学級経営を経済の視点から考える。
今回も、以前に紹介した次の本からの考察である。
『サピエンス全史 下 文明の構造と人類の幸福』
ユヴァル・ノア・ハラリ 著 柴田裕之 訳
http://www.kawade.co.jp/np/isbn/9784309226729/
この本の中に、自由市場と政治に関する記述がある。
自由市場が政府の経済政策に対して与える最も賢明な助言は「何もするな」。
一方で、市場は、詐欺、盗難、暴力から自力で身を守れない。
市場を守ってくれる法を執行し維持するのは政治である。
この関係が崩れると、バブルとその崩壊や、大恐慌を引き起こすということである。
具体例を考えてみる。
今、個人がネットで自由に売買できる。
ここでワンクリック詐欺や身に覚えのない法外な請求等に怯えないで済む理由は、ネットに関する法律がきちんとあるからである。
(一方で、法の網の目をくぐり抜けるあらゆる不正取引も存在する。)
学級経営においても、この原理は応用して考えられる。
子どもが自ら伸びようとしている時、親や教師に対する子どもの要求は「余計な手や口を出さないで」である。
大人は、自分が正解を知っていると思って、教えすぎるのである。
一方で、手出し口出しを全くしないでいいかというと、それも違う。
際限のない自由は、無法地帯になる。
子どもはいじめや暴力、あらゆる理不尽から、自力だけでは身を守れない。
教師はルールや道徳という形で規律を与え、自由な子ども集団へ適切に規制をきかせていく。
このバランスがうまくいっている学級は、少なくとも崩壊はしない。
「自由」は、世間における人気キーワードである。
「自由な教室」「自由な先生」。
もう、語感だけで圧勝である。
一方「義務」や「規律」「責任」は、不人気キーワードである。
「規律の教室」「規律の先生」。
もう、語感だけで、完敗である。
これが、そもそも間違っている。
どちらか一方だけで成り立つことはない。
本来は、「自由で規律のある教室」「自由で規律のある先生」。
一見意味がわからないようで、これが現実に成立する。
現実には、多くはどちらかに少し傾いたまま成立している。
「自由な教室」においては、「何をしても許される」とする。
つまり、暴力やいじめもOKである。
学習指導要領に定められた内容を無視してもOK、授業を無視して自分の受験科目の勉強をしていてもOKである。
それがダメなら、やはり「自由で規律のある教室」である。
(実際、これに近い形の教室は、存在する。)
「規律の教室」においては、「何をするにも許可がいる」とする。
つまり、トイレに行くにも遊びに行くにも、あらゆる判断に他人の許可がいる。
発言するにも字を書くにも許可がいり、自分の将来の進路を決めるのにも許可がいる。
いちいち対応するので、親や担任は常にピリピリすることになる。
(実際、これに近い形の教室は、存在する。)
自分の学級において、どちらかの比率だけが高すぎないか。
考えてみると、学級経営の打開策が見つかるかもしれない。
2017年12月11日月曜日
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