荒れというのは、それ自体を問題として考えてもあまり意味がない。
あくまでも苦しみの表出、叫びとして、荒れや問題行動という形で見えているだけと考える。
例えば、やたらと攻撃的で、何かにつけて人の間違いを指摘し、揚げ足を取ってくる子どもがいるとする。
普段から同級生にも嫌味な言動、態度が見られる。
この子どもの言動の根本的原因として、家で自分が同じことをされている可能性がある。
家の中で何か間違いをするとすぐに指摘され、馬鹿にされたり罵られたりしているのかもしれない。
あるいは、他人に対してそういう言動が日常的に見られるのかもしれない。
ひどい場合、それが肉体的あるいは精神的虐待にまで発展していることもある。
つまり、自分が普段受けている言動が、外に向かってそのまま出ているといえる。
(周りからすれば、単なるとばっちりであるが。)
これに類似したひねくれた言動や乱れた言葉が多い子どもは、一見するとただの性格の悪いひねくれ者にしか見えない。
しかし実際は性格が悪い訳ではなく、苦しみの「サイン」を出していると見抜くのが妥当である。
また、一見自信がありそうで、実は学級の誰よりも自己肯定感が低く、指導よりも支援・治療が必要な状態でもある。
存在自体を全面的に肯定し、認めることが必要な状態である。
(ただし、行為自体は肯定しない。行為面への部分否定&人格肯定である。)
また、テストや学校の勉強はよくできているが、大人の見ていない裏での言動が荒れているという子どもがいる。
これは受験に関わっている高学年以降に特に多い。
家庭や塾などで過剰なプレッシャーをかけられている可能性がある。
ここへの対処は、非常に難しい。
学校では、その根本的原因を取り除いてあげられないからである。
この場合にできることは、その子どもの勉強面以外の良さを認めて伝えていくことである。
その子どもの「できる」を肯定し続けても、より「できる」を求め続けるだけで、永遠にきりがない。
(以前書いた「100点満点を褒めてはいけない」という記事のあれである。)
そもそもその「できる地獄」にはまっているのだから、それはしない。
それよりも、全然違った面を見つけることである。
実は動植物に対して優しいとか、下学年への面倒見がいいとか、そういったことである。
いつも掃除をがんばっているとか、困っている人にちょっとした声かけをしているとか、何でもいいから、本当に些細なことである。
その上で「存在自体」を認める必要がある。
とにかく、存在否定が一番きつい。
「〇〇ができない自分は価値がない」と思ってしまうのが辛い。
だからこそ、その子は力を求め続けて努力するのだが、このラットレースには終わりがない。
せっかく全国大会で優勝した子どもが「これでもう〇〇をしなくて済むんだ・・・」と安堵するのと同じである。
それでは悲しい。
できなくてもいい。
そのままでいい。
これらの言葉は、そういった歪んだ苦しみの中にいる子どもにこそ必要である。
荒れや問題行動は、あくまでもサインであり、それに気づければ逆にチャンスである。
何を発しているのかを見抜き、適切な支援をしていきたい。
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