「サンタクロースはいるの?」に対する切り返し。
私はずっと決まっていて、
「え!?いないと思ってるの?」である。
さらに
「いると言っている人にはいて、いないと言っている人にはいないだろうね。」
と続く。
これだと、いる派、いない派、どちらの考えも否定していない。
ただ「いる」と「いない」では、どちらが素敵か。
私は「いる」の方だと考える。
感情的な話ではなく、論理的に考えても、「いる」。
子どもに対しては、先の回答で基本的に終わりである。
「でも、うちのお父さんが・・・」と追撃してくる場合、きちんと答える。
「サンタクロースだって、全ての子どもには届けられない。
そうすると、優先順位がある。
自分だったら、どんな子どもから回ってあげる?」
子どもは「貧しい子ども」「普段からプレゼントとかをもらえない子ども」等を挙げる。
「自分は、当てはまってる?」
「う~ん、当てはまらない。」
「そう考えると、豊かな家は、後回しなのかもね。
お家の人がたくさんプレゼントをくれるからね。
その分、他の子どもを幸せにしてくれてるよ。
色々してくれるお家の人に感謝しないとね。よかったね。」
大体、こんな感じである。
つまり、大人にサンタが来ないのは、至極当然である。
ヒナ鳥のように口開けて待ってないで、自力で何とかせいということである。
白馬の王子様も同様で、欲しいなら王宮に自ら攻め込んで、磨き上げた自分の魅力をアピールするのが大人のやり方である。
また話が逸れた。
さて、それでは、何をもって「いる」といえるのか。
サンタクロースの重要な存在意義は「人々を幸せにすること」である。
プレゼントの他に、トナカイやら煙突やら付随するものは色々あるが、メインはとにかくそこである。
つまり、幸せを感じさせる存在が、サンタクロースである。
12月25日に、幸せになる子どもが世界中に存在しないのか。
弁証法的にも、存在するといえる。
サンタクロースの正体が何者なのかという点においては、議論しない。
トナカイに乗って空を飛ぶかどうかは、知らない。
多くの日本家屋に、煙突はない。
そんなことは知らないが、サンタクロースの要件を満たす者は確実に存在するということである。
もちろん、世界中には幸せになれない子どももいるのが現実である。
そこに対し、何かしらの手をうつ人もいる。
世界の恵まれない子どもに対し、何かしらの施しをしている人がいる。
その存在は、その子どもにとって、サンタクロースそのものである。
そう考えれば、自分も、サンタクロースになれるチャンスがあるのかもしれない。
教室にいる大人は、教師だけである。
道は遠いが、サンタクロースのような、幸せをプレゼントできる存在でありたい。
2016年12月22日木曜日
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