2018年4月8日日曜日

「考え、議論する道徳」の授業への疑問

前号の続き。
「考え、議論する道徳」を、どう考えるか。
人間とA.I.の比較という、ちょっと変わった観点から切り込んでみる。

道徳の教材でよくある「電車でお年寄り等に席を譲る場面」を例に考える。
(そもそもロボットが電車の座席に敢えて座る必要がないのは百も承知で、座るものとする。)

A.I.に道徳的行動を仕込む場合から考える。
まずは「こういう人が来たら席を譲る」という画像データを大量に入力する。
高齢者想定なら白髪、顔の皺、体型や服装など、あらゆる場合を想定して入力する。
人種の違いにも配慮する。

高齢者だけでなく、妊婦やけが人、身体が不自由な人の場合もある。
妊婦の中には、初期の人や見た目でわかりづらい人もいる。
全てパターン化して入力する。

それでも「例外」が必ず出る。(統計用語において「外れ値」という。)
場合によっては、まだ若いのに「高齢者」と判断されたことに腹を立てて怒る人も出るだろう。

要するに、たったこんな一つのことでも、A.I.にはきちんと教えるのがかなり困難なのである。
A.I.が最も苦手なのは「常識」の判断であるという。
そもそも、世界中の共通項といえる「常識」は、果たして存在するのかもわからない。

それでも「正解」を仕込まれたA.I.なら、面倒だから席を譲らないとか、断られて逆切れするといった明らかに不適切な行為はしない。
入力が「素直」に入るからである。
そこに「主体性」はないからである。
(前号の繰り返しだが、ここには逆に怖さ、脆さもあることは付け加えておく。)

では、それも踏まえて、人間の場合を考える。
こちらは文科省の方針に従い、「考え、議論する道徳」でいってみる。
A.I.の時のように「特定の価値観を押し付ける」ことはしない。
「主体性をもたず言われるままに行動するよう指導」もしない。
その前提で授業する場面を想定する。

「どういう場合に席を譲ればいいか」と発問し、投げかける。
あらゆる「譲るべき人、状況」のパターンが出てくる。
譲ると怒る人がいることも出るかもしれない。
A.I.と違い、これらができる理由は、それぞれ個別の経験があるからである。
つまり、「入力」作業が事前に別の場で行われてきたといえる。

ちなみに、全く出ない場合は教師から出すしかなさそうだが、「特定の価値観を押し付けない」制約があるため、出せない。
その場合は「沈黙」の時間が続くことになる。

中には「僕は譲りたくない。近所のお年寄りが意地悪で嫌いだから。」という子どもが出るかもしれない。
他にも、そもそも座らない方がいいとか、座ってるからこそ譲れるのだとか色々出る。

まあ多分、しっちゃかめっちゃかである。
「特定の価値観を押し付けない」のだから、話し合いの方向性もつけられない。
事前に相当周到な用意がない限り、「議論」というより、「言いたい放題」からの「喧嘩」必至である。
そして本来然るべき終着点は「状況を見て判断し、席を譲ろう」であるのだが、これもダメである。
なぜなら、「席を譲るべき」というのも「特定の価値観」なので、子どもにおすすめすることができない。

よって「どれもそれぞれの価値観でいいね」として認めることになる。

しかしである。
「お年寄り全般が苦手なら譲らなくてよい」
「こっちも毎日塾通いで遅くまでがんばっている場合、疲れてるから譲らないでよい。」
これらの選択肢を、道徳的な一つの価値観とみなしていいか。

ここには明確に否定・反対である。
少なくとも、ここは日本である。
「おもてなし」の国として世界に発信している以上、最低限のホスピタリティは必要である。

それぞれの家庭独自の価値観はありうる。
それは認めるべきだろう。
しかし、現在の世の大人の道徳、価値観が、果たして子どもの将来にとって適切な模範になりうるか、ということである。

ここは、大切なので、繰り返す。
世の大人が、子どもの模範たりうる道徳的行為をとれているか。

子どもが「考え、議論する道徳」をする。
そのベースとなる知識や経験は、周りの大人、とりわけ親から学び取るものを基盤とする。
そこの「入力」が事前にしっかりしているという前提なのである。
子どもにその力が既に内在しているという前提なのである。

現在の日本の状況において、本当に、それで大丈夫なのか。

例えば、中には散歩中の飼い犬のふんの始末をしない家庭の子どももいるということである。
家電の処分にお金がかかるからと、どこかの空き地や山林に投げ捨てる家庭の子どももいるということである。
その子どもが「ごみが落ちてたら拾おう」などとは、いくら考え、議論したところで、思うはずもない。
事前のデータベースが既にダメなのである。

つまり、文科省が言っているからといって、安易にやってみるのは危険だということである。
なぜなら、伝えたい側の真意に対し、受け手のフィルターを通すと、意味が全く変わってしまうからである。
(まさにこれこそ「主体性をもたず言われるままに行動」しないことの発揮ともいえる。
素直には入らないため、「価値観フィルター」によって伝わる内容が大幅に変わる。)

ここについて、しっかりと研究している人もいる。
そういう最前線にいる人が、どういうものを良しとしているのか。
しっかり見極めた上で、実施する必要がある。

今回の授業例だと、どうすればよいのか。
実は、発問自体が間違っている。
どう間違っているかは、読者の皆様に「主体性」をもって判断していただく。
(と、いうことになると、そもそもこのブログの存在価値自体も危うくなる。
 よって、ここについては本当は次号で紹介する。)
「特定の価値観を押し付けない」というのは、そういう状態である。

主体性をもった的確な判断には、膨大な知識がいる。
結構、大変なことである。

「考え、議論する道徳」の理念と方向性はよくわかる。
教科化のねらいもよくわかる。
そもそも、道徳の授業をきちんとやらない教室があることへの問題提起にもなる。

ただ、理念を実現させる側の知識と技能が不十分であることは、無視できない現実である。
今までまともに道徳の授業をやってこなかった教室だって存在するのだから、この要求はかなりハイレベルである。
ここについては、もう少し突っ込んで考えていきたい。

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