ここ一年以上、参加し続けている読書会がある。
テキストは毎回、森信三著『修身教授録』である。
この本の中に、次の一節があった。
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(引用開始)
それ故私には、修養などという言葉よりも、
「この求めてやまない心」という言葉のほうが、
はるかにぴったりと響くのです。
そこで諸君たちも、修身の時間だなどと言って、
変てこな形式的なことを考えてはいけいないのです。
(引用終了)
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これは教員養成大学の講義の文字起こしである。
この森信三先生の担当が、修身の授業である。
修身をないがしろにしていた訳では決してない。
しかしそれでも、修身の時間を
「変てこな形式的なことを考えて」
いると捉えていたようである。
今の道徳の授業の時間の抱える問題と相通じるものがある。
修身は、形式的なことではいけない。
道徳も然り。
形式的なものからは
「自分の生命を真に徹して生き抜いていこうとする、限りなくたくましい心を打ち立てる」(同著より引用)
というようなものは生まれないのである。
あらゆる授業、教育において言える。
形式的なことからは、生命が躍動するようなことは生まれない。
型を覚えるだけである。
それは、何を教えているのか。
自分の教育に迷いが出たら、
「森信三先生ならどうするのか」
「吉田松陰先生ならどうするのか」
というように、
「尊敬する○○先生ならどうするのか」
と考えてみるようにしたい。
2020年3月29日日曜日
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