、拾う。

できれば、学級の係や当番もここに持っていきたい。
いきなりは無理である。
最初の内は、仕事を覚える意味でも、全員経験した方がよい。
むしろ「係・当番なのにやらない」というのが、一般的な状態だろう。

しかしながら、3学期には、そうしなくてもやれる学級ができたらベストである。
例えば、給食の準備は、全員でする。
早く身支度ができた人から並び、人数が揃ったら給食室へ出発する。
全員身支度しているので、配膳等もみんなで行える。
係も、同じような仕組みで、気付いた人が率先して行うようにする。

「やらないでサボる子どもが出る」という意見もある。
しかし、8割の子どもが率先して動くレベルにいった学級でその状態なら、当番でさせても教育効果は同じである。
掃除も何でも「やらせていただく」の精神に至れば、あらゆることが変わってくる。
実際にそうなっている教室があるのだから、絵空事ではないようである。

理想のゴールを、教師自身が想像できていることが大切である。
私は、そういう状態を想像していなかったので、今年度はそこに至っていない。

教師自身が高い状態の学級の存在を知っておくことの大切さを学べた。
他校への教室訪問等も、そういう意味で大変有効ではないかと思う。

2013年4月16日火曜日

フリートークを取り入れる

先日、帰りの会までに宿題を見ることが間に合わず、あっという間に「さようなら」のコーナーになってしまった。
困ったので、「班内ふり~と~くた~いむ!」などと適当なことを言って、おしゃべりの時間を設けた。
まだ足りなかったので、「では、各班、推薦で発表」とつないだ。

これが、大変楽しい内容だった。
日直のスピーチと比べ、よりプライベートな内容である。
子ども達同士の、自己開示の時間である。
意外と、こういう時間が足りてなかったことが判明した。
休み時間も、なんだかんだ仲良しの子どもと話すことが多いので、
「ちょっときいてよ」みたいな些細な話をする機会がなかったらしい。
今後、週1程度、1コーナーとして取り入れても良いかと検討中である。

これまで何度か紹介している金大竜先生の学級は、常に子ども達が交流しているという。
プリントを配る時、ちょっとした空き時間、周りの仲間とここまでの感想等を話し合うという。

コミュニケーション能力の育成が学習指導要領でも大きな課題として挙げられている。
この辺りの、日常的かつ継続的な活動に解決策があるかもしれない。

2013年4月14日日曜日

「緊張」と「リラックス」

「おしゃべり」。
世間一般的には、好まれる行為である。
特に、最近は「女子会」なるものが流行っているようで、隣で開催されていると、言葉の弾丸が飛び交うような光景である。
互いに、あんまり相手の話はきいておらず、しゃべりっぱなしのようである。
それで、何だか互いに満足する。
きいて内容を理解してもらっているかよりも、しゃべるという行為自体に意味がある。
脳の構造上、女性の方が言語によるコミュニケーションを好むらしい。
(だから、夫婦げんかが起きやすいともいえる。男性は言語の交流が下手な傾向にある。)

さて、このおしゃべり、学校だと、好ましくない行為として通っている。
「授業中におしゃべりしてはいけません」という感じである。
おしゃべりは、学校では地位が低い。

先日出た勉強会で、3人の講師の先生のお話をきいた。
どの先生もこの「おしゃべり」を授業でも日常生活でも活用していた。
先生の話をきいていないのではなく、意図的にリラックスやコミュニケーションの時間をとっている。
私が学んだ原田隆史先生の教師塾でも、講義の途中に頻繁に班内で意見を交換する時間がある。
深夜まで数時間に及ぶ勉強会でも集中して参加できるのは、講話の素晴らしさだけでなく、班内シェアの時間の役割も大きいように思う。

授業中は「緊張」と「リラックス」のバランスを意識する。
以前も書いたが、15分が大体集中力の限界である。
できれば、5分に1回のリラックスが望ましい。
それは、笑いであったり、運動であったり、おしゃべりであったりする。

ゴムも伸ばしっぱなしだと、切れる。
時々緩める必要がある。

やたら大きな声を出させる。
突然「全員起立1,2!」で立たせる。
「はい、今のことについて班内シェア」
何でもいいから、短いリラックスを途中で入れる。

教室でどう「おしゃべり」のようなリラックスを取り入れるか、次号もう少し考えていく。

2013年4月12日金曜日

反対思考のススメ


最近読んだ本で、日常生活や教室で役立つ面白い考え方が載っていたので紹介する。
「反対思考」という。(検索しても、出てこない。)
字面が悪いが、かなりポジティブな意味合いの言葉である。

簡単に言うと、反対のことを考える、という作戦である。
詳しく言うと、人間は同時思考ができない。
脳はいっぺんに二つのことを考えられない。
(料理をしながら電話をする、という同時進行とは意味が違う。)
つまり、嫌なことを考えながら嬉しいことが考えられない。
逆に言うと、嬉しいことを考えながら嫌なことも考えられない。
どちらかが入ると、どちらかが追い出される、ということである。

そして、人は生きている内、平均95%ネガティブな思考をしているとのこと。
ネガティブ思考とは心配・不安・不満などである。
野生動物の生命維持の視点からすると、これは正しい。
いつ敵に襲われるか分からないからである。
つまり、本能にプログラムされている。
放っておけば、ネガ思考になるのが至極当然、正しい思考回路らしい。

どうすればこれらを追い出せるのか。
ここで、「反対思考」を使う。
入ってきそうになったら、いいことを考える。

何か楽天的で、頭の中がお花畑のような話にきこえるが、そうではない。
例えば、クラスの子どもがケンカをする。
「面倒なことだ」というのも「くだらないことで腹が立つ」というのも、感情の選択である。
普通にしてると、そういうネガ思考が入ってくる。
以前紹介した「ハッピー先生」こと金大竜先生は、ここでこう考えるそうだ。
「ケンカの場面に出くわすなんて、ラッキー」
金先生曰く、子どものケンカは大抵大人の見えないところで行われる。
それを目の前で見られるのは稀で、子ども理解に大いに役立つということである。
これも、反対思考の一例ではないかと思う。

一つの物事には、良い面と悪い面が必ずある。
どちらに光を当てて生きているか、それが子どもにも反映するのではないかと思った。

2013年4月10日水曜日

「愛があるから叱るのだ」考察

野口芳宏先生の言葉に「愛があるから叱るのだ」というのがある。
全くその通りである。
しかし最近、その意味を誤読というか、誤解していたことに気付いた。

そのまま読むと、何ら疑う点はない言葉である。
帰納的に、というか、ひっくり返して読むとこうなる。
「叱るのは、愛があるからだ」

この読み方を間違えていた。
つまり、叱っているのは、愛があるからだと。
叱ることへの正当化のように考えていた。

違うのである。
「愛がないなら、叱らない(叱れない)」
これが、正しいように思えるのである。

具体的に言うと、自分のクラスの子ども達。
もれなく、全員叱らせていただく。
職務上の責任でもあるが、全員紛れもなく自分のクラスの子どもである。
色んな子どもがいるが、そこに責任も愛情もある。
関係性もある。(4月当初は、そこが弱い。)
だから、良くないことは、きちんと叱れる。

学年の子どもならどうか。
行事等を通して、関係性の強い子どももいる。
この中には、叱れる子どもとそうでない子どもが混在する。
注意は平等に必ずするが、叱る際には、学年でのチームプレイが必須である。

では、他学年の子どもならどうか。
自分の学校の子どもなので、悪さをしてれば当然無視はできない。
指摘して注意する。
しかし、「叱る」となると、これはなかなか難しい。
人間関係が、できていないのである。
名前も覚えていないような状態で叱るのは難しい。

他校の子どもなら、休日に偶然出くわしたマナーの悪い子どもならどうか。
はっきり言うと、完全に見ず知らずの他人である。
日本人の大人として、社会のマナーを教え注意することはできる。
しかし、叱ることは到底できない。
そういう社会風土ができていないように思う。

「叱る」という言葉の定義を辞書で調べた。
広辞苑では「(目下の人に対して)声をあらだてて欠点をとがめる。とがめ戒める。」
明鏡では「目下の人の非を認め、それを改めさせようとして厳しく注意する。叱責する。」
どちらも共通しているのは、「目下の人」に対し、「責める」という感じである。
何というか、「注意」に比べて、感情的なニュアンスを含む。
例えるなら、人間がコンピューターに「注意」「警告」を受けることはあっても、叱られることはない。

正義感の強い教師は、つい色んなところに目がいって、叱ってしまう。
しかし、その相手は「注意」の対象か「叱る」対象かを、意識した方が良いように思う。
もちろん、同じことをしてA君は叱られたのにB君は叱られない、というようなことがあってはならない。
(A君が常習でB君が初、という場合は、叱り方も別である。)
最低でも、両者に注意はすべきである。
しかし、感情を伴う「叱る」という行為は、「愛情」の裏付けがあって初めて可能となるように思う。

「愛があるから叱るのだ」
言葉の意味を、表面的に理解していないか、他の面でもチェックしてみたい。

2013年4月8日月曜日

学級開きまでに最も大切なこと


4月、新たな1年の始まり。
1月1日とはまた違う、新年度のスタートである。

学級開きまでに、あれこれ準備することがある。
「2:8の法則」により、最初の1ヶ月の学級作りに、1年間使う力の8割を注ぐ。
物は静止状態から動かすのが一番エネルギーが要り、あとは慣性の法則である程度自然に流れていく。
それほどまでに重要なのが4月である。
「黄金の3日間」「3:7:30の法則」など、4月の大切さは有名な実践家の誰もが強調している。
(一応解説すると、3日間、1週間、1ヶ月で決まる、という法則である。)

とにかくそこが大切なのは分かるが、では何をしたらよいか迷う。
教室環境の整備。
子どもの名前を覚える。
出会いの自己紹介。
楽しい授業開きの準備。
・・・とにかく、山ほどある。
何といっても、1年間の仕事の8割を占めるのだから、当然である。
しかし、上記のことはどれも些末なことである。
目的という果実のための枝葉に過ぎない。
(過ぎないが、これがないと実らないので、枝葉も大切である。)

たくさんある中で一番大切なこと。
それは、目標設定。
1年後、どういう子どもを育てたいのか。
具体的なイメージをする。

6年生担任ならば、卒業式のイメージである。
どんな姿勢で歩いているのか。
座っている姿、立ち姿はどうか。
返事はどうか。
歌声は、表情はどうか。
最後の学級会で、子どもはどんな表情、反応をするのか。
自分自身はどう感じているのか。

他の部分についても、同様にイメージする。
学力面や体力面はどうなっているのか。
子ども同士の関係はどうか。
男女の仲は良いのか。
自己中心的なのか、人のために動く子どもなのか。
掃除の取り組みは、給食の配膳は、係の仕事は。

全ての理想形をイメージする。
行動はイメージに引っ張られる。
ゴールを目指すのではなく、ゴールから逆算する。
(最近の某学習塾のCMでも、同じようなことを言っていたが。)

何はともあれ、ゴールの設定。
具体的なイメージ化。
それを、文章にしてみる。
(以前、未来の学級通信を書く手法も紹介したが、あれも効果的。)
全ては、そこからである。

2013年4月3日水曜日

つりあった大根、どちらが重いか

今日は授業のミニネタ系を。

「まずは人気の先生になろう!」の著者の飯村先生が、とある研修会で紹介したネタである。
私も似た実践を知っていたので思い出し、それについてお話をした。
必ず子どもの意見が割れる面白い実践なので、紹介する。
どなたかの原実践があるのだが、今すぐわからないので、私のアレンジバージョンの紹介である。

大根を一本用意する。
こんなお話をする。
「一人暮らしの時、買った野菜が大きすぎることがよくありました。
そういう時、買ったものを友達と分けたりします。
もちろん、お金がないので、あげはしません。(笑)
代金も半分こです。
ただ、見ての通り、大根は細い部分と太い部分があり、うまく半分にできません。
そこで、こうしてみました。」

大根を、ひもを使ってつりあう位置で吊るす。
そこのつりあった位置で切る。
左右の太くて短い方をA、細くて長い方をBと名付ける。

「AとB、平等で、重さも同じですよね?」
ほとんどの子どもがうなずく。
「本当に?」
おや、という顔をする。
選択させる。
「Aが重い」「Bが重い」「同じ」
あわせて、理由もノートに書かせる。
色々な意見が出る。

ところで、どれが正解だろうか。
ちょっと考えて、選択してから読み進めていただきたい。


実際やってみると、Aが重い。
これは、6年理科「てこのはたらき」の応用である。
モーメントの大きさは「重さ×支点からの距離」で決まる。
つまり、Aは「重い×短い」、Bは「軽い×長い」という状態で、左右のモーメントの大きさがつり合っていたのである。

針金でも違ったものがやれる。(こちらは飯村先生の実践で、初めて知ったもの。)
まっすぐの針金をさきほどのようにひもでつり合わせる。
大根と違い、この場合、左右の重さは等しい。
そこで、片方だけ大きくぐにゃりと曲げる。
どちらに傾くか。

この場合、伸ばしたままの方である。
重さは同じで、距離が長いからである。
原理はわかっているのに、なぜか間違える。
人間はイメージで答えるということがよくわかる。

6年担任の方には、年度末にでもぜひやってみていただきたいオススメ実践である。
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