ある地域で散歩をしていたら、次のようなキャッチコピーの入ったポスターを見かけた。
「飼い主さん、私には、できません…」
何を訴えているポスターか。
「犬のふんは飼い主が責任をもって始末せよ」である。
要は、できることとできないことがある。
犬のふんの不始末は、100%飼い主の責任であり、犬は全く悪くない。
(ちなみに、小学生のかいたポスターである。)
教育でも、これはよくよく考える必要がある。
子どもにできることと、大人がやるべきことの区別。
自分でやれることは、任せてやらせる。
自分ではどうしても無理なことは、大人がやる。
例えば、環境面の安全への配慮は、完全に大人の責任である。
赤ん坊のいる家では、誤飲を防ぐべく、手の届く位置にあるあらゆるものに配慮する。
極端な話、刃物が切れて危険だというのも、幼児は知らない。
100%大人が教えることである。
使っていて結果的にケガをすることがあっても、事前に教えておくべきことである。
授業だと、教えるところと考えさせるところを区別し、流れの中で教えるということ。
ここは、経験がないと結構難しい。
教育実習生が最も苦戦するところの一つである。
教えてからやらせた方がいいところと、とりあえずやらせてもいいところとを見極める必要がある。
例えば4年生に「面積」の概念を教える時、広さを比べるところは自力でもできる。
しかし、面積の単位自体は、教えるところである。
「1a」のような特殊な単位であれば、その必要性が出るところまでは考えさせる。
単位自体は、その流れの中で、きちんと教える。
その「流れ」が難しいのだが、ここが大切である。
逆もあり、子どもが責任もってできることを、大人がとってしまうのも害が大きい。
犬の散歩を例にすると、普通に歩けるのに、すべて抱っこして散歩しているようなものである。
面積の授業の例だと、何から何まで全部大人の都合通りに正解を教えることである。
余計な手出し口出しは、最も害悪が出る。
人任せの依存体質、正解主義にもなる。
生活のあらゆる面に、その人の教育観が出ている。
授業だけ、しつけだけうまくやろうとしても、うまくいかない理由である。
相手への愛情があるのなら、不都合なものにも目を向けて始末をつける必要がある。
2017年12月19日火曜日
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