自信をもつということと、子どもを信頼して尊重するといういうこと。
今から2つのことを述べるが、どちらも本質的には同じ1つのことである。
今年度も色々な人から話を聞いたり相談を受けたりしてきた。
周りを見てもそうだが、どうにも自信のない人が結構多い。
「自分なんて」という感じである。
一見謙虚なようだが、これは逆だと考える。
天から折角与えられたものに対し、不平・不満を述べているともいえる。
そもそも、自分の意思で心臓一つ動かせないし、食物の消化もできない存在なのである。
自分の身にぶつくさ文句を言ってようが、気にしようがしまいが、身体はすべてオートでやってくれる。
脳はオートでものを覚えてくれる。
何もしていないのに、どれだけ高性能・高機能なものをいただいているのか。
とても文句を言えたものではない。
年末の道徳の授業で、1年生の子どもたちに、次の言葉を教えた。
遺伝子工学の第一人者、筑波大学名誉教授の村上和雄先生の言葉である。
「一つの命が生まれる確率は、1億円の宝くじが100万回連続して当たることに匹敵する。」
自分が生まれてくる前の世界の、たった一つでも何かがずれていたら、自分はこの世に存在しないのである。
生まれてきた時点で、もう宇宙レベルにラッキーなスーパーエリートの一人である。
何と言っても、1億円宝くじ連続100万回当選に相当する幸運の持ち主なのである。
「自分なんて」などと言っていい訳がないのである。
一度生まれてきた人間には、必ず使命がある。
折角いただいたこの身に文句を言う暇があったら、使命を果たすべく動くのである。
そうでなければ、何のために生まれてきたかわからない。
子どもをやたら心配するな、手を出すなという話にも通ずる。
あなたが素晴らしい存在であると同様、子どもも素晴らしい存在である。
自分が腹を痛めて生んだ子どもであっても、決して所有物ではない。
(いわんや父親においてをや。手をかけずに口だけ出すのは「ダメオヤジあるある」である。)
子どもには、その子ども独自の使命がある。
親が立派だから子も立派、とは限らない。
逆に、子どもは幼少期に親の言うことをきくが、大人になってからも手本とすべき相手かどうかは、見極めが必要である。
たまたま大人が「先に生きて」いるから、ものを教えられるだけである。
大人の方が存在としての価値が上な訳でも、大人が道徳的に高い訳でもない。
あくまで、先に生きててものを知ってる分、世話をさせてもらえるだけである。
魂レベルで見た場合、相手の方が上かもしれないという思いは忘れないことである。
(同様に「年下の先生」という状況も十分に有り得る。単にその道の先達だからである。)
自信をもつこと。
他者を尊重すること。
これらは同義である。
自分ができなかったことよりも、できたことを思い返したい。
2019年2月26日火曜日
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