実習期間中、実習生に毎日質疑応答と講話をした。
話しながら「ああ、そういえばこれが大切だった」と改めて気付く。
例えば個々の子どもとの接し方について
「何で子どもとつながるか」
「自分から寄ってこない子どもには、教師から意識的に関わる」
といった、実習生時代に自分が教わった基礎である。
初心忘れるべからずとは言うが、わざわざその言葉が諺になるぐらい、忘れるものである。
実習生へ毎度教えていることを、何かにまとめれば、多くの人の役に立つかもしれない。
さて、先日は教師の在り方についての話をした。
教師を志す学生に「厳しい先生になりたい」と願う人は少ない。
「楽しくて優しい先生になりたい」と願う。
当たり前である。
誰だっていつもニコニコ笑顔で優しく、子どもたちみんなにいい顔をして、いい先生だと思われたい。
私だって「楽しく子どもがいきいき学んで、みんな笑顔で毎日ハッピーライフ」的な担任生活を夢見ていたものである。
現実は、そんなに楽勝なものではない。
相手は、人間である。
子どもは天使ではないし、正しいことを正しく言えばわかるという単純なものでもない。
(子育てをしている母親の皆様は、百も千もご承知のことである。)
何かに不満をもてばいじめだってするし、個々の欲望だってある。
大人と同じ、全うな一人の人間である。
大人の未完成版などではない、一人の人間である。
その辺りを理解せずに、子どもに純真さを求めすぎると、確実に失敗する。
もし本当に天使のような存在なら、教育がいらない存在である。
自由にすべきだと放っておくと色々と問題があるから、制限が必要だし指導が必要になるのである。
逆に、未完成だから何もかも教えないといけない思うから、余計な手出し口出しをして健全に育たなくなるのである。
善と悪、自由と規律、抑圧と解放。
どれも否定せずにまるごと受け容れて、目の前の人間に対峙していく。
教師は自らの理想を抱きそこに憧れつつ、現実と泥臭い真剣勝負をすることが求められる。
理想のない教育は虚しく、現実と対峙しない教育には力がない。
厳しさと優しさの両立。
厳しいだけの教育は、問題を抑圧できるが、冷たくなる。
優しいだけの教育は、善良さを感じられるが、問題に対峙する力がない。
どちらも表面的な厳しさと優しさであり、本質的ではない。
厳しくも優しい教師。
これが理想である。
子どものことを真剣に考えるから、正しくないことに対してはっきりと「それは悪いことだ」と否定する。
子どものことを真剣に考えるから、正しくないことをした子どもにも「きっと良くなる」と心から信じて寄り添う。
漫画に出てくるような、べたな「ヒーロー」が理想である。
ヒーローは、悪と対峙しつつ、その悪すら最後に「ゆるす」。
度量が広いのである。
理想を抱きつつ、現実の問題から逃げずに戦う。
そんなことを、教室という現場から感じて学んで欲しいと願う日々である。
2017年12月3日日曜日
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