昨年は「ジェンダー平等」が流行語大賞トップ10に入ったという。
日本での意識が高まったと捉えられる。
日本のジェンダー平等への意識の低さは国際的にも知られたところである。
これから是正されるべき点である。
一方で、学校文化において男女平等というのはなかなか進まない。
文化的な面においても、身体的な面においても両者には差がある。
その差があること自体を否定するのもまた違う。
平等の行き着く先を考える。
男女でも何でもそうだが、平等の行き着く先は、個人の能力の差である。
これは能力主義であり「メリトクラシー」と呼ばれる。
「merit」=「業績、功績、価値、実力」による「-cracy」=「~による支配」である。
男女を全く無視して能力だけで見た時、身体的な差への配慮も排除される。
これは平等な社会といえるかという問題が生じる。
ジェンダー平等の目指すところは、ここではないはずである。
各種試験というのが、能力主義の典型である。
結果には納得のいく形になるかもしれないが、これだけの世界というのは恐ろしい。
全てが能力で決まる世界では、一部の強者以外は自分らしく生きてはいくことが認められない。
学校においても、ここへの判断は難しいことがある。
能力だけで何かの選抜をすると「全部男子」「全部女子」という事態が起き得る。
ここの能力的な結果に、男女の発達の差が絡んでいないのかどうかは、悩ましいところである。
では差を埋めるような配慮のある公平ならいいのかというと、そこも難しい。
例えば給付金と年収に関することが問題になっているが、あれは「公平」に対する不満である。
累進課税制度が本当に公平といえるかどうかである。
学校教育においても、価値観は変動するし、何が平等で何が公平なのかは変わる。
常に何がよりよいものなのか、追求し続け考え続ける必要がある。
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