2019年2月28日木曜日

マイペースで進む覚悟

自転車や自動車、歩行中など、移動時の気付き。

人混みには出たくないが、用事がある場合は仕方ない。

歩きながら周りを見ていると、周りの人にぶつかりながらずんずん進んでいる人が見える。
その人は、歩くのが速い。
あるいは、走っている。

多分、急いでいるのである。
だから、早く先に進みたいのである。
そして、ぶつかる度に、周りの人を邪魔だと思っているかもしれない。

これはおかしい。
先に進みたいのは、自分なのである。
無暗に他人にぶつかってはいけない。
先に進むのは構わないが、ぶつかられる方は迷惑である。

そして原則として、速く動く方が、他をよけるべきである。
ゆっくり動いている方は、速く動く物体をよけようがない。
ぶつかったら、原則として速く動いている側の責任である。
そして、高速移動時は、その分リスクリターンとしてのケガの度合いも大きい。

これは、他のことにもいえる。
立場が上のものが責任をとる。
わからなかったら、教える側に多く責任がある。
その道の先輩の立場にある者が、より重い仕事を任される。
目立つ立場や地位で失敗すれば、より強く叩かれる。(芸能人と政治家はその最も顕著な例。)

どれも至極当然のことである。

つまり、速く動くべき場所に自分が行く時には、速く安全に動ける技術を要する。
高速道路に原付が入れないのは、最高速度が足りなくて危険だからである。
自分が遅いせいでよけられないからである。
場が合っていないのである。
この場合、一般道路を走るべきである。

逆に、然るべき状態で高速に入ったなら、自分の責任で他をよけること。
周りより速い速度で走るなら、自分がよけるしかない。
危険に挑戦したいなら、その責任まで負う覚悟をもち、用具や技術面も準備すること。
以前書いた、海外スキー場の、コース外に出る上級者向け看板の「Ski on your risk.」のメッセージである。

速く動く方がよける技術を身に付けるべし。
ゆっくりの相手によけろは理不尽。
速く動くならぶつかるものが増える前提が必要。
安全によける技術も必要。

自分のペースで動きたいという場合、それなりの覚悟がいると知った次第である。

2019年2月26日火曜日

自信と他者の尊重は同義

自信をもつということと、子どもを信頼して尊重するといういうこと。
今から2つのことを述べるが、どちらも本質的には同じ1つのことである。

今年度も色々な人から話を聞いたり相談を受けたりしてきた。
周りを見てもそうだが、どうにも自信のない人が結構多い。
「自分なんて」という感じである。

一見謙虚なようだが、これは逆だと考える。
天から折角与えられたものに対し、不平・不満を述べているともいえる。
そもそも、自分の意思で心臓一つ動かせないし、食物の消化もできない存在なのである。
自分の身にぶつくさ文句を言ってようが、気にしようがしまいが、身体はすべてオートでやってくれる。
脳はオートでものを覚えてくれる。
何もしていないのに、どれだけ高性能・高機能なものをいただいているのか。
とても文句を言えたものではない。

年末の道徳の授業で、1年生の子どもたちに、次の言葉を教えた。
遺伝子工学の第一人者、筑波大学名誉教授の村上和雄先生の言葉である。

「一つの命が生まれる確率は、1億円の宝くじが100万回連続して当たることに匹敵する。」

自分が生まれてくる前の世界の、たった一つでも何かがずれていたら、自分はこの世に存在しないのである。
生まれてきた時点で、もう宇宙レベルにラッキーなスーパーエリートの一人である。
何と言っても、1億円宝くじ連続100万回当選に相当する幸運の持ち主なのである。

「自分なんて」などと言っていい訳がないのである。
一度生まれてきた人間には、必ず使命がある。
折角いただいたこの身に文句を言う暇があったら、使命を果たすべく動くのである。
そうでなければ、何のために生まれてきたかわからない。

子どもをやたら心配するな、手を出すなという話にも通ずる。
あなたが素晴らしい存在であると同様、子どもも素晴らしい存在である。
自分が腹を痛めて生んだ子どもであっても、決して所有物ではない。
(いわんや父親においてをや。手をかけずに口だけ出すのは「ダメオヤジあるある」である。)

子どもには、その子ども独自の使命がある。
親が立派だから子も立派、とは限らない。
逆に、子どもは幼少期に親の言うことをきくが、大人になってからも手本とすべき相手かどうかは、見極めが必要である。

たまたま大人が「先に生きて」いるから、ものを教えられるだけである。
大人の方が存在としての価値が上な訳でも、大人が道徳的に高い訳でもない。
あくまで、先に生きててものを知ってる分、世話をさせてもらえるだけである。
魂レベルで見た場合、相手の方が上かもしれないという思いは忘れないことである。
(同様に「年下の先生」という状況も十分に有り得る。単にその道の先達だからである。)

自信をもつこと。
他者を尊重すること。
これらは同義である。

自分ができなかったことよりも、できたことを思い返したい。

2019年2月15日金曜日

花の香を意識する

花屋での気付き。

当たり前だが、花屋は、様々な花の香りが溢れている。
花の香は、周り全体に及ぶ。
今目の前にある花の香りだけを感じるということはない。
様々な香が入り混じって感じられる。
ただし、薔薇のようにより香りの強いものが強く感じられるということはある。

つまり、嗅覚という感覚は、選択ができない。
たばこが嫌いだからといって、その臭いを感じたくない人が煙を吸っても臭いを感じないという類のものではない。
(むしろ、吸わない人ほど敏感に感じ取ってしまう。)
周囲へのセンサーとして自然に感じるものである。
自然界において、嗅覚は命を守る上で重要な感覚だからである。

これは、聴覚や視覚にもいえる。
聞きたくない音も聞こえるし、見たくないものも見える。
ある特定の音やものに注目することはできるが、全く他の情報が入らない状態というのは難しい。

例えば、路上でタクシーが突然大きなクラクションを鳴らしたとする。
どうやら、前にいる歩行者が邪魔だったようで、威嚇したようである。
この運転手にとっては、威嚇対象は目の前にいる特定の歩行者(人物A)である。

しかしながら、クラクションの脅威に晒されたのは、周囲にいる全ての人間である。
みんなが大変不快な思いをする。
中には、心臓の悪い人もいたかもしれないが、そんなことは運転手にとっては知ったことではない。

眼前の人物Aという「悪」に対して大音量のクラクションという「正義の鉄槌」を下しただけ、という意識なのである。
「俺の車の前をたらたら歩いているこいつが悪い」という、大変狭く一面的な「正義」である。
周囲の罪のない被害者が文句を言いにいっても「あなたには別に恨みも用もない。放っておいてくれ。」と言うに違いない。

視覚に関しても同様。
例えば、街中を全裸で歩いている中年の男がいたとする。(普通いないが。)
当然、即刻逮捕される。

男は言う。
「別に誰かに見せようとしていた訳じゃない。
この格好でいたかっただけだ。
誰にも迷惑はかけてない。」

この言い訳は成り立つか。

当然、成り立たない。
なぜなら、見たくない人も見てしまうからである。
視覚情報も、選べないのである。
目に入ったものは感じてしまう。
不快である。

ちなみに、この手の言い訳は、荒れの見られる中学生(今だと小学校高学年も)がよくする。
とんでもない格好や髪形をしてきても、「別に誰にも迷惑かけてねーし」の一点張りである。
ある中学校の校長先生は、力強くその生徒にこう切り返した。

「俺が不愉快だ!」

本音・実感の切り返しである。
これには、その生徒もさすがに言い返せずに黙ったそうである。
(全てが自由の学校ならどんな格好でも構わないが、服装のルールのある学校に入った以上は従うべきである。)

要は、望むと望まざるとにかかわらず、何でも周囲に影響を与え、広がるということである。
自分の行為はすべて、花の香と一緒だということである。
特に、教師は香りが強い花だと自覚すべきだということである。

ちなみに、不機嫌も感染する。
不機嫌は、無差別に周囲の人に襲いかかり不幸にする最悪の悪臭である。
いつ会っても不機嫌な人は、アロマ加湿器と同じ仕組みの「全自動不幸発生装置」である。

逆に、いつも上機嫌の人もいる。
常に朗らかで、この人がいるだけで何だか気持ちが癒される、という人である。
「職場の花」「癒し系」などと称されることもある。
いるだけでみんなが元気になる。
(ただし、こちらはなりたくても、なかなかなれないのが難しいところである。)

親や教師という子どもにとって最大の環境は、恰好、言葉遣い、態度、行為、全てが影響力の塊である。
その影響の強大さを忘れないようにしたい。

2019年2月13日水曜日

それは自然に増えるか減るか

選択肢の話の続き。
増やす努力と減らす努力について。

私はテレビを見ないが、世の中の大きな情報、話題は入ってくる。 
なぜなのか。
広告やらネットニュースやらがご親切に勝手に教えてくれるからである。
求めていないが、勝手に増えるのがこの手の情報である。

質の高い情報は、こうはいかない。
誰でも手に入らないから、質が高いのである。
誰にでも手に入る情報には、さほどの価値はない。

自分には関係ない、と思ったものは、選ばない。
そもそも近付かない。
断絶する。
師の野口芳宏先生はこれを「絶縁能力」と呼んでいるが、これこそが集中力そのものである。

まずは減らす方を試みる。
両手が空けば、持てる余裕は自然とできる。

学級経営でもいえる。
「フランケンシュタイン」みたいな継ぎ接ぎ実践を多量にするなら、一つに絞ってみること。
例えば、掃除などはてきめんに効果が現れやすい。

何か必要な一つに絞って実践してみるのが効果的である。

2019年2月11日月曜日

選択の納得感と肚落ち感

前号の、選択肢の話と関連。
選択肢のない状況のメリットと授業への応用。

人間は、選択肢の多さに幸福を感じる訳ではない。
自分が納得した、あるいは選んでいるという「感覚」だけが重要である。

どういうことか。

仕事が最もわかりやすい。
自分が本当にやりたくて選んだ仕事なのか。
条件等から、やむなく、仕方なく選んだ仕事なのか。

やりたい仕事であれば、かなりの労力も、大変だが苦にはならない。
そうでない場合、理不尽に感じることが増え、徒労感が増える。

たとえ後者であっても、やっている内に納得した場合、苦にならなくなる。

また、条件で絞った後に、なおたくさんの選択肢が残ってしまった場合、更に悩みは多くなる。
もしかしたら選んだものより他のものの方が、良かったのではないかと苦悩するからである。

逆に、自分で考え抜いた末に、選択肢がこれしかないというところであれば、嫌でも納得はできる。
それしかないからである。
やるしかない。
悩みようがない。

物質的豊かさが不幸を生むという矛盾の原理もこれである。
本来、物質的に豊かな方が、幸せなはずである。
しかし、もっと多くの物質的幸福があると思うと、欠乏感を引き起こす。

欲はエネルギーにもなるが、これは果てしなく、終わりがない。
「足るを知る」が幸福感の要点といわれる所以である。
腹の底から納得している、ということである。

なお、本当はもっと別のものが欲しいけど我慢しているのは、幸福感につながらない。
それは、欲に囚われた状態である。

授業でもこれは応用できる。
つまり、やることが明確かどうかである。
これをやる、とわかっていれば、集中できる。
一方、やることが曖昧であれば、当然思考は拡散する。

自由がいいというのは、この拡散的思考を求める場合である。
何かの知識や技能を身に付ける場合は、集中力の方が圧倒的に大切である。

つまり、授業で明確に教える内容がある場合、
納得してやるべきことに集中している
という状態が作れればベストである。

試験前などは、誰でも自然とこの状態になりやすくなる。
勉強しないで遊ぼうという選択肢がなくなる。
実際は、遊びに行くこともできるのにも関わらずである。

日常的に勉強や練習等を続けられる子どもは、この納得感を自分の中にもっている。
自分が放課後に毎日数時間の鍛練をするのは、当然だと思っている。

なぜなら、そこには目標が明確に存在するからである。
なりたい自分が存在するからである。
世のため、人のために役に立つ自分になりたい、という他者貢献をもつ子どもすらいる。

そのためには、他に選択肢がないのである。
それが、幸福感、あるいは充実感の要因である。

選択肢自体は、少なくてもいい。
自分で選んでいるという、納得感、肚落ち感。
ここを感じられるようにすることが、学級経営の要点にもなる。

2019年2月9日土曜日

選択肢を減らす

現在、『選択の科学』という本を読んでいる。
https://books.bunshun.jp/sp/sentaku-kagaku
まだ途中だが、色々と気付かされることがある。

選択肢が多いというのは、一般的によしとされている。
たくさんから選べた方がいい。

しかし、実際には、選択肢の多さが迷いを生む。
決断が大変になる。
二つから一つを選ぶのは、一つ捨てるだけである。
しかし十から一つを選ぶのは、残りの九を捨てることとなる。

クラス会議等で話し合いが盛り上がらないという場合、この辺りを考え直してみるとよい。
選択肢が多すぎるのである。

例えば、「お楽しみ会をしよう」だけだと、あらゆる答えがあり得る。
拡散の議題である。

これはこれでいい。
ただし、収束の場をどうするかで成否が決まる。

収束の場で大切なことは、絞ることである。
比較・検討の連続である。
やる、やらないの二択を全ての案において検討すると考える。
そうすると、選択肢が増えるほど大変さが増すのがわかる。
切る作業が必要になる所以である。

これは、あらゆることにいえる。
たくさんのものがあるほど、決断の回数は増える。
断つのは、労力がいるのである。

選択肢を減らす。
決断の回数を減らす。
毎日が、少しずつ軽くなること請け合いである。

2019年2月3日日曜日

「どうしようもない」をどうにかする

働き方改革に関連して、快適な職場環境をどう作るのかという話。

メルマガを発行していたり外で話したりしている立場上、色々な方から相談を受ける。
中に「周りにどうしようもない人がいる」という愚痴を聞かされることが結構ある。

気持ちはわかる。
どうにもしようのないとしか思えない人はいる。
しかしそれは、そう思ってしまった時点で、自分もそう思われている可能性があるということを伝える。

なぜなのか。

どうしようもない、という相手がいる場合、それは自分にとって
「どうにも対応のしようがない」
ということである。
自分にはお手上げということである。

つまり突き詰めると、自分の能力が不足しているのである。
周りがそんな自分を「優れた人」「素晴らしい人」と評価することはない。

一方、その「どうしようもない」相手を
「どうにかしてしまう」人も必ず存在する。
処理能力が高いのである。

そこの人物と比較されてしまった場合、何と言い訳できるのか。
これが「あなたもどうしようもない人と同じ」と言われてしまう可能性のある所以である。

これは、担任から子ども相手でも当てはまるので、教える立場にある人は重々気を付けるべきことである。
子どもは、大抵どうにかしようがある。
ほとんどが、大人の側の対処能力の問題である。

人間関係の大抵は、自分でどうにか善処できる問題である。
(「解決」ではない。「善処」である。
ましにできる程度かもしれない。)
「自分は悪くない」と言ってしまいたい気持ちはわかる。
私もよくある。
しかし、それは、基本的に敗北宣言なのである。

例えば、会議が毎度長いとする。
確かに、それは司会が無能なのである。
確かに、それは原案が不備、つまり、提案者の能力不足なのである。
それは、間違いない。

しかしである。

その会議のメンバーに、自分も含まれているのではないか。
そこに対してものを言わないのは、自分ではないのか。
(原案にもの申すことを推奨しているのではない。
 会議中にやたらと噛みつくのは、全員の時間の浪費である。)

「自ら動け。さもなくば従え。」が原則である。
要は、会議が長い原因に対して、自分が何の手も打ってないから、いつになってもさっぱり変わらないのである。

満員電車に文句を言っている人たちと全く同じである。
その人も満員の原因の一つ(というより根本的要因)なのである。
そんなに嫌なら、電車に乗らない何らかの方法をとればいいのである。
それができないと言うのなら、満員の原因を作って申し訳ないが、黙って乗らせていただく。
単に愚痴を言っている間は、その他大勢と同じである。

主体性を育てることが大切だという。
それは、自分に都合のいい自己主張をする人間を育てることではない。

主人公を育てることである。
主人公は、ストーリー全体に深く関わる。
自らの問題として、困難に立ち向かう存在である。

厳しいことを書いてきたが、私自身も苦渋を舐めてきた経験が山ほどある。
変えたくても変えられない自分がいた。
環境に振り回されて、のたうち回る自分がいた。
場の力に抗えず、屈するしかない弱い自分もいた。
愚痴っても、慰めてくれるだけで誰も助けてはくれないし、何の解決にもならなかった。

働き方改革を求めるなら、組織や上司、同僚の問題をあげつらっても無駄である。
自分自身のライフスタイルに改革を起こす以外にない。
それが面倒なら、強い者、組織に従うべきである。

2019年2月1日金曜日

幸福より充実

昨年末、木更津技法研の忘年会があった。
そこでの野口芳宏先生との会話からのシェア。

齢八十二という人生の大先輩である野口先生に「人生の目的」について尋ねてみた。
その中で
「幸福は利己。充実は利他。」
という言葉があった。

酒席での話で録音していた訳ではないので正確には再現できないが、次のような話だった。
「幸福になるのは誰でもできる。
子どもでもできる。
人にしてもらうこともできる。
しかし、充実は違う。
自らが他に利することができたと実感できた時、充実感が生まれる。
人生は、充実が大切だ。」

大体、こんな意味のお話をしていただいた。

以下は、私の解釈である。

要は、幸福ばかりを追い求める生き方というのは、どうしても利己的になる。
「幸せの青い鳥」ではないが、幸福は目の前の有難さに気付くことだけでも達成されうる。
つまり、今この恵まれた環境にいる以上、何もしなくても、幸福にはなれる。
それを他にしてもらうことで、気付きやすくなるだけの話である。

一方で、充実は違う。
どんなに物質的に恵まれていても、心の底は充実しない。
以前に「究極グルメの王様」の話を紹介したが、あれである。
空腹感、つまり欠乏感がない以上、心の底からうまいと感ずることはない。

自らに課題を課す。
それを達成した時に、充実感がある。
そして、それが他に利することである時、心の底から満たされる。

この話の後で、野口先生に
「では、教師という職業は、最高の仕事ですね。」
と尋ねると
「その通りだ。」とのこと。
野口先生が生涯の師と仰ぐ平田先生というお医者様が、次のようなことを話されたという。

「俺はお前がうらやましい。
お前の仕事は最高だ。
俺の仕事は、下がっているところを普通まで戻すこと。
だけどお前の仕事は、元気な子どもたちを、更に上に伸ばすことだ。」

ちなみに、この話が
「子どもが廊下を走るのは元気な証拠。
俺のところの患者は、みんな走りたくても走れない。
子どもが誰も走らない学校があったら、それは異常だ。」
という例の話につながるのである。

心が元気になるお話をいただいたので、読者の皆様にシェアさせていただいた。
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