2017年7月31日月曜日

授業者が一番得をする理由

アインシュタインの名言。
「問題を生み出した時と同じ考え方では、
その問題を解決することはできない。」

全くその通りである。

公開研究会で授業を行った。
自分としては問題意識をもって臨んだ。
子どもが自ら運動の楽しさを追求していく体育学習はどうあるべきか。
その方策として「サンドイッチ型学習」を用いた授業展開を行った。

「はじめにバレーボールありき」という従来の発想でなく、自分たちでルールから作っていきたいという思いである。
ルールが、ゲームを楽しむために存在するということを発見的に学んで欲しかったのである。

しかし、どんなにがんばっても、参観者の視点の方が鋭い。
それは、問題を外から客観的に分析できるからである。
その人の置かれている環境から見られるからである。
どうがんばっても、授業者は参観者の数の分の視点を、すべて想像して見ることはできない。
だから「授業をやった人が一番得する」のである。
有難い限りである。

頂いた視点をもとに、今日から新たな考え方で問題解決に当たっていきたい。

2017年7月29日土曜日

大丈夫な私

少し前の話になるが、自分自身への気付き。

以前、6年生を送る会で、「送る側」の5年生が劇をした。
この5年生は、4年生の時に私が担任していた子どもたちである。
私を含めた6年生の全担任の役があり、台詞や動きがそれぞれの特徴を捉えていて面白かった。

ちなみに私を演じた子どもの台詞は両腕の力こぶを作るポーズで「大丈夫、大丈夫!」である。
そう、全く根拠のない「大丈夫」。
無駄にポジティブ。
冬はまだしも、夏場はちょっと暑苦しい。
イメージが、「とにかく、大丈夫」なのである。

何度も言っているが、学校には、色々なタイプの教師がいた方がいい。
私のようにポジタイプの教師は、子どもからすると、励ましてくれる分にはいいが、時に心配でもある。
また、校外学習の下見のような場合は、注意深く心配性の人がいた方がいい。
トイレの心配や交通安全、緊急事態への配慮は、「もしも」「万が一」「最悪の事態」を豊かに想像できる人の方が向いている。
私のように「大丈夫、大丈夫!」といって準備を怠ると、大丈夫ではない事態になる。
何事も、多様性とバランスである。

話を元に戻す。
今の教育を続けていると、将来的に、子どもにどんな演技をされるか。
自分を理解する上で、一つ有効な視点である。

2017年7月27日木曜日

スペースを埋めない

7月29日、高校サッカーインターハイが開催される。
私も高校時代、燃えていたので、どこが出るのかとかは気になる。

さて、サッカーでは、ポジショニングが大切である。
それぞれの選手がその瞬間にどこにいるか、ということが次のプレーを左右する。

ポジショニングの上で大切なことの一つが「味方のスペースを埋めない」ということである。
味方の誰かがそこに突っ立っていると、他の仲間がそのスペースに走り込めない。
逆に、自分が埋めているスペースは、自分で責任をもつ必要が出る。

原則として、フォワードは味方のディフェンスラインまで下がる必要はない。
時に下がってもいいが、全力で元のポジションに戻る必要が出るので、やたらに下がると貴重な体力の浪費につながる。
自分が無理に下がってボールを奪い取るより、ディフェンスという本来のポジションの仲間を信頼して任せる。
自分は「得点を取る」というフォワードの本来の役割を果たすこと。
それがチームに貢献することになる。

このポジショニングの考え方は、仕事の上でも大切である。
誰かが埋めているスペースには、入れない。
その分、自分のスペースの仕事は自分で責任をもつ。
時に自分のポジションにカバーに入ってもらうことがある。
逆もある。
それが役割を越えたチームプレーである。
あくまで、自分のスペースは自分で確保した上での話である。

学級に当てはめてみる。
教師は、大人なので、動ける範囲が広い。
そして基本的には「プレーヤー」ではなく、「監督」のポジションである。
しかし、試合中なのにフィールドに出てしまって、自分でゴールまで決めてしまうことがある。
その時、選手も観客も「どっちらけ」である。

クラス会議をやると、このさじ加減が難しい。
今は監督として指示を出すところなのか、プレーヤー(子ども)が悪戦苦闘しているのを見守るところなのか。
自分が出たら一番てっとり早いのだが、それは本来子どもが走り込めるはずのスペースを埋めることになる。

何でもやってあげる一見「親切」な先生は、この辺りが落とし穴である。
子どものプレースペースを埋めていないか。
時々自分のポジショニングを確認できる視点をもちたい。

2017年7月25日火曜日

子どもの眼・子どもの心

夏の読書に、次の本を紹介する。

『一年一組せんせいあのね―詩とカメラの学級ドキュメント』
鹿島 和夫 編 フォア文庫
https://www.amazon.co.jp/dp/4652039077

35年以上前の本だが、今の教育で欠けている視点が手に入る良書である。
まっすぐな子どもの視点が本当に素敵な詩集である。

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でんでんむし
    やまとなおみ

でんでんむしが
あめにむかって
のぼっていきました


せんせい
  いいお つた

わたしのせんせいは
てつぼうを
10かいさせます
せんせいは
いっかいもやりません
========

一年生でも、色々考えているものである。
そして、35年以上前でも、今でも、子どもは子どもで変わらない。
変わっているとしたら、それは社会全体を含めた教育の影響である。

前半は子どもの詩、後半は灰谷健次郎氏との対談が載せられている。
その中で、灰谷氏が厳しい指摘をしている。
=========
(引用開始)
子どもの優しさっていうものが通らない社会、
子どもの楽天性が通らない社会を、
われわれが作ったんだということ。
そのためにほんとうに優しい子どもが苦しんでいるんだということを、
ぼくたちは本気で考えなくちゃいけないんじゃないか。
(引用終了)
===========
35年たった今でも、言えそうな言葉である。
「ほんとうに優しい子ども」が、辛酸をなめさせれらる。
子どもらしいがゆえに、苦しんでいる子どもがいる。

純粋に児童詩集としてみても楽しめる。
その一方で、何かと考えさせられる、おすすめの本である。

2017年7月23日日曜日

『おじいちゃんのノート』

司書の方からおすすめしていただいた本。

『おじいちゃんのノート』
中村輝雄著 セブン&アイ出発

世界初の水平開きノートの開発ストーリーである。
次の言葉がささった。

(引用開始)
仕事ってのはな、どんだけ頭下げたって、もらえないこともあるんだ。
いや、それがあたりまえなんだ。
だから、たとえ名刺一枚だろうと、いただいた仕事はありがたいと思わなくちゃいけない。
それをお前、100枚ぽっちだなんて言ったら、バチが当たるよ。
(引用終了)

100枚というのは、著者の父親がずっと懇意にしている方の名刺の注文のことである。
相手が大会社か個人か、大きな仕事か小さな仕事かということではない。
どんな仕事も有り難く感謝して受けるということである。
特に、順境の時ほど、忘れがちなことである。

そろそろ教員採用試験の時期である。
思えば、この仕事がしたくて試験を受けてまでなった仕事である。
目の前に仕事があること、やるべきことが与えられていることに、改めて感謝の念を思い起こしたい。

2017年7月21日金曜日

オレオレ病

作家であり心理学者でもある、早稲田大学名誉教授の加藤諦三先生の言葉。
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他人のために何かをしてあげれば、
大抵の自分の悩みはたちどころに消える。
================
大学生の頃、教育心理学を専攻していたこともあり、加藤諦三先生の著書はかなりたくさん読んでいる。
読むと視点が変わり、心が落ち着く本が多く、おすすめである。

冒頭に紹介したこの言葉は、ボランティアにも当てはまる。
悩んでいる人ほど、ボランティアは効果てきめんである。
被災地に行けば、自分の悩みがいかに小さいか思い知らされる。
そういう意味でも「被災地に学ぶ会」なのである。

学級でも当てはまる。
大抵、小さなことで怒ったり悩んだりする子どもは、自分のことばかり考えている。
すべてが「自分が自分が」なので、自分を尊重してくれないことに腹を立てたり落ち込んだりする。
これを「オレオレ病」という。
私のオリジナル言葉にしたかったが、残念ながら何十年前から使われている用語である。

これが大人だと、周りから「めんどくさい人」扱いとなる。
会社とそのメンバーは、自分を中心に存在してはくれない。
自分が、会社とそのメンバーのために存在するのである。
それが嫌なら、大人なんだから自分が変わるかその会社を辞めるしかない。

例えば、テストの点を周りと比べて一喜一憂しているようではダメである。
それは、自分のことを自分でやったかどうかだけ。
テストの点が100点だろうが0点だろうが、周りへの貢献度はない。
あくまで、自分にとっての価値である。
喜びも悔しさも自分の中でかみしめれば良い。

授業中に、仲間に教えてあげたり補助してあげたりしたなら別。
これは、周りへの貢献度がある。
周りへの価値がある。
称賛される行為である。

社会に出た時、自分のことが自分でできるというのは、最低要件である。
社会で、会社で重宝されるのは、周りへの貢献度の高い人である。

子どもを、どういう大人に育てたいのか。
そう考えると、清掃指導一つとっても、教育観が出る。

それには、大人の側が「観を磨く」のがより大切である。
あらゆるボランティアへの参加は、それを考える良い機会になる。

2017年7月19日水曜日

被災地と一言でいっても

被災地からの学びの続き。

東北の各地は「被災地」と一言では括れない多様さがある。
津波の直接的被害を受けた方々と、福島の原発問題に絡む被害を受けた方々は、苦しみの種類が別である。

例えば、本メルマガ読者の方に教えていただいた次の本には、岩手の方々の苦しみが綴られている。

教育を紡ぐ――大槌町 震災から新たな学校創造への歩み https://www.amazon.co.jp/dp/475033975X/ref=cm_sw_r_cp_apap_67kmghxDBaBwF

途中が苦しすぎてなかなか読み進められないが、読むだけでもこの苦しみは想像を絶することが感じられる。
人の生死が直接的に関わる。
生きていること自体がいかに恵まれているかも、思い知らせてくれる。

一方で、福島の放射線による避難区域の人々の苦しみはまた違う。
生きているし、土地もそこにあるが、帰れない。
不当な扱いを受けることもある。
生きている上での苦しみである。
震災後の自殺率が一番高いのが、福島だという。
自然というより、人的被害が大きい。

いずれの地域も、物心両面でのケア、支援が必要なのは同様である。
しかし、そのアプローチや支援の仕方は、かなり異なる。

肉体労働だけで助かる人もいる。
肉体労働では助けにならない人もいる。
今回の「被災地に学ぶ会」の参加者の中には、教育面で被災地の子どもへの支援をしている人もいた。
お金で支援してくれている人もいた。

できる時に、できる人が、できることをする。
今、ここ、自分ができることは何か。
やれることは、やっていきたい。

2017年7月17日月曜日

日本の誇る「福島」周辺の土地の美しさ

福島を「被災地」という面だけ切り取って思ってみると、痛々しい。
しかし、純粋に一つの場として見た時、とても素敵な場所である。

「被災地に学ぶ会」では、作業を開始する前に、必ず全員で黙祷を捧げる。
その時、聞こえてくるのは、風の音、川の音、ウグイスの鳴き声である。
山々に響き渡る、美しい音や声である。

見回すと、空も緑も山々も本当に美しい。
相馬小高神社へ向かう道を自転車で走れば、川がらきらと光を照り返して流れている。
神社の木も大変に立派で、神々しさが感じられる。
ここの神社では、毎年7月下旬(2017年は7月29日~31日)に「相馬野馬追(そうまのまおい)」という、馬で馬を追う伝統行事が行われる。
中日の30日には、大迫力の甲冑を着た騎馬武者たちのレースが見られるという。
平将門の時代から、1000年の歴史を誇る、「相馬」の地の名に相応しい行事である。
相馬復活に向けた原動力として、盛会になることを願っている。

思えば、「被災地」となるまでは、元々美しい土地として誇っていた場所である。
桃の産地としても有名で、わざわざ福島産を選んで買っていたぐらいである。
すぐ南の県の茨城県水戸市にも、日本三大庭園である偕楽園がある。
北には、牡蠣の産地として有名な三陸海岸もある。
あの海岸線沿いの土地は、元々がどれも美しい土地なのである。

今、被災地に足りないのは、若いエネルギーである。
若いエネルギーが注がれれば、元の美しさを取り戻せる。
高齢の方々だけでは、成り立たない。
ただでさえ限界集落が多い中、正直厳しい面があるとは思うが、若者が土地に根付く環境が必要である。
そのために、福島だけでなく岩手や宮城などでも、NPO法人を立ち上げている人たちがいる。
復興に向けた動きは、確実に進んでいると感じた。

歩み始めたことと、ボランティアが必要なことは、同義である。
ボランティアセンターや各NPO法人など、金銭面での支援も大歓迎だという。
できる人ができる時にできることをする。

「自分」の範囲はどこまでか。
家族までだろうか。
同学年の同僚までだろうか。
職場全体までだろうか。
町か。
県か。
「関東」というような地域か。
日本か。
一番大きいと「世界」か。
どれにしても「自分」が所属しているのだから、無理なく、何かやれることをやれたらいいと思う。

2020年の東京オリンピック開催時に、福島を訪れる外国の方もいるのではないかと思う。
世界に「おもてなし」の国として認識された日本の美しさを誇るためにも、被災地への支援は続けていきたい。

2017年7月16日日曜日

みんなでやれば、できる。

前回の続き。

今回も鍵山秀三郎先生ご提供の美味しいお弁当をいただき、午後の作業へ。
次は、田んぼの側溝掘り&草刈りである。
現地に行ってみると、完全に埋まっていて、どこが側溝なのかさっぱりわからない状態。
数十mということだが、水が流れないで溜まっているために土地も沼のようになっており、作業は難しそうである。
加えて、震災前からある長い小屋が邪魔で、人が入っての作業スペースの確保も困難。
機械ではできず、人の手を借りてしかできない仕事である。

とにかく、探しながら掘ってみることにした。
この泥が、思いの外、重い。
本来流れるはずの水をたっぷり含んでいる。
そのせいで足場が悪い上に、植物の根がばっちり絡んで、スコップが入らない&持ち上がらない。
とにかく腰が痛い。
土手を押さえていたはずのネットも倒れて絡んでいる。
おまけに、濁った水を含んだ、独特の臭いがあり、三重苦、四重苦である。
一緒にやっていた会の主催者の村田先生も「これは、今回少しでも進めて、次の団体にリレーかな・・・」とのこと。
私もひいひい言いながら作業を進めつつ、「これは、今日中には終わらんな・・・」と半ば諦めかけていた。
しかし、「とにかく、今、できることをする」と念じつつ、ひたすら続けた。

すると、ちょうど「これは無理だぁ~」とかぶつくさ言いかけてきた時に、依頼主の方が様子を見にきてくださった。
今日ボランティアに入ってもらえると思っていなかったらしく、急いで駆けつけてくれたようである。
俄然、やる気が出る。
みんなでがんがん進めていったら、何か終わりそうな雰囲気が出てきた。
両側から掘り進めてきた側溝の道が、合流するのが見えてきた。
そして、道がつながった。
水が「ザア~~~」と音を立てて流れる。
みんな、満面の笑みである。
依頼主の方も、とても喜んだ表情を見せてくださった。

依頼主さんの感謝の言葉とともに、差し入れの飲み物をいただく。
とにかく道をつなげたくて、ひたすら作業をしていたため、喉がカラカラである。
(というより、手も顔も泥まみれで、作業途中で飲めない状態だった。)
葡萄ジュースを選んで、真っ青な空を仰いで一気に飲んだ。
最高にうまい。
耳を澄ますと、水の流れる音が聞こえる。
やった甲斐があるというものである。

今回、一番の学んだこと。
それは、無理だと思う状況、先が見えない状況でも、「みんなで力を合わせると、できる」ということ。
その「みんな」が集まるには、核となる部分に正しい志があること。
たった一人の正しい行為には、自然と多くの「フォロワー」がつく。

無理だとか言ってる暇があったら、体を動かして、少しでも前に進めること。
できた時の達成感は、次へのエネルギーになる。
まだまだあるが、そんなことを感じた次第である。

結局、人様のためにやっていたはずのことが、すべて自分のためになる。
前回述べたように、人間の遺伝子は利他的で利己的、利己的で利他的である。

主催者の村田先生は、小さく会を立ち上げて、結果的に数百人もの仲間を巻き込んできた。
被災地の方だけでなく、助ける側にとっても、生きる希望になっている。
影響の輪で言えば、数千人規模である。
そして、帰りのバスの中で、仲間と今日のことについて語り合う姿が、本当に嬉しそうである。
利他的な行為が、結局自分自身にも返っている。

被災地の復興は、先が見えない。
しかし、見えなくても多くの人の手で少しずつ進めれば、確実に見える時が来る。
私の大好きな、上杉鷹山の次の言葉で今号を締める。
「為せば成る 為さねば成らぬ何事も 成らぬは人の為さぬなりけり」
「被災地に学ぶ会」で自分ができることは本当に少ないが、この会がある限り、これからもここで学び続けたい。

2017年7月15日土曜日

ボランティアも、明るくやる

「まぐまぐニュース」で三回に渡って紹介された記事を掲載する。
http://www.mag2.com/p/news/251994

「被災地に学ぶ会」に参加してきた。
今回も、学んだことは広げるという会の使命のもと、レポートする。
レポートなのでいつものメルマガに比べやや長いがご容赦いただきたい。

今回も、場所は南相馬。
2ヶ月前は、一部地域に避難勧告が解除されたばかりの頃で、まだ戻ってきている人は少なかった。
その頃に比べて、全体的に良くなってきている印象である。
崩れていた建物がきれいに直されていたり、すれ違う車が増えたり、住民の方々の姿もちらほら見えたりした。

ここがポイントなのだが
「じゃあ、良くなってきたらからボランティアはもう大丈夫ね」
となりがちだが、これが真逆である。
住民が戻り始めたということは、「人手がより必要」ということである。
つまり、助けて欲しい人が増えたということである。

事実、ボランティアセンターへの依頼は、増えることはあっても減ることがないという。
ボランティアセンターは基本的に無償のため、依頼が増えれば触れるほど経営が大変である。
そこに加えて、被災地へのボランティアの数はここ最近ますます減っているという。
需要が増えてきているのに供給が追いつかないのである。
「できる時に できる人が できることをする」
が合い言葉なので、少しの気持ちがおありの方は、一度でいいから被災地に足を運んでいただきたい。

ボランティアの実務の内容は多岐にわたる。
個人宅のことが多いが、神社やお寺といった文化財に関わることもある。
引っ越しの手伝いや敷地整理が多い。
以前から何度かレポートしているが、敷地の「竹」をどうにかしてくれというのはすごく多くて、かつ手強い。

どれも、大型の機械ではできず、行政からは支援がもらえず、ボランティアに頼るしかない仕事ばかりである。
特別な技術者のいる団体には、大きな木を切る依頼がくることもある。
今回我々の団体は大学生が過半数で、他団体に比べてかなりパワーのある集団となっていた。

今回は午前と午後で2件の依頼をこなし、草刈りと側溝の泥のかき出しをしてきた。

まず1件目は個人宅の草刈り。
夏らしく、草が伸び放題で足下が全く見えず、密林状態である。
かなりの広さがある上、大きな石やブロック、井戸のようなものの後や切り株などが多数あり、機械を使って草刈りをするには危険である。
各々が草刈り機をもち、慎重にやっていった。
(こういう時、学校の教職員は強い。
 学校での夏の奉仕作業といえば、草刈り機。
 手慣れたものである。)

広い土地だったが、15人で協力したらあっという間に終わった。
掘り返した木の根元から生きたセミの幼虫が見つかり、妙にはしゃいでしまう40前のおっさんの私。
(この子、出てきた時に切り株じゃどっちにしろ残念だったろうなぁ)
と思いつつ、土の中に返した。

大学生&中学生のペアは、手強い木の根を引っこ抜こうと、ひたすらがんばっていた。
周りの大学生たちも加わり「おおきなかぶ」状態。
十数分の格闘の末、やっと引っこ抜けて、大歓声&記念撮影。
妙な連帯感である。
「被災地のボランティア」だからといって、必ずしも悲壮感を漂わせながらやる必要はない。
少しでも明るく、楽しみを見つけながらやって、続けていけることの方が大切である。
(無論、被災地の皆様への配慮は大切である。前向きにやるということである。)

2017年7月13日木曜日

利他の遺伝子をオンにする

先月もまた「被災地に学ぶ会」に参加させていただいた。
今回も福島県の南相馬市である。

遺伝子工学の第一人者である、筑波大学名誉教授の村上和雄には
「人間には、利他の遺伝子がある」という。
人間の細胞そのものが、相互共存しようとする遺伝子によって成立している。
一方で、遺伝子は利己的でもあるという。
利己的で利他的。
一見、相反する要素をバランス良く備えているという。

ボランティア活動とは、「やらせていただく」ものである。
人様のために自分の力を少しでも提供させていただく。
最初は「やってあげる」つもりでも、自然と抱く感覚である。

大きな団体でも、最近被災地支援を打ち切ったという話をきく。
主な理由は「もう十分に復興した」という誤解である。
大きな誤解である。
まだ全く復興に至っていない。
荒れ果てて、人が帰って来られない状況なのである。
ひどいところは、手つかずである。

また、どんなにやっても終わらない、本当に自分が役立っているのか疑問になる、というのもあるかもしれない。
ボランティアの活動は、あまりにも地味で地道である。
「牛歩」「泥臭い」という言葉がぴったりである。
何なら、出先で怒られることもある。
割に合わないと思う人がいるのも、至極当然である。

それでも、やれることを少しずつ積み重ねていくしかない。
終わりが見えなくても、立ち止まっていたら、いつまでも辿り着かないと思う。
そして一人の一歩より、多くの人の一歩の方がいい。

だまされたと思って、一度参加して欲しいと願う次第である。
人間には利他の遺伝子があるのだから、確実に何か得るものがある。
結局は自分のためだと思って参加してもらっても構わないと思う。

「被災地に学ぶ会」の村田先生は、震災の年からこの活動を続けている。
「そして今後10年は続けるつもり」という。
参加チャンスはまだいくらでもある。
興味がおありの方は、いつでもご連絡いただきたい。

2017年7月11日火曜日

相手によって対応を変える

一般に「差別」はよくないと言われる。
人種差別しかり、男女差別しかり。
不当な差別はいけない。

しかし、これを拡大解釈して、何でも同じように扱うこと、と捉えると間違える。
誰に対しても、何に対しても同じ対応でいいはずがない。
以前にもこの例を出したが、すべてに金槌ではダメなのである。
(アブラハム・マズローの言葉「ハンマーを持つ人には、すべてが釘に見える。」)
釘を叩くには金槌、太鼓を叩くにはばち、肩を叩くには手である。
全部金槌でいかれたら、とんでもないことになる。

幼い子どもとそうでない相手と対応が同じはずがない。
そして何よりも優先されるのは、個人差への対応である。

同じように伝えても、伝わり方は千差万別である。
だから「言ったでしょ」は通用しない。
(この言葉は、何でもてきぱきやる人に多い言葉である。)
言われた側からすれば「あんたが勝手に言っただけ」である。
言えばわかるなら苦労はない。
言ってわかる子どもは、聴覚情報優位の子どもだけで、全体の3割程度である。
視覚優位の子どもが最も多く、書いた方がわかる子どもの方が多い。
身体感覚優位の子どもは、見せたり聞かせたりするより、やらせた方がわかるということもある。
相手によって、対応は変えるべきである。
金槌の話と同じである。

一方で、相手によって変えない点が一点だけある。
人格の尊重である。
幼子でも人格は尊重すべき。
その点において、子どもより大人の方が上ということはない。
上司より部下の方が上ということもない。
この点を履き違えると、尊大になり、あらゆる人に嫌われることとなる。

時々、友達口調の店員さんやセールスマンがいたりするが、これも場合によって正解だし、場合によっては間違いである。
初見のお客さんに対し「いいっすよね?」は、ない。
子ども時代から「平等」「自由」の名のもと、言葉づかいを正されなかった教育の結果かもしれない。
そう考えると、公的な場で大人に対する言葉遣いを教えるのは、親と学校の両者の責任である。

総じて「素晴らしい」と言われる人たちは腰が低い。
「実るほど頭を垂れる稲穂かな」の句の通りである。

その方法は、目の前の子どもに適合しているのか。
常に自問するようにしたい。

2017年7月9日日曜日

結果を価値付ける

休日ということでやや長文。
運動会が終わった時に書いた記事。

陸上等の大会関係でも毎回同じようなことを言うが、結果の取り扱いが重要である。
特に、勝った場合(望む結果が得られた場合)こそ要注意。
結果の価値付けに失敗すると、傲慢になったり「ロス」状態になったりする。

結果への価値付けは、日常の授業や生活からして行う。
例えば、テストで100点をとったとする。
100点であることを褒める。
すると、100点そのものに価値を見出す。
積み重なると、100点以外に価値はないと思うようになる。
結果、100点でない時に無駄に嘆いたり、他者に対し下に見たりするようになる。
100点をとらないとダメな子だと思われるという変なプレッシャーを抱くこともある。
100点を取るために、カンニング等の不正すら用いるようになる。
競争心が良くない方向にはたらく。

100点をとったら、その過程を褒める、というより、認める。
とりあえず「おめでとう」を言ったら、その後の過程を価値付ける。
「普段からよく練習したからだね。」
「〇〇さんがよく教えてくれて、それを素直に受けた結果が出たね。」
「前回の反省を生かしたからだね。」
何でもいいが、とにかく結果でなく、過程に価値付けをする。
そうすると、100点でなくても成長につなげられる。

例えば、多数が立候補して何とか応援団やリレーの選手に選ばれたとする。
良かったね、おめでとうで済まさない。
なったからには、教えるべきは、責任感と感謝である。
人に教える立場になる以上、相手の数倍がんばる責任が課される。
その場合、普段どんなにだらだらだろうが、それは許されない。
一緒にがんばる仲間や、ついてきてくれるみんなへの感謝も忘れさせない。
選ばれたという結果以上に、選ばれてからの方が大変なのだと自覚させる。
「勝てば官軍」のような態度を諭していく。

結果への価値付けは、技術である。
知らないとできない。
人間は、野放図の、自然のままでは、望ましい方向に行かない。
(または、望ましくないように方向づけられている可能性がある。)

小さい頃は、「あんよが上手」で構わない。
子どもにとって、できるようになること以上に、それを見てくれているということ自体が喜びである。
しかし、「〇〇ができるからすごい」をいつまでも続けていると、そういう価値観を植え付けることになる。
できるからすごいのではなく、子どものがんばりそのもの、存在、行為そのものを普段から認める。
だからこそ、結果がうまくいったら「おめでとう」だし、うまくいかなくても「がんばったね」といえる。

この「できる」「成功する」への親の盲目的価値付けは、我が子が幼い頃から見てとれる。
我が子がなかなか歩くようにならなくて、または喋るようにならなくて、不安になる親は多い。
(気持ちは痛いほどわかる。何か実は問題を抱えているのではないかと、不安になる。)
逆に、少し早く何かができる我が子に、得意になる親も多い。
ただ両者とも、比較対象は「他人」である。
その子自身ではない。
大体、多様なはずの人間が、みんな一律に同じように成長したら気持ち悪い。
兄弟すら全く異なる成長曲線を描く。
しかし、頭ではわかっていても、比べてしまうのが親心である。

そんな時でも、我が子のがんばりを見てとれるか。
遅いなりにがんばる我が子を、認めるのは忍耐がいる。
「認」=「言」を「忍」ぶことである。
つい望む結果を求めてしまう我が口を、どう使うかである。

学級担任でも同様。
つい結果の方を望んでしまう。
しかも、多様な目の前の一人一人に、一律な結果を。
教育内容の達成目標があるからとはいえ、同じアプローチで同じ結果を求められるはずがない。
運動会の競技一つとったって、苦手な子どももその子なりにがんばっているのである。
どんな結果でも、認めてあげたい。

登山は、登る時ではなく、下りる時に事故が起きるという。
良い結果が出た時こそ、取り扱いに注意する。
望む結果に至らなかった時こそ、成長の糧にする。

結果への望ましい価値付けは、大人が子どもにしてあげられる最高のプレゼントである。

2017年7月7日金曜日

七夕と助けて力

七夕と学級経営に関連する話。

「助けて力」ということをずっと前に書いた。
(ブログ記事参照 http://hide-m-hyde.blogspot.jp/2015/12/blog-post_27.html)

願いを口に出せるというのは大切な力である。
「助けて」と周りに伝える力があれば、大抵の問題は解決する。
もっと具体的に「〇〇を助けて欲しい」と言えたら、完璧である。

例えば、授業。
わからない、できないと言った時に、これが言えるかどうか。
教える側としても最も難しいのが、子どもが一体何によって困っているのか見極めるところである。

例えば、いじめ問題。
何が原因で、誰がやっていて、どんな助けを求めているかわかれば、大抵解決する。
やられている本人が我慢して周りに言えないことで、悩みがより深くなる。
真面目な子どもほど「自分が悪いのかも」「迷惑や心配をかけてはいけない」と自分を責めて「助けて」と言えない。

日常的に、迷惑や心配など、どんどんかければいいと教える必要がある。
「お互い様」の精神を、授業でも生活でも当たり前にしていく必要がある。

何かを始めるにも、資金集めにクラウドファンディングが当たり前の時代。
「助けて」といえば、助けてくれる人は世界中にいる。
そういうことを、もっともっと教えていく必要がある。

七夕は、天に願いを書く。
神頼みのようでいて、ちゃんと周りの人が読んでいる。
その願いを知った周りの人が、応援してくれる可能性が高まる。

お願いをする力、助けて力を高める意味でも、願いを紙に書くことは大切である。

2017年7月5日水曜日

バカになれるか

今年度も、応援団の指導担当をした。
(指導したといっても、9割方見ていただけである。)
団長が中心となってまとめて、頼もしい限りである。

団長の子どもが、メンバーにどう応援をやるか教えている場面。
応援団が教えても、他の子どもがなかなか「ノって」くれないという悩みがある。
それに対し、次の言葉を黒板に書いて教えていた。

「バカになる」

どういうことか。

以下、少し長いが、過去の記事の引用。
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(引用開始)
「指導とは、ちょっとの無理をさせ続けること。」
例の如く、野口芳宏先生の言葉である。
指導とは、まさにここにあると思う。
現状維持は楽。
負荷をかけ続けて少し無理させるから伸びる。

極端なことを言うと、普通にできることは指導する意味がない。
わざわざ導かなくてもできる。
下のレベルだけに合わせると、ほとんどの子どもにとって意味のない指導になる。
「底上げ」というのなら、底の上にある全部を上げないといけない。
上のレベルを基本にして、下まで含めて全体を引っ張り上げるのが指導である。

例えば、日直のスピーチ。
自分の普段通りのしゃべり方で話していては、よく聞こえない。
教室で全体に向かって話すのだから、無理が必要である。
(野口氏はこれを「公的話法」という言葉で教えている。)
「不自然でよい」のである。
自然ではいけない。
無理をするから、伸びるのである。

応援での声がよく出ない子どもは、無理できてないのである。
普通に出そうとしている。
応援などは「パフォーマンス」なのだから、演技が必要だ。
これは意外と難しい。
教師が前に立ってオーバーに演技することで、殻が破れることもある。
相手に少し無理を強いるのだから、教師はその倍は無理をする。

応援係はここが最重要になる。
全校の前で手本として立つのだから、恥ずかしがったりしていてはアウト。
応援団長が自ら「バカ」になって大げさにパフォーマンスをする必要がある。
山口の福山憲市先生の言葉だが「バカ」が大切である。
「バカ」の読み方は「馬力(ばりき)」であり、「心力」である。(「バ」の字を崩して「心」に変化させる。)
エネルギーと心がないとできない。
これを、団長ができるようになるために、先に教師が応援係への指導でやる。
教師が「バカ」になって、まず応援係にエネルギーを入れる。
応援係全員がこの「バカ」になれれば、ものすごい力を発揮する。

自分のキャラとかはあるが、そこは置いておく。
それは「自然」であるが、殻を破れない。
まずは、教師が無理をしてでもバカになる。
自分が無理をしてから、初めて子どもにも無理を求めることができる。
指導全般の鉄則である。

(引用終了)
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こういうことを、今年度もちょろっと教えた気がする。
すると、本当に賢い子どもは、教えをあっという間に使いこなしてしまう。
「バカ」を演じられるのは、賢い証拠である。
明石家さんまのような人気お笑い芸人など、その顕著な例であると思う。
サービス精神は、相手の気持ちを読み取る知性があるからこそ発揮できるのである。

バカになる。
良い言葉と悪い言葉というのは存在しない。
そこに、どんな解釈がなされるかである。

自分自身も、思いっきりバカをやれる知性をもちたい。

2017年7月4日火曜日

大縄の回し方は「知っている」かどうか

中学校の運動会を見にいくと、例年、どこに行っても「大縄」(30人程度の一斉跳び)をやっているところが多い。
団結がポイントになる、一斉にできるなど、種目として適当なのだろう。

だからこそ、回し方が結構気になる。
どうしても、振り回す形になっている。
それが、大縄の「常識」になっているからである。
相当やりこんだ経験がある人でないと、多分知らない。
当たり前で、中学校が多忙なこの時期に、大縄にそれほど打ち込む環境はない。
引いて張る「びゅんびゅんごまの原理」を用いれば、より楽になる。
多分、中学生なら、一回教えるだけで使いこなすはずである。
現に、私の友人は、その方法を知って生徒に伝え、短期間で記録を大幅に伸ばしたようである。
別に記録が伸びようが伸びまいがどっちでもいいのだが、単純に、楽に連続で跳べた方が楽しいと思う。

ちなみに昨年度、縦割りの交流集会で、合同で大縄レクをやったことがあった。
事前指導なし、1回こっきりのレクである。
そこで、あまりにすぐ引っかかるので、回し手の子どもをちょこっと指導してみた。
途端に、きれいに回すようになった。
やはり、導入の指導はあった方がよいと思った。
(本当は、他の子どもにも教えたかったが、出しゃばるのもと思い、遠慮してしまった次第である。)

単に、知っているかどうかである。
知識や技術は積み上げなのだから、ある程度知っておくことは価値がある。
もしこれから運動会で「大縄」か「8の字」がある方がいたら、レポートを一読しておいて欲しいと思う。

2017年7月3日月曜日

応援団指導の「根本・本質・原点」

競争と応援団の話。
運動会の時期に書いた記事。

応援団の本質は、あくまで、周りを輝かせようと努力すること。
それが、結果的に自分の輝きになる。

どこの国の諺だか忘れたが
「花を相手に手渡す時、必ず自分の手にも香りが残る」というような内容のものがある。
人にいいことをしてあげようとすると、どうやっても自分に返ってきてしまう。
恐ろしいことに、逆も真である。
人を出し抜こうとすれば、必ず他人に出し抜かれる。
悪口を言えば、悪口を言われる。
当たり前である。

応援係は、何をすべきか。
どうすればみんながもっと元気に楽しくやれるか考えること。
指導者の側なら、どうすれば目の前の子どもがもっと元気に楽しくやれるか考えること。
自分のことばかりを考えていては、うまくいかないのは当たり前である。

自分たちで応援を作らせるためには、ある程度心構えだけ教えたら、後は任せる。
指導者は、つい細かく口出ししたくなるが、基本はこらえる。
子どもの成長が第一の場である。

応援団指導の「根本・本質・原点」を、日常でも忘れないようにしたい。
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