2022年1月8日土曜日

平等と能力主義

 昨年は「ジェンダー平等」が流行語大賞トップ10に入ったという。

日本での意識が高まったと捉えられる。


日本のジェンダー平等への意識の低さは国際的にも知られたところである。

これから是正されるべき点である。


一方で、学校文化において男女平等というのはなかなか進まない。

文化的な面においても、身体的な面においても両者には差がある。

その差があること自体を否定するのもまた違う。


平等の行き着く先を考える。

男女でも何でもそうだが、平等の行き着く先は、個人の能力の差である。

これは能力主義であり「メリトクラシー」と呼ばれる。

「merit」=「業績、功績、価値、実力」による「-cracy」=「~による支配」である。


男女を全く無視して能力だけで見た時、身体的な差への配慮も排除される。

これは平等な社会といえるかという問題が生じる。

ジェンダー平等の目指すところは、ここではないはずである。


各種試験というのが、能力主義の典型である。

結果には納得のいく形になるかもしれないが、これだけの世界というのは恐ろしい。

全てが能力で決まる世界では、一部の強者以外は自分らしく生きてはいくことが認められない。


学校においても、ここへの判断は難しいことがある。

能力だけで何かの選抜をすると「全部男子」「全部女子」という事態が起き得る。

ここの能力的な結果に、男女の発達の差が絡んでいないのかどうかは、悩ましいところである。


では差を埋めるような配慮のある公平ならいいのかというと、そこも難しい。

例えば給付金と年収に関することが問題になっているが、あれは「公平」に対する不満である。

累進課税制度が本当に公平といえるかどうかである。


学校教育においても、価値観は変動するし、何が平等で何が公平なのかは変わる。

常に何がよりよいものなのか、追求し続け考え続ける必要がある。

0 件のコメント:

コメントを投稿

  • SEOブログパーツ
人気ブログランキングへ
ブログランキング

にほんブログ村ランキング