学級経営の話。
結論から。
教師は、子どもが自力で何とかできる問題を解決してあげてはいけない。
それは、子どもの生きる力を奪う行為である。
全ては持論であるため、万人の絶対解とはいえない。
よって、次に書く方法への責任もとらないし、真逆の方法をとってうまくできる人に対して否定もしない。
保険をかけているようで嫌だが、誤解はもっと良くないので、前置きをしておく。
私は、基本的に子ども同士のけんかについては、なるべく介入しての解決はしないようにという方針である。
例えば押した押されたは一方的な問題ではなく、双方の問題である。
電車の中などで、いい大人同士でも揉めている。
「あなたが悪い」の応酬合戦である。
間に入っても、双方に禍根を残すだけで、ろくなことはない。
子ども同士のけんかというのは、はしかや風疹のようなものである。
ただはしかや風疹と違う点は、ワクチンがないので、お互いに罹って自力で治すしかない。
外から治してあげてしまうと抗体ができないらしく、また何度でも罹る羽目になる。
「いじめ」とみなしても直接的にすぐ助けるかどうかは、本人が解決できるレベルにあるかどうかで判断する。
一見して一方的な場合であっても、なるべく自力で何とかできる方向にサポートできないかを検討する。
今後自分が担任から外れた後に、その子どもが絶対にいじめられないという保証はないからである。
可能であれば、いじめをはねのける力をつける方を優先する。
いじめられている子どもを、何度も何度も直接助けた年もあった。
結果、担任を外れた後の次の学年で、その子どもはますますまたいじめられていた。
担任がしっかりと守ってあげたが故に、その年のいじめが一時的に潜り込んでしまっただけだった。
本人の自力を育てるのを、守るのと同時に行う必要があったのである。
これは逆に、いじめている側にもいえる。
大人が解決してあげていると、いじめている側の改善も成長もない。
いじめの対象としていた子どもが突如反発してきた時に、初めてひるむ。
あるいは、周りが一緒になって反発してきた時に、初めて考える。
強い大人が前面に出て守っている間は、一時的に退避するだけで、次のチャンスを伺い続けることになる。
この原則は、学力にもいえる。
大人が手取り足取り、きめ細やかに教えてあげている間は、本当の学力はつかない。(代わりにロボット化が進む。)
それよりも、自力で学べる力をつける方が大切である。
学力をつけるとは、子ども自身の人生の課題の一つだからである。
アドラー心理学でいう「課題の分離」である。
子ども自身の人生の課題を、勝手に周囲の大人が奪って解決してはいけない。
手取り足取り教えている状態とは、運動に例えるならば、歩ける子どもをおんぶして走ってあげている状態である。
代わりに走ってあげて、子どもの足腰が強くなる訳がない。
ただし目的地には無事に着くので、それを自力だと勘違いしてしまうのがさらに厄介である。
これを書いていて思い出したが、10年くらい前にも、街中の学校で田んぼをこしらえて、米づくりをした話を書いた。
川や水路がないために、我々担任団が夏休みも欠かさず交代で水の管理をし、苦労に苦労を重ねて育てた。
そして出来上がった米を収穫した子どもの感想が
「お米って簡単に作れるんだとわかりました」
である。
絶望的な気分になった。
これは、教育としてみた時に、完全な失敗である。
米作りの苦労をほとんど学べないで、収穫という結果だけを見てわかった気になってしまった訳である。
これに類似したことは、学校教育のあらゆる分野に見られる失敗である。
むやみやたらに子どもの問題解決をしてあげないこと。
自分の人生に責任をもてる子どもを育てていきたい。
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