2015年12月31日木曜日

新年の目標に今すぐ近付く

年末にすべきこと。

今年の出来事を振り返る、というのはよくやる。
印象に残る良かった変化・出来事を具体的に紙に書く。
そうすると、自分がどんなことを「良い」と感じる傾向があるかわかる。
この傾向をつかむことは必要である。

しかし、これだけだと片手落ちである。
過去を振り返って良かったというだけでは、前を向いて生きている若者とはいえない。

もう一つ大切なのは、来年に起こしたい変化を書き出し、行動に移すこと。
新年を迎えてから、と悠長に構えない。
今年中に行動に移す。
これが最も大切である。

中国の古い諺に、次のようなものがある。
「木を植えるのに一番良い時期は20年前だった。次に良いのは、今である。」
また「今度と化け物見たことない」という諺もある。

変化を求めるなら、来年からでなく、今年。
新年に目標を立てるのでは遅いと考える。
それで今までうまくいっているならそれでもいいが、正直、いかがであろうか。
来年の目標(欲しい変化)を決めたら、それに対して「今すぐできること」をやる。
行動は小さくてもいい。今すぐやる。

「〇〇に関する本を百冊読む」のであれば、今すぐ本屋へダッシュして1冊買って読み始める。
「〇〇へ旅行する」「〇〇の趣味を始める」のであれば、今すぐネットを開いて検索して、できれば予約までしておく。
「もっといい学級経営をしたい」といった漠然とした目標でもいい。
とにかく、それに対してできることを一つでいいから、「今すぐ」やる。

他人の誰も自分の行動に強制はできない。
だからこそ、動かすのは自分しかいないし、自分が生きられるのは今しかない。
今行動を起こせる人は、確実に来年が変わる。

逆に、今やらないなら、来年も怪しい。
今できないのに来年ならできるその理由は何なのか、ということである。
早起きを決意したのに、布団から出られずにいつまでも入っているのと同じである。
温いし一時的に幸せかもしれないが、変化は起きない。
一念発起して、とにかく「えいっ」とやる。

これは普通、やらない。
新年のマラソンでは、元旦の朝に横一列に並んで「ドン」と一斉にスタートする。
それなのに、前日の大晦日にとっくにスタートしている選手がいるようなものである。
もうこの人には勝てっこない。
ずるくはない。
実際のマラソンと違い、人生にフライングの違反はない。
人生においてはいわゆる「ふらいんぐげっと」が必勝法である。
だからこそ、先にやる人だけが大きく前に出られる。
「圧倒的有利」である。

今動くかどうかも、自分次第である。

2015年12月29日火曜日

理想のリーダー リーダー4領域

心理学の本とか、マネジメントの本とか、色々読んでいると、リーダー論における共通項があった。

それは、リーダーとは、責任をとれる人であるという一点。

逆に言うと、相手の責任をとれない人は、その人にとってのリーダーとは言えない。

本物のリーダーは、責任は自分がとるが、やり方は任せる。

要は、縦軸「責任」と横軸「やり方」の二軸の表で見ればよい。
すると、四領域できる。
表の右上Aが「責任をとってやり方を任せる」 理想のリーダータイプである。
表の左上Bが「責任をとってやり方も細かく指示する」 ワンマンタイプのリーダーである。
表の右下Cが「責任もやり方も任せる」 完全丸投げ放任タイプである。
表の左下Dが「責任をとらないが、やり方は細かく指示する」 保身無責任タイプである。

どれが理想のリーダー像かは、相手のタイプによる。
Aが良さそうだが、これはあくまで自主性のある人、チームにとっての理想のリーダーである。
Bは、メンバーが未熟な段階や、自主性のない人にとっては有難いリーダーになる。
Cは一見良くなさそうだが、とにかく口出しせず自由にやらせて欲しいという血気盛んな人には割と合う。
Dは最低で、万人にとって厄介な存在である。

学級担任というのは、リーダーである。
自分は、どのタイプの学級経営をしているか。
クラス万人受けは難しい。
しかし、Dのタイプは避けたい。

Dの例を挙げると、指示だけだして、失敗したら怒るというような行為である。
また、教えた子どものテストの点数が悪く、それを子どものせいにするのも同様である。
教えた以上、責任は教えた担任の側にある。
もし思い当たる節があったら、即反省して改善すべきである。

Aの例に近付く方法の一つが、上越教育大学の赤坂真二先生の推奨している「クラス会議」の手法である。
子どもたちが自分たちで何をすべきか話し合い、行動していく。
なお、子どものしたことである以上、責任は担任がとることになる。
大変さもあるが、自主性を育てる上で理想的な手法である。

時にBタイプでぐいぐい引っ張ることがあってもいい。
時にCタイプで子どもに本当に自由に任せることもあるかもしれない。

それでも、基本はAに置きたい。
子どもの生きる力は、Aタイプのリーダーのもとでこそ「伸び伸び」と育つのではないかと考える次第である。

2015年12月27日日曜日

助けて力と助ける力

助けて力。
学級で大切にしている力の一つである。

その名の通り周りに「助けて!」と言える力である。
私が勝手に名付けた。
今ネットで調べたが、直接この用語を使っている人はいないようなので、ひとまずオリジナル用語と言える。

何だか頼りない能力のようだが、重要である。

ちなみに、健康な赤ん坊は、この力がある。
赤ん坊は、困れば泣く。
助けを求める。
自分でできないからである。
助けてもらえないと命に関わるから、文字通り必死で泣く。

つまり、生来備わっている能力である。
一方で、段々失われる能力ともいえる。

どのような過程で失われるのか。

2歳半ぐらいで「ジブンで期」が来る。
何でも自分でやりたがる。
発達の証である。
しかし、この時期は助けてもらわないと自分ではすべてできない。
それを学ぶ時期でもある。

さらに大きくなるにつれて、「できないことはダメ」という認識を持ち始める。
周囲の目を気にし出す。
そうなると、助けてと言えなくなる。
助けて力の衰退期である。

ここを救うには、本人の意思もあるが、周りの力も大切である。
学級において、「助けて力」を強くするには、学級の「助ける力」を強めることである。
つまり、助ける方を先にすれば、助けてと言いやすくなる。
単純な話である。

具体的には、得意の提供。
得意分野で人を助け、不得意分野で人に助けてもらえばいい。
先に助けてもらった人は、後で返せばいい。
単純な話である。

ところで、先の赤ん坊の例でも、泣かなくする方法があるらしい。
それは、泣いても無視すること。
赤ん坊に対して、無関心を通すこと。
泣く度に無視したり攻撃したりを続ければ、やがて諦めて泣かなくなる。
その内、助けてもらおうという欲求すら起きなくなる。
生きる力が失われていく。

学級でこの「無関心」状態を作らないこと。
困っている人を見つけても見ぬ振りをするようであれば、自分も助けてと言えなくなる。
みんながみんな困る状態になる。

困っている時に助けてと言う。
周りは「助けるよ!」と動く。
必然的に「ありがとう」も増える。

助けて力と助ける力は、学級における二つで一つの力である。

2015年12月25日金曜日

予定を「攻め」で入れる

メルマガ上で、苦手克服のために、指導者は待つことが大切と書いた。

本人にとっての、苦手克服の重要ステップ。
それは、攻めることである。
一念発起して、苦手や面倒なこと、避けたいことに突っ込んでみることである。

例えば、この時期ならスノーボード。
雪山に行って斜面を滑り降りるというのは、運動が苦手な人にとっては、かなり難儀なことである。
痛いだけでもやる気が失せるに、「寒さ」が加わるとより一層である。
それでもやろうと思うのは、誘われるからである。
誘われたから断り切れず渋々ついていって、大好きになったという例も多い。
実際やってみると、やや前のめりに攻めた方がボードコントロールしやすい。
怖がって後ろに重心をかけるほど、逆にスピードが出て益々怖い。

食べ物も同様。
苦手だと思い込んで食べない「食わず嫌い」のこともある。
ずっと以前に食べてダメだったとか、イメージで嫌っていることも多い。
すべてのものは「ピン-キリ」なのだが、最初に大ハズレを引くと、リトライする気が失せるものである。
しかし、いいものを引けば、一気にファンになることもある。
「ものすごく体にいい」というように知識面がつくことで食べられるようになることもある。
(逆に、大好きだったのに体に悪いということで嫌いになることもある。)
前向きに食べようとすることで、その良さが味わえることも多い。

「コンフォートゾーン」という考え方がある。
ずっと以前、脳科学者で有名な茂木健一郎氏の著書で知った概念である。
何かというと、人間は自分にとっての「快適ゾーン」がある。
変化もないが安全なその「コンフォートゾーン」から出たがらないということである。
習慣の罠ともいえる。
そして大抵、面白いこと、ワクワクすることは、ゾーンの外にあるという。
ゾーンの外に出れば困難が待っているかもしれないが、克服すれば大成長できる可能性を秘めている。
痛み等の恐怖以上に、成長や変化などへの期待が上回ると、コンフォートゾーンを出られるという話である。

進化論はそのわかりやすい例である。
一念発起した(と当事者が自覚しているか否かは定かではないが)魚たちが陸に出たことである。
安全な木の上にいた猿が、危険な陸に降り立つのは、相当な勇気と好奇心である。
人間は、それを意識的にできる能力があるからこそ、宇宙にだって飛び立てる。
空を飛ぶとか月に行くとか、周りから見たら相当な無茶・無謀を克服した人達がいることが事実である。
「挑戦」は無理・無茶・無謀・困難・失敗・成功・・・全てを包含し、凌駕する。
やってみなくちゃわからないのが挑戦の価値である。

ただ、実際はやる気がなかなか起きないのが事実。
大事なコツ。
その予定をずっと先に入れてしまうことである。
実行まで猶予のある、1ヶ月以上先の予定がいい。
1年先ならもっといい。
先に入っていれば、とりあえず何とかする。
どうしても何とかならないなら、その予定はなくなるだけである。
とりあえず手帳を開いて、空いている内に予定を入れることである。
旅行と同じである。

大体、やる気は生もの。
一瞬しか起きない。
三日も四日も続くものではない。
その一瞬がチャンス。
やるかやらぬか迷う暇があれば、先に動く。
理由や方法などすべて後付けで何とかなる。
特に休みはチャンスである。
平日の(いつでも)忙しい時に、プラスワンのチャレンジ精神はなかなか湧かない。

ちなみに、各種セミナー等に参加する時、うまい方法を求めるかもしれないが、一番受け取れるのはやる気である。
そして、一回受け取ったら、すぐに使う。
やる気を受け取ったのだから、やることが一番の有効活用である。
だから学んでも実践しないと、百万回セミナーに出ても徒労に終わる。

頻度としては、人によるが、私は月1回程度がいいのではないかと思う。
学んだことを実際にやってみて、1ヶ月経ってまた学ぶ。
再度やる気をもらって、実践してみる。
この繰り返しである。

毎週セミナーに出てもいいのだが、あまり多いと消化不良になりがちである。
たくさん色んな種類のご馳走を一気に食べようとするのと同じである。
一気にたくさん食べても限界量があるし、翌日にはまたお腹が減る。
食いだめも寝だめもできない。
定期的に行うことが大切である。

2016年、自分を変えたいと思うなら、2015年の内に予定を入れてみること。
今度とお化けは見たことがないので、まずは今、一つ予定を入れてみることをおすすめする。

2015年12月23日水曜日

生長は土が命

パンジーと土の話。

以前、子どもたちと、パンジーの苗を鉢に植えて育てたことがある。
パンジーは、寒さにもかなり耐える強い植物である。

いざ3月になると、元気に咲いているものと枯れてしまっているものに分かれた。
そんな中で一つ、見事に咲いているものがあった。
どれかというと、それぞれの子どもが育てているものではなく、予備で植えておいた苗である。
特に世話はしていない。
見事に育った秘密は何か。

実は、予備のものだけ、大きなプランターに植えてあった。
つまり、土が豊富に入っているのである。
別にねらった訳ではなく、買った土のいきどころがなかっただけである。

そう考えると、植えた後の世話ももちろん大切だが、それ以上に最初の土が大切だといえる。
花や葉が弱るとあれこれ手を加えたくなるが、根っこの植わっている土を見た方がいい。

学級経営も後半に入っている。
この時期は、色々と問題も起きやすい時期である。
しかし、目先の現象にとらわれすぎてもいけない。
問題の根幹は何か。
そこを見据えた対応をしないと、根の部分は解決しない。

常に根本・本質・原点は見失わないようにしたい。

2015年12月21日月曜日

二十代で失敗しておきたい

メルマガタイトル通り、二十代の先生向けの話。

これからの時期、校内研究や地域の研究会、学習会等で、発表の機会があることが多いと思う。
そういう場に、「若いからチャレンジしなさい」といわれ、立候補せずとも立たされることがある。

これは、特に二十代の先生にとって、大きなチャンスである。

二十代の内は、極論すると、その場でうまくいくことを求められていない。
発表した、チャレンジしたことそのものを評価してもらえる。
失敗しようとも、その前向きな姿勢と謙虚さが評価してもらえる。
この先40年近くにわたる現役生活の糧になることが期待されている。
つまり、発表や実践の費用対効果が最も大きい時期といえる。

三十代も半ば以降になってくると、そうもいかない。
十数年の経験があるのであれば、それなりのものを求められる。
何か発表しても、ちょっとやそっとでは、まず褒められることはない。(そもそもそれを期待しない。)
それを受け止めるだけのものがあるとみなされるからこそ、出る意見も厳しい。
年数を重ねるごとに、見られる目は厳しくなっていく。
「成果」が求められるようになる。

繰り返す。
二十代の内は、極論すると、その場でうまくいくことを求められていない。
これはチャンスである。
「〇〇さんを差し置いて、私など実力不足で・・・」といって断ったとする。
つまりそれは、次年度以降は実力がついて、立派に引き受けることができるようになると解釈できる。
そんなはずはない。
やった方が絶対に実力はつく。
明白である。

実践発表にしたって、うまくいったことの発表より「うまくいかないのですが、原因がわかりません。」という方が断然いい。
アドバイスもしようがある。
うまくいきましたの発表は「よかったね」としかいいようがない。

失敗を怖れずにどんどん前に出る。
そういう先生の背中を、どこかで子どもも見ているはずである。

2015年12月19日土曜日

道徳 登場人物の立派な行動をどうみるか

先日の下関における道徳研究会での学んだことのシェア。
そのままではなく、自分なりに解釈したことを書く。

読み物資料には、立派な人物が出てくる。

自分の命を省みずに弱いものを助けようとする人。
誰もが投げ出すような辛い作業を、成功するまで地道に続けられる人。
人に裏切られてひどいことをされても、なお大きな愛で優しさを与えられる人。

架空の人物のことも実在の人物のこともあるが、とにかく立派である。

これを「この人のようにしましょう、なりましょう」となると、無理が生じる。

大方の場合、まず教える側がこのような人物になり得ていない。
何度も例に出すが、イチローと同様の努力ができるなら、イチローになり得る。
そもそもその努力ができること自体が天才的である。
だから「イチローみたいに努力をすれば夢が叶う」と短絡的にいくと、危険である。
希望を持たせるのにはいいかもしれないが、自分の現実とのギャップに苦しむことになりかねない。
「努力しないとダメなのに、努力できない自分はダメだ」となり得る。

この辺りは、ある程度乖離して考える必要がある。

講師の先生の話だが「これはこういう人物」と割り切る。
こういう人物だから、こうやったし、こういうことが起きたということを、客観的にみる。
なぜこういう行動をとったのかを、客観的にみる。

この話を次のように解釈した。
時に、「自分だったらどうするか」を考えるのはいい。
しかし、模範的回答を期待すると「ヨイコの答え」を言い合うつまらない授業になる。
だから、その物語を読んで、その行動の価値を見出すことが大切である。

それが自分にできるかどうかはわからない。
ただ、そういうことには価値があるということは学べる。
自分が同じ状況になった時にそうするかどうかは、別次元の話である。

内容にもよるが、そのように解釈した方が、納得がいく。
「できない自分はダメ」というようにしては、自尊心を低くすることになる。
純粋に「すごい人物だなぁ」「感動した」で、いい場合もある。

教える側も、未だ不完全。
人間は完璧にはなり得ない。
それでも、より良い生き方を求めて生きる。
そういう姿勢が身につけばいいのではないかと思った次第である。

2015年12月17日木曜日

失ってわかる有り難さ

毎年1回は出す、健康についての記事。

先月の話だが、喉が痛いのに放っておいたら、熱が出た。
明らかに自分の不養生が原因であり、ミスである。
このミスは、仕事をする人間にとって何より大きなマイナスである。
無理をする前に対策をとるべきで、身体が第一の資本ということを忘れている。

「プロとアマの差は、コンスタントに結果が出せること」
という視点からいっても、体調不良は最も避けるべき事態である。

とは言っても、なってしまったら、自分だけではどうしようもない。
体調が悪いとわかると、周りが気にしてくれる。
「代わりに入るから大丈夫。」
「今すぐ帰って。」
「無理して明日倒れられたら、もっと良くない。」
等々、とにかく気を遣ってもらえる。

毎度どの学校に行ってもそうだが、必ず周りが気持ちよくフォローをしてくれる。
「病気でも休ませてもらえない」という話を聞くと、気の毒である。

そうなると、何が何でも早く直そうという気になる。
元気に仕事ができた時の有り難さが身にしみる。
仕事に行くのが楽しみになる。
職場の仲間に会っても、いつも以上に有り難さがわかる。

毎回感じるのが「失ってわかる有り難さ」。
ちょっとした病気やトラブルは、そのことを教えてくれるための、神様からのプレゼントだと思いたい。

2015年12月15日火曜日

「楽しい」の内実を問う

先日の道徳の研究会でも、校内の授業研でも似たことが話題になった。
それが子どもの「楽しい」ということについてである。
中身が問われる。

例えば道徳の研究会で、次のようなことが講師の先生から出た。
道徳の授業に対して、高学年ほど「面白くない」と答えるという調査結果がある。
ここを真に受けて、「学年が上がるにつれてやり方を変えよう」ということになるが、そうではない。
低学年と高学年では「楽しい」の内実が違うということ。
低学年は、ただ答えるのが楽しい時期である。
先生に指されたい、発言したい。
それだけで楽しいのであって、授業内容の面白さをいっているとは限らないということである。

つまり、単に自由にギャーギャー騒げているから「楽しい」と感じていることもある。
子どもが「低学年の頃は楽しかった」という場合、単にやりたい放題していたからということもある。

高学年になるとそうはいかない。
手を挙げて発言したいということも、周りを意識して憚られるようになる。
単に騒がしい授業の中にいるのは耐えがたい子どもも増える。
高学年からの「楽しい」は、自分が発言したかということ以上に、新たな発見など知的好奇心によるものが大きくなる。
だから、先の道徳の結果を見ても、安直に考えない方がよいということである。

体育でも同様。
子どもが「楽しい」という時にも種類がある。
できない技ができた時の喜びによる「楽しい」もある。
仲間と関わりながら運動ができる「楽しい」もある。
技のコツを発見した時の「楽しい」もある。
汗をたくさんかくことによる「楽しい」もある。

どの楽しさをねらっていくかで、授業が変わる。
遊びではなく授業である以上、なるべく知的好奇心を刺激するような楽しさを味わわせたい。

2015年12月13日日曜日

道徳 得るものと失うもの

問い方は大切である。
問で思考の方向が決まる。
道徳では「気持ちを問う」という時、間違えると期待する答えを予想する「当てっこ」になってしまう。

読み物資料の中で、登場人物が道徳的にはよろしくない行為をしたとする。
それを良いか悪いか問うても意味がない。
その行為の背景をきちんとおさえる。
人間は、必ずしも道徳的に正しい選択をしない。
むしろ、たった一つだけの「正解」を選ぶ可能性の方が低い。
選ぶのも選ばないのも、それなりの理由がある。

では、それぞれの選択で、何が変わるのか。
ここで講師の先生のお一人は、
「得るものと失うもの」
に着目させる問い方を提案されていた。

この問い方だと、思考の方向が変わる。
ある行動を一面的に良い悪いということでなく、それぞれの価値を考える。
また、相手の事情を慮ることになる。
自然と、自分と照らし合わせて考えることにもなる。

問い方一つでも、授業の方向付けが大きく変わると学べた。

2015年12月12日土曜日

道徳 より良い選択をする

前号の続き。
道徳の授業について。

道徳の読み物資料。
文科省の配っている「私たちの道徳」という道徳教育用教材の冊子がある。
ここにたくさん掲載されている。

内容の是非については賛否あるが、要は使い方次第である。
今回の道徳研究会に来て気付いたのは、料理も腕次第ということ。
素材がどうであれ、料理次第で旨くも不味くもなる。
(この辺りについては拙著『やる気スイッチ押してみよう!』でもふれている。
逆に大トロのように、下手に調理せずそのままの方が旨い素材もある。)

ダメな使い方。
それは、価値をそのまま教えるもの。
読み物資料には、かなり露骨に価値が出ている。

昔話に例えると、正直者のじいさんはいい思いをして、意地悪じいさんはひどい目に遭う。
だから、正直がよいのだという論理。
昔話は、お話だから許せるのであって、そこに道徳の授業として持ってくると、おかしなことになる。

道徳的価値は前提としてわかっている。
その上で、ある程度正直に気持ちを言えるようにする必要がある。
登場人物の気持ちは、容易に想像がつく。
自分に置き換えると、つい嘘が出る。

ではどうするか。

私の感じ取ったキーワードは「より良い選択」である。
実際の社会では、道徳的でなくても生きていける面がある。
あいさつだって、しなくたって大丈夫である。
ただ、あいさつをした時としなかった時で、それぞれ違いが出る。

どちらの選択がいいか。
ここを分析的に考える必要がある。
得か損かという小さなことではなく、結果がどう違うかをなるべく深く考えさせる。

そのための問い方がある.
長くなったので次号に続く。

2015年12月8日火曜日

異質の共通項を見出だす

全国の様々な道徳の研究団体が集まる会に出席する機会をいただいた。
そこでの気付きのシェア。

一つ一つの実践報告に対し、様々な意見が出された。
色々な団体が参加しているため、真逆の意見も出る。
助言者がAと言ったのに対し、BやCの方がいいと意見が出る。
実践報告者の方がどれを次回以降取り入れるかは、わからない。

ただ、異なる意見の中にも、共通項は見出だせる。
今回に関して言えば、はっきりとした共通項は
「答えの分かりきった気持ちをきいて、それをこれからこうしますと書いたり言わせたりするのはやめましょう。」
ということだった。

具体例を挙げると、資料を読んで気持ちをきいて、
「仲間はずれはよくないと思いました。私もしないようにします。」
というようにまとめていくことである。
仲間はずれはよくないなんて、小学生なら一年生でも知っていることである。
それでもしてしまうことをどう捉え、考えるか。
そこを掘り下げないと、授業の意味がない。

子どもは、道徳の読み物資料の価値については、わかっている。
先生がどう答えて欲しいか知っている。
だからこそ、そこをなぞっても意味がない。
意味がないどころが、害悪ですらある。
授業を当てっこと捉え、顔色をうかがう子どもを育てることになる。
正解を言うことに価値を見いだす子どもになる。
間違いや異質の意見の排除。
そんなことなら、やらない方がましである。

今回の道徳研究会にしたって、異質な意見があるからこそ面白い。
そこから、真剣に価値を見出だしていくから学びが深まる訳である。

では、具体的にどんなアイデアがあるのか。
次号以降、支障のない範囲で紹介していく。

2015年12月6日日曜日

元気も笑顔も仕事の内

実習生や、二十代の人向けの話。

今日は日曜日の朝で、リラックスしてる人が多いと思う。
これが、某国民的アニメでじゃんけんポンをする頃には、テンションが変わる。
勝っても負けてもあいこでも、テンションダダ落ちである。
月曜日が近付くとついテンションが落ちるというのは、割と普通だと思う。

しかし、元気も笑顔も、仕事の内。
疲れてるから元気がない、笑顔がないというのは、私的な態度であるといえる。
仕事という公的な場においては、個人の気分とは無関係に一定のパフォーマンスが求められる。
例えば観劇の役者が、今日はやる気がしないからといって、適当な演技をしたら観客は怒る。
教師だったら、元気に笑顔で子どもの前に立つのは、大切な仕事の一部である。
そこに給与の一部が支払われているとも考えられる。

だから、あまり残業や夜更かしが常態的に続くのは望ましくない。
疲れた身体に、心からの笑顔は備わらない。
健康管理は、子どものためでもある。
無理をすることが時にあってもいいが、笑顔で子どもの前に立てる余力を計算する必要がある。

これは、適当にやってよいということではない。
繁忙期に頑張るのではなく、計画的に仕事を進めておくことが肝になる。

日曜日にリラックスするのは大切。
しかし、月曜日以降に大変な思いをしそうなら、少し進めておく。
ポイントは「少し」で、例えば午前中だけなど、締め切りを決める。
そうして、午後リラックスする。

「休日も仕事のことを考えるべき」とか、
「休日は完全にリラックスすべき」とか、
どちらがいいかは人によって全然違う。
仕事をした方がエネルギーが湧く気がする人は仕事をすればいい。
休んだ方がエネルギーが湧く気がする人は、休めばいい。
休日に運動したり勉強したりするのも、明日の笑顔につながるかもしれない。

笑顔で子どもの前に立てるよう、休みを有効活用したい。

2015年12月4日金曜日

愛情&自己有用感セットで無敵の子ども

前号でも紹介したが、次の記事が予想以上に好評を博したようである。
↓『なぜ、頭のいい子に限って、家ではダラダラ・ユルユルか?』
http://president.jp/articles/-/16508

この記事で推奨しているのが、抱っこチャージ。
10秒もいらない。
5秒でも、何なら1秒でもいい。
家庭で毎日やって欲しいことナンバーワンである。

現実に、諸事情によりこれが足りていない子どもがいる。
以前、本にも書いたが、乱暴な子どもは家庭環境に問題を抱えていることが多い。
愛情が足りなければ、心に隙間ができ、当然のように荒れる。
愛情面で本当に満たされている子どもが、いじめや暴力をするはずもない。
親の愛情を受けて育つ子どもは、他人にも優しくならざるを得ないからである。

物質面「だけ」偏って満たされていると、比較によって人を見下すようになり、これまた違った形で荒れる。
人を地位や条件で判断するようになる。
だから、子どもには「〇〇するから好き」「〇〇だから好き」ではなく、無条件で「とにかく好き」と伝えることが大切である。

親からの愛情は無条件に与えられるものである。
バランスを考えると、自分が与えるという面が必要になる。

自己有用感である。
誰かの何かの役に立てる感覚である。
だから、家ではお手伝いをさせて欲しい。
あなたがいると助かる、いないと困ると伝えて欲しい。

愛情を受けて、自己有用感があれば、外の社会では無敵である。
文字通り「敵無し」=「味方だらけ」の状態である。
周りが敵に見えなくなる。
人の良いところを見て伝え、助ける人になる。
家での甘えん坊が、外で素晴らしいリーダーに変身する所以である。

以上、全て家庭教育について述べたが、学級経営も大筋は同じである。
まずは、愛情を与える。
そして、役割を与えて、認める。
存在に感謝する。

大人にも必要なことかもしれない。

2015年12月2日水曜日

なぜ、頭のいい子に限って、家ではダラダラ・ユルユルか?

ここ数ヶ月、「プレジデントオンライン」というサイトで、記事をいくつか書かせていただいている。
先月、次の記事がアップされた。
↓『なぜ、頭のいい子に限って、家ではダラダラ・ユルユルか?』
http://president.jp/articles/-/16508

「頭のいい子」という表現は、私は使わず編集者の方の意向だが、アクセスが集まっていることを考えると、関心事のようである。
さすがプロである。
内実は、勉強ができるというより、人格的に素晴らしい子どもを指している。
記事の内容を簡単に言うと、家できちんと愛情チャージをすると、外で安定して活動しますよということである。

しかし、この記事の本当の主張は次の文である。

愛しているなら、思いは伝えても思い通りにしようとしない。
愛しているなら、甘えさせても甘やかさない。

親子間についての記事だが、学校の子どもに対しても原則は同じである。
子どもを教師の思う通り動かそうとしない。
しかし、思いはきちんと伝える。
子どもが自分でできることには、指導をしても極力手を出さない。
しかし、苦しんで助けを必要としている時には、思い切り寄り添って支援をしてあげる。

教育の際の原則的な心構えであると思う。
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