2021年6月17日木曜日

病は感謝のきっかけになる

 前号に引き続き、よいところを見つけることと感謝について。


先月、不覚にも微熱を出してしまい、そのために年休をいただいた。

昨今、たとえ微熱であっても熱があれば、どんなに働きたい気持ちがあっても、子どもの前に立つことは不可である。

安全第一である。


休む時には、職場の仲間に頼るしかない。

もう、当日いきなり穴を空けて申し訳ないという気持ち以外、ひたすら感謝しかない。


結局、どんなにがんばっても、一人では仕事はできない。

どんなに自分の力量を高めようと勉強したり技能を磨いたりしても、自分が出られない時には人に頼るしかない。


サッカーなどのスポーツと同じで、常にチームプレーである。

ゴールキーパーなしでフォワードの自分が点を取りにいけるはずがない。

交代要員0でプレーするのはリスクが高すぎる。

控えの選手が他にいるからこそ、思い切ったプレーができる。


病気になるのは、感謝に気付くためにあると何かで読んだことがある。

(何で読んだか思い出せないが、私の考えではないことだけは確かである。)

要するに、自分自身の体を労わっていないこととか、周囲への配慮の足りなさとか傲慢不遜だとかに気付くためである。


例えば、身体症状として、喉が痛くなる。

これは「喋りすぎ」という警告であるともいえる。

頂きものの身体を酷使しすぎなのである。


例えば、病気で休まざるを得なくなり、自分のピンチヒッターを頼む場面。

この状況になると、普段いかに周囲に支えられてきたかを振り返ることになる。

普段から支えられて過ごしていると、それが「普通」のことになってしまい、有難さに気付けない。


気を抜くと、自分だけがよければいいという「我利我利人間」になってしまう。

そこへの戒めのために、時々病気になるのだと考えた。

(そこを埋める羽目になった同僚の方々や子どもたちにはえらい迷惑なことかもしれないが。

長期的に見て、ということでご勘弁いただきたい次第である。)

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