二宮尊徳記念館での学びシリーズその3。
次の尊徳の言葉について。
「自ら立ち上がろうとしない者は救われない。」
つまり、困っている人を助けるけれども、依頼心を助長してはいけない、ということである。
だから、尊徳は相談されても一度は断り、相手に返すという。
相手に自分の頭で考えてもらい、気付いてもらうためである。
数々の指導実績を残してきた、二宮尊徳らしい教育的な手法である。
「教師としての学び」という視点でこれを考えてみる。
(実は、先月のセミナーで自分に与えられたテーマである。)
例えば、世の中には様々な教育の手法や理論、哲学がある。
その中には、それぞれ正反対のものもある。
どちらが正しいかの判断基準があるとすれば、私が見るのは「子どもの事実」である。
しかし、どちらも子どもの事実として成果が上がっていたりする。
そうなると、どっちが正しいのかわからなくなる。
結論。
どちらも正しい。
ただし、その場その人にとって、である。
以前にも書いたが、「正義は個人内にあり」である。
つまり、誰かの言うことに振り回されてはいけない。
素直ということと鵜呑みは違う。
一旦は受け容れる、というのが素直ということである。
咀嚼し、それが正しいかの判断は自分自身で行う。
自分がやってうまくいかなかったからといって、その理論や手法が悪いという訳ではない。
ましてその人のせいにしたりしてはいけない。
批判も良くない。
たまたま、自分に合わないだけである。
誰かにとっては、やはり有益だったりする。
要は、使い手次第である。
「自分に合ったものを選ぶ」ということである。
選択権は自分にある。
手法や理論に頼り過ぎてはいけない。
使うのは、紛れもない自分自身である。
それが自分に合うのかどうか、自分自身の選択に責任を持ちたい。
2015年4月15日水曜日
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