2019年11月16日土曜日

偽善者、どんと来い。

前号に続き、道徳教育についての所感、二点目。

二点目は「偽善者と言われるぐらい動け」である。

これは「モラル・ライセンシング」についての考えと関わる。
モラル・ライセンシングについては、以前も書いた。
https://hide-m-hyde.blogspot.com/2018/04/blog-post_10.html

簡単に言うと、人間は、善だと思うことを見たり発言したりすると、満足する。
自分がそれと一体になった錯覚に陥る。
偉い人の傍にいたり接したりすると、自分も偉くなったような気になるのと同じである。

そうすると、実際に少しぐらい悪いことをしてもいいという変な結論になる。
整合性もなく論理も滅茶苦茶だが、人間は感情の生き物なので、そういう風にできている。

ちなみに「ネット袋叩き」「炎上」も同じ効果である。
「正義」の側に立って集団で正義の剣を振りかざすため、優越感に浸れる。
いいことをした気になる。

だから、悪い行動をとる、あるいはいい行動をとらない、という結果になる。

逆をいくべきである。

いいことを言わなくていい。
代わりに、いいことをする。

あからさまにいいことを実際にやって、偽善者と呼ばれればいい。
そうすれば、世界は実際に一つ助かる。

先の関東への台風直撃で、義援金を贈ったロックスターがいる。
その被災地の出身だからということで、被災地での活動も行ったとニュースにあった。
この人は過去何年もあらゆる災害時にそういったことを続けてきており、トータルの寄付金は億を越える。
もはや一般人に「偽善」「売名」などと呼ばれるレベルをはるかに超越している。

ここまでくれば全く否定できないほどわかりやすいが、たとえ普通に「売名行為」であってもいいのである。
被災地で苦しんでいる人にとって助かるのは、外でいいことを言う人ではない。
物理的にも物質的にも、資金面でも、実際に助けてくれる人である。
(ちなみに、それをネット上などで呼び掛けて集めてくれる人も、単なる言葉ではなく実際的な動き、働きである。)

例え人気取りだろうが売名だろうが、実際の行動が全てである。
また、助けてくれるなら「力が強い方」がよりいい。
被災地であれば、どうせなら、素人より建築関係のプロの方が助かるに決まっている。

一方で、「数が命」という面もある。
「自分なんか役立たない」と思って動かないより、個人の力が弱くとも、集まってくれた方がいい。
何かしらできることがある。
「そんなことしても無駄」「弱いくせに」「偽善者」
などとパソコンやスマホで冷ややかな論評をしている人より、
はるかに実際的にも道徳的にも価値が高い。

偽善者、どんと来いである。

もっと、堂々と、いいことをしよう。

例えばそれは、日常生活でもいえる。
ごみが落ちてたら拾えばいい。
しんどそうな人がいたら、席を譲ればいい。
やる人がいなければ「やります」と言えばいい。
そういう人や子どもに「ゴマすり」「点数稼ぎ」「いい子ぶって」みたいに冷ややかな言葉や視線を浴びせる学級や社会に、明日はない。
いい行為には、大いに「いいね!」の声をあげるべきである。

だから、道徳的な発言自体に、意味はないと考える。
どうせ授業でやるなら「良いとわかっているのにできないんだけど、どうしたらいいか?なぜなのか?」をえぐり出す方がよほどためになる。
そこに共感しつつ、できる行動を一つやってみることである。

学級に道徳的行為を根付かせるなら、言葉ではうまくいかない。
よい行いを、実際にやること。
それを認めること。
冷やかさないこと。

愚直な、わかりやすい「よい行い」を認める。
斜に構えない。
学級で「朝の歌を誰よりも一生懸命に歌っている子どもを絶賛する」というのと同じ原理である。

何よりも、それに大人も挑戦してみる。
大人は、恥ずかしがるからいけない。
幼児が砂場でお友達を作るみたいに、すっと自然にやってみればいい。

自分にも何かできることがあるかもしれない。
そう思って実際に動く人が一人でも増えたらいいと願う次第である。

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