やや日が過ぎたが、11月5日は「世界津波の日」と制定されている。
(メルマガ上ではちょうどこの頃発行された記事である。)
これにちなんで、避難訓練の話。
私は、避難訓練をかなり重要視している。
初任の頃から、命を守る学習は何に優先しても大切だと思っていた。
(これには、いじめ問題も含まれる。)
池田小事件や3.11などの重大な出来事が起き、この思いは確信に変わった。
避難訓練をしていたら確実に防げるというものではないかもしれない。
しかし、本番を想定した訓練をいかに繰り返すかというのは、いざ本番という時に重大な影響を及ぼす。
避難訓練を不真面目にやっていた児童は、いざ本番という時に高確率でパニックや致命的な失敗を起こす。
要は、普段からの心のコントロールができないからである。
日常から浮ついていて平常心に戻せないため、非常時においては尚更平常心が保てないのである。
言葉に注目してみる。
避難「訓練」である。
避難「練習」でも避難「学習」でもない。
現代の学校教育において、これほどはっきりと「訓練」という言葉が前面に打ち出されているものは、他にない。
これほど学校における自由や個性尊重が叫ばれる中、堂々と「訓練」の名称なのである。
なぜか。
ずばり、集団の命を守る行為だからである。
「訓練」と聞いて真っ先に思い浮かぶのは、各国の軍隊や、日本の自衛隊。
はたまた、警察や消防などの仕事。
これらの共通点は、「生死を分ける」行為、仕事である。
ここで気が抜けていたりふざけていたりする成員がいたら、集団の命が危険にさらされる。
だから、行動規律が猛烈に厳しい。
「命を守る」という最重要の目的に向かって、規律に従って整然かつ冷静沈着に動くための「訓練」なのである。
そこに個性尊重とか自由とかは必要ない。
大切なのは、理路整然と動き、確実に命を守ることである。
学校にいおいての避難訓練も同様である。
訓練なのだから、ふざけることは一切許されない。
普段の授業とは全く違うのである。
自由に意見を言い合ったり、楽しくやる場でも個性発揮の場でもない。
ここにおいて必要なのは「真剣」の二文字に限る。
その状態で実行してこそ、いざという時に命を守ることにつながる。
不真面目にやるような、無意味なことをすべきではない。
さて立ち返り、職員の側にその真剣さがあるか。
ないなら、子どもは確実にだらける。
避難訓練自体が、無意味なものになる。
児童が命を落としてからでは遅い。
災害への備えに対する「大丈夫」は、万全の準備をした時に口にすべき言葉である。
「最悪の事態を想定し、最大の準備をして」こそ「楽観的に対応する」が成立する。
避難訓練は、「訓練」として極めて真剣に行う。
当たり前のことだが、こういうことも子どもにしつこいぐらいきちんと伝えた方が良いと思う次第である。
2017年12月1日金曜日
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