2021年6月23日水曜日

問題解決力を育てるには

 学級経営の話。


結論から。

教師は、子どもが自力で何とかできる問題を解決してあげてはいけない。

それは、子どもの生きる力を奪う行為である。


全ては持論であるため、万人の絶対解とはいえない。

よって、次に書く方法への責任もとらないし、真逆の方法をとってうまくできる人に対して否定もしない。

保険をかけているようで嫌だが、誤解はもっと良くないので、前置きをしておく。


私は、基本的に子ども同士のけんかについては、なるべく介入しての解決はしないようにという方針である。

例えば押した押されたは一方的な問題ではなく、双方の問題である。

電車の中などで、いい大人同士でも揉めている。

「あなたが悪い」の応酬合戦である。

間に入っても、双方に禍根を残すだけで、ろくなことはない。


子ども同士のけんかというのは、はしかや風疹のようなものである。

ただはしかや風疹と違う点は、ワクチンがないので、お互いに罹って自力で治すしかない。

外から治してあげてしまうと抗体ができないらしく、また何度でも罹る羽目になる。


「いじめ」とみなしても直接的にすぐ助けるかどうかは、本人が解決できるレベルにあるかどうかで判断する。

一見して一方的な場合であっても、なるべく自力で何とかできる方向にサポートできないかを検討する。

今後自分が担任から外れた後に、その子どもが絶対にいじめられないという保証はないからである。

可能であれば、いじめをはねのける力をつける方を優先する。


いじめられている子どもを、何度も何度も直接助けた年もあった。

結果、担任を外れた後の次の学年で、その子どもはますますまたいじめられていた。

担任がしっかりと守ってあげたが故に、その年のいじめが一時的に潜り込んでしまっただけだった。

本人の自力を育てるのを、守るのと同時に行う必要があったのである。


これは逆に、いじめている側にもいえる。

大人が解決してあげていると、いじめている側の改善も成長もない。

いじめの対象としていた子どもが突如反発してきた時に、初めてひるむ。

あるいは、周りが一緒になって反発してきた時に、初めて考える。

強い大人が前面に出て守っている間は、一時的に退避するだけで、次のチャンスを伺い続けることになる。


この原則は、学力にもいえる。

大人が手取り足取り、きめ細やかに教えてあげている間は、本当の学力はつかない。(代わりにロボット化が進む。)

それよりも、自力で学べる力をつける方が大切である。


学力をつけるとは、子ども自身の人生の課題の一つだからである。

アドラー心理学でいう「課題の分離」である。

子ども自身の人生の課題を、勝手に周囲の大人が奪って解決してはいけない。


手取り足取り教えている状態とは、運動に例えるならば、歩ける子どもをおんぶして走ってあげている状態である。

代わりに走ってあげて、子どもの足腰が強くなる訳がない。

ただし目的地には無事に着くので、それを自力だと勘違いしてしまうのがさらに厄介である。


これを書いていて思い出したが、10年くらい前にも、街中の学校で田んぼをこしらえて、米づくりをした話を書いた。

川や水路がないために、我々担任団が夏休みも欠かさず交代で水の管理をし、苦労に苦労を重ねて育てた。


そして出来上がった米を収穫した子どもの感想が

「お米って簡単に作れるんだとわかりました」

である。

絶望的な気分になった。

これは、教育としてみた時に、完全な失敗である。


米作りの苦労をほとんど学べないで、収穫という結果だけを見てわかった気になってしまった訳である。

これに類似したことは、学校教育のあらゆる分野に見られる失敗である。


むやみやたらに子どもの問題解決をしてあげないこと。

自分の人生に責任をもてる子どもを育てていきたい。

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