2017年12月31日日曜日

愛と平和と戦争 

お世話になっているメールマガジンスタンド「まぐまぐ」。
この中に「MAG2 BUSINESS NEWS」
というビジネス記事コーナーがあり、2017年のPVランキングが発表された。
↓発表ページ
http://www.mag2.com/p/news/mailmagazine/choimise/2017/1228.html?l=vyj129755e

私のメルマガ記事があるが、タレントのタモリさんの言葉を引用して書いたもの。
私が書いた記事ということに気付いてもらえていなさそうなのがミソである。

愛と平和という、一見親和性のありそうなものを、見直してみようという記事である。
戦争反対という考えは一貫しているが、その内実に目を向けることが必要であると考えている。
特攻隊や原爆という、日本人なら絶対考えるべきことから、目を逸らさないことが大切だと思っている。
日本は平和になったのか。
オリンピックを迎えようとしているにも関わらず、3.11の復興問題も未解決である。
過去におきた未解決の諸問題には、これから近い未来に起きるであろう問題の解決の糸口がある。
これらについて自分なりの考えをもつことは、子どもたちがこれから国際社会を生きる日本人になるために「必修」ではないかと思う。

何はともあれ、たくさんの方が読んでくださる記事というのは、何かしら有益なのだと思う。
一読していただければ幸いである。

意外な形で今年を締めくくれた。
2018を更なる良い年にしていけるよう、尽力していきたい。

2017年12月29日金曜日

がんばる前に、空気を入れるべし

毎日、駅まで自転車で通っている。
最近、帰りの坂道のペダルが重いと感じた。
「身体が衰えてきたのかな・・・」とふと思った。
しかし、そんなはずはないと、がんばっていた。

タイヤを触ったら、空気がかなり抜けていた。
空気を入れたら、あら不思議。すいすい快適。

こういうことは、結構ある。
がんばる前に、メンテナンスである。
故障しているところがあれば、逆にがんばってはいけない。
故障が悪化する一方。
故障部分を直す方が先である。

これは、仕事にもいえる。
心と身体が悲鳴をあげているのに、がんばれば大丈夫と、連日深夜まで根性を出す。
根性があること自体はいいのだが、それ以前に病気一歩手前である。
さっさと帰って回復すれば、もっと短時間で質の高いものを仕上げることもできる。
むしろ、それをしようとしないで「ガンバリズム」を続けるから、いつまでも能力が高まらない。

疲れた顔で子どもの前に姿を現しては、どんな理由であれ本末転倒である。
子どもの前で元気でいることも、担任の大切な仕事の一部である。

「学級では、うまくいかない時こそ、外で遊ぶべし」とずっと言っている。
本メルマガでも、共著の『やる気スイッチ押してみよう!』でも述べている。
忙しいから、疲れているから子どもとも遊べない、というのは、空気を入れないで一生懸命ペダルを漕ぐ行為と同じといえる。
空気を入れれば、スイスイ進むのに、勿体ないことである。

今がうまくいかないのは、変なところでがんばり過ぎているからかもしれない。
そのことをがんばるべき根本・本質・原点の部分は何か。
教師ならば、言わずもがな、子どもの成長のためである。
子どもを常時善導するためである。
子どもを善導する教師には、元気で余裕があることが必要である。

また仕事を厳選し、元気を出すためのヒントとして、
拙著『「あれもこれもできない!」から…「捨てる」仕事術』
https://www.meijitosho.co.jp/detail/4-18-171335-5
もおすすめしたい。

教師は、真面目でがんばりすぎる人が多いと思っている。
私もそういう面がまだあるかもしれないと思った自転車の一件だった。

2017年12月27日水曜日

インスタントな「できる」の弊害

拙著『切り返しの技術』に、理科を例にして体験の大切さを書いている。
見学を省略して資料だけで済ませた地層の学習の結果だけが散々だったという失敗例(実話)である。
しかもたちが悪いことに、学習直後のワークテストの時はしっかりできていたのである。
年度末の学力検査の頃になって、簡単な問題を落としまくっていた。

この失敗は、この後の私自身の授業への考え方に大きな影響を与えた。
手っ取り早くインスタントに済ませると、長期的に見てマイナスが大きいのである。

これは、あらゆる教科にいえる。
顕著にわかるのは、算数である。
公式ややり方だけを丸暗記すると、「できる」けど「わからない」という状態になりやすい。
しかも、その「できる」すらも、長期的に記憶できないのである。
台形の面積の公式の丸暗記や、分数÷分数の演算をよく例に出すが、他のことでも同じである。
高校あたりで数学嫌いが出るのも、テストを何とか凌ぐための勉強法を続けたツケであると考えている。

脳科学者の池谷裕二氏は、かけ算九九を覚えていないという。
ただし、答えを導き出す手順を覚えているので、特に不便はないということ。
これは極端な例のように思えるが、本当に賢い人は、原理原則や本質の方をきちんと理解している。

遠回りでも、きちんと理解をして進むこと。
当たり前のようだが、授業をする上で大切なことである。

2017年12月25日月曜日

概数の学習で逆転現象を起こす

授業における「逆転現象」の大切さを説いて書いたのは、大森修氏である。
「コペルニクス的転換」という言葉もあるぐらい、逆転には価値観を一変させるインパクトがある。
ここに関連して、4年生の概数の学習において、自分の中での鉄板ネタがある。

「上から2桁の概数にする」という学習である。
例えば日本の国土の面積(平方キロメートル)ならば
377972

380000
となる。
これ自体は、そんなに難しいことではない。

そこで、次のような問題を出す。
「9.89ならば?」
これも、あっさり9.9と答える。
小数点が入っても、上から2桁と確認する。
「10.89ならば?」
ここで少し0をどうするか迷うが、
「途中の0は、ユーレイの0ちゃんだから、見えないけど、いる。」
ということで、0を2桁目とカウントし、答えは11で落ち着く。

次からが本題。
「0.589なら?」
これは、0.6と0.59という二つの意見に割れる。
なぜそうしたか、それぞれ理由を聞く。
先と同じように0を1桁目として数えるというAの意見。
この場合は0を「ない」とみなして、数えないというBの意見である。
ちなみに、毎年、Aが圧倒的多数で、Bは少数派になる。
Aは多数なので得意満面、Bは少ないので、自信がなさげである。

正解は確認せずに、次の問題を出す。
「0.0589なら?」
Aが0.1、Bが0.059となる。
ここで、A派の一部が少し迷い出す。
この場合の「0.1」が、概数としてざっくりすぎると感じ始める。
「やっぱりBかも・・・」とつぶやく子どもが出始める。
ここも、正解は示さない。

次である。
「0.0489なら?」
Aが0、Bが0.049となる。
ここで「四捨五入とはいえ、0になってはまずい」ということで、Aはかなり揺れる。

どちらが適切かを考えさせて話し合う。
これはやはりBであるということに落ち着き、どうやらの「正解」にたどり着く。

ここで、コペルニクスとガリレオの地動説の話を少しする。
学問においては、多数派が正しいとは限らず、自らの頭で真理を求めようということ。
学問においては、「無知の知」が大切ということ。
自分が無知だと自覚しているからこそ、素直に謙虚に学べる。

別に最後の説法は好みなので必要ないかもしれない。
しかし割と高学年でも盛り上がる鉄板逆転ネタとして、おすすめである。

2017年12月23日土曜日

クリスマスは他人の幸せを願う日

「サンタクロースはいるの?」ということについて、昨年度記事を書いた。
http://www.mag2.com/p/news/231275

「キリスト教徒でもあるまいし、クリスマスは関係ない」と尖っていた若かりし頃が懐かしい。
クリスマスというイベントも、もはや定着の感というより、常識レベルである。

ハロウィンも定着の感はある。
しかしクリスマスがハロウィンと決定的に違うのは、他の幸せを願う点である。
ハロウィンはややもすると「コスプレパーティー」の様相を呈しており、それはハロウィン本来の趣旨とも全く違う。

行事は、本来の趣旨や願いを考えることが大切である。
クリスマスも誕生日も「ケーキとプレゼントの日」ではない。
それは付随するものである。
本来の趣旨は、別にある。

誕生日は生まれてきたことを祝う日であり、ある程度の年齢になれば親や祖先に感謝する日でもある。

クリスマスは、本来はキリストの生誕祭。
キリスト教徒にとっての日であることには異論をはさむ余地がない。
しかし、広く受け入れられている趣旨としては、他人の幸せを願う日という方が合う。
「他人の」がポイントである。
自分ではない。
自分の幸せは普段から願っていればよい。
クリスマスぐらいは、せっかくだから他人の幸せを願う日と考える。
そう考えると、クリスマスも宗教とは関係なく意味のある日になる。

他人の幸せと自分の幸せの境目はどこにあるのか。
サンタクロースの精神には、見習うべきところがある。

2017年12月21日木曜日

「先生、帽子は被らないとダメですか」

実習生にした話。

AとBで迷った時はどうするか。
AとB、それぞれのメリットとデメリットを羅列する。
メリットが多く、デメリットが少ない方を選ぶ。
その際、「安全」にデメリットがある場合、これは最優先で取り除く。

体育の授業における例としては
・帽子を被らせるか否か
・裸足か上靴か
・班は男女混合か男女別か

といったことへの判断も含まれる。
いわゆる
「先生、〇〇していいですか」
への判断である。
子ども自身が適切にできるようになるのが理想だが、そうもいかない。
大抵、安きに流れる。
良い方よりも楽な方に流れるのは、大人と同じである。

帽子についてなら、熱中症対策や頭部の保護といったメリットを考えれば、「着用」の判断になる。
着用させずに実施した時、万が一頭部を切ったりでもしたら、目も当てられない。

マット運動は、裸足で実施させることが多いだろう。
指導主事に「必ずそうしなさい」と指導を受けたという方もいる。
衛生面や感覚面でのメリットがある。
ただ、例えば開脚前転をする場合や、後転の導入段階の場合、裸足だと足を痛めることがある。
踵を打ち付けたり、真っ直ぐ回れずにマットからはみ出して爪を床に打ち付けるためである。
マットを余計に敷くという対処方法もあるが、数が足りないこともある。
そういった場合、安全を最優先して、上靴を履かせて実施するという判断もあり得る。

器械運動において高学年で男女混合の班だと、補助に抵抗が出る場合もある。
身体接触への配慮は、安全に次いで大きなことである。
しかし、全体として技能差を配慮して分けたい場合や、交流を優先したい場合は、男女混合にしたい。
AとBのメリットが拮抗する時は、Cの案を考える。
男女混合にし、同性同士で補助ができる人数配分で組むこともできる。

メリットとデメリットを比較検討し、是非を判断する。
その上で、C案も検討する。
授業以外のあらゆる場面で応用の効く考え方であると思い、紹介してみた。

2017年12月19日火曜日

「飼い主さん、私には、できません…」

ある地域で散歩をしていたら、次のようなキャッチコピーの入ったポスターを見かけた。

「飼い主さん、私には、できません…」

何を訴えているポスターか。
「犬のふんは飼い主が責任をもって始末せよ」である。
要は、できることとできないことがある。
犬のふんの不始末は、100%飼い主の責任であり、犬は全く悪くない。
(ちなみに、小学生のかいたポスターである。)

教育でも、これはよくよく考える必要がある。
子どもにできることと、大人がやるべきことの区別。
自分でやれることは、任せてやらせる。
自分ではどうしても無理なことは、大人がやる。

例えば、環境面の安全への配慮は、完全に大人の責任である。
赤ん坊のいる家では、誤飲を防ぐべく、手の届く位置にあるあらゆるものに配慮する。
極端な話、刃物が切れて危険だというのも、幼児は知らない。
100%大人が教えることである。
使っていて結果的にケガをすることがあっても、事前に教えておくべきことである。

授業だと、教えるところと考えさせるところを区別し、流れの中で教えるということ。
ここは、経験がないと結構難しい。
教育実習生が最も苦戦するところの一つである。
教えてからやらせた方がいいところと、とりあえずやらせてもいいところとを見極める必要がある。

例えば4年生に「面積」の概念を教える時、広さを比べるところは自力でもできる。
しかし、面積の単位自体は、教えるところである。
「1a」のような特殊な単位であれば、その必要性が出るところまでは考えさせる。
単位自体は、その流れの中で、きちんと教える。
その「流れ」が難しいのだが、ここが大切である。

逆もあり、子どもが責任もってできることを、大人がとってしまうのも害が大きい。
犬の散歩を例にすると、普通に歩けるのに、すべて抱っこして散歩しているようなものである。
面積の授業の例だと、何から何まで全部大人の都合通りに正解を教えることである。
余計な手出し口出しは、最も害悪が出る。
人任せの依存体質、正解主義にもなる。

生活のあらゆる面に、その人の教育観が出ている。
授業だけ、しつけだけうまくやろうとしても、うまくいかない理由である。
相手への愛情があるのなら、不都合なものにも目を向けて始末をつける必要がある。

2017年12月17日日曜日

自由な学級=選択の幅が広い学級

以前の「自由市場と政治の原理 学級経営への応用」の記事について、
アメリカ在住の読者の方から、感想をいただいた。
読者の皆様にとっても大いに参考になると思ったので、紹介する許可をもらった。
以下、メールより引用する。

================
(引用開始)
日本の人が、「自由」という言葉を使うとき、
いつも「自由」の本家本元であるアメリカの
Freedom を思います。

彼らにとって、自由とは何をしてもいいという
積極的な意味ではあまりなく、
むしろ「選択の多いこと」などがイコールとして
考えられているようです。

日本は自由という言葉を
本来の意味よりも「いいとこ取り」してしまったような
気がします。

たとえば。。黒人は列の後半にしか座れなかったバスが、
どこに座ってもいいことになった。
これが自由の意味ですからね。

選択の幅が広がる。もしくはこの中から何を選択してもいい
というのが自由であって、何も選択しないことや、
オプションにないものを選ぶことではないということでしょうか。
(引用終了)
===============

自由を「選択の幅が広がる」と捉える。
学級においても、この方がしっくりくるかもしれない。
学校という空間は、制約がある。
無法地帯ではなく、法治された社会である。
その社会の中で、選択の余地があるということ。
これが自由。
選択の余地がない状態。
これが不自由。

また「いいとこ取り」という捉えも、納得である。
引用文中にあるように「何をしてもいい」というのは、自由の本来の意味ではない。
やんちゃ坊主の「俺の自由だ。かんけーねーだろ。」という言葉。
いいとこ取りの誤った自由の解釈。
ここには、「大いに関係ある」と答える。
それが生徒と教師という関係だからである。
ある社会における自由が成り立つには、その社会の構成員同士が、無関係ではいられない。
人を傷つける行為は、自由に反する。
本来あるはずの「安全」という選択の余地がなくなる訳である。

差別の例が出ているが、これこそが「自由」の本家本元の意味である。
「自由」の語源の「freedom」と「liberty」とは、元々は特権階級のみがもつ権利だった。
「奴隷」ではない立場の人をわざわざ「自由人」と名付けて呼んでいた時代があったという。
今の日本において求められる「自由」とは、意味合いがかなり違う。
文化の違う国の言葉を取り入れたせいで、翻訳がうまくできていないのである。
日本語の「わび・さび」を海外の言葉に翻訳ができないのと同様である。

そこで、自由を、選択の幅が広がることと捉える。
選択の幅の多い学級。
こう考えると「自由な学級」の像が浮かんでくるのではないかと思った次第である。

2017年12月15日金曜日

親密な地域コミュニティを求める

文化の日に書いた記事。
生活の文化の変化について。

今回も以前に紹介した次の本からの考察。

『サピエンス全史 下 文明の構造と人類の幸福』
ユヴァル・ノア・ハラリ 著  柴田裕之 訳
http://www.kawade.co.jp/np/isbn/9784309226729/

この本の中で「親密な地域コミュニティ」という言葉が定義されている。
==========
(引用開始)
「親密な地域コミュニティ」とは、互いをよく知り、生き延びるために相互に依存している人々の集団をいう。
(引用終了)
===========
産業革命以前、ほとんどの人の日常生活はこの「親密な地域コミュニティ」の中で営まれていたという。
今は、違う。
親密な地域コミュニティではなく、あらゆる人が世界中の人と繋がっている。

ここからは引用ではなく私見。
これは逆に、身近な人たちが、互いをよく知らず、遠くなっているともいえると思う。
世界が広がるのと同時に、身近な人への関心が、薄らいでいく傾向にある。

学級の存在意義は、この「親密な地域コミュニティ」にあると考える。
このコミュニティ内は、相互依存の関係であり、市場原理である利益追求は原則行われない。
もちろん金銭のやりとりも必要ない。
互いのことをよく知り、お互いが必要な時に、見返りを要求せずに、手助けをする場である。

だから、教師は子どもに対し、自分ががんばった分の見返り(報酬)を要求することはない。
子どもは教師や周りの仲間に対し、自分ががんばった分の見返り(報酬)を要求することはない。
すべては最終的に、自分のためであり、そのための相互依存である。
困っている仲間を助けるのも、当たり前のことである。
困っている時に助けてもらえるのも、その前提があってこそである。

大きなことではなく、小さな、ごく簡単なことである。
勉強がわからないで困っているお隣さんに「わかる?」と一言かけられるか。
誰かが落とした鉛筆を拾ってあげられるか。
クラスの仲間が何かできた時に「やったー!」と一緒に喜べるか。
朝「おはよう」とあいさつするか。
そんな小さな、ごくごく簡単で、「当たり前」なことである。

人の幸せを考える集団になる必要がある。
自分の幸せと同時に人の幸せを願う集団になる必要がある。
それが、本来あるはずの「親密な地域コミュニティ」の在り方である。
その行動は、自分と相手が幸せになるかどうかを常に考える。
それは教師も子ども同士も、お互いに考える必要がある。

そういう子ども集団が作る社会、ないし会社は、変わってくるのではないかと思う次第である。
今後の国際社会の姿は、競争社会ではない。
戦争で他国を打ち負かしても、結局はダメであることは歴史が証明してくれている。
あるべきは「親密な国際コミュニティ」である。
互いに手を差し伸べるのが当たり前の国際社会である。

国際社会の最前線で戦っている人々には、そんなことは現実を見ない理想論と言われるかもしれない。
しかし、せめて教室では「親密な地域コミュニティ」の考えは忘れずにもっていたい。

2017年12月13日水曜日

子どものえらさ

叱ることは、必要である。
様々な教育論があるが、このことに関しては、そうだと確信している。

ただし。
その時自分が叱ったことが正しかったかは、自信がもてないことこの上ない。
いつでも、そうである。
道徳的に正しかったとしても、相手にとってはそれが良いとも限らない。

だから、叱るという行為は、諸刃の剣である。
作用反作用の法則よろしく、強く叱れば叱るほど、その分自分にも返ってくる。
正義を振りかざしていくほどに、苦しみは深くなる。
相手の苦しみに寄り添いながら叱ることができるなら、それが何よりもいい。

自分が正しい
自分が正しいはず
自分が正しいと言ってほしい

堂々巡りをして、果てには周りに同意を求めだす。
一瞬はほっとする気がするのも束の間、すぐにまた新たな不安がくる。
理屈をつけるほどに、より心は重くなる。
本当に確認をしたい相手は、自分の他には一人しかいないからである。

心がすっと軽くなる瞬間がある。
叱った子どもに、朝会える。
「おはようございます」とあいさつをしてくれる。
「おはよう」とぎこちない笑顔で返す。

軽くなった瞬間に、また重くなる。
「ごめんね」「言い過ぎた」と心の中では言っている。
直接は口に出して言えないのが、弱いところである。

子どもを、「えらい」と思うことがある。
何もなかったように、笑顔で「先生」と呼んでくれる。
「ごめんなさい」を日記に書いてくることもある。
「えらい」という言葉には「品行が立派」という意味がある。
私はこういうことがある度に、子どもは「えらい」と思う。

何も言わない子どもも、えらい。
色々言いたいこともあるだろうに、とりあえずはついてきてくれている。

自分が担任で、今日、子どもが教室にいてくれたら、それは有難いことである

そのことへの畏れと感謝は、何があっても忘れずにいたい。

2017年12月11日月曜日

自由市場と政治の原理 学級経営への応用

学級経営を経済の視点から考える。
今回も、以前に紹介した次の本からの考察である。

『サピエンス全史 下 文明の構造と人類の幸福』
ユヴァル・ノア・ハラリ 著  柴田裕之 訳
http://www.kawade.co.jp/np/isbn/9784309226729/

この本の中に、自由市場と政治に関する記述がある。
自由市場が政府の経済政策に対して与える最も賢明な助言は「何もするな」。
一方で、市場は、詐欺、盗難、暴力から自力で身を守れない。
市場を守ってくれる法を執行し維持するのは政治である。
この関係が崩れると、バブルとその崩壊や、大恐慌を引き起こすということである。

具体例を考えてみる。
今、個人がネットで自由に売買できる。
ここでワンクリック詐欺や身に覚えのない法外な請求等に怯えないで済む理由は、ネットに関する法律がきちんとあるからである。
(一方で、法の網の目をくぐり抜けるあらゆる不正取引も存在する。)

学級経営においても、この原理は応用して考えられる。
子どもが自ら伸びようとしている時、親や教師に対する子どもの要求は「余計な手や口を出さないで」である。
大人は、自分が正解を知っていると思って、教えすぎるのである。

一方で、手出し口出しを全くしないでいいかというと、それも違う。
際限のない自由は、無法地帯になる。
子どもはいじめや暴力、あらゆる理不尽から、自力だけでは身を守れない。
教師はルールや道徳という形で規律を与え、自由な子ども集団へ適切に規制をきかせていく。
このバランスがうまくいっている学級は、少なくとも崩壊はしない。

「自由」は、世間における人気キーワードである。
「自由な教室」「自由な先生」。
もう、語感だけで圧勝である。
一方「義務」や「規律」「責任」は、不人気キーワードである。
「規律の教室」「規律の先生」。
もう、語感だけで、完敗である。

これが、そもそも間違っている。
どちらか一方だけで成り立つことはない。
本来は、「自由で規律のある教室」「自由で規律のある先生」。
一見意味がわからないようで、これが現実に成立する。
現実には、多くはどちらかに少し傾いたまま成立している。

「自由な教室」においては、「何をしても許される」とする。
つまり、暴力やいじめもOKである。
学習指導要領に定められた内容を無視してもOK、授業を無視して自分の受験科目の勉強をしていてもOKである。
それがダメなら、やはり「自由で規律のある教室」である。
(実際、これに近い形の教室は、存在する。)

「規律の教室」においては、「何をするにも許可がいる」とする。
つまり、トイレに行くにも遊びに行くにも、あらゆる判断に他人の許可がいる。
発言するにも字を書くにも許可がいり、自分の将来の進路を決めるのにも許可がいる。
いちいち対応するので、親や担任は常にピリピリすることになる。
(実際、これに近い形の教室は、存在する。)

自分の学級において、どちらかの比率だけが高すぎないか。
考えてみると、学級経営の打開策が見つかるかもしれない。

2017年12月9日土曜日

まずやらせてみる

教育実習からの学びシリーズ。
体験の有無の大切さについて。

実習生に指導をする。
学級経営のこととかを、色々教える。
初任の時に教壇に立つ前に、なるべく多く教えておきたいと思う。
ただ、本当は、実際に今担任をやっている人になら、もっと教えられる。
その差は、体験の有無である。

何でもそうだが、実際にやっている人に教えるのと、やったことのない人に教えるのでは、全く違う。
「感覚」がわからないのである。

例えば武道で「膝を抜く」という感覚があるそうだが、それについて説明しているものをどう読んでも実感が湧かない。
きっと武道をやっている人間にしか、教えられてもわからない感覚である。

一見簡単そうに見えることが、実際やると、とんでもなく難しかったりする。
見るとやるとでは、雲泥の差である。

だから実習生にはまず一回、なるべく早い時期に授業をやってもらう。
そうしないと、教えようがないからである。
正規の教員の授業をどんなに見ても、「あれぐらいなら普通にできる」気がするものである。

この見方は、自分たちにも応用できる。
例えば、上司を見て「もっとこうやればいいのに」と部下は思う。
そういう部下が上司の立場になった時、本当にそれがやれるかという話である。
立場が違うと、見え方が違う。

時に、子どもの立場になって授業を受けて見ることも大切である。
人の授業を受けていると、自分の欠点が見えてくる。
実習生や初任者がやるような初歩的なミスを、自分も結構やっているものである。

子どもには、大人の立場をやらせてみるのも手である。
人前に立たせ、何かを教えさせてみれば、人に話を聞かせることや、教えることの大変さがわかる。
料理を作ってみさせれば、作る大変さだけでなく、食べてもらう時の緊張感と満足感、片付けの大変さまでわかる。
掃除でも買い物でも同様。
やってみれば、実感としてわかることがたくさんある。

まず、やらせてみる。
その上で、必要感を引き出してから、初めて教える。
そのまま、授業の組み立て方の基本でもある。

2017年12月7日木曜日

言い訳するのがダメな訳

伸びる人と言い訳の相関について。

やらないことや失敗に関して、色々理屈をこねる人は、伸びない。
自分がやらなかったからやらなかったのである。
自分のやり方がダメだったから失敗したのである。
自分の人生なのだから、原則、それ以外にはない。
子どもでも大人でも同じである。

忘れ物一つとっても、忘れた理由から述べる必要はない。
「お母さんが昨日・・・」から入って、その説明の時間が長いほどに怒られる確立を高めていることを教える。
忘れ物をした時の報告の言葉は一言「〇〇を忘れました。」である。
それ以外はいらない。
続く言葉の「申し訳ありません。」を併せて教えてもいい。
報告と謝罪の二つの仕方だけ教えれば十分である。
どうすればいいかを決めて、後は自分でできる限りの責任を取らせればいい話である。
(この辺りは、方針や状況に応じて、である。)

単純な一つの仕事を、いつまでもやらないで〆切が過ぎてしまう。
なぜなのか。
「〆切前日に、風邪を引いてしまったからできなかった」と答える。
それはそうかもしれない。
しかし、それ以前にやる時間はあったはずである。
要は、自分の無計画のせいである。

遅刻も同じである。
電車がたまたま遅れたのかもしれないが、その電車に毎日乗ることを決めていたのは自分である。
そのミスをしたくない人は、いつも早めの電車に乗っている。
遅れた事情自体は話す必要があるが、色々あっても結局は自分の責任である。
電車のせいではない。

要は、言い訳をする人は、伸びない。
全てを他の責任に転ずるからである。
(これは、実際大得意な人が多い。論理的思考のマイナスフル活用である。)
人生のハンドルを、コントロール不能な他人に委ねてしまうことになる。

素直な人は、言い訳をしない。
全てを自分の責任として捉える。
人生のハンドルを自分で握り、コントロール可能なことに集中する。
「素直な人は、伸びる」という大原則の裏返しである。

言い訳をしないこと。
素直な人は、伸びる。
実習生にも子どもにも教える、基本的な心構えである。

2017年12月5日火曜日

若い時分の無駄は宝石の原石

結構よくされる質問。
「授業準備を毎日夜遅くまでしていたことがあるのですか?」
そう。
私は、初任から数年間、22時くらいまで一人で仕事をしていたというのが、ざらだった。
脅威的に、仕事が遅かった。
そして、信じられないほど、自由な時間があった。
(正確には、やることがなくて、暇だった。)

ここで大切なこと。
それは、地力を鍛えること。
最初からうまくいく方法を求めない。
いや、求めてもいいのだが、結果を期待しないことである。
泥臭くいく。
転ばないように自転車を上手にこげるようになろうなどと、甘すぎる考えは捨て去る。
捨て去るというより、そもそも考えてる暇があったら、さっさと乗って一回でも多く転ぶ。

これは精神論ではなく、算数と同じぐらい合理的な話である。
自分の力が足りないと思っている人は、改善の努力をし続けるから、伸びる。
自分の力が十分だと思っている人は、そのままの自分でいくから、変わらない。
これだけの話である。

要は、最初からうまくいくとは思ってない人は、一生懸命に準備をする。
100点を目指して一生懸命にやったのに、うまくいかない。
一生懸命にやった部分はわかっているのだから、直す部分がわかる。
そこを直す。
やはりうまくいかない。
今度は、違うところに気付く。
そこを直す。
この繰り返しになる。

最初からうまくやれると思っている人は、結果に落胆する。
自分はできるはずの人なのに、矛盾が起きる。
責任を他に求める。
あの方法がいけなかったのだ、あの人のせいだ。
それで、納得して矛盾を解消する。
次も、同じ失敗をするが、それも他人のせいである。
(万が一うまくいくこともあるが、それはより大きな不幸のはじまりである。)

一見無駄なことは、無駄ではない。
私は今はやらないが、ドリルの〇つけだって、全力でやってみることである。
〇つけが大変すぎてどうしようもなくなる時、初めて工夫が始まる。
授業研も、全力でやってみることである。
授業が下手すぎて全職員中最低ランクでどうしようもないとわかった時、初めて本当の勉強が始まる。
すべては、無駄と思える行為の集積からである。

例えるなら、若い自分の無駄なことは、石ころのようなものである。
実は、宝石の原石である可能性がある。
まずはたくさん拾って、ひたすら磨いてみることである。

実習生には、遠回りでも無駄だと思えるぐらい何でもがんばってみて欲しい。
それでこそ、実際に教員になった時に一人でも粘り強くやれる素地ができると思う。

2017年12月3日日曜日

厳しくも優しい教師に

実習期間中、実習生に毎日質疑応答と講話をした。
話しながら「ああ、そういえばこれが大切だった」と改めて気付く。
例えば個々の子どもとの接し方について
「何で子どもとつながるか」
「自分から寄ってこない子どもには、教師から意識的に関わる」
といった、実習生時代に自分が教わった基礎である。

初心忘れるべからずとは言うが、わざわざその言葉が諺になるぐらい、忘れるものである。
実習生へ毎度教えていることを、何かにまとめれば、多くの人の役に立つかもしれない。

さて、先日は教師の在り方についての話をした。
教師を志す学生に「厳しい先生になりたい」と願う人は少ない。
「楽しくて優しい先生になりたい」と願う。
当たり前である。
誰だっていつもニコニコ笑顔で優しく、子どもたちみんなにいい顔をして、いい先生だと思われたい。
私だって「楽しく子どもがいきいき学んで、みんな笑顔で毎日ハッピーライフ」的な担任生活を夢見ていたものである。

現実は、そんなに楽勝なものではない。
相手は、人間である。
子どもは天使ではないし、正しいことを正しく言えばわかるという単純なものでもない。
(子育てをしている母親の皆様は、百も千もご承知のことである。)
何かに不満をもてばいじめだってするし、個々の欲望だってある。
大人と同じ、全うな一人の人間である。
大人の未完成版などではない、一人の人間である。

その辺りを理解せずに、子どもに純真さを求めすぎると、確実に失敗する。
もし本当に天使のような存在なら、教育がいらない存在である。
自由にすべきだと放っておくと色々と問題があるから、制限が必要だし指導が必要になるのである。
逆に、未完成だから何もかも教えないといけない思うから、余計な手出し口出しをして健全に育たなくなるのである。

善と悪、自由と規律、抑圧と解放。
どれも否定せずにまるごと受け容れて、目の前の人間に対峙していく。
教師は自らの理想を抱きそこに憧れつつ、現実と泥臭い真剣勝負をすることが求められる。
理想のない教育は虚しく、現実と対峙しない教育には力がない。

厳しさと優しさの両立。
厳しいだけの教育は、問題を抑圧できるが、冷たくなる。
優しいだけの教育は、善良さを感じられるが、問題に対峙する力がない。
どちらも表面的な厳しさと優しさであり、本質的ではない。

厳しくも優しい教師。
これが理想である。
子どものことを真剣に考えるから、正しくないことに対してはっきりと「それは悪いことだ」と否定する。
子どものことを真剣に考えるから、正しくないことをした子どもにも「きっと良くなる」と心から信じて寄り添う。
漫画に出てくるような、べたな「ヒーロー」が理想である。
ヒーローは、悪と対峙しつつ、その悪すら最後に「ゆるす」。
度量が広いのである。

理想を抱きつつ、現実の問題から逃げずに戦う。
そんなことを、教室という現場から感じて学んで欲しいと願う日々である。

2017年12月1日金曜日

避難訓練は、命を守るから「訓練」

やや日が過ぎたが、11月5日は「世界津波の日」と制定されている。
(メルマガ上ではちょうどこの頃発行された記事である。)
これにちなんで、避難訓練の話。

私は、避難訓練をかなり重要視している。
初任の頃から、命を守る学習は何に優先しても大切だと思っていた。
(これには、いじめ問題も含まれる。)
池田小事件や3.11などの重大な出来事が起き、この思いは確信に変わった。
避難訓練をしていたら確実に防げるというものではないかもしれない。
しかし、本番を想定した訓練をいかに繰り返すかというのは、いざ本番という時に重大な影響を及ぼす。

避難訓練を不真面目にやっていた児童は、いざ本番という時に高確率でパニックや致命的な失敗を起こす。
要は、普段からの心のコントロールができないからである。
日常から浮ついていて平常心に戻せないため、非常時においては尚更平常心が保てないのである。

言葉に注目してみる。
避難「訓練」である。
避難「練習」でも避難「学習」でもない。
現代の学校教育において、これほどはっきりと「訓練」という言葉が前面に打ち出されているものは、他にない。

これほど学校における自由や個性尊重が叫ばれる中、堂々と「訓練」の名称なのである。
なぜか。
ずばり、集団の命を守る行為だからである。

「訓練」と聞いて真っ先に思い浮かぶのは、各国の軍隊や、日本の自衛隊。
はたまた、警察や消防などの仕事。
これらの共通点は、「生死を分ける」行為、仕事である。
ここで気が抜けていたりふざけていたりする成員がいたら、集団の命が危険にさらされる。
だから、行動規律が猛烈に厳しい。
「命を守る」という最重要の目的に向かって、規律に従って整然かつ冷静沈着に動くための「訓練」なのである。
そこに個性尊重とか自由とかは必要ない。
大切なのは、理路整然と動き、確実に命を守ることである。

学校にいおいての避難訓練も同様である。
訓練なのだから、ふざけることは一切許されない。
普段の授業とは全く違うのである。
自由に意見を言い合ったり、楽しくやる場でも個性発揮の場でもない。
ここにおいて必要なのは「真剣」の二文字に限る。
その状態で実行してこそ、いざという時に命を守ることにつながる。
不真面目にやるような、無意味なことをすべきではない。

さて立ち返り、職員の側にその真剣さがあるか。
ないなら、子どもは確実にだらける。
避難訓練自体が、無意味なものになる。
児童が命を落としてからでは遅い。
災害への備えに対する「大丈夫」は、万全の準備をした時に口にすべき言葉である。
「最悪の事態を想定し、最大の準備をして」こそ「楽観的に対応する」が成立する。

避難訓練は、「訓練」として極めて真剣に行う。
当たり前のことだが、こういうことも子どもにしつこいぐらいきちんと伝えた方が良いと思う次第である。
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