叱ることは、必要である。
様々な教育論があるが、このことに関しては、そうだと確信している。
ただし。
その時自分が叱ったことが正しかったかは、自信がもてないことこの上ない。
いつでも、そうである。
道徳的に正しかったとしても、相手にとってはそれが良いとも限らない。
だから、叱るという行為は、諸刃の剣である。
作用反作用の法則よろしく、強く叱れば叱るほど、その分自分にも返ってくる。
正義を振りかざしていくほどに、苦しみは深くなる。
相手の苦しみに寄り添いながら叱ることができるなら、それが何よりもいい。
自分が正しい
自分が正しいはず
自分が正しいと言ってほしい
堂々巡りをして、果てには周りに同意を求めだす。
一瞬はほっとする気がするのも束の間、すぐにまた新たな不安がくる。
理屈をつけるほどに、より心は重くなる。
本当に確認をしたい相手は、自分の他には一人しかいないからである。
心がすっと軽くなる瞬間がある。
叱った子どもに、朝会える。
「おはようございます」とあいさつをしてくれる。
「おはよう」とぎこちない笑顔で返す。
軽くなった瞬間に、また重くなる。
「ごめんね」「言い過ぎた」と心の中では言っている。
直接は口に出して言えないのが、弱いところである。
子どもを、「えらい」と思うことがある。
何もなかったように、笑顔で「先生」と呼んでくれる。
「ごめんなさい」を日記に書いてくることもある。
「えらい」という言葉には「品行が立派」という意味がある。
私はこういうことがある度に、子どもは「えらい」と思う。
何も言わない子どもも、えらい。
色々言いたいこともあるだろうに、とりあえずはついてきてくれている。
自分が担任で、今日、子どもが教室にいてくれたら、それは有難いことである
そのことへの畏れと感謝は、何があっても忘れずにいたい。
2017年12月13日水曜日
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