文化の日に書いた記事。
生活の文化の変化について。
今回も以前に紹介した次の本からの考察。
『サピエンス全史 下 文明の構造と人類の幸福』
ユヴァル・ノア・ハラリ 著 柴田裕之 訳
http://www.kawade.co.jp/np/isbn/9784309226729/
この本の中で「親密な地域コミュニティ」という言葉が定義されている。
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(引用開始)
「親密な地域コミュニティ」とは、互いをよく知り、生き延びるために相互に依存している人々の集団をいう。
(引用終了)
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産業革命以前、ほとんどの人の日常生活はこの「親密な地域コミュニティ」の中で営まれていたという。
今は、違う。
親密な地域コミュニティではなく、あらゆる人が世界中の人と繋がっている。
ここからは引用ではなく私見。
これは逆に、身近な人たちが、互いをよく知らず、遠くなっているともいえると思う。
世界が広がるのと同時に、身近な人への関心が、薄らいでいく傾向にある。
学級の存在意義は、この「親密な地域コミュニティ」にあると考える。
このコミュニティ内は、相互依存の関係であり、市場原理である利益追求は原則行われない。
もちろん金銭のやりとりも必要ない。
互いのことをよく知り、お互いが必要な時に、見返りを要求せずに、手助けをする場である。
だから、教師は子どもに対し、自分ががんばった分の見返り(報酬)を要求することはない。
子どもは教師や周りの仲間に対し、自分ががんばった分の見返り(報酬)を要求することはない。
すべては最終的に、自分のためであり、そのための相互依存である。
困っている仲間を助けるのも、当たり前のことである。
困っている時に助けてもらえるのも、その前提があってこそである。
大きなことではなく、小さな、ごく簡単なことである。
勉強がわからないで困っているお隣さんに「わかる?」と一言かけられるか。
誰かが落とした鉛筆を拾ってあげられるか。
クラスの仲間が何かできた時に「やったー!」と一緒に喜べるか。
朝「おはよう」とあいさつするか。
そんな小さな、ごくごく簡単で、「当たり前」なことである。
人の幸せを考える集団になる必要がある。
自分の幸せと同時に人の幸せを願う集団になる必要がある。
それが、本来あるはずの「親密な地域コミュニティ」の在り方である。
その行動は、自分と相手が幸せになるかどうかを常に考える。
それは教師も子ども同士も、お互いに考える必要がある。
そういう子ども集団が作る社会、ないし会社は、変わってくるのではないかと思う次第である。
今後の国際社会の姿は、競争社会ではない。
戦争で他国を打ち負かしても、結局はダメであることは歴史が証明してくれている。
あるべきは「親密な国際コミュニティ」である。
互いに手を差し伸べるのが当たり前の国際社会である。
国際社会の最前線で戦っている人々には、そんなことは現実を見ない理想論と言われるかもしれない。
しかし、せめて教室では「親密な地域コミュニティ」の考えは忘れずにもっていたい。
2017年12月15日金曜日
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