学校教育において、本当に目指す児童像とは何かを考える。
本来は、各校の学校教育目標にあるような児童のはずである。
大体が
「生き生きと学ぶ」
「自由で創造的」
「表現力がある」
「個性を生かす」
「自分が大好き」
「自ら進んで」
「他人を思いやる」
などの言葉に表現されるところである。
では、実際に学校教育がそうなっているか。
残念ながら、そうなっていない現実がしばしば見られる。
お題目を声高に叫ぶほど、真逆になりがちである。
実際の学校において求められがちなもの。
「従順」
「もの覚えがいい」
「再現力がある」
「黙っててきぱき動ける」
「疑問をもたない」
「規律を守れる」
「空気が読める」
といったところである。
集団管理にとって都合のよい要素が多いように感じる。
これらの要素が多い子ども集団は、管理しやすい。
そしてそれらの要素は、学校教員そのものの在り方にも直接反映している。
実際、現在の学校の多くは独創的な子どもを育てる場になっていないようである。
多くの大学の附属学校や私学とて例外ではない。
一条校(学校教育法第一条に定めれた学校)として、現在の学習指導要領に則れば、そうはならないことは明白である。
それを見限った人たちが、オルタナティブスクールなど自由な教育カリキュラムを組める場へ流れてしまっているところがある。
なぜこうなってしまうのか。
教員の中には、強い情熱をもち、子どもを自由に生き生きと教育したいと願っている人が数多くいるにも関わらず、である。
根本にあるものは、先の集団管理優先の風潮である。
独創的で個性的なことをやると、嫌がられたり批判されたりする風潮がある。
「はみ出る」ことを教育委員会はもとより、学校も教員も保護者も良しとしない。
それを喜ぶのは、子どもたちだけである。
管理職が「NO」と言ったことは当然認められないが、それ以上に、教員は同僚間をこそ気にする。
学年主任に「揃えて」と言われたら、揃えざるを得ない。
その学年主任に対しては、他学年や保護者から同様の要望が来る。
たとえそれが時代遅れであろうが、あまり良いとは思えないことであっても、である。
それを言われたら、もう止めて周りに合わせざるを得ない。
自分一人ではできない仕事が多い以上、教員間の和を乱してまでやるメリットはないし、できない。
それが教員のリアルな世界である。
子どもの苦しみも同種である。
揃える、みんなと同じであることを求められる苦しさ。
テストで測定されるのは独創性ではなく、定められた動作の再現性である。
さらに子どもの場合、特定の基準でランキングされる苦しさが伴う場面も多い。
子どもがここから解放されるためには、先に大人が解放される必要がある。
子どもに自由にさせられないのは、そもそも教員にその権限がないからである。
権限がないため、結果的に、先に挙げたような管理優先の考えで子どもを教育でなく管理する羽目になる。
自分も心から望んでいないことを他人にするのだから、辛いのも至極当然である。
暗い話が続いたが、ではどうすればいいのか。
これにはもう「揃えない」の一言に尽きる。
「○○はこうだから」(=常識)を、誰も一切合切言わないことである。
違う人間が違う人間を教えて、違う人間同士が集まっているのに、隣と同じように揃う訳がない。
正方形や長方形の図形ばかりなら並べて敷き詰められる。
しかし実際は多角形やら円やらそれに当てはまらない形やら、てんでバラバラである。
人間の規格が揃っているという前提自体が異常である。
「揃えよう」は、一昔前に価値のあったことである。
例えば軍隊では、揃っている方がいい。
例えば機械が行うような定まった動作を命令通り繰り返す人間が必要なら、揃っている方がいい。
今現在、それは無価値化し、要らないはずである。
「ここだけは揃えた方がいい」をどれぐらい捨てられるか。
学校は、始業時間のようにどうにもしようのないことをはじめ、それだらけなのである。
せめてやり方や進め方ぐらい、独自性を認めたいところである。
掲示物の位置とかどうでもいいことを揃えているから、他のどうでもいいことも揃えたくなるのである。
教員が揃えるをやめる。
教員の揃わないを認める。
混迷を極める現在の学校現場に、何よりも優先して提言したいところである。
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