教育においては、「人気者」と「嫌われ者」の用語がある。
それぞれ、ポジティブな用語とネガティブな用語である。
当たり前だが、本来言葉自体に善悪、良否はない。
ポジティブ用語の方が、「何か、いい感じ」なのである。
感情的、感覚的な問題である。
しかしである。
教育用語はどの時代も基本がポジティブ寄りの傾向である。
「褒めて伸ばす」「生きる力」「アクティブ・ラーニング」「楽しい授業」「主体的・対話的で深い学び」
・・・
注意すべくは、ポジティブとネガティブは裏表でセットということである。
片方だけで成立しない。
片方だけをもてはやして肯定しても、ダメなのである。
一時期散々もてはやされた「ゆとり」という言葉は、教育界のスターの座から突如最低の地位まで貶められた。
教育界の「サタン」「ルシファー」である。
まあ、もてはやされるなんてことの末路は、大抵そんなものである。
何でも図に乗っていると、加速度をつけて地面に叩きつけられるだけである。
ただし、本物は、もてはやされようが蔑まれようが、泰然自若としているものである。
実は「ゆとり」という言葉だって、その価値がなくなった訳では決してないのだが、周りが勝手に評価しているだけである。
「ゆとり」も、虎視眈々かつ粛々と、その出番を待っている状態である。
そんな中、「叱る」という言葉が、その背後にネガティブ感を漂わせながらも、相当に見直されつつある。
「叱らないと話にならない」というのを学校現場が実感しているからである。
理論で通用しない生身の人間を相手にしている実感である。
むしろ、本気で教育に当たっている人の多くは、「叱る」を片時も手放さずに、その価値を認めて堂々と続けている。
「褒める」が最大に作用するのは、裏で「叱る」が最大に作用している状態である。
普段厳しいコーチに、たまに褒められるからこそ、最高にやる気になるという面が確実にある。
「怒る」も同じで、何か悪者扱いされやすいが、それも違う。
いじめを「楽しんで」いる子どもに対し、怒りを示すことに意義がある。
方法も、別に怒鳴るのではなく、「怒っている」ということが言葉や表情でしっかりと伝わればいい。
馬鹿にしている相手から、本気の怒りをぶつけられることで、初めて真剣に考えることだってある。
「怒り」の裏には「哀しみ」が隠れていて、その感情の両方が大切なのである。
親や教師が本気で「怒り」「哀しむ」姿を見ることが、子どもの心に大きな価値を生む場面がある。
喜怒哀楽に上下はないのに、何か勘違いしてしまう傾向がある。
アドラー心理学においては、「怒り」は目的から発するというスタンスである。
そう、目的達成の手段として自覚し、有効活用すればよい。
否定する必要はない。
怒りは、自然と発する感情であり、否定するものでも操作するものでもない。
怒りは、途方もなく高い目標を成し遂げるエネルギーにもなる。
例えば多くの優れた文学作品を貫くものは、自己、あるいは世に対する「怒り」のメッセージである。
では、「恐怖」はどうか。
この世から恐怖がなくなればいいと誰もが思う。
では、教育から恐怖が完全になくなるとはどういう状態か。
長くなったので、次号、引き続き考えていく。
2018年4月24日火曜日
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