以前の「自由市場と政治の原理 学級経営への応用」の記事について、
アメリカ在住の読者の方から、感想をいただいた。
読者の皆様にとっても大いに参考になると思ったので、紹介する許可をもらった。
以下、メールより引用する。
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(引用開始)
日本の人が、「自由」という言葉を使うとき、
いつも「自由」の本家本元であるアメリカの
Freedom を思います。
彼らにとって、自由とは何をしてもいいという
積極的な意味ではあまりなく、
むしろ「選択の多いこと」などがイコールとして
考えられているようです。
日本は自由という言葉を
本来の意味よりも「いいとこ取り」してしまったような
気がします。
たとえば。。黒人は列の後半にしか座れなかったバスが、
どこに座ってもいいことになった。
これが自由の意味ですからね。
選択の幅が広がる。もしくはこの中から何を選択してもいい
というのが自由であって、何も選択しないことや、
オプションにないものを選ぶことではないということでしょうか。
(引用終了)
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自由を「選択の幅が広がる」と捉える。
学級においても、この方がしっくりくるかもしれない。
学校という空間は、制約がある。
無法地帯ではなく、法治された社会である。
その社会の中で、選択の余地があるということ。
これが自由。
選択の余地がない状態。
これが不自由。
また「いいとこ取り」という捉えも、納得である。
引用文中にあるように「何をしてもいい」というのは、自由の本来の意味ではない。
やんちゃ坊主の「俺の自由だ。かんけーねーだろ。」という言葉。
いいとこ取りの誤った自由の解釈。
ここには、「大いに関係ある」と答える。
それが生徒と教師という関係だからである。
ある社会における自由が成り立つには、その社会の構成員同士が、無関係ではいられない。
人を傷つける行為は、自由に反する。
本来あるはずの「安全」という選択の余地がなくなる訳である。
差別の例が出ているが、これこそが「自由」の本家本元の意味である。
「自由」の語源の「freedom」と「liberty」とは、元々は特権階級のみがもつ権利だった。
「奴隷」ではない立場の人をわざわざ「自由人」と名付けて呼んでいた時代があったという。
今の日本において求められる「自由」とは、意味合いがかなり違う。
文化の違う国の言葉を取り入れたせいで、翻訳がうまくできていないのである。
日本語の「わび・さび」を海外の言葉に翻訳ができないのと同様である。
そこで、自由を、選択の幅が広がることと捉える。
選択の幅の多い学級。
こう考えると「自由な学級」の像が浮かんでくるのではないかと思った次第である。
2017年12月17日日曜日
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