2022年1月4日火曜日

規格品文化からの脱却

前号で「やめる」ことの大切さを書いた。

業務の断捨離である。

「まだ使える」「高かった」は、とっておく理由にならない。


大抵の保護者は、学校への疑問や不満がある。

特に校則の増える中学校以降は顕著である。


これまで教員も含めた数々のルールへの不満を聞いてきて、多くの場合における共通点がある。

それは「そうする理由がわからない」である。

合理性に疑問符がついているのである。


一方で合理性があると思われるものには、不満の声が上がることはまずない。

例えば「廊下を走らない」などといった決まり事(マナーに近い)は、安全な集団生活を送る上において合理的である。

(誰もいない廊下ならいいのかという議論は起きるかもしれないが、やたら例外規定を作るとルールが複雑・煩瑣になる。)


例えば「靴下は白」というルールに合理性があるか。

これは、様々な理由をつけても、正直かなり苦しい言い訳に聞こえる。


では、なぜこのような不合理なルールが存在するのか。

「かつて必要だった」からである。

先の「高かった」と同じで、かつて価値があったのである。


戦時中、あるいは高度経済成長期、命令を聞く、統率、ミスのない動きに高い価値があった。

「揃える」の能力に高い価値を置いた時代があったのである。

ここでは制服の靴下は白がいいに決まっている。

同一規格品として、揃うからである。

(別に揃うなら他の色でも構わないが、決めたのが白なのである。)


ちなみに、白にたとえ一本のラインが入っているものでも、これは×である。

商品でいえば「規格外」であり、売り物にならない。

規格品なのだから、完全統一のみである。


かつて価値のあった「みんな」「揃える」という「規格品文化」(松尾造語)が根幹にある。

私も経験があるが「みんな遊び」「みんなで揃えて」をを確かに推奨していた時期がある。

(今は避難訓練に関することなど、絶対必要なこと以外はほぼやらない。)

時代の変化による価値の変化である。


規格品文化では「並べる」「比較」に付随して「ランキング」がある。

規格品同士で並べると、違いがわかる。

理想の基準に近い、似ている者は優れている。

そうでないものは劣っている。

定まった基準があるから、序列がつく。



こんな規格品文化の価値観が、ダイバーシティをうたう今の世の中に必要かという話である。

時代錯誤も甚だしい。

戦時中とか工業化時代の価値観である。

今の社会で生きている子どもや保護者からすれば、不合理に見えて当然である。


問題は、その理由を問われた時の、学校側による

「そういうルールなので」

というダメな切り返しである。


もしそれを言うなら併せて

「こういう合理的な理由からこのルールがあります」

が必要である。

学校へ不満をもたれる所以である。

相手にルールを守らせるのだから、合理的にきちんと説明する責務がある。


余談だが

「シャープペンシルか鉛筆か」

問題については、両者は実際目的と用途、機能が異なる物であり、並べて比較するものではない。

クレパスと色鉛筆ぐらい違う。

(伝わるだろうか。)


小学校は単に筆記具を使って書く場ではなく、書くことそのものを学習する場でもある。

よって、ここで互いの主張を争ったところで、永久に議論のずれが生じることは避けられない。

「書ければ同じ」という主張と「書くことの学習のため」という主張は、論点が違う。

議論が平行線なのは、合理性以前の問題だからである。


話を戻すと、要らないものを思い切って切ることが大切である。

お互いに余計な負担をかけるだけのものは、なくす方がよい。

無思考に慣例に従うのは、人間のロボット化への道である。

逆に、よく考えずにやたらと騒ぐのも、人間の動物化・野生化であり進化と逆の方向である。


合理性をもって判断し、不要なものは切る。

学校のあらゆる規格品文化からの脱却を切に望むところである。

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