2018年4月10日火曜日

道徳教育は清濁併せのむ覚悟で

「考え、議論する道徳」第4弾。

以前にも紹介した次の本から。
『スタンフォードの自分を変える教室』
ケリー・マクゴニガル著 神崎朗子訳 だいわ文庫
https://www.amazon.co.jp/dp/4479305580/

この本の中で「モラル・ライセンシング効果」というものが紹介されている。
ごく簡単に言うと、
「良いことに関わると、悪いことをしてしまう」という心理である。

この例として挙げられているのが、某有名ファーストフードチェーン店のメニューを使った実験。
カロリーたっぷりのメニュー群の中に、「サラダ」という選択肢を入れてみる。
すると、サラダを選択した被験者は、最もカロリーの高い、ヘルシーでない商品も併せて購入する傾向があるという。

どういうことか。
つまり、「一緒にヘルシーなものを食べてるんだから、高カロリーなものを食べても大丈夫!OK!」
と考える訳である。
気が大きくなる訳である。
論理的に考えると、全く整合性のない言い訳、免罪符である。
(サラダをどんなに食べても、カロリー自体は消えない。)

ちなみに「ダイエットコーラ」の類にも同じ傾向があるという。
個人的には、日本なら「脂肪を分解する」と謳われたお茶を飲むと、余計に脂っこいものを食べる傾向があるのと似ていると思う。
アルコール分解を促進するドリンクを飲んで、二日酔いするほど酒を飲んでしまうのも同じである。

要は、「良いことをすれば、その分悪いことをしても大丈夫」という免罪符的心理が、モラル・ライセンシング効果である。

先の例には、もっと衝撃的な結果がある。
「メニューにサラダがある」だけで、件のNO.1高カロリー商品の売り上げが2倍になったという。
つまり「身体にいいものを見ただけ」でもいいものを食べた気分になるということである。

道徳の授業や、道徳教育を考える上で、これは重要である。
つまり、「良いこと」を述べたり聞いたりしただけで、自分が善人になったような錯覚に陥る可能性がある。

例えば、ある子どもが道徳の授業で、素晴らしく「道徳的」な発言をする。
その子が、裏では結構な悪さをしている。
追随して、あんなにキラキラしたいい目をして聞いていた、周りの子どももやっている。
一方で、無関心だったり悪態をついていたりした割に、やることはちゃんとやっている子どももいる。

学級担任をしたことのある人なら、心当たりがあるのではないだろうか。
かなりよくあることである。

道徳的な価値を知っていることと、道徳的な行動をとれることは、イコールではないということである。
大人の卑近な例だと、誰しも食べ過ぎ・飲み過ぎがダメで、早寝早起きが身体にいいことは知っている。
「毎日たった5分のエクササイズで見違えるスタイルに!」という商品の多くは、決して詐欺ではない。

問題は、「実行できるかどうか」だけである。
価値はわかっているし、正しいのもわかっているのである。
ただ、「買ったから満足」してしまったので、全くやらないで、むしろ買う前より運動不足に陥って悩む訳である。

真に道徳的である人は「不言実行」のことの方が多い。
たった一人で地域のごみ拾いを始め、時にうるさがられながらも止めずに、何年、何十年と続けている人など、その好例である。
(ただし、この場合にも、ご本人は「いいことをしている」という気持ちはないかもしれないというのが、重要な点である。)

「考え、議論する道徳」では、多様な「道徳的価値観」を知ることができる。
これ自体はいい。
しかし、それによって「いいことをした気分」になってしまうのは避けられない。

学級担任として(または親として)は、むしろ「悪いことをするのが当然」ぐらいに思って構えることである。
学級でいじめどころか、けんかやいたずら一つ全く起きないという状態は、かなり疑った方がいい。

それは多分、単に学級担任への「情報の風通し」が悪すぎるのである。
子どもも保護者も問題があるのを知っているのに、「言いづらい」ので肝心な担任には伝わってこない。
その状態は黄色信号どころか、赤信号である。
(だから保護者から相談されたら、それはクレームではなく「御の字」で感謝なのである。)

子どもは、悪さも通して学ぶ。
喧嘩をしないと、痛みもわからないし、問題解決の方法も身につかない。
いじめられれば辛い分、心の痛みも知る。
教室におけるいじめの問題の深刻さは、それが起きること自体ではなく、気付かれず放置されることである。

善と悪は表裏一体で、実はどちらも善悪がなく「在る」だけともいえる。
両方を経験して、そこから初めて真理が導きだされていく。

コピー用紙を買う時に「印刷するのは表だけなので、表面だけください」とお願いしたら、
「裏面はサービスです。」と返されたという冗談がある。
表を買いたいなら、裏もついてくるものである。
表裏一体、両方で一つである。

道徳教育においては、促成栽培は不可能である。
それは、「考え、議論する道徳」に方向転換しても同様。
突然子どもが「良くなる」ことはない。
「悪いこと」「避けたいこと」も経験してこそ、教師も子どもも、人間らしく伸びる面がある。

清濁併せのむつもりで、ゆったりとかつ長期的視点を大事に、道徳教育を行っていきたい。

1 件のコメント:

  1. 親の前では良い子が、学校に来て悪さをする。家で24時間ふざけている子が、学校では褒められることも多かったりしますね。子供も、この大人の前ではわがままを出しても大丈夫か?等、潜在意識で測っているのかも知れませんね。要は、大人がどれだけ真剣に向き合えるか、向き合っているか?だと思います。善悪をしっかり教え、悪い事をしたときは時に本気で叱る。良い事をしたときは褒める。全て受け止めた上で、将来のその子が良い人間に生長できるように、導ける力量を、大人も鍛え、自ら成長したいですね。

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