2015年4月29日水曜日

弘法筆を選ばずというが

「まぐまぐニュース」に本ブログの元となっているメルマガの記事が載ったのでリンクを紹介する。
http://www.mag2.com/p/news/13869

要は、実力に合う道具を使うことが大切ということである。
そして、子どもは学校に勉強をしに来ているということである。
相手はただでさえ集中力の無い「子ども」である。
注意力散漫なのが「自然」なのである。
そして、教育は「自然」のままにさせずに善導することに意義がある。
(そうでなければ、学校に来る意味がない。)

だからこそ、気の散るような使いにくい道具や、筆箱内の余計なおもちゃ類を許諾しない。
何でもかんでもOKすることが「個性を認める」ことではない。

子どもに力がつくこと。
授業に集中できること。
ここに尽きる。

特にこの点は、保護者との連携が必須である。
教師の願いや思い、悩みを、保護者と共有しておきたい。

2015年4月25日土曜日

最高の学級づくりの必殺技

前号の「何となくを言語化する」ということの続き。
どうすれば「最高の学級づくり」ができるかを考える。

手前味噌ながら、昨年度、良い学級経営ができたと思う。
至らない点は多々あるものの、子どもたちは確実に成長を自覚していた。
保護者の皆様から「子どもがこの一年ですごく変わった」という有難い言葉を複数いただけたのも事実である。
(一方で、表に出てこないだけで不満も確実に存在するであろうことも、常に念頭にある。)

では、どうすればそうなるのか。
そこが、学級経営に悩む多くの教師の興味・関心の集まる部分である。
その「学級経営の必殺技」を、真剣に考えてみた。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・思いつかない。
いや、正確に言えば、「必殺技」「決め手」が思いつかないのである。
一方で、こまごまとした実践や心がけは羅列できる。
割と、一工夫したり、がんばったりしたかと思うものやキーワードを羅列すると、
「クラス会議」「学級目標活用」「主体変容」「率先垂範」「24時間道徳」
「拍手」「3分間日記」「学び合い」「掃除」「給食」「歌」
「とにかく漢字」「外遊び」「得意技発表会」「会社活動」
「8の字跳び」「跳び箱」「鉄棒」「二重跳び」「水泳」
「10マス計算」「難問」「ことわざカルタ」「百人一首」
・・・・多分、まだまだある。

単語だけ並べても内容がさっぱりわからないと思うが、とにかく色々やっている。
「これ!」という決め手が絞れないのである。

ちょうど1年ほど前にも紹介したが、二宮尊徳の言葉の一つに「積小為大」がある。
小さいことを積み重ねることで、大きなことを為すということ。
「小」とは身の丈にあったことであり、平凡なこと。
それを集めることで、大きなことになる。

前号の話で私が「どうすればそうなるのか」を答えられなかった点が、そこにある。
極論すると「これをやればこうなる」という必殺技は、無い。
本当に、本当に小さなことの積み重ねなのである。
「8の字跳び」という実践一つについても、これ自体が小さな小さなことの積み重ねである。

一方で「一事が万事」ということも真実で、一つうまくいくと連動して他のことがうまくいく。
例えば「学級目標活用」は、私の中で外せない中心実践である。
ここは徹底する。
また、「24時間道徳」ということも、子どもに話すとともに常に自省している。
「これは、自分の道として正しいと信じられるか」と常に自問する。
子どもにも投げかける。(面倒な先生である。)
そうやって、自分の学級経営の「芯」を作っていく。

長くなったが、要は「必殺技」は、存在しないという結論である。
成功の秘訣があるとすれば「積小為大」。
小さなことの一つとして「学級開きや学級目標をどうしているか」というようなことなら、話せる。
(ちなみにこれは、3月30日の文科省でのセミナーでお話しした内容。)

成功への近道はない。
ただ、成功への道はある。
遠く見える道程も、一歩ずつ。
それも、行きつ戻りつである。
目の前の小さなことを丁寧に行うことが、ダイヤモンドの原石を削る作業である。
毎日を「繰り返し」でなく「積み重ね」で生きたい。

2015年4月21日火曜日

「何となく」を言語化すべし

千葉大学を会場にしたセミナーで講師をしてきたことに関連して、前号の話の続き。

最高の話は、勇気がもらえる話。
それには「すごくうまくいった実践の話」だけではなく、
「どうやったら自分にもできるか」という明確な手順が示されることが条件である。

残念ながら、私は参加者の方のその質問に、正対した答えが示せない場面があった。
「何となくうまくいく」では、セミナー講師としては失格である。
それを、言語化して誰にもできそうな形で提示する義務がある。

一方で、そこまでしないでも、教師なんだから学べる人は学べるという意見も存在する。
それも一理ある。
しかし、前に立って教える以上、できる限りわかりやすく伝えるのが責務である。

子どもに教える時も同様。
理解力のある子どもは、誰が教えてもできる。
誰が教えても「わからない」という子どもがいた時こそ、はじめて工夫をしようと頭をひねるチャンスである。

何となくうまくいっていることを、いかに言語化し、伝達できる形にするか。
これからの課題である。

2015年4月17日金曜日

最高の話とは

先日、千葉大学でセミナー講師をさせていただいた。
こういう機会をいただけるのは、実に有難いことである。
休日に有料の研修会に参加するような志ある方々へ話すのは、毎度ながらかなりのプレッシャーを感ずる。
可能な限り有益な話をしたいと願って立つ。

さて、私の師事する野口芳宏先生が、先日のサークルで次のような話をしてくださった。
「〇〇さん、最高の話って、どんな話だと思う?」
「う~ん・・・」

私は「感動する話かな?」などと考えた。
野口先生は、次のように回答された。

「最高の話とは、勇気が出る話だよ。」

なるほど、合点いった。
ちなみにこれは、野口先生自身が師と慕う先生から教えていただいた話だそうである。

ここからは私見。
勇気が出る話。
どんな話だろうか。

自分の思いついたものを羅列してみる。
・すごいと思っている人の失敗談(「自分と同じなんだ」という感覚)
・感動する話(困難の克服、愛、誰かを救った、成長ストーリー、・・・)
・がんばれば自分にもやれそうだと思う話(「試してみたい!」という感覚)
・・・まだまだある。
要は、参加者視点で、やる気スイッチが入るものであればいい。

日々の授業でも、少しでも「最高の話」に近づけるように、万全の準備を持って臨みたい。
______________________________

2015年4月15日水曜日

自ら立ち上がろうとしない者は救われない

二宮尊徳記念館での学びシリーズその3。

次の尊徳の言葉について。
「自ら立ち上がろうとしない者は救われない。」
つまり、困っている人を助けるけれども、依頼心を助長してはいけない、ということである。
だから、尊徳は相談されても一度は断り、相手に返すという。
相手に自分の頭で考えてもらい、気付いてもらうためである。

数々の指導実績を残してきた、二宮尊徳らしい教育的な手法である。
「教師としての学び」という視点でこれを考えてみる。
(実は、先月のセミナーで自分に与えられたテーマである。)
例えば、世の中には様々な教育の手法や理論、哲学がある。
その中には、それぞれ正反対のものもある。
どちらが正しいかの判断基準があるとすれば、私が見るのは「子どもの事実」である。

しかし、どちらも子どもの事実として成果が上がっていたりする。
そうなると、どっちが正しいのかわからなくなる。

結論。
どちらも正しい。
ただし、その場その人にとって、である。
以前にも書いたが、「正義は個人内にあり」である。

つまり、誰かの言うことに振り回されてはいけない。
素直ということと鵜呑みは違う。
一旦は受け容れる、というのが素直ということである。
咀嚼し、それが正しいかの判断は自分自身で行う。
自分がやってうまくいかなかったからといって、その理論や手法が悪いという訳ではない。
ましてその人のせいにしたりしてはいけない。
批判も良くない。
たまたま、自分に合わないだけである。
誰かにとっては、やはり有益だったりする。

要は、使い手次第である。
「自分に合ったものを選ぶ」ということである。
選択権は自分にある。
手法や理論に頼り過ぎてはいけない。
使うのは、紛れもない自分自身である。
それが自分に合うのかどうか、自分自身の選択に責任を持ちたい。

2015年4月13日月曜日

農業と教育 ~日々、雑草を抜く~

二宮尊徳記念館での学びの続き。

農業と教育は、本当に関係が深いと思う。
どちらも、生き物を育てる仕事という点で共通である。
種を蒔く前の土作りが大切なのも同じ。
また、手間や時間がかかるのも同じ。
放っておいてもよく成長しない一方で、自然の力が必要なのも同じ。
無理矢理ひっぱったり、栄養をあげすぎたり、手をかけすぎたり、確認しすぎたりするとダメになるのも同じ。
「ほどほど」に手をかけ、後は自力で伸びるのを見守る必要がある。

特に、雑草の手入れは必須である。
放っておけば、自然の原理で必ず生える。何度でも生える。
一回完璧にがんばればいいというものでなく、継続的かつ定期的にやる必要がある。
ここも、教育との共通点である。

話はやや変わるが、ここで「星の王子様」の話を思い出した。
王子様の小さい星には、「バオバブ」の芽が生える。
バオバブは、放っておくと根を張ってどんどん大きくなり、やがて巨木となって星を丸ごと飲み込んでしまう。
だから、王子様の日常に雑草取りは欠かせない。
「死活問題」だからである。

教室においても、様々な「雑草」が生える。
「ちょっとしたすさみ」と言い換えてもいい。
放っておくと、後で取り返しがつかなくなる。
床にごみが落ちているとか、言葉づかいが気になるとかそういう「些細な」ことである。
これを、学級や学校の「死活問題」と捉えるかどうかが、一つの分かれ目という実感である。
(ただし、これを教師が直接指導するかどうかは、別問題である。)

日頃の手入れが大切である。
あとでまとめて処理しようとすると、とんでもなく苦労することになる。
夏場に伸び放題の雑草と格闘する羽目になるのは、春先にのんびりしていた報いといえる。
これは、学級開きから1ヶ月のスタートダッシュの大切さにもつながる。
そして秋や冬には生えにくくなるものの、定期的な手入れはやはり必要である。

日頃の雑草の手入れ。
実に地味である。
地味だからこそ、徹底して継続的にやる。
「そんな細かいこと」と言われるかもしれない。
「神は細部に宿り給ふ」という。
大きく派手なことに目を奪われて、小さく地味なことを見落としていないか再点検したい。

2015年4月11日土曜日

二宮尊徳記念館にて~謙虚ということが、勇気を生む~

先月、サークルで研修旅行をした。
場所を決める際に「単なる旅行ではなく、修養できるもの」が条件。
そこで小田原の二宮尊徳記念館を訪問してきた。
ここの一室を借りて、館内の方のお話を聞いたり、講座を受けたりした。
そこでの学び。

二宮尊徳といえば、偉人である。
「人並みはずれた努力をして、大成功して人々に崇められた」というイメージがあった。
実際は、相当の苦労をしたようである。
そして、相当に反発も食ったようである。

せっかく築き上げた私財を投げ打って、新天地で改革を行う。
まさに退路を断って決心する「決断」をし続けてきた人である。
人々の安定を求めながら、自身は全く安定をせずに、常にリスクをとって動き続ける。
そして、改革される側の支配者は、改革者に対して冷淡である。
冷遇されながらも、「相手が変わらないのは、自分が変わらないからだ」と自身を磨き続けた。
「主体変容」「率先垂範」を地でいっている偉人である。
常人の為せる業ではないが、部分的には真似できる。

自分の才能は自分のためにあるのではない。
この世に生を受けた恩を返すため、世の中の役に立つことを進んで行う。
「報徳」の精神である。
その名の通り、「損得」を越えた「尊徳」。
その行動そのものに、最も心を打たれた。

野口芳宏先生が講座の中で、
「謙虚ということが、勇気を生む。」
ということと、
「謙虚な人は、本音を語る。」ということを仰った。
二宮尊徳の行動の根本は、謙虚さから来るということだと私は解釈した。

謙虚であれば、畏敬の念が出る。
謙虚であれば、威張ったり自分を大きく見せる必要がないから、本音が語れる。
良いものは良い、悪いものは悪いとはっきり伝えられる。
謙虚さが、偉人の共通点である。

謙虚は、卑屈とは違う。
道理を外れるようなことには従わない。
正しくないことは、大多数の人がやっていることだとしても、勇気を持って断つ。
教育において、最も大切なことの一つである。

偉人から学べることは多い。
実のある修養ツアーとなった。

2015年4月9日木曜日

24時間を増やすには

木更津技法研での野口芳宏先生からの学び。

1日は24時間。
これは誰でも同じ。
しかし、世の中には密度の濃い時間を過ごしている人もいる。
知事や国会議員など超多忙の職務に就く人は、分刻みで仕事のスケジュールが入っている人もいる。
野口先生はサークルメンバーに次の話をした。

「〇〇さん、あなた1日の内、何もしてない時間があるかい。」
「ありません。」
「普通はないな。では、そこに新しいものを入れるにはどうするか?
それには、隙間に楔(くさび)を打ち込むことだよ。」

つまり、新しい習慣を身につけるには、今ある時間の隙間を広げて無理矢理入れるしかない。
新たに習い事をしようなどと思う時には、これが必須になる。
サークルに参加する時なども同様。
「他律的自律」の回でも書いたが、「所属する」「出かける」という行為をとると、自然にそうなる。

つまり、新しいことを始めるにはどうするのか。
とにかく、やってしまうこと。
「できない理由を言わない」である。

言うは易く行うは難い。
行えるかどうかが勝負の分かれ目である。

2015年4月7日火曜日

言い切る

先月の第3回やる気スイッチセミナーは、満員御礼の盛会に終わった。
全国津々浦々から集まっていただき、参加者同士の学びも深いものになったようである。
事務局としても嬉しい限りだった。
以下はメイン講師の南惠介先生のフェイスブックの記事からの引用。
====================
(引用開始)
やっぱりセミナーで話をするのは難しくて、その先生がどの段階にいるかで伝えることは180度変わります。
今回は主としたターゲットは、飯村先生前後の先生でした。
広げよう、緩やかに肯定的に見よう。
大まかに言えばそういうことでした。
でも、段階が違えば伝えたいことは変わります。
懇親会ではその先生に合わせた話ができます。
自分の形が定まるまでは、形にはめ込んでいくことはとても大切で、それがある程度できてから「次」に行けば良いのだと思います。
伝えるためには言い切った方が伝わりやすいし、聞く側も満足感を得られる。
でも、実際はその人の段階によって、そしてその人によって「正しいことは違う」と思っています。
そんなことを思いながら今回はシェアの時間が極めて有効で楽しい時間でした。
今後に生かせると思いました。
(以上、引用終了)
===============

南先生は、かなりはっきりと言い切る。
「〇〇かも?」ではなく、「こういうのはこう。」と言い切る。
決して独善的な訳ではなく、意図的に言い切っている。
相手によってはそうとは限らないということも知った上で、敢えて言い切る。

指導とは、そういう側面があるように思う。
ある子どもにとっては当てはまっても、そうでない子どももいる。
それは知っている上で、「こうしよう」と導く。

私は8の字跳びの実践を紹介したが、あれも同様。
「8の字跳びは、学級経営。」と言い切ってみた。
当てはまらない先生も必ずいる。
(8の字跳びをやらない、力を入れないでも良い学級経営をしている先生はごまんといる。)

やっててしんどい子どもだって、必ずいる。
それも知った上で、そこも抱えながら一緒の方向へ向かう。
これは、互いにしんどい面も多々あるが、その分得られるものも確実にある。

指導者が「これもいいね」「あれもいいね」では、路頭に迷う。
「これでいこう」「こっちを目指そう」と言い切る。
これには、「自信」の裏付けがいる。
おどおどしていては、せっかく信頼してくれている人までが不安になる。
だから、実は心の奥底に怖れも抱きつつ、自信を持って言い切る。
チーム内には色々な人がいるが、ここは一肌脱いでもらう。
(逆方向を向いていたメンバーが協力してくれた時ほど、強力なものはない。)

決して独善的になる訳ではなく、しかし言い切る。
そうすると、多少の批判も食らう。
リーダーの辛いところでもある。
それでも、言い切る。
そんな潔さが、指導者には必要な時があると実感した。

2015年4月5日日曜日

「他律的自律」の6ステップ

先月の木更津技法研での学び。
野口芳宏先生がお話しされた「他律的自律」の6ステップについて。

自律が望ましい。
しかし、人間の意志は弱いもの。
続けようと思っても続かない。
そこで、進んで他律を受けようというのが「他律的自律」である。
「他律的自律」も、自律の一つの形である。

「他律的自律」は、次の6ステップの行動で成立する。
1 属する
2 出かける
3 問う
4 実践する
5 まとめる
6 発表する

何の会でもそうだが、まずは属するところからスタートする。
サークルでも何でも最初の「属する」の壁がまず高い。
(逆に、ここを越えてくる人は、その後続く可能性は高い。)

属したら、出かける必要が出る。
多少面倒でも、属した以上行く。

出かけたら、出先で何かしら問う。発言する。
すると、その答えが返ってくる。

学んだことを実践する。
実践したら、それをまとめる。
まとめたことは発表して、周りに広める。

この繰り返しである。

以前にも書いたが、ブログ更新なども、他律的自律の一つの形である。
「定期更新」という形をとって自分で縛りをかける。

学習会にでかけることも他律的自律になる。
発表などもそうである。
この基本原則として「頼まれたら断らない」という姿勢が必要になる。

意志が弱いと自覚しているからこそ、他律的自律を活用していきたい。

2015年4月2日木曜日

日常が全て~長縄・大縄(8の字跳び)~

「日常が全て」ということについて前号書いた。
8の字跳びや大縄などの集団運動で、この原則は顕著に出る。

8の字跳びや大縄の記録を伸ばそうと、それだけがんばっても記録が伸びない。
他の運動なら、個人の努力は結果に結びつきやすい。
逆上がりの練習をがんばれば、逆上がりの達成に近づく。
毎日走れば、持久力はつく。
しかし、8の字跳びや大縄は、チームワークが命である。
自分だけがんばるということが、そもそも練習段階で難しい。

どういう学級集団であるかが大切になる。
前向きにがんばろうといえる集団であるか。
協力できるか。
仲間への技術的なフォローや励ましができるか。
また必要であればきついことも言い合える関係であるか。
こういった学級集団としての要素があって、初めて意味のある取り組みになる。

もちろん、最初から理想状態にある訳ではない。
他の行事同様、練習を通してこういった状態に近づけていくのが「目的」である。
記録という具体的な「目標」をたよりに、「目的」に近づく。

先に挙げたようなことは、学級経営における日常的な目的のはずである。
8の字跳びや大縄に本気で取り組むと、目指す学級像に近い状態になる。
逆に、集団内でいじめや不信感などの不安要素がある状態では、良い取り組みにはなりにくい。

日常が全て。
日常のどの部分がどんな結果を生んでいるのか、集団運動では浮き彫りになる。
課題を明確に把握して、日常的に取り組んでいきたい。
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